奪還、奪還、奪還
「っは」
気が付けば、空を見上げていた。青く、僅かに太陽が傾いた空。
どこまで吹き飛ばされたのかと思ったが、何の事は無い。元いた場所から青空が見えるようになっただけ。
その高さと青さを初めて知った気がしてしばらく呆気に取られる。
指先から頭の天辺まで、まだ体は動く。
しかし、どうやらもう自分に動きたいと思う気持ちがなくなった事を知った。
何しろあれだけ盛大に袖にされたのだ。少しは落ち込む時間が欲しいというもの。
まあ、あの少女の中に特定の誰かへの気持ちがある事は最初から分かっていたのだ。
会って少し話しただけでこの調子。
どちらかと言えばその感情は、依存だとか執着と言った言葉が相応しい気もしたが、人間関係などそんなもの。
その気持ちの強さには僅かに寒気すら覚えたが、そもそも愛憎だけでは語れないものだろう。
「若さかね、敗因は」
この体は考えなしに動けるものの、一旦エネルギーを消費しつくしてしまえばしばらく無能の日々が続く。
そして今はその境界を跨いでいると言った所か。
とりあえず煙管を咥えてみるが、上半身の服の八割と共に塵芥に還ったそうで、半ばから折れた煙管も瓦礫の山の中に吐き捨てた。
気を失っていたのはどれくらいなのか。
壁も天井も大方無くなったこの空間で、玉座の周りだけが不自然に形を保っている。
それは様々な事を暗示していて、自分の出番が終わった事も同時に知った。
既に一風雰囲気を変えた舞台で、違う役者が演じている。
「つまんね」
瓦礫の向こうを覗いてみればまた面白いものも見つかったかもしれないが、とりあえず今は硬く尖った地面に寝転がることのほうが、まだ魅力的だった。
──"君は蟹。キャンサーだ"
──"前に進めねぇからってか?"
思い出すのはここに来て、初めて言った皮肉の言葉。レオがそれを聞いて、つまらなそうに肩を竦めた事をよく覚えている。
確かに笑えるほど自分は変わっていない。
いつからだったか、いつまでなのか。それも全く判らないが。
まあ、後々考えるとして、今はもう一眠りしておこう。
◆ ◆ ◆
剣を振り切ったあと、眩暈を感じて剣を杖代わりに地面に突き立てた。
〈片方だけ残しておきました。包丁が無い時にでも使ってやってください〉
あれ、と疑問に思う前にメサイアが答えを言った。
片刃の剣。
なるほど、確かに刃は人を斬る以外にも多様に使い道がある。危うさは付きまとうが、その分緊張感は増してくれるだろう。
「く……」
ふらついているのは失血のせいだった。
あれはそもそも簡単な魔法。扉を開けられれば誰でも感受できる現象を用いただけ。だから魔力の消費も、細かい神経もいらなかった。
しかし、だからと言って安牌な勝負だったかと聞かれればそうではない。
「──っ」
ふらり、と土煙の中から腕が伸びてユキネの首を掴んだ。
しかしその力は弱々しく、ユキネの華奢な首を圧迫する事さえできていなかった。
振り払うのを躊躇ったのは、それがユキネにはその人物にとって初めての攻撃ではない手段に思えたからだ。
「……貴様は」
出てきたのは、鉄の女。
土煙に半分隠れたその顔はよく観察できず、その声にも女の代名詞だった殺意すら篭っておらず、ただ空虚が満ちている。
「なぜ殺意を持てぬと問い質せば、剣の方を棄てるのか……!」
「……ああ、私はその先にしか興味がない」
どろり、と何かが溶け出した。
それはここ十数分で嫌になるほど味わった殺意の気配。
「っ……」
何が琴線に触ったのか、それは土煙の向こうからでも目を見張るほどの悪意の塊だった。
ぎちりと、首を掴んでいた手が凶器に変わる。
しかし、相手は満身創痍。ユキネは剣を持った右手に再び力を込めた。
その時。
「アリエス」
音もなくアリエスの足元が地面の奥に消えた。
ぞわり、と今までにない危機感がユキネの背中を舐め上げる。
〈──主!〉
アリエスの手を払いユキネの体を引き戻したのは、限界していたメサイアの腕。
沈みかけていたユキネの体を、辛くもその場から掬う事に成功した。
「その体では無理だ。しばらく休め」
音もなく沈んでいくアリエスの体は、既に胸の中心を越えている。
彼女を飲み込んでいく何かは、"何か"としか言いようがない。
黒い。
ただひたすらに黒い。
光も何もないその空間は、覗き込む事さえも躊躇われる。
「……は。仰せのままに、総統閣下」
しかし、そんな物にアリエスは身を委ね、そしてその黒い何かと共にどこかに消えた。
「さて」
「──っ!」
何故か、怪我をした左腕がその声に酷く反応して軽く痛みが走った。
左腕は長い戦闘に耐えきれはしなかった。だからこその渾身の一撃だったのだ。
思い切り振り切ったせいか、左腕は既に死に体。そしてその代償に、打ち倒せたのはアリエスも数えて二人。
三人の内の、二人だけ。
「く……」
キャンサーとアリエスの濃厚な気配は消え、最後の一人が、何ら変わらない尊大な気配を土煙の向こうで放ち続けている。
その気配が僅かに動いた。
瞬間、半壊した部屋に充満していた土煙が吹き飛ばされる。
〈……主〉
「ああ」
土煙が去った後、そこだけ切り取られたかのように一切の変化を受け付けない玉座があった。
そして、そこに凭れ掛かって目を瞑る金髪の暴君の姿も、変わらずに。
「してやられたな。実に見事だ」
ゆっくりと瞼が持ち上がる。同時にその男が口にした言葉は、こもるはずもない青空の下の玉座に不思議と響き渡った。
「思えば、私にとってのイレギュラーはいつも君だな」
鬼の檻を壊してくれたり、楽しみを邪魔してくれたり。と、言葉を続けながらオフィウクスは立ち上がり、ゆっくりと段差を下りて舞台に下りてくる。
「眠気がな。醒めて来た」
「……なに?」
「いや、忘れてくれ」
ここは、ビッグフット。
切り立った岩山の上に作られた町。中でもこの城はその頂上にあるせいで、壁がないと強い山風が時折通り過ぎる。
その風が不自然に止んだ。
そして、漏れ出す。溢れ出す。震えて怯えて、迸る。それは、魔力なのか。明らかに視認出来るその密度は、もはや人の物ではない。
「片付けようか」
それは、そこら中に散らばる大小様々な破片に向けていった言葉。
それでも反射的にユキネが身構えたのは、培った危機察知からか。ピリピリと肌が何かを感じて総毛だっていく。
瞬間。
山嵐を押し返して、風が半球状に広がった。
飛ばされるのは、見上げるほど大きな瓦礫。壁の名残。残っていた玉座すらも、吹き飛ばして彼方へと消していく。
それはきっと、有り余る力で軽く撫でただけ。
その証拠とは言わないが、オフィウクスの肩にはまだ外套が羽織られたまま、床に落ちる事さえしていない。
〈後ろへ〉
メサイアが飛来してくる破片を尽く打ち落とし弾き飛ばす。
しかし、魔力に当てられたせいかその表情からは余裕が消えていて、余計にオフィウクスの微笑が際立つ。
──そんなオフィウクスの足元に影が落ちたのは、そんな最中。
吹き荒ぶ風など歯牙にもかけず、空気の急流など稚児の駄々だとでも言わんばかりに、居た。
一瞬遅れてオフィウクスもそれに気付く。
オフィウクスの腕が持ち上がる。そしてその一瞬あと、そのオフィウクスの腕に勢い良く蹴り足が叩き付けられた。
みしり、と骨が軋む音がここまで聞こえる。
見ればオフィウクスの表情から微笑が消えて、苦悶に歪む。
そして、両者が同時に弾き飛ばされ、オフィウクスは数メートルを移動し、そして現れたそいつは軽やかに壁を蹴ってユキネの横に着地した。
「じ、ジェミニ?」
「はいはい。お待たせ」
「どうして……」
「シアちゃんにね、助けられてしもたわ」
いつもの口調で言葉を繰り出しながらも、その目はオフィウクスから離れない。
笑い癖が付いたように細い目が、切れ長の鋭い目に変わっていた。
「下がってて、ユキネちゃん」
「……ここを任されたのは、私だ」
「シアちゃんそこにいるから。守ったげて」
「お前の役目だろ……」
「お願い」
「……判った。でもそんなに私は我慢強くないからな」
「あんがと」
そして、入り口のところに見え隠れしていたシアを見つけ、ユキネは部屋の隅に移動する。
「ピスケスは負けたか」
「死んじゃいない」
「毒されたか、お前も。いや、無理もない」
言葉数も少なく、二人は体の回りで魔力を遊ばせ、いつでも戦えるように準備を整える。
当たり前に。出会えば戦う事は決まっているかのように。
「さて、一週間の間に心内は変わってくれたか」
「さあな。でも、あんま時間は無いで。ワイも、お前も」
「時間?」
瞬間、部屋の中を、いや城中を、それどころか街中に響き渡る巨大な何かが鼓膜を刺激した。
筆舌しがたい、耳障りで甲高い音。
オフィウクスでさえも不快に眉をひそめるその音に、ジェミニは呆れたように鼻で笑う。
「早うせんと、どっかのヒーロー気取りが帰ってきてしまうわ」
◆
とんとんと軽快に屋根を渡り、町の中で一番高い塔の上でハルユキは立ち止まった。
町自体が山の上にあるせいか風が激しいが、あまり影響は無いはず。
「さて」
行き当たりばったりもここに極まれり。と内心自分に溜息をつく。
さっさと片を付けようと乗り込んでみたは良いが、気付けばあんな頼りない奴に鉄火場を任せてこんな所にいる。
不安である。ここだけの話、心配でしょうがない。
しかし、きっともう一度行っても同じ結果になる事も不思議と確信していた。
ならばさっさと自分の仕事をこなすべきだろう。
そもそも、あれぐらいは乗り切れるようになってもらう為にこんな所に連れてきたのだ。
「あんまりこれは使いたくなかったが」
問題は、今から行う蛮行の方だ。
上手くいくという核心はあるが、何とも不確定が過ぎる。
しかしどんなに不確定でも、対して手間も掛からない上に不確定であればあるほど相手の裏もかけるのだ。
それは、今までやらなかった理由にならない。
やらなかったのはただ、あまりに恥ずかしすぎるからだ。
「……マジでやるのか、俺」
正直に言って眩暈がする。なんだか吐き気もしてきた。動悸がする腹痛が激痛で痛い。
しかし、今の自問自答に俺の中の馬鹿な部分が是と答えた。
ならば腹も据わる。覚悟完了。
準備していた"拡声器"を手に取る。
以前も兄貴の道具を借りていた数少ない物の一つ。嫌でも使い方を覚えていてしまう。
ただの拡声器ではない。兄貴印のオーバーテクノロジーの塊。
と言っても、その内訳はそれほど大げさなものではない。
拡声器は一番近い地面に刺さった端子と無線で繋がっていて、その端子は刺さった物を拡声器のスピーカーにする。
繋いだ物をスピーカーにするという技術。それ自体はそう高度では無い技術だ。兄貴でなくても容易に作れる。
だから、オーバーテクノロジーの矛先は単純にその規模の拡張。ただ"その気になれば町中をもスピーカーにできると言うだけ"。
届かないのが最悪。
よって恥ずかしかろうが、手元の音量設定を最大にまで引き上げる。これで恐らく、アルプスで使えば雪崩で下々の町がなくなるレベルだ。
問題は、あちらだ。塞ぎこんでいるだろう。それは容易に想像できる。
「……」
何かに押し流されていつの間にか消えた羞恥心が戻ってこないうちに、思い切り空気を吸い込んだ。
吸い込んで吸い込んで、吸い込み尽くす。
塔の上に強風が吹き荒れるほど、空気が移動しその殆どがハルユキの肺の中に集まっていく。
「────ッ」
最後の一息。
しん、と一瞬風が止む。
手元の拡声器を起動。
瞬間、怪音波と言える程のハウリングが響き渡る。
しかし、間を置かず放たれたハルユキの大音声にそれは根こそぎ掻き消された。
言い放ったのは、叫んだのは、呼んだのはたった一言。
根暗で無口で。すごい魔法使いで泣き虫で、それでいて強情で、綺麗な青い髪が印象的な少女の名前。