叫ぶ阿呆に、泣く阿呆
体が軽く揺すられている。
フェンが瞼を開けたのは、それを理解してからだった。
両目が目の前に焦点を合わせようとして、薄ぼんやりとした光景が続く。
何だか前向きな夢を見ていたようで、少し目を覚ますのが億劫だった。
だから、目を覚ませば安い宿の部屋に居るんだと思ったのも、起きた後に誰かを捜そうとしてしまったのも、おそらくそのせい。
「起きたね。悪いけど直ぐに移動するよ」
「あ……」
その声と、こちらを覗き込んでいた顔を見つけて完全に夢が覚める。
ここは安上がりな宿ではないし、待っているのは薬とカビの匂いだけ。辺りを見渡してみれば寝ているのは布の上ですらない。
透明のケースが乱立した迎賓室の隅にある扉。その先につながる小部屋との境で、壁により掛かるようにしてフェンは寝ていた。
慣れない姿勢で寝たせいか、まだ"もや"が残っている頭が、ふとレオの言葉に不可解な物がある事に気付いた。
「逃、げる……?」
引きこもると言ったはずだ。
ばれないように、息を潜めていると。逃げるのは見つかる可能性を高めるだけだからと、そう言っていた事を覚えている。
「ああ、君には引きこもるって言ってたっけ。まあ状況に合わせて対応を変えるのが世の常だし、念のためさ」
「で、でも、私は死んだ事に……」
「ああ、そこからだっけ。最初からばれてたみたい。黒髪君は君の事を探してたみたいだね」
「っ……」
弾かれたように顔を上げる。
そしてそれを待ち構えていたようにこちらを覗き込んでいた子供と目が合い、フェンはまた俯いた。
どうして死んだままにしていてくれなかったのかと言う思いがある。しかし、その全く逆の思いも内在していて、言葉は出てきてくれない。
いや、その逆の思いが堰を切ったように溢れ出している。
(私を、探して……)
ふらりと容易く決意が揺らぐ。
まだ今なら、自分がどういった存在であるかもばれていない今なら、戻れるのでは無いかと。
「じゃ、急ぐよ。半日は大丈夫だと思うけど。出来ればここの機材は壊されたくない」
更に腕を引かれて、フェンはよろよろと立ち上がった。
「う、ぁ……」
思い出すなと言う無意識の制止も間に合わず、ここで見た事がフラッシュバックし、希望的な想像が消え去る。
とは言っても、既に同じような光景が記憶の中にある。出来たのは不快に顔色を悪くするだけ。
「見たのかい?」
思わず肩が揺れたのは、かけられた声に底冷えするものを感じ取ったから。
視線はたまたま床に落ちていただけだが、今は見上げる事すら躊躇われる。
そんな心情を見透かしたように、レオの手がフェンの肩に置かれた。
「いいんだよ、別に。流石に贋物のクローンじゃ心許ないからさ。余程の事がないかぎり君を捨てたりなんかしない」
「え……?」
表情の切り替えの速さに呆気にとられるフェンの手を、レオがひっぱりその場に立たせた。
先程垣間見えた剣呑さはなりを潜め、強制的に見せられたその顔は柔和に笑っている。
「そうだ。彼に会ってきたよ。そう言えって言われてね」
矢次はやに子供は言葉を続けた。
それは意図しての物なのか、フェンの思考を分断させ半ば強制的に耳を傾けさせる事に成功していた。
「あとね、君の出生の事を話してきたんだけどさ」
「──ぇ……?」
お節介だったかな、とにこやかに笑う子供の表情に背中が寒くなる。
しかし、それも分からぬほどに呆然とフェンは子供の顔を見つめていた。
「どうして……!」
「彼がどういう反応をするのか気になってね。それに黙っている方が不誠実だろう?」
「そ、それは……」
「んん? ああ、どういう反応をしたか気になるんだね」
そう言って、顎に手を当てると芝居かかったような沈痛な表情を顔に浮かべた。
「彼はね、君を捜してたんだ街でずっと。だけど僕が話し終えた途端、ユキネちゃん、だっけ? 彼女を助けに行っちゃった」
「ぁ……」
失意は、あったと思う。
視界がどこか陰り、足に力を入れるのが億劫になる。
どこかで、どこかで期待していたのだ。ダメだダメだと思いつつも。先程の拙い妄想も、同時に形をなくして崩れていく。
でも、また覚悟もしていた。
だから大丈夫。呼吸が止まるわけではないし、引っ張られれば足も動く。ましてや死ぬわけでもない。
驚くほど、問題はない。
「……やれやれ」
それを見て何を思うのか、いやそもそも今自分はどんな表情をしているのか。子供が肩をすくめた。
腕を引かれるままに部屋を動き回り、止まっては子供が作業を終えるまで立ち尽くす。
かたかたと軽快にキーを叩く音だけが連続する。
一定の音と変わらない空間が、嫌でも余計な思考を巡らせた。
それが形になる前に、ぼんやりと他の思考で塗りつぶす行為を続けた。
今までが幸せすぎたのだと。
最初のあの場所で死んでいてもおかしくなどなかった。今まで旅を続けられたことが幸せだったのだと。
そんな言葉を何度も何度も心内で繰り返す。
そして、その度に自分のどこかに罅が入っている音を聞いていた。
「うん、一時間もあれば何とか必要部分ぐらいは……」
毒々しい色の液体が抜けきると、空になったガラスのケースがこちらを映し出す。
嫌に暗い無表情と目があった。
凝り固まった無表情は、いつもと同じで何の愛想も感じられない。
つまり、変わってはいないのだ。記憶を取り戻しても取り戻さなくても、本質は一度も変わっていない事をその表情は示している。
穢れたまま汚いまま。
そんな自分の無表情をぼんやりと見つめていた。
――そんな時。耳をつんざくような甲高い音が、部屋中を襲ったのはそんな瞬間。
「っ! なん、だ……ッ!?」
その音はまるで脳の裏側に爪を立てられているかのように耳障りな音で、子供も無意識に手で耳を守る。
「あ……」
その甲高い音の中に何か違う種類の音を見つけた。
それが、思い切り息を吸った時のような音だと気づいた時。これまでの甲高い音を飲み込む程の轟音が響いた。
それは本当に常軌を逸した音で、子供は表情を歪め耳を塞ぐ両手に力を入れている。
しかし、そんな暴音をフェンはそのまま受け止めていた。
ぺたりとその場に崩れ落ち、視線が声のする方に向く。
フェン、と。
勢いも音量も今まで聞きなれた物とは違えど、それでも呼ばれたのは確かに自分の名前だったから。
嫌が応にもその声はフェンの中に響き渡った。
◆ ◆ ◆
しん、と部屋中を支配した静寂はおそらく町中に渡っていた。
レオは耳を押さえた体勢のまま呆然とし、未だ動く気配を見せない。
天井には先程はなかった罅がいくつも走っていて、あれの暴虐ぶりを如実に表していた。
静寂。ひたすらに静寂が続く。
『テスト中テスト中。聞こえてるか? フェン』
そしてまた、静まりかえっているであろう町中にハルユキの声だけが響く。
今度は先程の轟音とは違い、隣で話しかけてるような声。聞き慣れた声に近い物だった。
『聞こえてると思って話す。一方的に聞いてくれ』
レオは目を見開いたまま固まっている。
化け物め、と口だけがそう動いて悪態をついているように見えた。
『少しな、言いたい事があってこんな事になった。まあ俺も恥ずかしいが背に腹は変えられない』
フェンの体はその声を聞くたびにびくりと震える。まるでその声を恐れているかのように。
しかし、その目は罅が入った天井に縫い付けられ、耳は思考の余地もないほどに声に傾けられている。
『まず、無様に目の前で連れ去られた事に。まあ独り善がりかもしれないが、俺の気が済まないから謝っておく。悪かったな』
レオの視線がフェンに向く。
何をそれほど焦っているのかと思うほどにその表情からは余裕が消えていて、フェンにその場を動くなと伝えていた。
何にしろ、フェンはその視線にすら気づく事はなく、また動く事もなく。ただただその声に意識を奪われていた。
『あとはもうお前の所に行って、浚って。あとついでにジェミニとレイを引っ張り出して。それで全部終わりだよ』
本当にいつも通りの声。
あくまで自分の都合だと言い張る。正義も情けも嫌いな反抗期の子供がそのまま大人になったかのような。
『俺は自分勝手だから、お前をいつも振り回してたと思う。だから今回も勝手に連れ帰る、つもりだったんだけどな』
言葉は続く。
あらかじめ決めていた言葉なのか、それとも本音をそのまま吐き出しているからなのか、その語調は真っ直ぐとそれることは無い。
『でもな、いろいろと話を聞いて、少し気が変わった』
「っ……」
その"話"が指し示す内容は容易に想像がついた。
もしかしたらレオが話したと嘘をついただけなのかもしれない、という淡い希望が溶けていく。
知られてしまった。
視界に影が落ちたような気がした。しかし憎らしいほどに生命活動に問題はなく、せいぜい心臓が妙な跳ね方をしただけ。
それが、自分を安い生き物だと思わせるようで、嫌になる。
『俺は神様じゃない。お前を生まれ変わらせる事も出来ないし、お前を救ってやることもできない』
いやだ、いやだと頭の隅で隠しもせずに誰かが叫ぶ。言葉に出ないことだけが救いだった。
どうせ言っても聞こえはしないのに、フェンは抵抗するように表情を沈めていく。
『俺に出来るのは、いつも自分を押し付けるだけだ』
そもそも、そうだった。レオが伝え、後はハルユキが判断する。選択権など自分には無い。どうせここで何を口にしたとて彼に届く事もない。
あまりにも離れすぎている。
『だからな』
ふと、声色が変わった。
相変わらず子供のような大人の声で、しかしどこか恥ずかしさを伴った声だった。
『一つだけ、お前の言う事を叶えてやる』
「え……?」
その一言は、やたらと部屋に響いた気がした。
響いたのは街中にか、それともフェンの鼓膜にだけだったのかは判らない。しかしその言葉を伝えたかったのだとそれだけは確信できた。
『聞けば、嘘に何を塗り重ねても嘘だとか、偽物は人間ではないだとかなあ。そんなものは時と場合によるだろ』
また声色が変わる。
思いのままに話しているのだろう。一声一声に感情が詰まっているのがよく判る。
誰がこの人を化物と呼んだのか。逆にこの人ほどお人好しな人を自分は見た事がないというのに。
『確かに、嘘だけの真黒な奴なんて人間とは思えねぇよ。でも、正しい事だけ言うまっさらな人間もいねぇんだよ。皆濃いか薄いかで生きてる』
フェンは自分の喉が震えているのに気付いた。
何か叫びだしたいのを我慢しているのか、それとも嗚咽を飲み込んでいるのか、果たしてその理由はわからない。
しかしその理由の原因は、ハルユキが何を思っているのかが判ってしまったからだ。
『……ただ、それでも』
短い付き合いだ。たかだか半年と少し。
しかしそれなりに波乱があって、楽しみがあって、退屈もあって、思い出がある。
少なくとも、ハルユキの言葉の端から分かりやすいほど素直ではない心情を読み解けるぐらいには。
『それでもお前の全部が嘘だってお前は言うなら。一つだけ、お前の言う事を叶えてやる。俺が本当を作ってやる。真っ黒なお前を灰色に変えてやる』
ひどい事に、自分は鈍感ではなかったから。
人の好意を時々勘違いしてしまうほど敏感に嗅ぎ付けることができる。そして、それに依存して頼りきってしまう。
そんな自分に、ほとほと愛想が尽きているというのに。
どうして、と呟こうとした声は飲み込んだ嗚咽に巻き込まれて消えた。しかし、頭の中はその疑問で埋め尽くされて何かを考える余地もない。
『だから今。お前の本当を言ってみろ』
空虚になった頭の中に投げ込まれた質問に、脳細胞が群がっていく。
「ほん、ね……?」
本音。本当。真意。
それをあらわす言葉は数あれど、自分の中にそれを示すものがあるだろうか。
一つ。逃げ出したい。
一つ。死にたくない。
一つ。嫌われたくない。
一つ。一つ。一つ。一つ。
何が"あるだろうか"、だ。数秒前の自分が恥ずかしくなるほどに、むくむくと自分勝手な願望があふれ出してくる。
『言っとくが』
ハルユキの声に、下がっていた視線がもう一度持ち上がる。
『間違っても軽々しく選ばないでくれ。その後お前が何を言っても俺はそれだけを信じる。嘘だったなんて言うなら無理矢理本音に変える。助けてと言うなら誰を殺してでも助けてやる。殺してと言うなら何だろうが殺害する。死ねって言うならこの場で心臓を握り潰す。変更はきかない、一度きりだ』
厳しい声は、一々フェンの体を震えさせる。
『──その代わり一度だけ。お前の言葉を、俺が何でも本当にしてやる』
(私、は……)
生きたいか。
判らない、未だ己の中の罪悪感をどうすればいいのかわからない。
逃げ出したいか。
判らない、逃げ出した先に何も見えず、恐ろしい。
嫌われたくないか。
判らない、もういっその事と思った事は一度や二度ではない。
ふと、ころりと胸ポケットの中で何か硬い感触が伝わってきた。
そこは、定位置で特等席。少し箱の角が潰れてきて、それでもそのお陰で傷一つないはずの銀の髪飾りの定位置で特等席。
──"ああやってね、普段から身に着けている物だとか、宝物をあの光に当てて願えば願いが成就する、って……"。
「あ……」
胸に手をやり、ローブ越しに髪飾りの箱を握り締めた。
そう、願ったのだ。
結果的にその神自身が操られて町を壊していたのだから実質的な効果は期待できないが、それでも願った。
オウズガルの眠らない太陽に。
それはまだ、一週間と少し前の出来事。忘れてしまうには、時間が足らない。
言いたい事は言い終わったのか、ハルユキの声は止まっている。
喉元まである言葉が競り上がって来るのを感じた。余りに分かりやすく、幼い子供のような我侭。
許してくれるだろうか。──いや、きっと許される事ではない。誰が許そうがきっと『私』は許してくれない。
だから。口に出すだけ。
どうせ誰にも聞こえない。だから少しだけ。それぐらいならば、許されるのではないかと。
瞼の裏に蘇る。波乱と楽しみと退屈と思い出が。
白く染まっていくフェンの思考を無視して、口だけを動かそうとする。
確かに、言った。
嘘になにを塗り固めても嘘だと。実際にそう思う。
自分はあの筒の中に栄養と情報とそして"嘘使い"の魔力を詰め込まれて生まれた存在なのだ。
いや、そうではない。
造られたのだ。文字通り。そして多分同じ造り方を反復すれば同じ物が出来上がる。全く同じ顔、性格、魂を持った存在が。
それなのに、どうして自分が本当などと言えるのか。
それは、分かっている。
どうしようもなく、分かっている。
だから、ハルユキが言っている事は分かるけど、それでも気休めの域は超えられない。
でも、それでもハルユキがそうすると言うのなら。ハルユキが白だと言ってくれるなら。
それは、こんなちっぽけな私一人なら、簡単にどうにかしてしまいそうな気がして。
いや、彼が白だと言い張ってくれるだけで自分は満たされてしまう気がして。
少し決意が揺らいだ瞬間に。
「……一緒に居たいよ、ハルユキ……ぃ」
それは口から零れ出た。
一瞬の静寂の後。どん、と街が揺れた。
二度三度と、それは連続する。
先程のように音で街が揺れているのではない。何かが街を揺らしてそれが轟音に繋がっているのだ。
揺れの間隔は短く、そして揺れと音が次第に大きくなっていく。
レオの表情筋が恐怖に強張り目を剥いている顔が、視界の端に映る。
そして、先の轟音で罅が入っていた場所が決壊した。
とてもそれを為したとは思えない、人並みの大きさの握り拳に。
ここは地下だ。破壊された壁から土砂が流れ出し、部屋の中を飲み込んでいく。
ガラスのケースを、硬い何かの筒も、やけに精密そうな絡繰りも、つい一瞬前までレオがいた場所も。
そして、へたり込んだフェンがいる場所も。
しかしそれは予定調和のように、迫る土砂よりずっと速くフェンを何かが抱え上げた。
「どう、して……?」
思わず零れたその言葉には、様々な意味を含んでいた。
どうして、ここが分かったのか。
どうして、来てくれたのか。
どうして、汚らしいと思わないのか。
どうして、こんな自分勝手で打算的な自分を捕まえてくれるのか。
「奇遇な事にな、俺もお前と一緒に居たいよ」
その返事が、どの意味を捉えての返事だったのかは多分一生聞く事はない。
ただその返事は、どの質問の回答にもなっているように思えて、
「一緒に帰ろう、フェン」
「……っ」
フェンの無表情を、くしゃりと無様に崩した。
◆ ◆ ◆
「アホだ、あいつは……」
〈アホですね〉
もちろん良い意味で、とメサイアは付け加えるが、顔は妙な表情で固まり肩はプルプルと震えていた。
現世に出たメサイアは他の人間とも意志を疎通できるらしく、初対面にもかかわらずニコニコとシアと笑みを交わしている。
「傷は大丈夫なのか、シア」
「ふふ、今治療されてるのはユキネさんですよ」
「あ、ああ、それはそうなんだが」
どこで学んだのか、シアの治療の手際は下手をすればハルユキよりも手早く正確だった。
包帯を巻きなおし、どこから取り出したのか三角巾で左腕を吊るされる。
「ありがとう」
「はい」
今いるのは半壊している玉座の扉の裏。
ここも、先程のユキネの攻撃のせいで空がちらちら見えていて何となく申し訳ない気持ちに陥っていた。
「く……」
立ち上がろうとすると、今まで見逃してもらっていたのか、ここぞとばかりに足の痛みが神経を刺激した。
思えばよく勝てたと思う。と言うか、いつも自分は際ど過ぎるのだ。次はもう少し余裕を持って勝つようにしようと心に決めて足に鞭を入れる
「だ、駄目ですよ、ユキネさん。無理したら」
「しかし……」
とん、と指先で左腕を付かれると、それだけでとてつもない痛みが広がった。
「ほら、大人しくしていて下さい」
「でも、今もジェミニが……」
「大丈夫ですよ、それにほら、今は男の子が頑張る時間みたいですから」
「……シアが悪い女に見える」
「あはは、似合わないですね」
シアの視線を追えば、そこには睨み合うジェミニとその金髪の男が見えた。
既に体の回りに濃縮された魔力を漂わせながら、相手を威圧している。
メサイアがユキネの気持ちを汲み取ったのか、私の後ろを離れるなという旨を伝えて来て、仕方なくユキネは背にしていた壁に体重を預けた。
◆
「っく、あっははははははははぁっ!! アホやぁっ、アホがおったで!」
つい先程終わった"大放送"。
あれほどの音量なら、恐らく町の外にまで広がっているであろう恥ずかし文句。
「この町で多分、二十年は語り草やでっ……! ぶはぁっ!」
延々と街中に聞こえるように、女を口説いた男としてそれはそれは失笑と呆れで語り継がれる事だろう。
それほどに、衝撃的な三分間だった。
「くっ、いや中々に小粋な男じゃないか」
「全くな。本当に自分の小ささがよく分かるわ」
ジェミニが腹を抱えて笑えば、オフィウクスもいつもの微笑ではなく歯を見せて笑っていた。
後ろではなぜか顔を赤くしているシアと、呆れて頭を抱えているユキネもいる。
「……なあ、レオ」
返答は無い。しかし今はその名ではない、ともオフィウクスは返さなかった。
「ワイは、お前を殺したかった。アクアが自分の意思で死んだとしても関係ない。お前等を全員殺して最後に死ぬ気やった」
「知っているさ」
両者の顔から笑みが消える。
「……でも、一度殺せる敵を逃がした。ラィブラやったかな。それで少し気持ちが薄くなっている事に気付いた」
それは、傍にいた女の子をお気遣っての判断だったが、それでも、それだけで見逃せてしまうほどには。
「んで結局、誰も殺せんままここにいる。これからお前を殺すけど。まだ俺はお前を殺したいけれど」
お前を許してしまいそうで少し怖い。
そう口にするのをやめて、ただ静かに殺意を込めてオフィウクスを見据えた。
「代わりの人間は、それほどに心地良かったか」
「ああ、そうやな。何と言おうと結局そうなんやろ」
それは、たかだか半年の事。
思わぬ出会いを果たしたからか。面白い物を見て回ったからか。お人よしばかりに囲まれていたからか。それとも一度思い切り叩きのめされたからか。
「埋めてくれるんや。空いた穴を。汚れは落ちるし穴は埋まる。そして過去も忘れてしまう」
色あせないように綺麗に梱包されて、それでもやっぱり記憶の隅に。
珍しく、目の前の男の顔が陶器のように無表情で固まっている。
「だからもう壊せない。俺は嫌になるくらい上手く出来てるこの世界を、この残酷なくらいに優しい世界を。どうしようもなく愛してる」
その言葉を最後に二人の間に沈黙が下りた。
偶然か、いつもは吹き荒んでいる山風も今はなりを潜め、一瞬だけ完全な静寂があった。
そして、オフィウクスが無表情のまま、長く、深く息を吐いた。
「──違えたな」
「ああ、完全に」
ぎちりと二人の中点を境にして魔力がうねり拮抗し、鬩ぎあう。
片や殺意にその表情が歪み、片や薄ら寒い微笑を取り戻す。
「死んでくれ、ジェミニ」
「殺してやるよ、レオ」
迸る力の波が部屋を震えさせる。
◆
静まり返った町の中心の塔の上で、ハルユキは手に持った拡声器を放り捨てた。
黙って目を瞑り、耳を澄ます。異常なまでに発達した聴覚が、際限なく鋭さを増していく。
「────」
風の音。誰かが唾を飲み込む音。誰かが零す独り言。
その全ては耳が受け取り、脳が受け取る前に分別し廃棄した。
必要なのはそれではない。待っているのはこれではない。
深く深く沈んでいく。
視覚は閉じた。恐らく今目をあけても何も写さない。脳が受け取らない。
嗅覚も同上。触覚も同上。
鼻は様々な物が交じり合った町の匂いを拒否し、足の裏から消えた触覚は未だ立っているのかそれとも塔から転げ落ちたのかの判断もさせてくれない。
埋没する。
思考も死ぬ。永遠に感じるほどの長い落下の中、ハルユキは誰かの声を聞く耳とそれに反応する脊髄だけの生き物になる。
埋没する。深く深く、埋没する。
真っ暗で、無味無臭で、ぼんやりと重力が曖昧な世界。
「────……ぃ」
そんな世界の中を、その声が叩き壊した。
目を開ければ空中。首が下に向いたまま、目的の場所の方向を聴覚を元に一瞬で特定する。
宙を蹴り、落下の勢いが止まる。滑るように塔の側壁に両の足の裏を付けて、蹴り抜いた。
一瞬で行き着いた地面に拳を叩きつけ、入った罅を手で押し広げる。
それを繰り返すこと数回。辺りが瓦礫と地層だけになった頃、拳が軽い感触を覚えた。
薄暗い光が漏れる。開いた空間に瓦礫が零れだす。
そして、居た。
先程の集中が残っている頭は、部屋に敷き詰められた精密機器もその脇で呆気に取られている子供の顔も認識せず、ただその少女の元に足を運ばせた。
遅くなったと。
自然と抱きとめる形になり、フェンの耳の横にあったハルユキの口が小さくそう言った。
フェンは咄嗟に声が出ず、肩の上で小さく首を振る。
「ハルユキ、どうして……」
「どうしてって何だよ。意味分からん」
ようやく部屋の決壊が止まっていた。
土砂は部屋の中央に達したところで進行を止め、今はパラパラと時折降ってくる砂利の音ぐらいしか聞こえない。
そんな中話すハルユキの口調はどこか安心していて、ぽんぽんとあやす様にフェンの頭を撫でていた。
「ああ。ここを見つけた理由か。それは単にお前の声を頼りに地面掘っただけだ」
「違う、そうじゃなくて──……」
「俺は」
語調が荒くなった言葉は、ハルユキの言葉に打ち落とされた。
じろり、と恨みがましい視線がフェンの目を覗き込んだ。
それは責めるような視線ではなく、どちらかと言えば恥じらいを隠す為に半眼になっているような。
「お前の事を嫌いにならないって言ったぞ」
「え……?」
「忘れたのか?」
ぶんぶんと首を振る。
覚えている。オウズガルに着いたその日に城に泊まる事になって、その次の日の朝。たまたま、会った時にそんな会話をした。
しかし、この状況に符合する物があるだろうか。
「お前は、記憶がない自分を嫌いになるかと俺に聞いたんだろうが、俺が答えたのは意味が違う」
「……意味?」
「俺は、謎が多いお前を嫌いにならないと言ったんじゃない。その謎が何であれ気にしないと言ったんだ」
「……そんなの、分かり難い」
「ほっとけ」
頭をハルユキの肩に預けたまま言葉を交換し、ふと一瞬だけ沈黙が下りた。
「相当恥ずかしかったからな、言っとくが」
「……ごめんなさい」
「黙って消えるな」
「……うん」
よし、とハルユキは声を出すと、抱きかかえていたフェンの体を地面に下ろした。
そして、少し屈んでフェンと視線を合わせる。
「いいんだな、願い事はそれで」
打って変わって真剣な声で、ハルユキが言う。
「……変更はきかないって言った」
「……ああ、きかないな」
「もう、逃がしてくれない」
「ああ」
「もう、離してくれない」
「……ああ」
一瞬、ハルユキが悔しげに下唇を噛んでいるように見えて、フェンは目を瞬いた。
「どうした?」
「あの、ハルユキ……」
がら、と土砂を踏む音がフェンのその言葉を遮った。
ハルユキの細められた目が、そして少し遅れてフェンの驚いた視線がそちらに向いた。
「全く、尽く常識って物を知らない男だね、君は。どうやってここが判ったか聞いていいかい?」
「言った通りだ。街中を静かにして、物凄く頑張って耳を澄ませたんだよ」
「ふざけてるね。反吐が出るよ」
嫌に小奇麗な、まるでどこかの貴族の子供のような格好。
蝶ネクタイに短パンは子供らしいが、その金髪をオールバックに固めていればその子供らしさもどこか薄れてしまう。
何より、疎ましげにこちらを睨むその表情からはおよそ子供らしさというものを感じ取れない。
「今は酷く苛つくね。その顔が……」
「お前も相当だ。今もお前の顔面に拳を突き込みたくて仕方がない」
その手には、壊れかけた機械の一部分が乗っている。しかし、子供はそれを一瞥した後忌々しげにそれを握り潰した。
「──"道化の真摯な嘘を聞け"」
ぽつり、と子供が言葉を漏らす。
何の気もないその一言は、ハルユキが近く出来ない部分が明らかに普通と異なっていて嫌に部屋中に篭る。
「──"嘘現癖"」
ずるり。
と、何かを引きずる音が子供の言葉に応えた。
ずる、ずる、とその音は続き、いつの間にか子供の背景の色が変わっている事に気付かされる。
鼠色と茶色が入り混じった土砂から浮かび上がったのは黒い鱗。次第にそれが牙を持ち爪を与えられ、翼を生やして首を擡げる。
最後に、ぎょろりと赤い瞳を剥きだしに、その大顎がけたたましい咆哮を撒き散らした。
「古龍……?」
しかし、直ぐにその咆哮が猛りではなく叫びだと気付いた。間もなく、その勇壮な翼が根元から腐って落ちた。
「僕の能力は戦闘用じゃなくてね。即席じゃ粗が目立ちすぎる」
しかし、黒い龍はもう一度ふらつく足をその場で踏み締めると、今度こそその大顎から戦の鬨を叫ぶ。
「でも、僕の嘘は本物だから、気を付けて」
「そうか」
「殺せ、ゴモラ」
ぼたりぼたりと口の端から涎と血が混じった液体を垂らしながら、その龍は喉を鳴らす。
その体長は優に二十メートルを超え、見上げなければその全容を確認する事ができない。
狭くなった室内は、おそらくどこに逃げても牙と尾と爪からは逃げられないだろう。
──そんな事を考えながら、ハルユキはその懐にするりと潜り込みその腐りかけた腹を蹴たぐった。
龍の視線は未だ元ハルユキがいた場所のまま、驚きに視線を強張らせたまま一度二度と壁に激突し、動かなくなった。
「それで?」
「別に、畑違いだって事ぐらい承知してるからね。だから、ワンパターンで済まないけれど僕はこれで失礼するよ」
元いた場所に既に子供の姿はなく、声だけが耳元で響いた。
しかし、振り返ればその姿を見つけた。そこから右に左に視線を移すたびにその姿は増えていく。
フェンの表情が強張るのを隣で感じながら、未だ増えていくそれを観察する。
赤外線探査、──反応無数。
「いいのか。即席は不完全なんだろ?」
「見破る眼がもっと不完全だからね」
超音波探査──反応無数。
X線探査──反応無数。
「……それで、君の体から生えていくその機械はなんなんだい?」
「見て分からないなら、言ってもわからねぇよ。黙って、自分の顔面の心配してろ」
「はっ、君じゃあ僕は暴けないよ」
「どうだろうね」
遺伝子操作を操る敵だ。知っているならばどうしようかとも思ったが、それも杞憂に終わった。
十分に、いや一分でも時間があればこんな物は通用しないのだろう。
そうなれば、本気で辺り一体を消し飛ばさなければならない。しかし、今回はハルユキの想定の内。
あらかじめ準備していたオーバーテクノロジーを使用するのに、五秒も要らない。
龍で時間を稼いでいる間にも余程精巧に作り上げたのか、続く脳波探査、光学探査も空振りに終わる。
しかし。
磁気探査──反応無数。
熱反応探査──反応一件。
振動探査──反応一件。
機械的な声が指し示すのは、直ぐ背後。
左目に付けたコンタクトタイプのサーモスコープが、フェンの直ぐ後ろで何かを振りかぶる姿を暴き出す。
「──狼少年、見ィつけたァ」
その手がその先一センチ進む前に、その首を引っ掴み地面に叩き伏せた。
「なッ、が!?」
その表情が驚きに染まり、口から確かに逆流した血が漏れる。
「顔面の心配は終わったか?」
その体を持ち上げ、折れる寸前まで首を締め上げる。
「歯ァ、喰い縛れ」
そして、ぎちり、と音がするまで右の拳を握り締めた。
「待っ……!?」
拳を思わず目で追って、自分の末路を悟ったのか咄嗟に子供は両の腕を顔の前で交差させ、言いつけ通りに奥歯までしっかりと噛み締める。
「──まあ、嘘だけどな」
そう言い放つと、ハルユキは子供の無防備な腹に拳を叩き付けた。
◆
「…………?」
無垢な視線が、町の真ん中に空いた大穴を覗き込んでいた。
先程の大音響でまだぐわんぐわんと安定しない耳のせいか、その穴の中に何か巨大な生き物がとぐろを巻いているかのように感じた。
じっと、何も写していない瞳が穴の中をその場に屈んでのぞき続ける。
先程までは静寂が占めていた町の中も、今はざわめきを取り戻し始めこちらに近寄ってくる人間を感覚的に感じ取った。
一度顔を上げ、左、右、頭上と視線が移っていき、そして最後にもう一度穴の中に戻った。
まるで何かを探すかのように。
おもむろに立ち上がると、身の丈を少し越えるほどの木の杖をかざした。
ふわりと前髪が持ち上がり、外套が僅かにはためく。
それは、彼女が魔法と言う奇跡を行使している事を示している。
風は緩やかに街を巡り、そして少女に何かを告げて空に戻っていく。
探しているのは、灰色の髪。なぜか目で追っている後姿。
そして、穴の中に入った風が彼女に他とは違う何かを告げた瞬間。また、ふわりと軽やかに彼女の前髪と外套が元の位置に戻った。
もう一度、今度は斜めに杖を振る。
"風"の文字が光り、ふわりとその身体が体重を無くした。
体を浮かせるほどの力は無い。
風に押し上げられている体を確認しながら、その少女は無表情で穴の中に飛び込んだ。