青蜻蛉
どくりと、心臓の音と共に視界が揺れた気がした。
蜃気楼。
それがあの少女を覆っていたものだ。
知っている。何しろ自分の魔法だ。
そして、あの顔も、あの目もあの髪も、私はよく知っていた。
自分は死んだのか、死んで魂だけがここにいるのかと錯覚する程に、彼女は私によく似ていた。
違うのは、浮かべられたその笑顔ぐらいだろうか。
空気が変わっていた。
ハルユキの異変から、もう一度。笑っているのは少女と、あの子供の道化だけ。
しかして、未だ座り込んだままの自分を恥じる。
確信に似た、嫌な予感が悪寒となってフェンの背中を駆け上がった。
それは、誰かの親切だったのかもしれない。
動けと、手を翳せと、今ならまだ間に合うと、急かしてくれたのかもしれないのに。
それでも、情けない声を上げる事しか出来なかった私を、私は嫌悪する。
膨れ上がるのは原初の魔力。
自分の在り方をそのまま形にした、粗暴にして最強の魔法。
駄目だ。
それはいけない。
ハルユキが。私の恩人が。大切な、大切な人が。
自分の残滓に汚れようとしている。
止めてくれ、とひ弱な私の喉は叫べない。
待ってくれ、と貧弱な私の体は駆けつけられない。
死ね、と脆弱な私の心は未だ殺意を持てない。
闇雲に手を伸ばす。
ハルユキの目前に異様な灰色が広がっていく。
間に合わない。届かない。私の小さい手では掴める物は何もなかった。
手が土埃の浮いた宙を掻くと同時に、灰色が視界を覆った。
景色が消え、音が消え、意識すらも失ってしまいそうで。
その瞬間に立ち上がれもしなかった私を、私は決して許さない。
◆
「ああ、信じていた。優しいね、哀しいね。君はきっと躊躇してくれると信じてたよ。ああ、誓って嘘じゃないとも」
灰色の光に視界が覆われた後、突然現れた少女を起点に広がる破壊の跡が、一瞬の間に何が起こったのかを物語っていた。
その後には瓦礫も、機械の破片も、舞っていた土埃も、空気も、その中の水分さえ残っていない。
そういう魔法だ。私はよく知っている。
決して風が吹く事はない地下の室内に、この世から消え失せた物質の居場所を奪い合って風が吹き荒れる。
一瞬後に静寂が戻った。
そしてやはり消えている。風が連れ去ったかのように何もかもが。そこに居たはずの人も。
「ハルユキっ……!」
ハルユキの事だ。
死んでなどいるわけがない。
しかし、あの魔法がどれだけ凶悪な物かはフェン自身が一番知っている。
加えて突然ハルユキを襲ったあの異変を思い出し、不安に拍車をかけていた。
瓦礫を何とか乗り越え、魔法が通った路に飛び込んだ。
「……っ」
何もない。
本当にその言葉以外では表しようがなかった。
少しでもそれに触れた物は、四つの元素に分解され吸収され個を亡くす。
その破壊の跡は、地下のこの部屋からどこまで続くのか、壁を突き破って続く破壊の跡の先は暗闇に消えている。
しかし、幸か不幸かそこに足を踏み入れる必要は無くなった。
「ハルユキ……!」
居た。
何とか途中で抜け出したのか、斜面になった瓦礫に背中を預けて荒く呼吸をしているが、確かにまだ生きている。
何だ、やはり心配のしすぎだったと平静を取り戻しながらフェンは走り出した。
躓きながらもフェンは直ぐに辿り付き、緩んだその表情が凍り付かせた。
最初に認識したのは血の赤。
顔はもちろん、目も口も。目を背けたくなるような赤で濡れていた。
しかし、フェンの呼吸を止めてしまったのは。その場所を異様な光景に変えていたのは。
体のあちこちから皮膚を突き破って顔を出している、骨張った角のようなナニカ。
服は左の袖だけ食い千切られたように無くなっていて、左手の甲には拭った際に付いた血が大きな模様を作っている。
しかしあの魔法を受けたにもかかわらず、血まみれにもかかわらず、体には一切の傷が無いように見える。
ただ、その苦悶の表情がハルユキの状態を物語っていて、フェンの表情を再び歪ませた。
「……っ!」
しかし、目の前で誰かの死を許容するなどフェンはした事がない。
一瞬で表情を引き締めるとハルユキの傍に膝を付き、魔装具である指輪を嵌めた右手でハルユキに触れた。
音もなく、空気の繭が二人を包んだ。
その中に含まれる水と風は、自然回復を促し細胞の動きを活発にさせる。
「……ぇ?」
しかし、ハルユキの体は何も反応を示さなかった。
そうだ。先程自分で認めたではないか。この体には"一切の傷がない"と。
「ぁ……」
遅れて気付く。
つまり、この異様な体が、もしかすれば人間以外に見えるようなこの状態が、今のハルユキにとっては普通なのだと。
「……いいよ、ありがとうなフェン」
「っハルユキ……!」
瞳を暗くしたまま、俯き始めていたフェンの頭にごつごつとした手が載ってフェンは顔を跳ね上げた。
「昼飯抜いたから、貧血気味だな……っ」
「何を……っ」
立ち上がろうとするハルユキをフェンは押さえようとするが、手でそれを制された。
「大丈夫だよ、任せろ」
ゆっくりと突き出た"角"がギチギチと音を立てて体内に戻っていく。
その跡から痛々しい傷が覗く。手を握れば、血が通っていなかのように体温を感じない。
そして一番印象的なのは、枯れたように色彩をなくした、その灰色の髪。
──フラッシュバックする。
今のこれに似た感情が、埋もれている。
つい最近、恐怖と戸惑いと罪悪感で埋もれていた感情が、フェンの体を動かした。最初は、自分でしか聞き取れないほど小さく噛み締めた奥歯から。
「ハルユキ」
「……フェン?」
ハルユキのフェンを呼ぶ声に疑問符が付く。
様子がおかしい事に気付いたのか、フェンの表情を伺う。
「ハルユキはここに居て」
「……なんだと?」
「ここで休んでいて欲しいと言った」
いつもの平静な声に、何か言い知れぬ力を感じた。
その声に反論しようと開きかけたハルユキの口を、フェンの指が軽く触れて先を制した。
「来てくれて、嬉しかった。救われた。──でも、ごめんなさい」
そう言って、フェンはさらに表情を平坦にした。
静かに静かに、感情の一つも漏らさずにどこかに溜め込むように。
「私は、助けてくれとは頼んでない」
◆
ありがとう、と言い残して行ってしまったフェンの残影をハルユキは眺めていた。
〈まだ、あと一回ぐらいならまともに動けるが〉
珍しく同情染みた声が脳の中に響く。
しかし当然同情しているわけではなく、九十九はただハルユキに動いて欲しいだけだった。
「……何がまずかった?」
だから、ハルユキは少し間を空けて九十九の言葉とは全く関係のない言葉を返した。
〈さっきの"耳"だな。脳を使うのが一番負担大きいのは当たり前だろう〉
「先に言え……」
〈俺が? 馬鹿かお前は。それじゃ逆だ〉
鬱陶しい声に対応するのが嫌になり、返答をやめた。
わざわざ動くのを止め、人を使い、ユキネに負担を預けたにもかかわらずこの様とは。
一度力を抜いてしまえば、既に立つのも難儀な体になっている事に気付かされた。
闘技大会に始まり、妙な女に痛めつけられ、化物染みた二人の男と戦い、神の偽者に街の端まで殴り飛ばされた。
なるほど、オウズガルの一件からこれ程体を酷使したのは初めてだ。
「……っ」
しかし、これ程情けない気持ちに陥るのもまた初めて。
奥歯が鼓膜の裏で悔しげな音を出した。
ため息をつくのも億劫で、視線を天井に投げる。血が入ったのか、いやそもそも目から流血したのか景色が赤色に滲んでいた。
心臓の音が妙に遅い。正直に言えば、立つ事も一苦労だ。
相当に無理をして、何とか一度戦えるほどだろうか。
ごめんなさいとフェンが言った言葉が耳に残っている。
言わせたのは自分だ。どこに当たる訳にもいかない。中々思い通りにはいかないものだ。
「かっこ悪いなぁ、畜生……」
思わず零した声が虚しく響く。
口に出すと、余計に惨めさが自覚できた。
信じて待つ、とは何とも都合がいい言葉。それに頼って美談にする気もない。
しかし今は動けない。
ならばと目を瞑り、体中の血液の流れを意識する。数秒もしないうちに体が熱く火照りだす。
適当な岩を引っ掴むと、ナノマシンで無理やり炭水化物と糖分の塊に変えると、それを噛み砕いて飲み下した。
〈おいおいふざけんな、無理するんじゃねえよ〉
数日後に体中で岩の成分が蘇るだろうが、大した問題ではない。考えるのは、あと半日の間の事だけで良い。
適当に腹が膨れると、ハルユキは目を瞑った。
どくりどくりと、心臓が脈打つ音だけに集中する。
◆
「……さて、彼がどうなったのか聞いておきたいけれど」
フェンが姿を現すと同時に、レオの声が聞こえた。
更に半壊した部屋にそれはそこかしこに反響してフェンの耳に届く。
無言のフェンと、血に濡れた服を見て状況は察したのだろう。レオの笑顔が僅かに深くなった。
「まあ、それはそうとさ──、」
「御父様」
ハルユキがいない今、実質的にこの場を支配するはずのレオの言葉を遮ったのは、フェンの声に似た別の声。
少し驚いた風に、レオの顔がそちらを向く。
「女子にしか分からない事もございます。ここは私に任せてもらえませんか」
「いいよ。彼もそうすると言うのなら僕もそうしよう。どうせ僕は動けない」
壁に寄りかかったままレオは力なく手を振ると、大きく目の前に息を吐いた。
その度に零れる血の雫が瓦礫の上に模様を描いた。
それはハルユキが空けた穴から漏れる光だけが全ての空間にもよく映えていて、ハルユキの拳の異様さを物語る。
「初めまして、ではありませんが。ご挨拶を、お姉様」
スカートの端を掴んでその少女は一礼して見せた。
やはり、同じ顔、同じ目、同じ髪。しかしあまりにも違うその表情。
誰かが見たならばどこかの令嬢かと見紛う程の礼節ぶり。しかし、その余りの空虚さに薄ら寒い物が背中を走る。あの細められた瞼の奥に、冷たい視線が存在しているように思えた。
対してフェンは無表情。冷たい顔に冷たい視線で相手の瞳を覗きこむ。
そして、それを受け止めて少女の完璧な表情が崩れた。
「──ああ、お姉様」
新たに見せたのは恍惚の表情。
体をしならせながら、細めた目に狂気を宿す。
「お姉様。嗚呼、お姉様! ごめんなさい、ああは言いましたが本当は私貴女の事を判っていないかもしれません」
フェンには慣れてしまったおぞましさがフェニアの中で膨れ上がっていく。それを自分で嫌悪するにも、時間が必要なのだろう。
「でも、それが私の根幹だから。知らない物も知った物も、嫌いな物も好いた物も、全て私は欲しいのです」
知った物、好いた物は当然
知らない物は知る為に。嫌いなものは好く為に。
知っている。
その欲求はフェンの中にも薄れながら、未だ存在している。
「赤子のようでごめんなさい。はしたなくてごめんなさい。欲張りでごめんなさい。でも、私お姉様が欲しくて堪らない。でもでも、しょうがないでしょう?」
この娘は若い。
その身に内包した自我の数はもしかすればフェンのそれを超えているかもしれない。また、フェンの記憶を多少なりとも引き継いでいるのかもしれない。
それでも、まだ一月も生きていないあの私は、何でも口に入れたがる赤子と変わりない。
「私達は混ざる事でしか何かを得られないじゃありませんか」
「私は、貴女なんて要らない。貴女の都合も興味が無い」
だから、興奮に濡れたその声に返す言葉は凛としていなければならない。
「いい加減悟って」
「? 何をでしょう?」
その空虚な目に脊髄反射で奥歯が鳴った。
そう。
そうなのだ。
だって、まだ覚えている。
夢は過去に縛られようと、眠りに落ちるまでの瞼の中の闇の中で。
ジェミニがレイが地面に倒れ付している姿が。
ピクリとも動かないユキネとノインの姿が。
そして、寄って集って悪意と殺意を叩き付けられたハルユキの姿を。
まだそれを、許した覚えはない。
それをただで許して、彼等と一緒にいる事など許さない。
ハルユキが幾ら言ってくれようと、自分が耐えられなければ意味がない。
この身にそれが宿ってくれた事に少し救われる。
笑顔などいらない。ましてや泣く所などみせてなるものか。
ただ、相手に。──敵に。
夥しく、思い出すだけで吐き気を催す。
そんな、恐怖と後悔を。
「私は今。狂おしいほど怒っているの」