決勝
迫ってきた拳を避けそのまま腕を取り、引きながら足を駆る。
避けた拳が風を巻き起こし、引っ掛けただけの足がジワリと鈍痛を覚える。が、それだけ。
宙に浮いた相手の体を握った腕を引っ張って一回転させ、背中から地面に落ち始める相手の体に掌底を叩きつける。
かなりの勢いで地面に叩きつけられるが、地面がほぼ砂利に変わっているので大したダメージにもならないだろう。
その証拠に手と足を最大限に使ってカモシカのように跳ね上がりながら、相手は体勢を立て直した。
「……まだやるのか?」
言葉は無い。ただ嗤い、ただ例の白い魔力を体中から噴出させる。肌に痛いほどのそれはしかし、ハルユキの眠たげな目を開かせもしない。
そんな事には構いもせずにラストは馬鹿正直に突っ込んでくる。
ストーカーだ。こいつは。とハルユキは密かに溜息を付く。自意識過剰の様で自分で言うのは嫌だったが、間違いない。こいつはストーカーだった。
迫ってきた拳を避けると、勢い余ったラストの体がハルユキを通り過ぎた。その青痣ができた顔はそれでも楽しげに歪められている。
「楽しそうだなぁ、お前」
「お前のお陰だ」
最初こいつの顔を見た時は、ユキネの姿が思い起こされてここまで付いて気もしたが、何発かどついた今ではそんな気ももう薄れていた。
ユキネはそんな事口にもしなかったし、恐らく言わなければ思い出さないほど些事なのだ。それを何時までも自分だけ怒っているのも何だか馬鹿らしい。
それに、余りにこいつには邪気が無いのもその一因。殺意は有るのに、敵意は健在なのに、その直向さには狂気すら感じるのに、驚くほど邪気が無い。
戦場を背にした時はあれ程禍々しく感じた雰囲気を今は感じない。
それが一体ハルユキトラストのどちらが変化したのかまでは判らないが。どちらにしても、毒気を抜かれてしまった。
振り向き様にラストの左拳が三度唸る。
それを右手で流し、体をラストの左側に移動させながら右手をそのまま肘先に、左手を手首に移動させ、テコの原理で一瞬ラストの腕を逆関節に極め、本来曲がらない方向に九十度折り曲げる。
一瞬動きを止めるラストに向かって一歩踏み出し、ラストの肘先に宛がっていた右腕をそのまま折り曲げ、肘鉄をラストの脇の下に叩きつけた。
ラストの体が浮き、数メートル飛ばされて地面に叩きつけられる。ある程度手は抜いたが、人体急所の一つだ。ダメージはあるはずだ。
人体急所のひとつ。当たれば呼吸困難に陥りほぼ間違いなく気を失うはず。
しかしそれでもラストは一度地面に激突して体勢を立て直すと、グロテスクに仕上がった左腕を力尽くで元に戻し、二三度曲げてみせ、また笑う。
その化物具合にも慣れてしまって、ハルユキは顔を顰めて溜息をつくだけ。
また、身体能力が上がっている。
それも今迄で一番顕著にだ。慣れていなければ少し日常生活に支障を来たすレベルだ。そういう意味ではラストの構ってちゃんも都合は良かったのかもしれない。
成程。ラストは強い。
恐らくまともに戦えばフェンよりもレイよりもジェミニよりもノインよりも強いだろう。
才能だとか、そういった問題ではない。こいつは異質だ。魔法の如何はよく判らないが、これは魔法ではないのではないかとも思う。
ただ視認できるほどの魔力を吹き曝し、本来なら枯渇するだけで何の意味も無いはずの行為が戦闘力に繋がっている事がラストをこの戦い方に定着させたのだろう。
目に留まらないほど速く、それで古龍を殺せるほどの力があれば、確かにこの戦い方で問題は無い。
「……」
しかし同等以上の身体能力があれば、それはただのテレフォンパンチの連続でしかない。
「……何で、負けたかなあ」
こうして見れば、ますます負ける要素はない。これにあの金髪の男が加わったとしても、負ける気はしない。
今はそれこそ昔の自分にすら勝てそうなほど強くなっているのに、それでも勝てなかった──、否。殺せなかった。
「あー…、悔しいな、畜生め」
殺していれば良かった。殺す機会など山ほどあった。しかし殺さなかった。
二度と負けないというのならば、敵を全て殲滅していけば間違いはない。事実、自分はそれに似た事を決行した事がある。
しかし、そこであの馬鹿娘だ。殺すななどと。どうしろというのか。
正直に白状すれば、殺す事にそこまでの後悔も抵抗も無い。ただ実感と感触が手の中に残るだけ。だから、殺す事で殺した自分がどうにかなるなどユキネの言葉は勘違いでしかない。
自分は優しい人間ではない。あくまで利己的な人間だと思っている。
もし、ユキネがハルユキを優しい人間だと言うのならば、きっとそれは、ユキネの前で優しい振りをしているだけだ。
殺せば楽だ。効率的だ。まあ、楽だから殺すというのに少し疑問はあるが。些細な物だ。
──思えば、余りに気を抜き過ぎていたのだろう。
気付けば、ラストの拳が目の前まで迫っていた。どごん、と中々大げさな音が頬から鳴って、ハルユキの体が否応なく吹き飛んでいく。
また追い討ちでもかけようとしていたのか、ラストの足音か破砕音か判らない音が聞こえ、しかし、何を思ったか直ぐに止まった。
「……いって」
来ないのならと、頬に鈍痛を感じながらごろんと仰向けに寝っ転がった。
「……何で負けたかだあ?」
「ん?」
そして、何を思ったか人間の真似事を始めた。その顔には確かに知性がある。考えてみれば当たり前だが、どこか驚きを隠せない自分がいた。
「半端だからさ。戦争だったんだろ? なら殺すか殺されるかだろうに」
「……そうだな。そうに決まってる」
しかし、今ここにはそんな決まりきった問答はやはり不毛に感じた。
そんな事を今更考えるのも、自分が誰に負けようと勝てようと。余りに意味がない。
力ももう要らない。才能も日常も余りに意味がない。ただ明日一度だけ勝利があればそれでいい。
不毛だ。ここでわざわざラストに付き合うのも。今後どうしていくかも。何もかもが。
ただ、明日が悪くない日であれば、それだけで良いというのに。
「なら、」
──それなのに。
「しょうがないから、俺はもう二度と人を殺さない」
余りに無意味に。そんな誓いを、胸に立てる。
「なら俺は、お前が生かした尽くを殺し尽くそう」
しょうがないからな、とラストが嗤う。いや、馬鹿な誓いに笑い合う。
同時に、いやラストが笑うたびに何かが悲鳴を上げるような音を幻覚する。
愉快。喜悦。悦楽。歓喜。そう言った同じような感情が入り混じり、気色が悪い程に実直に感情を吹き出す。
自分の欲望に染まった笑みは、確かに無垢で邪気など感じないが、それだけに直向で残酷で薄ら寒い何かを感じさせた。
「ラスト」
名前を呼んだだけのその言葉に、空気が一度に張り詰める。
ハルユキの体にその腕の半ばに、人ならざる異形の角が余りに自然に姿を現す。先程までとは違い全力で握りこまれたハルユキの拳を、避ける術も防ぐ術も今の所ラストには無い。
狂気を孕む。殺意を噛み砕いて養分に変える。
対してラストは、この幕劇の最後を悟ったのか。不適に笑って、一時の負けと拳を受け止めるべく諸手を広げた。
◆
「それじゃ、行って来る」
町から出てしばらくした所の巨大な鉄の鳥のようなカラクリの前で、ハルユキはノインに挨拶を交わした。
朝早くから万売りが告げた場所はオウズガルから相当離れた国の名前。
しかし、地図で位置を確認するとハルユキは三時間ほどで到達できると言っている。恐らくこの鉄の鳥がそれを可能にする物なのだろう。
それをユキネはノインの横から見上げていた。
ハルユキがどこからともなく取り出した鉄の鳥は、とても即席とは思えないほど巨大で、神経質なほど均整が取れたその形には芸術性すら覚える。
「ユキネ」
その鉄の鳥に目を奪われている時、隣から聞こえた自分の名前を呼ぶ声に顔を向ける。
そこにはいつも通り燐としたノインの顔があって、無言で結局付いていくのか行かないのかと問うている。
「わた……」
「ユキネさん」
既に迷いは無い。目的も役割も鮮明に胸にある。少しだけ冷たい感触と共にだが。
だから言葉に勢いを乗せて、──いや乗せすぎていたせいか、後ろから聞こえた耳障りの良いシアの声に、無様に肩を跳ねさせた。
海の色を思わせる深い青の色の髪。青い髪と言うのは珍しいが、奇異の視線より先ずはそのしなやかさに目を奪われる事が多いだろう。
そして、何故かその髪に隠れるように背負われた小さなリュックを見つけた。
「……シア?」
すっとユキネの横に並んで、少し躊躇った後、シアはおずおずとユキネの手を握った。
「行きましょう」
「え……?」
驚きに目を見張ったのは、視界の端にいたノインもだ。
小さな手がユキネの手を捕まえ、引かれる手を信じ難いものを見るようにユキネは見つめて、続いてシアの顔を見る。
その横顔はともすれば私よりも何かを定めていて、その視線は強くぶれる事は無いかのように思えた。
「ちょ、シア……!」
大した力ではないにも拘らず、ユキネの足がシアの手に引かれてよたつく様にシアに続いたのは、その目に只ならぬ何かを感じたからだ。
「駄目」
しかし、そのまま鉄の鳥に続く階段にシアが足を掛けようとしたところで、すっと目の前に影が立ちふさがった。
「言ってはなんだけど、貴女じゃ何の役にも立てない」
「私が邪魔になるのは承知しています。でも、すみません。今回は迷惑をかけます」
強く、棘さえも感じるほどしたたかな言葉だった。
その言葉にすっとノインの目が細められる。シアの本意を、考えを、覚悟を見定めようというのだろう。その視線は悪意こそ感じないが、無言で相手を威圧するには十分だった。
「数少ない友人として言うわ。行くのは止めておきなさい」
「聞けません」
シアは引こうとしない。しかしノインも道を譲らない。ピリピリとした空気の中、シアは視線も逸らそうとしなかった。
それは心が強いからなのか。──否。握られた手が小さく震えている。
そんな物をおくびにも出さないその表情はどこか危うい物も感じるし、同時にとても実直さも感じてしまう。
「今私にある選択肢は、死地で死ぬか。生きて帰ってくるかです。待つという選択肢も、ここで何か出来る事をやるという選択肢もありません」
「捕まったらどうするの? 人質になったらどうするの? それで、誰かが死んだらどうするの?」
ノインは怒らない。ただ只管に理路整然とした口調で言葉で相手を説き伏せる。戦闘にしろ会話にしろ、感情を出す事がないのだ。
感情で攻め落とす事はできない。温度差に愕然とするだけだ。
だからシアはにこりと笑って、手の震えさえも止めて、告げた。
「どうしても捕まりそうな時は、舌を噛んで死にます」
"出来る訳がない、口だけだ"と。
そう言ってしまえば、シアにそれ以上の反論は無いのかもしれない。しかしノインはその一言を言わない。いや、シアの空気がそれを許さなかった。
言ってしまえば、それを証明しようとしても不思議ではなかった。それこそ、舌を半分噛み切ってでも。
「皆さんに拾って貰った命を、皆さんの為に使えるのならば、私は」
手に胸を当ててそう謳うシアの表情はにこやかな形を保ってはいるものの、とてつもない強情さも同居している。
ひくり、とノインの表情が苦笑に似た形に引き攣った。
「……怖い女」
「はい。ありがとうございます」
「褒めてないわよ」
すっとノインの呆れた目がユキネの方に移動して、その目を覗き込んで溜息を付いた。
「私もだ。私は、責任がある」
「……責任?」
「ああ」
「……そう、行ってらっしゃい」
これじゃ私が悪者じゃない、と小さく呟いてノインは鉄の鳥を見上げた。
「まあ、舌噛み切る事態にならないぐらいにはフォローはする。それにお前あれだ。シアには昨日の晩必殺技伝授したしな」
「はい!」
「必殺技ぁ……?」
鉄の鳥の入り口から顔だけ出したハルユキがそう言うと、最後にシアはノインに力強く握りこぶしを作ってみせる。
それから、ユキネとシアも恐る恐るといった風に階段を上って中に消えた。
「……」
果たして、大丈夫なのか。
信頼はしているが、そもそも緊張感が抜けている連中だとノインは思っている。
自分がやる分ならば全く不安は無く、また手伝えるだけでも大分不安は減るはずだが、自分の背中には町が広がっている。
「ノイン」
最後にひょこっとハルユキが顔を出す。
「まあ、なんだ。なんか美味い物でも用意しといてくれ」
「銀貨10枚になるわね」
「自腹かよ」
しっしと手で追い払う仕草をするノインに、ハルユキは笑って船内に消えた。
その背中が消えて直ぐに、大げさな音を立ててその入り口が閉まっていく。完全に閉まりきる前、ノインの足が動こうとして、その直前に扉はぴたりと閉じた。
◆
「さて、ちゃんとシートベルトはしろよ」
「シートベルト?」
「その腰のベルトだ。その連結部分に、そう、それを、そう」
二人の席を確認して、ハルユキは運転席に腰を下ろす。
最後に離れるように指示したノインが、十分に離れているのを確認してエンジンを入れる。
「シア、本当にいいんだな」
離陸してしまえば、もう引き返すつもりは無い。最終通告のつもりで言ったつもりだったが、シアは小さく笑って首を振る。
「優しすぎますよ、ハルユキさんは。悪い意味で」
「優しい振りするのが上手いだけだ、年寄りは」
「優しい振りが出来るのは、とびきり優しい人だけですよ」
「……あっそ」
溜息とも取れない中途半端な仕草でそう零しながら、ハルユキはまっすぐ広がる地面に視線を戻す。
「一応掴まっとけよ。偉大な一歩まで一時間だ」
ハルユキは運転席。ユキネがその横。シアがハルユキの後ろ。
もぞりと壁を隔てた客席で、少女が一人身を起こした事には誰も気付かない。