散りゆく
じっとりと湿気が混じった地下の部屋の中。
岩壁に八方を囲まれて光も届かない、そんな部屋。
地下とは思えぬ高い天井と広い四方の壁は、中心にいる彼女を闇で包み込んでいるような錯覚を覚えさせる。
そして"それ"はそんなおよそ神聖さなど欠片もない場所で、本当の意味の誕生を果たした。
纏っていた球状の水の膜がじりじりと肌に染み込んでいき、完全に消える。同時にそれは目を開けた。
「16年。良い夢は見れたかい? オフィウクス」
「──いや、酷い悪夢だった」
僅かに湿った髪を絞りながら、オフィウクスは顔を上げた。
同調するようにその体のそこかしこを神の文字が移動する。まるで淡水に住んでいた海水魚がようやく海に帰れたように。
「んー? ひょっとして負けたのかい? カミサマが? いやにボロボロだが」
「ああ。虎穴の奥に鬼神が胡坐をかいていてな」
「そりゃ難儀だったね。まあ、とりあえずこれを羽織っておくれよ。こんな美丈夫の裸は処女の目に晒すべきじゃない」
それを聞いてオフィウクスは小さく笑う。差し出された上着をとりあえず羽織った。
「君は好奇心とメスと知識と蛋白質だけで出来ていると思っていたよ、キャプリコ」
「そうさ。だからただ好奇心と知識が性にも精通しているだけだ」
その割りには女など微塵も感じさせない笑い方で一しきり笑うと、極めて事務的な表情をオフィウクスに向けた。
「アクアさんは最期まで上手くいったよ」
「そうか」
それはオフィウクスの体が一番知っている事だとはキャプリコも分かっていたので、似合いもしない仕事の顔はすぐに溶けて消えた。
「それで? 他の連中は死んだのかい?」
「いや」
ず、と空中に不可視の力が集中し、青い穴が空いた。
「へえ、今は何処でも繋げるのか」
「何しろ神様だ」
キャプリコの言葉に、オフィウクスは自嘲気味の笑いを返した。
ずる、とその穴から転がり出てきたのは五人。
突然の事にもかかわらず綺麗に着地した人間もいれば、その場で冷たく湿った石の床に蹲った人間もいる。
その中で比較的平静を保っていたのはドワーフのような醜い体と軍服に身を包んだ古傷だらけの女。
「うおっとぉ? なんじゃこりゃあ、って此処か。よう大将、見てたぜ? ありゃまた派手に負けたな」
「──総統、その御身体は」
「ああ、勝負に勝って仕合に負けたという所か」
オフィウクスの言葉を聞いて次第に目を見開いて行った女──アリエスは、しかしすぐに平静を取り戻した。
「不束ながら御喜びを申し上げます。総統」
「おいおい、俺は知らねぇぞ大将。なんだそりゃ、神って、また大層な」
傅いて頭を下げてしまったアリエスと、興味津々といった風のキャンサーを手で制すとオフィウクスは視線を移した。
「スコーピオ、それに我が腹心殿まで、お互い手酷くやられたものだ」
「オフィウクスーっ」
そう叫び声が響くと、スコーピオがオフィウクスの胸に抱きついた。
「あのね! あいつ等酷いの! 寄って集って私を虐めるし私の物を獲って行くし、それにこれを見て。動かないの」
そう言いつつスコーピオが差し出したのは自分の右手。
まるで誰かに横合いからへし折られたように力がないその右手は、ぶらぶらと二の腕から直角に折れ曲がっていた。
「それは酷い目に遭ったな。見せてみろ」
「え……?」
しかし、オフィウクスがそれに触れると、ふわりと怪我をした周辺から重力が無くなりそこから物の数秒でスコーピオの手の骨は繋がった。
「凄い、ね。……出来れば、僕にも、やって、くれる? 血は止めた、んだけど、内臓ぐちゃぐちゃ」
「ああ、待たせて済まなかった」
ふわりとレオの体重が軽くなり、また見る見るうちに内出血で紫色の肌が健康的な色を取り戻していく。
「……こりゃ凄い。十六年は無駄じゃなかったみたいだね。さて、じゃあ彼女にもやってあげないと。もう人の形してないけど」
何かに解放されたように背伸びをして体を解しながらレオが目をやった先に、最後の一人がピクリとも動かずに冷たい石の床に横たわっていた。
いや、乾いた眼球だけが齧りつくようにオフィウクスを見つめている。
どうか、早く助けてくれ。この痛みから救ってくれと。
「総統、この女狐は放って置きましょう」
「冷たいねぇ。どうしてまた」
「この女がいつでも組織から抜けて良いと言われていた事は知っている。だからこの女は組織から遠ざかろうとした。金庫の鍵を人知れず盗みそして戦わずに。それはいい。だが放棄した癖に放棄した側に助けを乞うだと? 今のこやつは乞食か娼婦に劣る」
「そう言うな、アリエス」
オフィウクスはアリエスの言葉を遮りその場に膝をつくと、ヴァーゴの腕を取った。
見れば、僅かに残った服の切れ端は黒い喪服のそれ。
オフィウクスの言葉にも反応はなく、隙間風の音のようなその呼吸音がなければ惨殺体として目を背けたくなるような有様だった。
「という事はつまり我等の側に残ってくれる訳だ。それに、私は彼女が自分を評価している以上に彼女を重宝しているのでな」
また、逆再生でも見るかのように骨が治り筋肉が繋がり皮膚が全身を覆っていく。
「──っァッ!?」
べしゃり、と体の中に溜まっていた血が口から逆流して床を汚した。そして同時にヴァーゴは激しく咳き込み、確かに意識を取り戻したことを証明する。
「また、私の腕の一つになってくれるのだろう? ヴァーゴ」
「……はい。仰せのままに」
「そう堅苦しくならないでくれ。本当に他意は無い。証拠に、と言っては何だが印を贈ろう。キャンサー、アリエス、貴殿等もだ。近く寄ってくれ」
「は」
「はいよ」
ただ実直に、片や面白半分にオフィウクスに二人が近寄る。
同時にオフィウクスは手をかざした。間もなくその上に三つの赤い球体が浮かび上がる。
"三聖骸"。
それは、とある特定の土地を守るための精霊獣のはずだった。
しかし、それが今掌の上で改変されていく。叫び声のような快音を漏らしながら、血の通った赤色だったそれは無機質な白へと変色し、変化は止まった。
「受け取れ」
無造作に放られたそれら三つをそれぞれが手で受け止め、──そして、ずるりとそれは掌に沈み込んだ。
「──これは」
驚きに顔を歪めたのも一瞬。三人の表情が一様に変化した。
いや表情だけではない。体の内側が全く別物に書き換えられている。関節から内臓から筋肉から全てが尽く人間を逸脱していく。
「害は無い。これからは更に働いて貰わねばならんのでな。力を持っておけ」
「は、良いのかね。俺なんかがこんな立派な物」
「謹んでお受けしましょう。私は貴方の剣。強く鋭くなるのが至福にして常套だ」
「……感謝を、申し上げるわ」
三者三様の反応を返す三人。
その心のうちまで綺麗に三様だったが、それを全て把握した上でオフィウクスはそれを見逃した。
「じゃあ直ぐに次に移るんでしょ? ここからは速さが物を言う。速くしないと──」
「いや」
疲れたように肩を鳴らしながらレオがオフィウクスに次を促そうとして、オフィウクスの言葉に止められる。
「もう遅いようだ。そうだな、キャプリコ」
「御明答。さあレディス&ジェントルメン。ここでキャプリコこと技術開発参謀からお知らせ。侵入者だ」
「疲れるねぇ。まだ帰ってきて五分と経ってねえんだが」
「凄いよ。とんでもない速さでこっちに来る。到着まであと15秒」
「まさか、灰色の髪をしていないだろうな」
「いいや。でも、あー……ちょっとまずいね」
一体どういう仕組みなのか、目を瞑って指を額に当てている仕草は地上の様子を探っているらしい。
「──霊龍。それも桜龍だ」
まるでその言葉を待っていたかのように、さらり、と部屋にいる全員の目の前に桜色の光が舞った。
「粋だねえ」
キャンサーのそんな悠長な感想とは裏腹に、部屋の中には独特の威圧感が高まりだす。
全員の視線が、静かに扉に向かった。
そして、その先にはいつの間にか扉に寄りかかって此方を見る男が一人。
「よう。初めましてになるかな。愛すべき人間共」
言葉が響いた途端、オフィウクス以外の全員が等しく息を呑んだ。畏れ一つで、体も言葉すらも縛っていく。
黒髪の所々に隠しきれないかのように桜色の髪が混じり、それを無造作に掻きながら桜龍は溜息を吐いた。
「ああ、こちらこそ初めまして。名高き桜龍と言葉を交えられる時が来るとは、心が打ち震えるようだ」
「ほざけ」
そう言って桜龍はゆっくりと扉から背を離した。
ちらちらと桜色に薄光する桜が彼の周りを舞っている。それは更なる緊張感を誘発させ、その場にいる誰もの言葉を封じさせた
「放っといても大丈夫だって思ったんだけどな。あいつ等を過大評価──と云うより貴様等を過小評価していたというべきか」
「光栄の至りだな」
「褒めてねえよ。罪状を読み上げてるだけだ」
「やはり龍の世界にも法はあるのか」
「寧ろ法しかねえよ、うちの爺の頭の固さときたら星を砕かん如くだ」
飄々と言葉を交わせているのはオフィウクス一人。
キャンサーは舞う桜に見惚れ、ヴァーゴは警戒心だけを露わにし、そして彼女だけが変わらずに殺意を溜めていた。
アリエスの、殺意に染まった両眼が桜龍に向かう。
「一万年早いぞ、小娘」
しかし、先手を取ったのは桜龍の桜の欠片。
飛び出すための踏み足の右足の親指の付け根。その場所に力を入れたその瞬間、ふらりとアリエスの目の前に一枚の桜の花弁が舞った。
ひゅるり、と桜が小さく廻る。
「────っ!」
得体のしれない力がアリエスの体を襲った。
巨大な岩の塊に打ち付けられたような衝撃がアリエスの体を吹き飛ばす。無限に散る桜の花びらの一つ。その一つでこれほどの力。
しかし、その驚きはもう一つの驚きに綺麗に半減されていた。
すとん、と吹き飛ばされた勢いを壁に垂直に着地して殺す。壁は派手に罅を広がらせるが、アリエスの体には何の変調もない。
「へえ、今時の人間は丈夫だな」
口調とは裏腹に、桜龍──ロウの目が薄く細められた。
「人間の姿じゃ、全く力は出ないが」
小さく歪められた唇に呼応するように、桜色の塊がロウの背中から顔を出す。それは小さな蛇の様なやはり桜色の顎をガチガチと鳴らした。
「控えろ、アリエス」
その顎の中に突き進む寸前で聞こえたオフィウクスの声に、アリエスは直ぐそれに従って動きを止めた。
「出過ぎた真似をしました」
「構わん。少しだけそのまま堪えていろ」
「何だ。妙に理性的だな」
「まだ貴殿の目的も聞いていないのでな。内容次第では和解の道もあるかもしれん」
毒気を抜かれたようにロウは頭を掻いて、溜息交じりに言葉を選ぶ。
「俺は厭なんだがな。まあ、つまりあれだ。先刻言った龍の法に基づいて──」
最後の一言。
すっとロウの顔から表情も感情もすべてが消えた。
「──お前ら全員此処で死ね」
よくぞその言葉を言ってくれたとばかりにオフィウクスの表情が喜悦に歪む。
瞬間、影が強靭な体躯が凍て付いた鉄の刃が桜色に殺到した。
そして、ロウがその全てに殺意を向けたのが同時。
指先に光が灯ったと気付くと同時に桜色の閃光が部屋中の光を呑みこんで、全員の視界を桜色に染めた。
遅れて爆音が辺り一帯、部屋がある地下を備えた城の周辺の森までを、残らず音と光と振動で脅かす。
視界が戻れば、既に部屋の天井の殆どが吹き飛び、夜の闇を貫通する月の光が消えた燭台の代わりを果たしている。
「一手頂戴」
破滅の光の中、唯一下がらずにその小さな体を更に屈めて接近に成功したのはキャンサー。
律義に一言断ったのは流儀か気分か、ほぼ同時に拳を繰り出していればあまり意味はなかった。
しかし、不意打ち気味に打ち出した拳は空中でぴたりと慣性ごと殺された。
止めたのは何気なく舞っていた一枚の花弁。
あれを容易く止めるのか、とキャンサーは額に汗を浮かべる。
そして、その後ろに一個で己の拳を止めた花弁が無限に渦を巻いているのを見て、畏怖が妙な方向に作用したのか口の端を上げた。
「最近は、化け物ばっかと戦ってる気がするな」
「なに、これで最後だ」
許容出来ないほどの危機感を感じ取り、体ごと拳を引こうとするが背中にいつの間にか花弁が張り付いている。
もたついた隙に足に手に花弁が数枚ずつ絡みつき、キャンサーの体を僅かに持ち上げた。
それは、丁度ロウが伸ばした右手の先がキャンサーの心臓の位置に最も振れやすい位置。
とん、とロウの指先がそこに置かれた。
「……ターンマ、ってあり?」
「俺も鬼じゃない。バーリアってんなら許してやる」
「……出来ねえよ」
ならば是非もない。
音もなく、数枚の花弁が指先に集まり溶けた桜色が収束する。
「──"影絵・寅虎"」
ゆらり、と月夜に照らされて立ち上がったそれの獣が、一瞬ロウの意識を奪った。
見上げるほどの、しかしどこまでも空虚な薄い黒の虎。
「──"鉄柩・救"」
そして、その他等の対岸から唸りを上げたのは黒い磁鉄の巨人。
その砂の手に様々な物を取り込み、拳となったそれを振り上げる。
虎が爪を巨人が拳を、同時にロウに向かって振り下ろした。
小さく、ロウの口が動いた。
ただふざけたようにバーリア、とただ一言。
瞬間、右と左に六枚。合計十二枚の桜の花弁が滑るように移動した。
同時にその大きさを増しながら、円形に並んで行く様はまるで本物の、ただしとてつもなく巨大な花のよう。
迫る拳と爪は、その尽くをその壁に阻まれた。
そして、ロウの両手がそれぞれその花びらの盾に伸びる。
ゆっくりと花びらの盾に触れ、そして当たり前のようにその盾を通過した途端、その腕が形を変えた。
神速で虎と巨人を捕まえたのは鱗が散りばめられた龍の腕。横合いから巨人と虎を掴んで持ち上げると容易くそれらを握り潰した。
「──っ」
そこで、捕えられていたキャンサーが何とか抜け出して、ロウから距離を取った。
場が均衡を取り戻す。
三人は敵の強大さに緊張感を増し、平然とした体を崩さないのは終始場を支配しているロウと、
「お前は来ないのか?」
「然るべき時に」
ただその様子を眺めているオフィウクスのみ。
「ねえ、僕等は此処で見てるだけでいいのかい?」
「そりゃ、僕達は今すごく弱者だから」
「僕は当然そうだけど、君は違うだろう? あの三人が戦えるなら君も戦えるはずだ」
「いや、彼等三人はまだ力に慣れていないだけ。加速度的に強くなるし、既に相当に力を増している。僕じゃ力にはなれないなあ」
「なるほど、相手が相手だからそう見えないって事か。それを差し引いても君は十分に力になれると思うけど」
顔を合わせて言葉を交わす二人は無視していいと断じて、ロウは初めて部屋を見渡し始める。
先程の三人はまだこちらを警戒している。確かに力を増しているが、それでもこの戦いの内に手に負えなくなるほどではない。
不気味と言うのはオフィウクス一人だけ。
そして。
「…………なに?」
その脇にいたものを見つけた。
「何で、此処に──」
困惑するロウの顔を見て、オフィウクスの顔に刻まれていた笑みが、深く残酷に変化した。
「──隙有りだ。桜龍」
月明かりの下、鮮烈な血の赤が舞う。
放たれた槍はロウの胸の中心を穿ち、しかしなまじ丈夫な体が貫通を許さずそのまま城の周りに広がる森の中に木々を薙ぎ倒しながら吹き飛んでいく。
「さて諸君」
何事もなかったようにオフィウクスは振り向き、ただ正直にこれからの事に期待を馳せて口の端を上げる。
「世界を変える時間だ」
◆
「ハルユキ、着いたぞ」
「ん、ああ……」
寝ていた訳ではない。しかし、ユキネは寝ていたと思っていたらしくハルユキの肩を揺さぶった。
その隣ではフェンも大きな杖を大事そうに抱きかかえてこちらの顔を覗き込んでいる。錆びついたように重く抵抗する体を解しながら立ち上がった。
航空機内にしては広い通路を横切り、目の前で先導していたフェンとユキネに続いて航空機から顔を出す。
そうすると、季節の変わり目なのか少しだけ冷たい風が頬を撫でた。
夕日は背中側にあるようで、夏の長い夕焼けも東の空では終わりを迎えて夜の帳が下りている。
飛行機の中に居たのは三時間ほどだ。しかし何故かこの世界に──いや時代に初めて出た時の事を思い出している自分がいた。
階段から降りると、そこはオウズガルの町から少しだけ離れた草原の中。
百メートルも歩けば町の中に入れるだろう。
よくよく見れば既に夜の色を呈し始めている東の空は厚い雲で覆われ始めている。
まだ夏で、それも夕方だ。強くて短い雨が降るのだろう。
少し先でこちらを待っている四人に速足で追い付きながら、思い出したように背後に振り向きコンコルドを消し去る。
そして振り返った瞬間、景色が引っくり返った。
「あ……?」
ここは足場が悪い上に草が深く足元が見えにくい。大きめの石に躓いたのだと、遅れて気づく。
「な、何をやってるんだ、ハル」
「うるせえ」
咄嗟に笑いそうになる口元をユキネは抑えたが、上がった口元が見えているし後ろの馬鹿二人が指さして笑っているのでボルテージは上がるばかりだ。
立ち上がる。
自然と上がっていたボルテージは引き戻され、脳天に落としてやろうと握っていた拳骨も解ける。
それを警戒して待ち構えていた二人も拍子抜けしたのか、少しだけ不自然な沈黙が下りた。
「は、ハル。先ずノインの所に行かないと。何だかんだで心配してくれていると思う。夕飯はその後だ」
「……ああ」
その沈黙をいち早く察し、それに気づく前に言葉をつなげたのはユキネ。
まだ嬉しさが滲み出たその声に笑って返事をしながら、足を踏み出して、そして、その瞬間にハルユキは諦めた。
「小僧共。今日は酒に付き合えよ」
「……レイは明日から働けよ。今はちゃんとチームもある」
「たんぽぽかぁ。何か間抜けなんよねぇ」
「いいじゃないですか。わたしは好きですよ、あの名前」
町に入った所で足が前に進むことを諦めた。
少しずつ離れていく距離に、あいつ等は気付かない。伸ばす事を、腕が諦めて、自分から声をかける事も喉と舌が諦めた。
取り残されるハルユキに最初に気付いたのは、やっぱりと言うか。何と言うか。
「ハル?」
綺麗な肩までの金色の髪を靡かせて、ユキネがこちらを振り返った。
「……ユキネ、それにフェンも」
続けざまに、他の全員が足を止め何事かとこちらを振り返る。
そして、空気かそれともハルユキの表情から何かを感じ取ったのか、僅かに表情が色を変えた。
「ごめんなぁ。俺はここまでだ。約束は守れない」
動かなくなった足に視線を落としそうになって何とか堪える。
夕焼けに照らされた顔は多少赤く染まっていたが、見渡すには十分で入念にその顔を記憶していく。
「……何を言っとる」
意外にも最初に反応したのはレイ。
その声を耳で聞いたのではなく、唇の動きで知った事に遅れて気づく。説明する時間すらなく、ただ乾いた笑いでその場を濁した。
「まあ、色々あると思うが。お前ら結構頼りになるみたいだからな。お互いにこれからも仲良くしとけ。いいな、年長者たる俺との約そ──」
言いかけた言葉が反射的に呑みこまれた。その単語は、いま使うには余りに価値がなさすぎる。
自嘲に似た笑いをこぼし、それをすぐに引っ込めてハルユキは代わりを用意した。
「俺の、まあ、アドバイスだ」
どくり、どくりと、心臓の鼓動が遅れていく。
「フェン。ごめんな」
視界に暗幕が降りていくのは、きっと夏の長い夕焼けが終わるからではない。
「レイ、頼んだ。ジェミニ、しっかりしろよ。シア、面倒見てやってくれ」
そして、ユキネに視線を合わせ、やっぱり"頑張れよ"と伝えると同時。
世界から、音と風と光が消える。
「じゃあな」
最後の言葉は、自分の耳にすら聞こえない。今までの習慣と第六感に任せての別れの言葉。
聞こえてなければかっこ悪いな、とそんな事を考えながら。
ふらり、と前のめりに倒れると同時ハルユキの視界は闇に染まった。
──ずん。
ハルユキの足元が、ハルユキの足に踏み抜かれて音を立てた。
「……ハル?」
不安げにユキネが声を出す。
先程ハルユキが言っていた事が、何故か未だに噛み砕けていない。
しかし、彼は立っていた。
一瞬倒れかけたように見えたが、直ぐに足を踏み出して体勢を立て直した。
ならば彼は健在で、それならさっきの言葉はいらないとユキネは記憶からそれを追い出そうとする。
──じゃあな。
「──ハル……!」
しかし、本当はその言葉を理解していて、ただ自分が反応すらできなかったのだと思い知る。
思わず叫んだその声は苦し紛れで、
「ハルぅ?」
──きっと、彼にはもう届かない。
「名前間違えんなよ。全く無礼千万」
ずるずると、灰色の髪が眼が黒く染まっていく。いや、戻っていく。
ようやく上げられたその顔に、誰もが言葉を失っていた。
「──九十九だ。よろしくどうぞ」
その顔は形は同じ。声は音は同じ。しかしその中に、ハルユキはもう何処にもいない。