無様
再開します
ユキネが切り崩した扉の成れの果ての、その上に女がいた。
一歩踏み出しただけで、その下の扉に罅が走り砂になっていくのは何の冗談か。
(二人目……!)
その歩みは緩やかで、目にも留まらぬキャンサーの動きと比べればまるで大した事はない。
しかしその落ち着きと、雫となって滴り落ちそうな殺意があまりに不釣合いで、警戒心ばかりが募っていく。
歳の割にしわがれた髪。
何の遊びもない、締め付けるような軍服。
顔に、そして恐らく体中に広がる大小様々の切り傷や火傷の痕。
しかし、吸い込まれそうなほど注意がいくのは、その大きな目。
その目をどう表現すればいいのか。
ともすれば、野の獣の犬歯のような。
また、刃の先の最も研ぎ澄まされた部分のような。
もし絵で書くとするなら、鉛筆で幾つも目の形を書き殴ればその形に近付くかもしれない。
必要な物を全て廃棄して、彼女にだけ必要な物をその空いた部分に注ぎ込んでいる。
その鋭さと仄暗さに、慈悲も情けもないと知る。
「────」
キャンサーのようにおちゃらけた言葉は無い。ただ叩きつけられる殺意が全てを物語る。
ただ殺す。殺して終えると。
ぞる、ぞる、と得体の知れない音が鼓膜を叩く。
直に姿を現したその音の正体は黒く蠢く何か。床の中から壁の間から、はたまた女の体の中からもそれは現れる。
耳に残るその音が金属音だと気づいたとき。
「怖い女だね。何も考えてないんだぜ、あれ」
もう聞き慣れてしまった飄々とした声が背後から聞こえた。防御は間に合わず、振り向き様に鎧越しの衝撃が背中を叩く。
「ぐ……!」
「ああ、硬ぇな畜生」
キャンサーの膂力は凄まじく、この鎧がなければ脊椎が拉げて砕けたのではないかと言うほど。
鎧を着けている今でも、呼吸は止められ吹き飛ばされた。
そして、安易ながらも常套の連携となって、女が操る鉄の刃が飛来する。
「……っ」
目前に迫る刃に、咄嗟に放出するのは白の魔力。
魔の全てを空白に帰す切札の一つ。
剣の形をとったその魔力が、鉄の剣を尽く飲み込んで塗り潰して消え去った。
「どうも反則だなぁ。その力は」
「キャンサー。情報を共有しろ」
厳しいアリエスの声にキャンサーは肩を竦めると、簡潔にユキネの能力をアリエスに伝えた。
そしてまた一つ、状況が悪い方に転がったことになる。
「なるほど」
委細承知したとばかりにアリエスが声を出す。
そしてその殺意を押し固めて出来たような両眼が舐るようにユキネの視線を捉えた。
警戒から、自然と肩が跳ねる。
同時にまるで体に何かが絡みついたかのような感触を錯覚した。
おどろおどろしいほどの殺意。
当たり前のように人を殺せる生き物がいる。それがまるで理解の範疇の外で、異形の化け物を見ているかのように錯覚する。
それは、二対一と言う不利に追い詰められているからか。
それとも、ここまでありありと殺意を持っている人間を、いや生物をはじめて見たからか。
とにかく、ユキネは自分が怯えている事に気づいた。
(逃げる)
降って沸いたその考えは、至極妥当な物だった。
二対一。得体の知れない玉座の男を勘定に入れれば、もう一つ状況は悪くなる。
その誰もが、恐らく一対一でも簡単にはいかない相手。ならば、このまま戦う方が愚かな選択なのは間違いない。
しかしこの状況は普通とは少し違う。
確かに戦うのは愚策だが、逃げるのもまた無駄だ。妥協するならば、もっと簡単な方法がある。
叫べば良いのだ。
助けて、でも。きっと名前を呼ぶだけでも良い。
今も城下にいるはずのハルユキに向かって声を張り上げれば、数の差など埋めて余りある。
しかし、ユキネはそんな事を許容できず、またここから逃げ出せるほど器用な性根を持ってもいなかった。
それを承知した上で、ユキネは自分を奮い立たせる為に強く剣の柄を握りこんだ。
「……っ負けられるか」
女が一歩踏み出す。それに合わせるようにユキネの身体が半歩後ろに下がった。
女の目には怯えはない、迷いはない。殺すだけ。だから怒りはなく悲しみはなく悪意すらなく、ただ殺意だけ殺意だけ殺意だけ。
部屋が僅かに揺れるほどの音が響いて、それは女が床を蹴った事に因るものだと遅れて気づく。
その腕には光る銀一色の剣。
身の丈を優に越える物を右腕一本で軽々と頭の上に振りかぶる。
(速い!)
打ち込みは激烈。その速さは韋駄天張りに。剣で受け止めると、膝が笑った。
しかし技術の方はキャンサーほど磨かれてはいない。剣を回して勢いをいなすと、つんのめったその背中に剣をあてがう。
その一瞬、女がこちらを見ている事に気が付いた。
純然にただ、殺意だけ殺意だけ殺意だけ殺意だけ殺意だけ。
その己の身すら勘定に入っていない瞳は妖しく光り、同時に女の背中が──いや、女の皮膚が服ごと盛り上がった。
「──っ!」
目の前にありえない物があった。
女を攻撃しているのはこちらなのに、女はまだこちらに背中を向けているのに。今度はその背中から刃がこちらに迫っていた。
一つ二つとそれを剣で防ぐ。しかし女の背中はまるで剣山のように刃が群れこちらに伸びてくる。
また更に剣で受け咄嗟に体を引きながらも、その幾つかが腕に食い込む。
「ほう」
ユキネが血を滴らせながらその剣の届く範囲から逃れると、アリエスがゆっくりと上体を起こし、またそう呟いた。
「……狂ってる」
女の足元には血溜りが出来ていた。
ユキネの血ではない。アリエスの背に空いた穴から伝う血だ。
「おいおい、あんまり勝手やらかしてんじゃねぇぞ、アリエス」
「迅速に完璧に終わらせる。貴様は最大限を努める。私はそれを踏まえて動く。最後は貴様にやらせてやる、以上黙れ」
「おお流石、分かってるじゃねぇか」
0.5秒を妥協すれば別の攻撃もあっただろうに、それすら考慮に入れずに自分の身を刃に変えた。
既に何かで止血をしたのか、一歩前に出たその足取りは確かな物。
体中に刻まれた傷の痕の意味を理解してしまう。この女にはそれが当たり前だった。
「次で詰む」
ごきりと首を鳴らして、女は上体を沈める。
隠しもしない猛攻の予備動作。今回はそれに、地面から湧き上がった黒い砂鉄の弾丸が同伴するようだ。
一瞬で部屋の中が緊張と沈黙で凍りつく。
また、僅かに腕が震えていることに気付く。
しかし反射的に手の平を握りこんだ。強く強く、絶対に離さないように、逃げないように。
「──来い!」
それを応えるのはアリエスの踏み込み。鉄の刃。
一歩近付くたびに縮む距離と反比例して、女の周りに鉄の武装が増えていく。
それはもう、ユキネの剣が届く場所に至った時には視界の全てがふさがれてしまうほど。
剣、槍、錐、槌、鋸、鞭。
その殺意の形は枚挙に暇が無い。
しかし、その動きは愚かなほどに直線的。
(──薙ぎ払う!)
自分の体の中の血液を剣に流し込むような感覚。
もう慣れてしまったこの感覚が裏切る事は無く、白い魔力が剣に纏われ巨大な刃と化す。
女の目は相変わらず恐れを知らず、全ての武器に殺害を命じていた。
しかし、今この瞬間にユキネにも恐れは頭の片隅に追いやられていて、破魔の剣をもってそれに応じた。
触れた瞬間、白い剣は鉄を溶かしていく。
──この女の攻撃手段には大きく分けて三つの方法があった。
一つは外界から鉄の成分を引っ張ってきて己が武器に変えること。
一つは魔力で一から精製すること。
最後は、先程のように自分の体の一部を鉄と変えること。
そして、この攻撃においては殆どが三つ目の方法で賄われていて。
結果。
ユキネの魔力に触れて生身に戻った腕に、深々とユキネの刃が突き刺さった。
「あ」
ユキネが予期していたのは鉄の感触。
しかし返って来たのは生々しい肉の感触と、血の飛沫。
一瞬だけ体が硬直し同時に、やはりオウズガルの時には愚かにもどこかで線引きしていたのだと思い知る。
ぱたぱたと手と足と胸にアリエスの血が掛かる。
思わずよろめくように後ろに下がってしまったのは、その血を何故か避けようとしてしまったことと。
アリエスが全て事も無く進行したとばかりに、こちらの目を覗きこんでいたから。
右手が縦に裂かれてしまったというのに、顔色一つ変えずに。
「くっ……!」
首筋に視線を感じ、悪寒が走る。
そう、もう一人いるのだ。そして今が最大の好機のはず。
身構えているのか、単に身体が硬直しているのか分からない。一秒後に人生の終わりを迎えるかもしれない。
(負けられない……!)
手に残った感触に動揺しながらも何とか剣を体の前に構える。
「そこな女」
アリエスの声。
初めてこちらに意識が向けられたかのように思えて、思わず注意が向く。
「貴様は半端に過ぎる」
「な、に……?」
親しげではありえない。
しかし、何の気なしにかけられた声には込められた殺意が無い。斬れた腕を鉄で修復しながら、視線すらこちらに向いていない。
「この場は拙いながらに戦場だ。持つべくは殺意と武器だ。剣を持つくせに殺意は持たぬと、そんな傲慢がまかり通る場所ではない」
それはまるで、事は終わったとでも言いたげに。
「それをわざわざ持たないのは貴様だ。愚かなのは貴様だ。場違いなのは貴様だ。勝とうともしないのは貴様だ。ならば、狂っているのは貴様の方だ」
口にしているのは、酷く当然の言葉。
そして、言いたい事は終わったのか腕の修復が終わったのか、視線がユキネに戻ってきた。
ユキネの目の中を覗き込む視線は、酷く不愉快だと伝えている。
「そして、だから貴様は弱く脆く、負けるのだ」
「え……?」
ユキネの口から出た疑問符はアリエスの言葉に対してではない。
その言葉についてはアリエスも聞かせるつもりが無かったのだろう。その言葉はユキネの耳を通り過ぎただけに終わる。
ユキネの意識と視線は、自分の腕と足から突き出た鉄の針に集中していた。
見れば皮膚に付いたアリエスの血痕が小指サイズの大きな針になって、一瞬では数えられないほどの数でユキネの体を貫いていた。
軽傷ではない。
左足は奇跡的に傷一つ。しかし左手は言う事を聞かずに痙攣する。見るのも憚られるほどの状態になっていると悟った。
「ぐっ──、ぃ……!」
そこから先は叫び声を噛み殺すのに必死だった。
奥歯を噛み締め、何とか体ごと揺れる視界を元に戻そうと足に力を入れる。
「負け、られない……ッ!!」
先程から必殺の時を伺うもう一人。
その気配はもうすぐ傍。
気付けたのはほとんど天啓。剣を合わせられたのは幸運の極み。
その証拠に、キャンサーの表情が驚きに凍る。
「残念、遅い!!」
しかし、足と腕を襲う激痛とキャンサーの身体能力がその幸運を覆い尽くした。
キャンサーの拳から伝わる衝撃が、踏ん張れないユキネの体をゴム鞠のように跳ね飛ばす。
「……ぁっ!」
視界は激痛と失血で滲み、自分が吹き飛ばされたのに気づいたのは壁に叩きつけられてから。
空気が肺から抜けていき、更に意識が遠のく。
「──っ……!」
声にならない声が口から零れた。
気を失った世界と意識のある世界の狭間を揺れているように、視界が明滅を繰り返す。
激痛と混乱の中。それでも敵から目を離すまいと顔を上げる。しかし、女はもうこちらを見てさえいない。
「珍しくよく喋るな、アリエス」
いつの間にかユキネの上にのしかかるように誰かが顔を覗いていた。
「首頂き」
冷たく硬い手が首に触れる。
骨が軋んで割れる音が耳元で聞こえた。
いや。
聞こえたのはもう一つ。
右腕の骨をへし折られて、たたらを踏むキャンサーの悲鳴と、立ち塞がるように現れた大きな背中。見慣れた黒髪。
何度も何度も見た光景。今回もまた自分は背中を見る事しか叶わない。
ユキネの口から弱々しい声が漏れる。
それは失意のあまりに漏れた声。自分で言った事も守れない自分への諦観の形。
今一番見たくない人がそこに居た。
◆ ◆ ◆
「お、……っと」
突然自由を取り戻した体に、レイはその場でふら付いた。
「く……」
少し頭が酩酊する。
ふと見渡せば誰もが躊躇うような個室にレイは居た。
とは言っても、意識はあって、何度か着せ替え人形にされたので掴まってからここ数日の記憶はあった。
「今日は赤か……」
何とも成金趣味の真っ赤なドレスに、──いやそれを自分が着ている事に辟易する。
自分にはこんな煌びやかな衣装より落ち着いた色の着物の方が相応しいらしい、と納得できるぐらいには。
「俺よりマシだろうが。うへぇ、ショッキングにピンクだ」
「む……」
聞こえた声に振り向くと、同じくこの部屋でスコーピオの着せ替え人形と化していた女が自分と同じような表情で自分の格好を見渡していた。
「やっと話せたな。あんたも吸血鬼だってのは分かるぜ」
「……ふん」
顔は知っている。
この場所で何日も寝食を共にしたのだ。
しかし、体の自由が利くのは大抵片方だけであったし、傍にはあの女が居た。
あと知っているのは、一人で話すスコーピオの内容から察せられる相手の名前ぐらいか。
「儂は自分とお前。それとあの女ぐらいとしか同族と会った事は無いが、貴様は」
「俺は二週間前まで自分の事を一人生き残った悲劇の末裔だって思ってたね」
「ま、無理もないの」
歓談している暇があるわけでもなく、視線を外しもう一度置かれた状況を確認する。
広い部屋。
窓は嵌め殺しの物が二つ。扉はその対岸に一つ。衣裳部屋に繋がる物が一つ。
そのどれもにご丁寧な術式が絡み付いている。力任せの術式だが、それは圧倒的だった。技などいらないと、そう言外に主張しているかのような。
「なあ、一つ質問なんだが、あんた今幾つだ?」
「一年一年数えるほど暇じゃないが、八百と少しと言ったところかの」
「オレもそんな所だ。で、あいつはどれぐらいだと思う」
「さあの。こちらからは何も出来んかったから詳しくは分からんが、桁が違う、では済まないほどだろうの」
部屋の随所に視線を配りながら、レイは脳の半分を使い女の言葉に返答する。記憶があるのはスコーピオに捕まったあの日と、それからこの部屋での一日数時間。
アドバンテージをあちらに握られたままで何か情報を得るにはあまりに少ない時間だった。
「じゃあさっさと出るか。こんな湿気たところに居てられねぇ」
「無理じゃの。血の年季が違いすぎる。それぐらい分かるじゃろう」
「……そういうの、分かるもんなの?」
「……」
「今舌打ちしたか? したよなテメェコラ」
「近付くな無能。暑苦しい言葉遣いしおってからに」
「婆みたいな口振りの奴にゃ言われたかねぇな」
「はて、歳を感じていれば自然とこんな口振りになるはずだが。その見た目につられて知能と経験も退行したか」
「……よぉし、決闘だ。戦士の誓いを立てろ」
言って、どこからともなく取り出したのは紅い戦斧。
細かい所に気が行かない分、その単純な力はかなりの純度を誇っているようだ。
(それでも、この部屋を壊せはせんが……)
そう言えば名も知らない女の眉が揺れ、目が細められる。それに会わせて、レイも両手に二本ずつ剣を精製する。
当然のように、部屋の中が緊張と魔力で満ちていく。
しかし、お互いを睨みつけていた視線が二つ、流れるように扉に向き直った。
遅れて、部屋の扉が空く音。
現れたのは、小柄な女。憎き敵。
二人は示し合わせたように人外の速さでその闖入者に襲い掛かる。
片手で持ち上げた戦斧は、身の丈を越える巨躯を感じさせないほど、鋭く上から振り下ろされる。
両手に持った剣四本は、戦斧の何倍もの速さを持って、下から抉るように正中の急所を狙い打つ。
「……鬱陶しい」
しかし、その一言で二人は動きを止められた。
それも上から襲ったもう一人は、縫い付けられたかのように空中に浮いたまま。
突然、慣性も残さずに止められたせいで、身体が悲鳴を上げる。
(くそったれめ……)
屈辱を声に出す事はおろか、表情筋一つ動かせない。
レイにできたのはただ、じっと刺し貫くはずだったスコーピオの顔を見上げる事だけ。
「鬱陶しい、鬱陶しい……!」
ふと、その顔面が血に濡れている事に気付いた。
(……?)
頭部からそして口から鼻から、まるで誰かに殴られたかのように血が流れ出ている。
しかし明確な傷があるわけではなく、神経を繋げていた身代わりでもやられでもしたのか。
何にしても、その表情に溜飲が下りるのを感じながら、レイは顔面を殴り付けた誰かに心内でよくやったと賞賛した。
まさかそんな心内が伝わった訳でもないだろうが。計ったようなタイミングでスコーピオの視線がレイの目を覗き込んだ。
にたり、とその口角が持ち上げられ、レイの目の前に小さい手が宛がわれる。
小さくとも視界を奪うには十分で、手が近付いた分だけ視界が黒く染まっていく。
レイはほぼこの一週間、体の自由を奪われていた。
意識があったのはスコーピオが近くにいる時だけ。当然スコーピオが許さなければその時点で意識は消えたが、大抵は起きて抵抗を試みていた。
だから、意識があったのだ。
あの日、あの夜。この女に首筋を噛まれてからも。
ジェミニの不意を付いて攻撃した事も。そして、自分の身を案じたせいでこの女に打ちのめされた馬鹿なお人好しも。
全て覚えている。
「……ぎっ」
だから、これ以上無様を晒す訳のはありえないだろうと。
敵わないのは分かっている。ここ数日でその事実は骨身にしみている。無駄な抵抗は、それはもう無様な事だろう。
しかし、あの頑固な奴や不器用な奴や慕ってくれる奴やつかみどころがない奴。
そして、何よりあのクソ生意気な小僧の前で晒す無様に比べれば。
「ぐっ……、お……!」
塞がっていく視界の中でスコーピオの表情が凍り付いたのが分かった。
しかし、それも一瞬。小さく舌打ちをした後、スコーピオの手がゆっくりとレイの両目を覆い、光を遮断する
(……くそったれめ)
結局恨み言も口に出来ないまま、意識も続いて闇に溶けた。