女と蟹と泡と踊りと
こぽり、と頬を下から撫でる水泡の感触に目を開けた。
目は開けたものの、それは目を覚ましたとは言い難い。まだ視界は皆無で、体の感覚も鈍いのだ。
身を包む水は柔らかく、強いて言えば羊水に似ているだろうか。
その体を守っているのは小さな球体。それは繭のようで卵のようで宝石のようで星ようだ。
薄く発光しているのか、ただでさえ曖昧な視界は目と鼻の先で遮られている。
意識の中にあるのは、その水の心地良さと温かさ。そして白い視界とひどい眠気だけ。
こぽりこぽりと水泡が口の端から漏れて、上っていく。
この中には浮力も重力もない。だからこそ、自ら逃れていく空気の泡沫が消えていく人間味のように思える。
実感がない。
息を吐いてみても目を薄く開けてみても、あまりの世界の変わらなさに気分が褪せる。
しかしふと、目の前の気泡が浮遊を止めた。
吐き出す吐き出す。すると、生まれた気泡は全て何にも囚われず踊りだした。
楽しげに、足取り軽く。
それを見て、思わず口の端が上がった。
足の先がピクリと動いた。つまり足があるのだろう。
手の平に熱を覚えた。つまり腕と手と肩があるのだろう。
心臓が水を揺らした。つまり、生きているのだろう。
泡が光を食べている事に気付く。
そして、満腹になれば食休みでもするような気軽さで私の体に入り込んでいく。
入り込んだ途端、それは個を捧げて体の一部となる。
その溶けていくような感覚が心地良く、すると直ぐに眠気が襲ってくる。
強い。大きい。とてつもない。
その眠気に比べれば、世界も、神ですら一撫でにされるのではと言うほどだ。
だから、一存在である自分が叶う訳も無く。
目を瞑った──。
──目を開ける。
目の前は変わっていた。
自分は傲慢にも王座に座り、自堕落に背凭れにのしかかっている。
夢を見ていたのか。いや、こちらが夢なのか。はたまたどちらも夢なのか。
似たような事を寓話にした小説があったな、と肘を突いて考える。
「──起きろォ!!」
いきなり目の前で火花が爆ぜた。
漸く視界に意識が行き、その光景が普段と僅かに違う事に気が付いた。
その景色の中に居たのは、こちらに剣を叩き付けんとする見目麗しい女と、それを受け止める物語に出てくる古のドワーフのように小さく醜い男。
鍔競り合い、互いに相手の武器を体ごと弾くと、両者の間で火花が爆ぜた。
間をおかずに、再び両者が鉄と殺意で相見える。
女は力強く踊るように、片や男は地を這う蛇のように。
中々に見応えがある殺陣にしばし目を奪われる。
火花が爆ぜ、翔け、踊り、描いて、消える。
実に、美しい。
素直に感嘆の音が口から漏れた。
ふとその動きがいつか見た気泡の踊りとかぶって見えて、手を伸ばす。
届くはずはない。
しかし、手の先で鍔迫り合っていた二人が顔色を変えて退き、こちらを見た。
「……大将。勘弁してくれよ」
「ああすまないな。別に、危害を加えようというわけではないのだが」
ふとこちらでも眠気が脳をくすぐる。
こちらの眠気は未だ子供の甘がみほどの脅威だが、これでも中々抗い難い。
「……キャンサー。私はどれほど眠っていた?」
「なに。この嬢ちゃんが入ってきてからの五分ぐらいだ」
「助かった。続けてくれ、キャンサー」
そう言って、更に背凭れに体重を預けた。
その一連のやり取りで何を思ったのか、キャンサーの口が歪な笑みの形を作っている。
そして、一瞬反応が遅れた女に襲い掛かった。
しかし、女も直ぐに我に帰りそれを押し返す。結果、その状況は押しつ押されつと言ったところか。
踊る。踊っている。
火花を散らしながら、鉄を打ち合わせながら。
楽しげ、なのは残念ながら片方だけのようだが。
また、うつらうつらと瞼が下がっていく。
◆
「くそぉ……! 何なんだあいつは……!」
〈……判りません。が、人間よりは化生に近い〉
メサイアの言葉に多少の驚きと納得を覚え、奥歯を軋ませた。
人の形をしているだけで人間ではない。そんな存在に会った事が無いわけではない。
しかし、まるで違うと言えば違うのだ。
何をされた訳でもない。しかし、あの手を向けられた瞬間に怖気が走った。
重力が増したようにも、横合いから握られたようにも、巨大な顎を覗き込んだ様にも感じた。
身体がその悪寒に応じて硬く強張っている。
「おいおい嬢ちゃん。美形に気をとられるのは判らんでもないが、目の前の醜男も気にしてくれないか?」
そんな緊張を意にも介さぬように、飄々と声がした。
我に返り視線を上げれば、目の前に拳。
必死に剣を合わせ、結果、鉄と鉄が打ち鳴らす音が響いた。
足の指が靴越しに大理石の床を食い込まんばかりに噛む。
その力が一部の隙もなく、腕に手に剣に、刃に伝わって火花を生む。
一瞬だけ力の余韻で鍔競りあった後、お互い同じタイミングで相手を押し退けた。
ユキネは数歩たたらを踏んで、男は大げさなほど吹き飛びながら間合いの遥か遠くに着地する。
甘い痺れを残す両手を見やり、強く握る。
「防いだか。いや重畳重畳。俺には敵も味方も等しく貴重でね」
とん、とん、と男はその場で跳躍を始める。
言わば"慣らし"であるその行為だが、その高さが既に男の身長を優に越している。
強く、速い。
本来相反するはずのその二つをしっかりと兼ね備えているのだろう。
その小さく細い腕が、今は引き絞られ凝縮された鋼の筋肉の塊に見える。
そして、男が消えた。
上と下に移動する一定のリズムに慣れさせてからの視線誘導。羽虫を見失うのと同じ原理だ。
どうしても、一瞬姿を見失い、反応が遅れる。
右から飛び込んでくる男を見つけて、何とか剣を叩き付けた。もはや女の細腕ではない一撃に、男はただの拳でそれを押し返す。
瞬間、力を抜き男の体を流す。そして体を回転させ後ろ回し蹴りを放った。
しかし、その先に男は既にいない。
何の事はない。男は飛び込んできた勢いのまま小さく前転し、今はユキネの背後に。
すれ違う形になり、振り返った瞬間同じく振り返った男と目が合い、同時に後ろに跳んだ。
「足癖悪い嬢ちゃんだ。嫁にはしたくないね」
「こちらからお断りだ」
その鍛え方は速さと、そして強さに偏っている。それでもあの体だ。いくらかは丈夫なのだろう。
それでも身に着けている武具が鋼の拳当て一つと言うのは無謀に過ぎる。
切り裂かれれば、矢で穿たれれば。重傷は免れず、それは死に繋がるだろう。
しかし男の凄絶な笑みを見れば、そのことに疑問は沸かなかった。
この男が求めているのは。
「スリル、緊張感か。嫌いじゃないね」
まるで心を読んだかのような男の声に、ぴくりと肩を揺らした。
「……何の話だ」
「いや? そんなような事を考えてそうだなってな。違ったか?」
この男の武器として、その強靭な体と戦闘技術。それに洞察力と経験測を追加しなくてはならない。
それは数多の死地を踏み越えてきた証である。
そしてまた、男が踏み込んできた。視線誘導など使わずに、今度は真正面から。
しかし、低い。
体を地面と平行に、顎が地面に擦れるほどに。
蛇のようだと漠然と思う。
振り下ろしていては間に合わない。振り上げては威力が足らない。更に頭しか攻撃できない。
剣が高低差に弱いと熟知しているやり方だ。
仕方なくすれ違うように剣を合わせる。一段と高い音が響く。
振り向くと、勢いもそのままに男が壁に着地し、そのまま真横に跳躍した。
姿勢もまた低く、ジグザグに稲妻模様を描きながらこちらに迫る。
その進み方が、規則正しい物だと気付く。いけない、と気付いた瞬間に男が消えた。
「──っく!」
「いいねぇ。普通の奴なら末代までの分ぐらいは死んでる」
一瞬。されど一瞬。
またしても後手に回り、辛々にその拳を防ぐ。
苦し紛れに剣を振ってみても、再び男は間合いの外。空を切って終わる。
(……どうする?)
まだ、機動力は上げられる。
体に掛かっている重力を無くしていけばいくほど速くはなるだろう。
しかし、問題が一つ。
男は、未だ魔力の欠片を見せることもしていないのだ。
強靭すぎる肉体も、消えるように移動する技術も、先読みする経験も。全て今まで培ってきた物に過ぎない。
そして見せ付けてくるのは、その圧倒的な身体能力と戦闘技能だけ。神秘の一端は未だ秘匿されたままだ。
ユキネが未だ全力を出さないのは様子見から。しかし、だからと言って時間があるわけでもない。
〈メサイア〉
〈御意〉
短い応答が終わると、途端、一つ世界が変わる。
思い浮かべるのは、剣の軌道にのせ相手に押しやる白い炎の波。
「へえ……?」
その気配を感じたのか、男の目に好奇の色が宿る。
破裂しそうなほどに剣の中に力を詰め込んでいく。男の笑みが緊張感とやらを得てますます凄惨になっていくのを確認して。
剣を振った。
空気摩擦で発火したかのように剣の先に火が付くと、それが爆発的に体積を増す。
横薙いだ剣の先から炎がうねり、炎の海となって部屋を舐めていく。
津波のように押し寄せるそれを男の破顔が迎える。
横に逃げ道を残してはいない。
男はそこからまた少し口角を上げると、真上に飛び上がる。
流石に部屋全てを覆えるほどの魔力はまだ持っていない。せいぜい波の高さは三メートルほど。
跳び上がった男に向かって、ユキネも地を蹴る。
男もそうくる事は分かっていたのだろう。
拳を作ってこちらに構える。
同じ空中。しかし、対等ではないのだ。
こちらが振りかぶった剣に合わせるように男が拳を振るう。
しかし、それを確認して三回。空を蹴る。
一度、二度、三度で男の背後に回った。期待していた手応えが消え、男の体が空中で乱れる。
「こりゃやべぇ」
そんな気の抜けた声を他所に、ユキネはその体に剣を叩きつけた。
まだそこら中で残り火が燻っている地面に着地した。
敷かれていた赤絨毯は跡形もなく灰になっている。
そして、肝心のキャンサーは未だ吹き飛んだテラスの向こうから未だ姿を現さない。
「おい」
顔はテラスの方に向けたまま、ユキネは王座に座るオフィウクスに声をかけた。
「貴様は、私の仲間の居場所を知ってるな」
「知っているとも」
寝ているのならば蹴り起こしてやろうかとも思ったが、まるでその問いを知っていたかのようなタイミングで言葉が返ってきた。
しかし、何故かその言葉にも怒りが沸いて。
「言え。そうすれば命までは、取らない」
「そうしたいのは山々だが、教えないと約束していてな」
「……なら。体に聞くまでだ」
剣の切っ先をオフィウクスに向ける。
瞬間、何か形容しがたい威圧感のような物が肩に圧し掛かった。
意識的に視線を向けると、その魔力の濃さからかオフィウクスの周りの空気が歪んでいるようにすら見える。
身体が硬く硬直し、呼吸が浅く速くなっていく。
対してオフィウクスは薄い微笑を保ったまま。
自分ではその微笑すら崩せないのではないか、とそう思った時、オフィウクスの口角が僅かに上がった。
「君は命はとらないと言ってくれたが、」男の目線がユキネの背後に移る。「後ろの彼には何か教えてもらったのか?」
「それ言ったら野暮だろうがよ大将。醜い俺に同情してくれてんのさ」
小さく舌打ちをして、その声とオフィウクスと自分とで三角形を作れる場所にまで飛びずさった。
男は体に付いた埃とガラスを払いながら首を鳴らす。
その脇腹から肩にかけて服が破れ、大きい痣が露出しているが、その仕草は先程の一撃がまるで聞いていないようにも思える。
「なあ、嬢ちゃん。なぁんで殺さなかった? わざわざ刃を寝かせてまで」
「く……」
「いやアンタの勝手だからいいんだけどよ。残念ながら俺はアンタを殺すぜ?」
その場で、また炎を剣に注ぎ込み同じ行動を繰り返したのは、男の言葉を押し止めたかったからで。
「──はっはァ!」
結果、その炎の波は男の破顔の前に打ち破られた。
文字通り、炎の中から顔が突き出してくる。
半ば剣を合わせる。しかしそれは、男の防御を期待した行為で。ただ笑ったまま顔から突っ込んでくる男の前で僅かにその動きが鈍る。
極限まで鍛え上げた体を持つこの男の前でそれは致命的な隙だった。
「あ……」
その一瞬の間に男の小さい身体が、どうしようもないほど懐の中に入り込む。
ほぼ同時に男の腕が腹にあてがわれ、魔力が膨らむ。
「ゲームオーバー」
手の平から伝う男の魔力が、ユキネの体を飲み込んだ。