限りなく黒に近いハイイロ
さらさら、しとしとと雨が降っていた。
夢を見ている。最初の記憶は一体どれだろうか。
何の特徴も無い森の中。粘った溶液の中。地面に横たわった雨の中。
どれも思い出せるが、どれも違う。『私』の起源は、他のその他大勢の中で一番ありふれたもの。
浅く掘られた穴の中。折り重なるように私達は棄てられていた。
服すらも与えられていない。それはそうだ。棄てられているのだ。ただの不要物として。
据えた臭いがそこらに充満していた。茂みの向こうからはここを餌場にしているであろう獣の唸り声も聞こえる。
背中には同じ背格好同じ顔をした肉の塊が山となって積まれている。
まだ苦しげに息を吐いている者もいれば、もう既に冷たく固まってしまった物もある。
さらさら、しとしとと雨は降る。
止まらない。前髪が額に張り付くのを感じる。一糸纏わぬ体を雫が伝うのを感じる。感じながら曇天を見つめ続ける。
見たい訳ではない。視線がそこにあっただけ。
不意に強烈な気配と近くなった唸り声を感じ、視線が自然と下りる。
そこには牙を剥く大きな狼がいた。
その筋肉質の体は自然を生き抜く者として何の遜色も無い逞しい物で、その佇まいも堂々としていて、毛皮は寒さどころか刃も通さないような毛並みで。
そして四方八方から串刺しにされていた。
土で水で空気で火で。
その尽くを刺し貫かれている。
私ではない。私でない方の私達がそれぞれの持てる能力で脅威を撃退したのだ。
視線を向けると、あちこちで"土"や"水"、"風"や"火"と言った文字が光っている。
本能に従ったのだろう。つまり恐怖とそれを撃退する為の本能があったのだ。
では、私が行動を起こせなかったのは何故だろう。
悠々と数十秒の時間を使って思い当たる。文字が違うのだ。戦う為のものではない。
ゆっくりと、二の腕に光る文字を視界に入れる。それは、本当に偶々"混"の文字だった。
瞬間、理解する。
自分の本能を。
死にたくないから、本能を行使する。
火ではない。水ではない。土ではない。風ではない。光ではない。闇ではない。恐怖ではない。
混ぜる事でもない。
私はただ、混ざる為に。
──"混合"
これがきっと、私の最初の魔法。
どろりと、境界線が無くなって集束する。それは心地良く清濁飲み込んでいき、混ぜる。混ざる。
気付けば浅く掘られた穴には私しかいない。
いや、私と私達の境界線が無くなったのだ。
「ぇ…あ…」
喃語のような言葉が漏れる。
いやそれは言葉と言い表すには相応しくない。
泣き声だった。
殺して、死んだ。
殺した私と、死んだ私が混在して頭の中で騒ぎ立て、その余韻が口から漏れる。
死んだ私は、死にたくなかったのだと言った。
だからこそ力を振り絞って獣を撃退したというのに、どうして殺してしまったのかと。
────……ぁ。
その声に心が一斉にざわめき立ち、寒くも無いのに肌が粟立つ。
混乱する。
ほぼ並列して理解する。
これは恐怖まで混ぜ込んだ結果である死の間際私が私達を殺す間際に膨れ上がった死への恐怖が重なり合って内在している私が狼に反撃を決行しなかったのは攻撃手段が無かったからではなくこの恐怖が欠けていたからだああしかしこれはいらないただ寒いだけだつめたいいや混在しているのはそれだけではない殺した苦心殺された苦悶後悔怨嗟憤怒嫉妬空虚疑問腐臭哀憐強欲。
そうした物が。
一つも欠けることなく小さな器に詰め込まれていた。
反射的に吐き出そうと口が開いた。
胃の中から戻せるものではないとは判っていたが、それでも泥に塗れた手を喉の奥に突き込んだ。
出てくる物はない。空っぽの胃はまだ何かを受け入れた事も無いのだ。嘔吐物すら出てくる事は無くただ嗚咽だけが漏れた。
さらさら、しとしとと雨は降る。
寒さを忘れないように、それでもこびり付いた汚れを流してしまわない程度に。
そんな折に聞こえた唸り声は、確か五つほど。
ぬかるんだ地面に素肌で無様に座り込んだまま、茂みを出てきた彼らをぼんやりと眺める。
怨嗟からこのまま喰われて死んでしまえと誰かが叫ぶ。こちらに来いと手を招く。一緒に死のうと囁く。反響する。反響する。木霊して、増幅する。
奔流ではない、激流と言うにもまだ足らない。横合いに流れる滝のようにその声は荒れ狂う。
たまらず頭を両側から押さえ込んだ。
言葉にならない声が漏れ、口の端から涎だか雨の雫だか区別もつかない物が地面へと滴り落ちる。
その叫びは増幅を続けあっと言う間に痛みと変わって脳髄を責め立てる。
混沌としている。
引っ張られる。誘われる。招かれる。いずれも昏いどこかへと。
従って、死ねばいい。
余りにも簡単な結末だったはずだ。そうすれば、この声の主も許してくれる。
「……ぇぁ」
嫌だ。
私が言う。死にたくないと。どうしても生きていたいと。
確かに内在する"誰かの私"の死の記憶が、あまりに怖くて冷たくて昏すぎて。
だからこの声は恐ろしいけど。雨は変わらず冷たいけれど。この命は殺して他者からもぎとった腐肉と泥の塊のような汚らわしいものだけど。
──それでも、しにたくない。
だから。
ごめんなさい、と。初めて言葉を口にした。
──我混沌を望む。
祝詞を一言。
目の前まで寄って来ていた狼達が骨の一片すら見せずに消え去った。
殺した。
同時に不思議と頭の中の怨嗟も忽然と消えていた。
残ったのは、ぬかるんだ泥と雨と静寂と。
私達が包まれていた布切れを見つけた。羞恥心を持てた私が居たのか自然と私はそれを体に巻いた。
それから時折纏めて廃棄される私達を、私は殺していった。
理由としては、持たなかったのだ。
体が。
少数だが死体が入っていたせいか死期が近かった。
だから、残さず綯い混ぜにした。
次第に一日中動く事が可能になった。
誰かが持っていた指輪が魔法の効率を高めてくれた。
殺した。
そして、その全てを尽く混ぜこんだ。
寝床を探すようになった。
と言っても、雨が当たらず眠れる岩の窪みが見える位置にあったのでそこに蹲って寝るようになった。
何かが打ち棄てられる音がしたら、体に巻いた襤褸をぬかるんだ泥で汚しながら近付いて事を成した。
ふと、今の自分が最初の自分か判らなくなった。
記憶はある。しかし、その他大勢の記憶も漏れなく残っていた。
結局、どれでも大差が無い事に気付いて。
考えるのを、やめた。
「ねぇ貴女、暇なの?」
そんな馬鹿な質問が眠りを妨げたのは、どれほどの時が経ってからだろうか。
肉と地面がぶつかる音と、雨の音以外に音を聞くのは随分と久しぶりで眠気は簡単に押しのけられた。
「暇なら少し手伝って欲しい事があるんだけど」
体は、もう必要以上に出来上がっていた。
死ぬ事はない。体も生身のそれだ。
死は遠い。もはや人らしい最後は望めないほどに命は混ぜ込まれて密度を増した。
丹念に丹念に練りこんで模った泥の人形が出来上がっていた。
「手伝ってくれたら、一つ何でも言う事を聞いてあげる」
女の金髪が揺れる。傘もささない女は当然髪も体も濡れ鼠だ。
それなのに穢れもしないその美しさに、しかし私は憧れる事はなかった。欲しいとも羨ましいとも思わない。
そんな物が気にならないほどに膨れ上がっているのだ。私に向けられる私の怨嗟の念と、そして私達の今際の時に膨れ上がった対極の願いが。
もう判らない。
綯い交ぜになっている。自分がどちらを望んでいるのか判らない。
ただ、私をこの状況に駆り立てた感情が、最初に恐怖した事が、針を僅かに傾けていた。
だから、女の言葉にただ私は。
死にたくないと、そう答えた。
──誰かが、罪と罰という単語と意味を知っていた。ならば、罰はどこだと問うてくる。
神がいるという。
悪しきは神に罰され地の底に押し込められると言う。
しかし、大地が割れ冥土に飲み込まれる事も無く、天から雷が落とされる事も無かった。
ただこの世界は優しく。
さらさら、しとしとと雨が降る。
◆
「……」
部屋の半ば、寄りかかるようにフェンは眠っていた。
そこはガラスのケースが乱立している例の部屋。ここ一週間ほど寝泊りしている部屋で間違いない。
そして今寄りかかっているのが、他でもないそのガラスのケース。いくつも同じ物が乱立している中の一つだ。
汗で前髪が張り付いているのを感じた。
不自然に明るい色の液体が詰まったケースに映っている顔を覗く。それが酷く青白い事にフェンは気付いた。
軽く頭を振る。
思い出してからというもの、眠る度に夢を見る。嫌に鮮明なのは過去を思い出しているからなのだろう。
寝るのが怖くて、起きていようと躍起になって歩き回って、ここで力尽きてしまったのだろうか。
──いや。
そう言えば、寝るのが怖かったのは今に始まった事ではなかった。
いつもいつも、寝るのが怖かった。覚えてはいなかったが、同じ夢を見ていたのかもしれない。
そしてその夢の自分がこの出鱈目に命を押し混ぜた自分よりは個が残っていたから、現実の方が希薄で仕方が無くて、それで。
眠ってしまえば、二度とこの現実に戻って来れないんじゃないかと、そう思っていたのかもしれない。
(……随分、察しが良い)
まるで、自分ではないかのような聡明ぶりだ。
しかし同時に自分らしい臆病ぶりだと思う。
気持ち悪い。
額に浮かんだ汗が、汗を吸い込んだ下着が、そして何より自分が、どうしようもなく。
穢れている。
服の上から二の腕に爪を立てた。お前など今すぐ死ねと、そう言いたかった。
結局、言えなかったし、言ったとしても死ねはしないのだが。だから、自分は汚いのだ。
しばらく目を伏せて、彷徨うようにフェンは辺りを見渡した。
限界まで睡眠を拒否していたからか。いつ眠ったのか、なぜこんな所で眠っているのかが判らない。
「ここ、は……」
三百人ほどが一度に入れて寛げる迎賓室だ。
おまけに今はそこに溢れんばかりのガラスの円柱が乱立しているため、ここが部屋のどこに当たるのかもよくは判らない。
体は気だるいものの、疲れている訳ではない。
ゆっくりと体を起こすと、ふらふらと歩き出した。
ガラスケースの森をすり抜けながら、進む。
ふと、その足取りに迷いが無い事に自ずから気が付いた。
ふらふらと足元もおぼつかないが、それでも進行方向だけには迷いが無い。
まるで自分の中の何かが勝手に、ある場所へ誘っているように。
しかして、それは全くその通りだった。
「あ……」
こぽり、と『私』の口から気泡が漏れた。それを、フェンは見た。
ああ、知っている。
そのガラスの円柱の中から見た、半透明の液体越しの景色も知っている。
反射的に目を逸らす。
しかし、逃がした視線の先にまた。
思考が白く染まり、息は粗く、足からは力が抜けていく。しかし、そんな震える足が更に一歩踏み出した。
ここではない。
フェンの足を動かす何かが目指しているのはここではない。
ふらりふらりとただでさえ遅かった先程の歩みの、その半分ほどの速さでフェンはガラスケースの森をすり抜けていく。
やがて、辿り着いたのは部屋の端。
本来は何をする場所なのか。目立たないように壁と同じ色の扉があった。
半開きで、奥からは薄い明かりが漏れている。
──行くな。
そんな直感が働いたのは、その扉に手をかけたその時。
考える間もなく手が勝手に扉を押し開いた。
その瞬間、ここまで自分を引っ張ってきた物の正体を知る。
本能だ。うず高く積もった何かがある。死んではいない。雨の音と据えた泥の臭いを錯覚する。混ぜろ。呼吸が止まる。脳が焼きつく。幾つかの視線がこちらを向く。身動ぎする。身動ぎした。その中心に。何かが。
──"混合"。
聞こえたのは、魔法の声。
知っている魔法。しかし自分の口から漏れた物ではなかった。
断末魔すらなく、部屋中の気配は消えている。
ただ、部屋の中心でぽつねんと立ち尽くす一人を除いて。
その眼がこちらに向く。その何もこもっていない瞳が、フェンの姿を映した。
「あ……ぅ……」
悲鳴を上げるでもなく、怒鳴り散らすでもなく。いや、出来ず。
ただ震えながら、私はその場で両肩に爪を立てる。強く強く。血が滲むほどに。
この体に塗り固めた嘘がこそげ落ちてくれないかと願って。擦る。爪を立てる。
しかし、気分すらも晴れはしない。
どこまで削っても、嘘しかないのだ。
嘘に何を重ねても、嘘なのだから。
私は、誰かを真似て作られた泥の人形なのだから。
◆ ◆ ◆
ひとしきり語り終えて、レオは口を閉じた。
辺りから音が消えて、ほとんどの音が消える。改めてみると騒がしいのはこの辺りと城の方だけなのだと気づく。
「まあつまり、あの娘は厳密に言えばもう人間じゃなくなってしまってね」
レオはそこで一旦言葉を切ると、目を軽く伏せて足元を見た。
「きっと、普通には死ねないし、普通の人生を送るのも難しいかもしれない。体が成長を止めてるのもその影響かな」
ハルユキの視線は動かない。
身動ぎすらせず、彫像のように固まって、その表情からは何も感じ取れない。
「死の恐怖と殺しの罪悪感をどちらも受け取ってさ」
遠くを見るように目を細めると、レオは明後日の方向を向いた。
よく見れば、その肩が小さく震えていることに気付く。しかし、当然何かに同情して涙を堪えている訳も無く。
その頬は笑いを零さないようにと、小さく痙攣していた。
「──全く、狙ったみたいに滑稽な生物だよね」
その時。
本当にその場所にこの子供がいれば、その体はどうなっていたのか。
拉げていたのか、潰れていたのか。どちらにしてもその小さい体に命を残すことは叶わなかったのは間違いない。
ハルユキが立ち上がった。
立ち上がっただけでその足元の地面は割れ、その拳は空気の壁を押しやり突き破り、触れた瞬間に子供の幻影を消し去る。
その拳はほぼ八つ当たりのように地面に向かい、その膨大な力量を撒き散らした。
右腕の至る場所から骨張った、しかしどす黒い色の角が覗く。
その腕を引き抜いた中心から広場の半分ほどをクレーターが飲み込んでいた。
街が揺れ、破片を吹き飛ばし広場の周りの家々の壁には大きく亀裂が走っている。
「……街が、揺れたよ」
ひょこりと子供がハルユキの前にその姿を見せた。
自分は安全圏にいるのだ。差し迫った緊張感は感じられない。
「いや、ごめんね。そこまで怒るとは思わなかったんだ。本当だよ? 嘘じゃない。そんな物吐く訳がない」
「……もういい、黙れ」
「彼女言うんだ。嘘に何を塗り固めても嘘だって。哀れだね。虚しいね。嘘で生きていくなんて怖気がするよ」
そこで、ハルユキが初めてレオの目を覗き込んだ。
自然、つっかえたようにレオの言葉が止まる。その目には何の感情も無い。──ように見えるほど、見事に感情が押し殺されていた。
「お前、気付いてたのか。俺達がフェンが生きてる事を知ってるって」
「……確信は無かったけど、やっぱりそうなのか。君が認めてくれるとは思わなかったけど」
「ああ。だから、もういいって言ったんだ。もう計画なんざ止めだ」
そう言うと、ハルユキはレオから視線を外しクレーターの外──、城へと向かって歩を進めた。
「行くの? 僕、逃げちゃうよ?」
「なら、フェンに伝えろ。俺が来てるって」
「それだけ?」
「ああ。嫌なら別にいいが」
ゆっくりと深く抉られたクレーターをハルユキは登っていく。
その淵にハルユキは足をかけると、最後にレオに振り返った。
「さっき、逃げるって言ったな」
「……言ったね」
「──誰にそんな口聞いてんだ、お前」
笑うでもなく、怒るでもなく、結局能面のように表情を変えないまま、ハルユキは言葉を続けた。
「俺から逃げようなんて、一億年早いんだよ」
それは誰に向けた言葉なのか、文脈から見れば一番近くの子供に違いないが、その言葉は今はどこいるかもわからない誰かに向けられていた。