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ハイイロ ノ カナタ  作者: mild
第一部
164/281

鉛弾は届かない




 石の巨人はその場で後ろに倒れていった。



「……一体、誰を連れてきたんだい?」



 胸から上を塀の上に出すほどの巨体はついに地面に吸い込まれるように消えた。

 驚きの声はまず後ろの子供から。

 しかし、言葉を失っているハルユキに驚きの度合いでは到底届かない。


 あれほどの巨体。確かにバランスを崩すだけで倒れるかもしれないが、あの巨体だ。50人がかりで押しても足元すら動かせないほどの重量のはず。



「……痛快だな」



 ユキネは別の場所。


 ならばあの場所で戦っているのはシアで間違いないだろう。


 もしかしたら自分の耳を過信していただけで、今も助けを呼んでいるのかと腰を上げかけていた。

 そして、その思いは裏切られた訳だ。


 戦っていたのだろう。爆発音は確認できた。幾ら特製で威力が高いといっても壁三枚吹き飛ばす程度だ。ただ投げただけでは破壊はできない。


 割ってはいるのは無粋、だとは思うが心配は絶えない。

 と言うより、なぜそう頑なに助けを呼ぶ事を拒むのか。


 シアだけではない。

 妙に対抗意識を燃やしてくる馬鹿もいるし、自分が代わりに殺してやるなどと訳の分からないこと言う奴もいる。


 何なのだろうか。

 そんなに頼りないところを見せたつもりもないはずなのに。



「……まあ」



 シアに関しては想像できる。

 自分を助ける為に、俺の手間をかけさせたくないのだろう。


 しかし、そのまま死ぬまで助けを呼ばないと言う事もないはずだ。



「待つしかないか」



 わざわざ助けに行って怒られるのはごめんだ。


 それにやる事もある。



「そう言えば、だけど」

「ん……?」



 突然、子供が声色を変えた。見れば、その表情も僅かに変わっている。



「君の事をね。酷く嫌ってる奴がいるんだよ」



 瞬間。首筋に何者かの視線を感じた。それは、人ならざる気配。


 振り向けば、いつからそこにいたのかこの場にはそぐわない街娘が一人。



「……釣れる釣れる。餌が極上だからか?」

「僕等が子供だからだよ」



 その手には、その周りには。数え切れないほどの血色の刃が浮かんでいる。





  ◆





「ぐぅ……っ!」



 明滅していた目の前の視界が一気に開く。


 吹き飛ばされて地面を転がり、恐らく数秒。意識は失っていないはず。


 腕を動かそうとすると切創から痛みが走る。剣で出来た体に腕を突っ込んだのだ。無傷で済む筈もない。


 足は少し熱で焼かれたらしい。赤く腫れている。



 寝転がっているのは幸い柔らかい芝生の上。走っている途中で背中を爆風に煽られたのかうつ伏せに寝転がっていた。


 もうもうと砂煙が上がっているのを見て、弾かれたように後ろを振り返った。


 視線の先にあったのは、瓦礫と土煙と、それだけ。敵の姿も、あの塔の巨人の姿もない。


 足元は完全に崩れ去っているが、胴体部分は下辺が拉げただけでまだ形は保たれている。



 驚きもなく、──いや、驚きを通り越したのか、シアはただ呆然とその景色を見ていた。


 あの時、騎馬兵の体の中に爆弾をねじ込むと同時に巨人の足元に投げ込んだ爆弾。


 あれでびくともしなかった時にはもう駄目かと思ったが。まだ幸運は自分の肩を持ってくれるようだ。



「……く」



 まだやる事がある。


 呻きながらも膝を立て、立ち上がった。二度目の爆発は近すぎたのか、右足と左肩に小さい破片が食い込んでいる。

 幸い足は掠っただけ。走れないこともない。


 ずり、と足を引き摺る。


 右手に銃を持ち、血塗れの左手を添える。


 出来るかどうかも分からない事に随分犠牲を払ってしまった。


 足の怪我による機動性。左手の怪我による銃の安定性。失血によるただでさえ少ない持久力も持っていかれた。

 呆れて、苦笑が漏れる。


 あまりに無茶で、運頼りの無謀。

 しかし、その中にしか求める結果がないのだ。無理を通して幸運を引き寄せなければ。


 足を速めてやがて歩きが走りに変わる。未だ足を引き摺る。


 痛い。苦しい。しかし苦痛ではない。矛盾しているだろうか。


 瓦礫の山の麓に足を踏み入れる。

 ごとごとと安定はしておらず進み難いが、しかし塔の中に入らないわけにもいかない。



(先ずは……)



 入り口を確認する。

 巨人を作った時の無理が祟ったのか、倒れた塔にはそこかしこに穴が空いている。入り口は直ぐに見つかった。


 刻一刻と重くなっていく体を引きずりながら、一番近い穴に向かう。



「────っ」



 思えば。

 そろそろ幸運も尽き果てていたのだろう。


 ごとり、と目の前で瓦礫の一つが独りでに退いた。

 地面が盛り上がる。いや地面ではない。土埃と血に塗れた背中だ。


 驚きも呆れも達成感も、全て一瞬でこそげ落ちるのを感じる。


 一瞬後、毅然さも華々しさもなくのそりと男が現れた。



 体中が傷だらけ。

 しかしあれだけの爆発と瓦礫の雨に打たれてこれだけ。


 身体が強張り、思考が凍りつく。

 目の前だ。ほんの鼻の先。手を伸ばせば肘が九十度になったところで届いてしまう。そんな距離。


 男の目がこちらに向く。男の目が一瞬驚き、そして警戒心が顔中に広がる。



「──っ!!」



 案の定、間合いに入り次第喉元に切っ先が突きつけられた。


 目の中が怒りに濡れ、真っ赤に充血している。


 逃げられない。まだ約束の六十秒は残っているとは言え、相手はもはや手負いの獣だ。殺意に任せて切り裂かれる。


 しかしこうして待っていても同じ事。堰を切った怒りがシアを殺す。



 だから、ふと思い付いたその考えに身を任せることにしたのだ。



 多分この男に勝てることの一つ。

 この場に関して言えばそれは多分信じる事だ。そしてこの場においてそれは美談ではなく愚考なのかもしれない。


 だから、このまま殺されても文句は言えない。

 だから、信じるしかない。愚かにも敵の心を。

 ──だから、その切っ先を引っ掴んで額に押し当てた。



「六十、秒……」



 相手は手負いの虎。小兎に噛まれて怒り狂った獣だ。

 なりふり構わず逃げたところを、怒りに振り回されて切り裂かれたら笑うに笑えない。


 だから今は逃げるよりも、敵を人間に。更に言えば貴族に戻さなければならない。



「……六十秒」



 そして、その顔が苦悩に歪む。


 怒りが更に怒りに上塗りされる。それはそうだ。あまりに厚かましい言葉。


 しかし、それで引き換えになるのなら。尊厳と、手と足と肌と髪と、そして自分の命ぐらいまでならくれてやれる。



「貴様……!」



『情けを逆手に取るのか』と、ピスケスの目が詰問する。それを口に出さないのはそれもまた尊厳があるのだろう。



「必要ならば」



 答えた。問われてもいない答えに、しかしピスケスに意味は伝わる。


 また一つピスケスの怒りが臨界点を突破したかに思った。


 殺すと殺さないの中間で針が触れている。



「恥知らずがぁ……!! それが許されるとでも思っているのかッ!」



 男は激昂する。


 今にも額に当たった刃の先が脳髄を貫かないとも限らない。シアが未だ呼吸をしていられるのは、ピスケスの尊厳への執着の為。


 しかし、今はそれを踏み躙っている。


 怒気が殺意を呼んで殺意が怒気を呼ぶ。


「……許、される?」



 しかしピスケスのその一言が、シアをどうしようもなく怒りに導いた。



「──貴方に、許される事と許されない事の分別が付くんですか?」

「な、にィ……?」

「確かに、私がやってる事は卑怯で正々堂々など言えない物です。でも、私は判った上でやっています」



 この場にはとてもそぐわない冷えた言葉。

 シアの表情と声色が変わっていく。


 ふと、怒りを知ったのだ。なぜこの男が怒る権利があるのかと。



「……どうしてですか」



 じり、とピスケスの怒りに滾った空気を押し返す。


 小さかった怒りが、様々な物を飲み込んで膨れ上がる。


 自分の無力感も、敵の非道も、見た悪夢も、少ないながらも一緒に過ごした日常も。



「自分が許せない事に怒れるのに……! 大切な物を持っているのに! どうしてそれを奪われた人間の心を想像出来ない!」



 なぜ、そんな事を出来るのか。あんなに言い人達で、何も悪い事なんかしていないのに。


 どうして、ようやく見つけた物を横から盗っていくのか。



 自分には勿体無かったけど、皆ちゃんと笑えていたのに。


 どうして、どうして、どうして。

 頭の半分が、もしかしたら怒りよりも大きかったその思いにきっと答えなどない。


 強いて言うならただ、都合が良かっただけ。


 だから許さない。

 人の気持ちも想像出来ない愚か者は許さない。

 大切な物を踏み躙られて、自分達だけ怒る事は許さない。

 あの人達を不幸にする事だけは、許されない。



「先に許されないことをしたのは貴方達だ──!」



 今自分はどんな顔をしているのだろうか。


 目の前の男は加速度的に怒りを増していて、しかし様々な感情が横から割り込んできていた。



「……私を許せないなら殺しなさい。貴方のその誇りとやらと一緒に」



 踏み潰す。


 ピスケスの尊厳など知らない。彼らの優しさを利用したように、私もそれを利用する。


 汚さは、そちらだけの特権ではない。



「ギッ──」



 耳に不快なその音は縦に割れるほど噛み締められた歯軋りの音。



「……っ!?」

「くっ、くは、ぃはははっははははははははははははははァ!!」



 荒れ狂う感情がどのように作用したのか。


 笑っているのか怒声を撒き散らしているのかすらも、あまりに濃い感情はもう他人には判断できない。


 ひとしきり声を出した後、空に投げ出していた視線がじろりとシアを睨めて、三日月形に歪んだ。



 剣に魔力が流れ込む。反射的に手を離した瞬間、次の一瞬で振られた剣はシアの脳天に向かう。


 そして、前髪を掠り斬った後、その刃は地面に叩きつけられた。



「ただで死ねると思うなよ、小娘」



 しかしその顔は人間の顔だった。


 すとん、と男の声の勢いが死んだ。



「五秒で視界から消えろ。背中を見ればはらわたを引き摺り出さない自信はない」



 手を離した瞬間、剣が思い切り振りぬかれる。


 血が垂れる右手を服に擦りつけながら、先程見つけた入り口に走る。



 濃縮され研ぎ澄まされ圧縮され、変質してしまったかのような殺意を背中に感じながら。





  ◆ ◆ ◆




 走る走る走る。


 崩れた壁を避け、時には乗り越えながら塔の上へ上へと。



 走りながら適当に止血した服が真っ赤に染まっている。


 手の感覚が痺れて無くなっている。本当に銃をまだ持てているか不安になりわざわざ視線をやってその黒光りを確かめる。



 早く早くと脳裏で自分が自分を急かす。


 今どれぐらいの時間が経ったのだろうか。六十秒はとうの昔に終わってしまったかのようにも感じるし、まだ十秒と経っていないようにも感じる。


 どちらにしても早く、足を進めなければならない。



 一直線に最上階を目指す。


 いくつもの部屋があった。しかしそれらには見向きもしない。


 その足取りに迷いはなく、しかしその進行方向に確信があるわけでもない。


 強いて言うならば拘束するなら最上階か地下だろうというぐらいしか考えていない。



 たらたらと一階を探していたらたちまちピスケスに追いつかれる。ならば、上を目指すしかない。


 しかしシアは、妙な確信を持って横倒れになった塔の壁を走り抜けていた。



 比較的無事な右手を銃に残し切創だらけの左手で肩を掴む。するとその確信が更に増した気がする。


 服で隠れているがそこには蒲公英たんぽぽの花の刺青が彫ってある。


 何しろ、あのレイが彫った刺青だ。きっと魔法がかかっているのだとシアは思う。


 例えば同じ印同士を引き合うとかそういった感じのまじないが。



 恐ろしいほど周りは静かだった。


 聞こえるのは自分の足が地面を蹴る音と、今までに聞いた事が無いほど擦れきった荒い呼吸音だけ。



 今日だけで、いやこの一時間だけでどれだけ走ったのか。


 もしかしたら、生まれてこの方走った分を軽く超えてしまっているかもしれない。



 しかし、それでもまだ足りていない。


 早く早く早く早く。


 その静寂が更に焦りを煽る。



 段々と足が重くなっている事に気付いた。


 ならばと代わりに手を振り回す。ぼたぼたと染み込みすぎた服から血が滴る。



 もう少しもう少し。



「──くはっ」



 かぱり、と目の前で何かが笑った。


 通り過ぎたそれを、目の端で捕らえて思わず振り返る。



 何もない。だが。



「くかかっ」

「ぎひっ」

「はははははは」



 声がする。


 一つとして狂っていない物がないような、そんな底冷えする笑い声。


 それは、背中から追ってきていた。あの男が迫っているのかは分からない。


 しかし、このままここにいるのがどうしても愚かな事に思えて、半ば強制的に足を動かした。



「──あ」



 走ることに、──いや逃げる事に夢中になっていたからか、目の前に近付いて初めて行き止まり。つまり頂上に辿り着いた事に気付いた。


 そして、横倒しになった扉が目に入る。



 ドアは歪んでこそいないが横倒しになっているために開けづらい。


 ノブを押しても引いても少しぐらつくだけで人が通れるだけの空間はない。



 ならばと、数歩扉から遠ざかる。そして間髪おかずに全身を扉に叩き付けた。


 これまでの抵抗が嘘のように扉が開く。



 部屋が横になっているのだ。天井だけがやたらに高く、地面は僅かに傾いて、部屋の横幅は人が住人も並べないほどの奇妙な部屋になってしまっている。




 その狂った構図の景色に慣れた後。



「あ……」



 その姿を見つけた。


 壁に鎖で手を繋がれ、その上塔が倒れたせいで吊り下がってしまっているが、それでも確かに。


 その少し癖が入った茶髪。見間違うはずもない。



「──ジェミニさん!」



 声がひどく掠れている。それでも大きな声だった。しかしジェミニは死んだように反応しない。


 もう一度名前を呼ぶ。それでもジェミニは動かない。



 まさか、と嫌な予感が背筋を冷やす。確かめなければと、一歩踏み出す。



 ──天井に切り裂かれたかのような亀裂が入ったのはその瞬間だった。


 細かく斬り崩された破片がシアとジェミニの間に降り注ぐ。


 その砂塵が晴れきれない中、悠然と立ち塞がったのは貴族然とした隷の指導者。



 反射的に懐から取り出して銃口を向けた。


 男も踏み込んでくることはせず、その場でただ目を細める。



 数秒後、乾いた銃声が鳴った。





  ◆ ◆ ◆




 目の前が真っ赤に染まる。


 その赤い視界の中でどこか冷静な自分が思う。



「くっ、はははは……ぁ」



 これは弊害だ。


 このままもし貴族として生きるのならば必ず直面するであろう。


 傲慢とすらいえる誇りを持ったまま、誇りも何もかなぐり捨てて向かってくる敵を撃滅しなければならない。


 空を仰ぐと、昼下がりの陽気と涼しい山風が頬を撫でた。思考と感情が一瞬だけ静けさを得る。



「どうして、だぁ……?」



 ──他は要らぬ。


 尊厳と殺意だけを切り抜いて、ただ。そう奴隷のように。



「くはっ」



 視野を狭めろ。


 そう命じると、いや命じられると思考に使う部分だけが冷えていく。



「かははは」



 あれは敵。非力だろうが小娘だろうが、こちらを害する手段を持つ。ならば既に油断も容赦も入用ではない。



「あ、ひゃはははははははっははあははははあははぁ!!」



 殺そう。殺そう。殺そう。


 心臓を一刺しに。頚脈を一太刀に。脳髄を一思いに。



 殺す。その為に。


 数える数は既に半分。


 しかし塔は吹き抜け型になっている。六十秒でかなり進める。その上崩れているので隠れる場所も多い。



 ならば。


 この塔を手中に置いた時に大方の構造は把握している。中に何があるのかもだ。


 つまり敵の目的の人物の居場所も頭に入っている。ならば、獣道をわざわざ追うよりもその到達点で待てばいい。



「──"拙い尊厳の元に、貴ぶも奴隷の如く"」



 痛みが消える。自意識が薄くなる。隷属する。


 懐にしまった紅い宝石が魔力を受けて煌々と光り輝く。



「──"奴隷王スパルタカス"」


 

 散りばめられていた魔力が解け、元に戻る。


 あまりの熱量に一筋の湯気を残して、急速に体中の傷が治癒されていく。



 その技はその魔法はその奇跡は。もう一欠けらの幸運も情も潜り込ませないように。


 己を、己の真情の奴隷にする呪い。



 剣を抜く。


 呼吸するように魔力が流れ込み、ピスケスにしか感じ取れない剣の気配が頭を垂れる。



 鼻息荒く、黒い駿馬がどこからともなく顕れる。


 奴隷の一人が、恭しく手に持ったそれを捧げた。それは身の丈をゆうに越えるハルバード。


 楊枝でも持つようにピスケスはそれを持ち上げると、無表情で虚空に一閃する。


 右手に細剣。左手に戦斧。


 あまりに均整が取れないその格好で、頭を垂れた馬に乗り込むとその身に薄らと武具が浮かび上がる。


 鎧と言うには頼りない。外套と言うには黴臭い。


 今までのピスケスとあまりに遠いその姿は、しかし今まで以上に畏怖を振りまく。


 怒気も殺意もない交ぜに飲み込まれ、ただ一つ。敵の撃滅だけに視野が絞られていく。



 憑き物が取れたかのような面持ちを上げる。余計なものを全て切除したその佇まいはまるで聖人のよう。



 六十秒はとうに過ぎていた。


 気兼ねなく迷いすらなく名残惜しむこともありえず、ピスケス馬を繰り地面を蹴った。



 その巨大な馬が走る姿は力強く、まるで宙を駆けているようだ。


 一跳び、二跳び、三跳び目で三十メートル以上ある塔の先端まで辿り着く。


 ほぼ同時に手に持つ剣が分厚い壁を切り崩した。


 そこを潜ると、黴臭い部屋に出た。


 そう広くはなく、家具の類は一切ない。



 ただ十メートルほど先に、粗末に片手だけを鎖に繋がれた茶髪の男がいた。塔が倒れたせいか鎖に吊られてぶら下がっている。


 何か薬で眠らされているのか、荒々しく侵入したというのに全く反応が無い。



 そして、反対側にも人の気配。


 驚いた女の顔。ほぼ同時に手に持っていた銃口がこちらを向く。そしてピスケスが更に集中力を増して身構えたのもまた同時。


 場が膠着する。


 正直、あの銃弾を避けるのは今のピスケスに難しい事ではなかった。



 速いと言えども動きは直線的。影響範囲も狭い。あの速さを見切るのは難しいが、放たれるその一瞬を見切ることは出来る。


 加えて女の手は失血と怪我から酷く震えている。



 女もその事が分かっているのか、銃を構えたまま動かない。


 対してピスケスも微動だにしない。それどころかその無機質な表情を変えもしない。



「────」

「────っ」



 時間が流れる。


 体感にして無限。実質数秒。


 絶えられなくなったのか女の腕が一際大きく痙攣する。



 そしてそれに気を取られた女の"足"がかくんと折れて、地面に膝を突いた。



 あまりに致命的な隙。


 これまでの幸運のしっぺ返しか、呆然とするシアにピスケスが猛然と迫る。



 一瞬で銃口がピスケスに返ってくる。


 しかし焦りに冒されたその気配は、よりその瞬間を浮き彫りにする。



 乾いた音。


 集中からか心なしか遅く見えるとしてもその速さは亜音速。とても確実に見切れる物ではない。



 しかし放たれた銃弾はピスケスの服にさえ触れる事は無く、背後に消えた。



 一瞬の沈黙の後、ピスケスの腕が振られた。


 その手に握られたのは、見慣れない戦斧。それは少し大きいだけで十メートル以上離れたシアには届かない。



 しかし何か仕掛けがあるのか、魔力が溢れて破壊を促したのか、それともただ腕力ゆえか。


 壁が、そして地面が。その斧の軌道に習うように放射状に吹き飛ばされた。


 

 今まで歯を食いしばって耐えていたシアの意識が容易く黒に染まった。




 ◆ ◆ ◆




 肺が、喉が。今まで聞いた事もない音を鳴らす。


 今空気を吸いすぎているのか吐き過ぎているのか。



 苦しみに喘ぎ天井を仰ぐと、部屋が半壊したせいで空が見えた。


 最後の銃弾を吐き出した銃が、手と一緒にごとりと地面に落ちる。



 もう指一本たりとも動かない。


 銃弾は、貴族たらんとした敵の男の脇をすり抜けて行った。


 当たらなかった事を確認し、そして男の視線が座り込んだシアを捕まえる。


 崩れた地面を蹄が叩いた音がした。


 男は焦る事もなく馬を操り、ゆっくりと接近しその喉に抜いていた剣の先を突きつけた。



「いち」



 そのままの姿勢で男は悠然と数え始める。


 ここまで来て律儀な事だ。



 強い。


 一度。たった一度正面から事を構えただけで戦いは終わった。


 いや、戦いではなかったのか。振り返れば短い時間の中で走り回っていた記憶しかない。


 逃げて、殺されかけて、また逃げて。そしてこれで三回目。シアの命はあと六十秒。


 生き残ろうとするなら、今すぐにでも。自分の命を顧みないなら残り一秒と半分まで。



 右手は疲れからか既に動かない。

 左手はあまり目に入れたくないほどの血が覆っている。

 左足。血に塗れている。

 右足。上三つでほぼ同上。



 よほど酸素を送る事を怠っていたのか、心臓はしきりに鼓動を繰り返す。


 しかし、不思議と息はそう荒々しくはなくなっていた。


 ピスケスの声が残り三十秒を告げる。


 ハルユキは一体何秒でこちらに駆けつけてくれるのか。


 三十秒だろうか。十秒だろうか。それとも一秒もかからないのか。


 もしかしたら、自分はもう生き残る最後の選択肢を見逃してしまったのか。



 分からない。

 分からないが、それでも出来れば彼を呼びたくはない。


 彼が助けるのは、自分ではない。


 もし自分の声に気を取られて、誰かを助ける機会を失ったらと考えると、とても。



「最後に、幸運に見放されたな」



 ふと、男がそう言った。


 この部屋に来た時はまるで何かの機械でも相手にしているのかという印象を受けたが、今は普通の人間のそれに戻っている。


 なるほど。機械にも獣にも人間にもなれるのか。それは強いはずだ。



「そんな不確定なものに頼るからそうなる。最初から決まっていた結果だ」



 その言葉を最後に、またピスケスから人間臭さが消える。


 『残り十秒』と、無機質な声が告げる。



 もう足も動かず手も上がらない。だから背中を壁に預けた。

 

 今更、目の前の男が自分が言った事を曲げることは無いだろう。


 もうこれを使う事はない。そう思うと、手の中から斜めに傾いた地面の向こうに銃が滑り落ちた。



 作戦、などという大した物ではなかった。


 賭けだ。

 賭けの連続。少しでも確率の高いほうに、オールベット。

 それを、何度も何度も。


 よく、ここまで来れたものだ。



 残り三秒。



 思いを決める。



 残り二秒。



 肺が最後に思い切り息を吸い込んだ。



 そして。



 ──残り一秒と半分。



 最後の分推量。口を開く。



「私、頑張ったよ。ジェミニさん」



 驚いた顔が二つ。

 シアが打ち込んだ"気付け薬"で意識を取り戻したジェミニと、その気配を感じ取ったピスケス。


 ジェミニはまずシアが声を出した事に驚いているのかもしれない。



「……そやね。さすがワイが見込んだ娘ぉや」



 ピスケスの言葉に間違いが一つ。

 幸運に信頼などおいた覚えは無い。信じるものはもう別に決めている。




 ◆ ◆ ◆




 そこからのジェミニとピスケスの戦いは、一瞬だった。


 とは言ってもどちらかの力が一方的だったからではなく、どちらも乾坤一擲の一撃を繰り返したからである。


 最初に仕掛けたのはジェミニ後ろからその背中に蹴りかかろうと飛び込んだ。


 しかし、騎馬の兵は全方位に死角がない。



 意志が重なっているかのように、馬が嘶き後ろ蹴りを繰り出した。


 その筋肉は自然界随一。それもかつてないほどの名馬。さらにピスケスの魔力で底上げされている。


 風を切り、ジェミニの髪の先を打ちぬく。


 避けたその首を迎えるように戦斧が迫る。


 ピスケスの右腕に走ったのは人一人を撃った感触。しかし、同時にジェミニの姿は掻き消える。



 一瞬。


 ピスケスが状況を把握するのに要した時間だ。



 次の一瞬には外套越しに左手の細剣を、振り切った戦斧の先に。その上に乗っているジェミニの額に。


 後ろから首を刈り取らんばかりに迫っていたジェミニは、外套からいきなり突き出てきた剣に目を見開き、動きが一瞬遅れる。



 避けるのは不可能。そして額に吸い込まれる。


 その直前。たまたま近くにあった右手の人差し指をその切っ先に宛がった。



 今度目を見開いたのはピスケスの方。


 指と切っ先が拮抗していた。



 斬撃とは、詰まる所打点が極限まで小さい打撃である。


 ここでそれが可能だったのは、指先と言う力を集めやすい場所だった事と、後ろ手の刺突では力が足りなかった事による。



 それでも切っ先はそこで止まり、剣に添うように一回転したジェミニの蹴りがピスケスの体を吹き飛ばした。


 馬上から吹き飛ばされ、そのまま半壊した塔の外へ吹き飛んでいく。



 からん、と戦斧が地面に落ちる。



「シアちゃん。大丈夫?」



 そして、ジェミニはそう言った。それに小さくシアは頷く。



 吹き飛んだあの男にシアは目をやった。


 馬はまだ健在。あれが魔力で編まれた物ならまだ男は動ける状態のはずで、何よりハルバードがまだ転がっている。


 男はあの蹴りを防御したのだ。あの一瞬に斧を離して。


 ジェミニがシアに手を触れると、傷口から瞬く間に出血が止まった。


 少しばかりくすぐったい待遇に目のやり場をなくしながら、おずおずとシアは頭を下げる。



「声出るようになったんやねー」

「お、お陰さまで」



 さて、と傷だらけのシアを見てジェミニの目が殊更に細まった。ピスケスとはまた違う殺意が立ち昇る気がした。



「ジェミニさん。先にレイさんとフェンさんを助けに行きましょう。彼はもう大丈夫だと思います」

「……そうね。そうしよか」



 飛んでいった穴から見やるが、何を思うのか大の字で転がってピスケスは静止している。


 重苦しい空気を簡単に身に仕舞うと、ジェミニはいつも通りの笑みを浮かべた。



「さて、おぶるで。おぶってまうよー」



 おどけてみせるジェミニに笑ってしまう。


 そして、達成感からか安心感からか少しだけ涙腺が弱くなった。


 一筋だけ、水滴が頬を伝う。



「……ごめんなぁ。危ない目にあわせて」

「も、もう一回やれって言われても無理、です。だから、もういなくならないで、下さい」

「そやね、ごめん」



 危うく零れそうになるものを抑えて、シアはジェミニの背中に乗った。


 結局ジェミニの背中にしがみついて、声を殺してボロボロと泣いた。


 そう言えばタメ口で話してくれたやろ、だとか。レイちゃんに自慢せなな、だとか。

 

 いつも通りの軽口を聞きながら。




 ◆




 ピスケスは大の字で空を眺めていた。


 嫌にいい天気である。敵が少数であるせいか煙が空を覆っている訳でもなく。


 何となく体を動かすのを躊躇っていた。



 いや、当然体の傷は酷い。


 無理矢理塞いだ体中の傷は絶えず激痛を送ってくるし、どうも先程防御した右腕がへし折れている。



 あの男は強い。勝てないとは言わないが、まず無傷で勝つのは不可能だろう。


 そんな状態では人質がいるとは言えあの化物とは渡り合えない。それに何よりあの小娘に魔力を削られすぎた。


 ぶるる、と鼻を鳴らして馬が近寄ってきた。


 ご苦労と呟くと、その馬も外套もそして恐らく残してきた戦斧も消えた。



「負けか……」



 百回やれば九十八回は自分の勝ちだっただろうが、どうも今日は巡りが悪いらしい。


 ならば、今日はもう止めだ。


 あの鬼と、こちらの残りの手勢。どちらが勝つか眺めて、隙があれば横から攫おうと決めた。



 首だけ上げて吹き飛んできた場所を覗く。ここから探った限りではもうそこに人の気配はない。


 行ってしまったらしい。

 後頭部を柔らかい芝生に預ける。


 未だ女は許せない。


 だが、それはあちらも同じのようで、そして負けてしまった。


 それもあんな馬鹿な女に。

 幸運を信じて、敵を信じて、そして最後に味方を信じて。


 最後の最後まで自分の力に頼ろうとしない。それどころか自分の身すら省みようとしない。


 愚かである。惰弱である。許しがたいほど脆弱である。


 しかし、負けた。



 何が足らなかったのか、自分には見えない。足らなかったとも思えない。


 しかしだからと言って、国とそして名前を諦める訳にもいかない。



「……少し、視野でも広げてみるか」



 ポツリと呟いて、ピスケスは午後の日差しに身を任せた。



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