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ハイイロ ノ カナタ  作者: mild
第一部
153/281

落色


 ぎりぎりぎりと空気が捻れている様な音を錯覚する。


 ラストの視線の先にはその原因となっている一人の男。



「──なあ」



 人は怒れば叫び散らす。

 臨界点を越えれば逆に押し黙るという。


 ならば先程まで臨界点を越えていたであろうこの男がまた言葉を発するのは、内包した怒りがどう変化したからなのか。



「そんなに、俺を怒らせたいのか?」

「ああ、俺はお前を怒らせて、あわよくば憎んでもらえればと思ってる」

「──そうか、なら、いい」



 町の中で、今年の闘技大会で決勝に進んだ男はまるで鬼の子供のようだ、と誰かが言っていた。


 なるほど、確かにそれは言いえて妙だ。しかし、その人間が今のこの男を見ていたとはとても思えない。ならば、その渾名を付けた人間は何かを見抜くという点で優れた才を持っていたのかもしれない。



──"ただ殺して啜る"



 男の口から零れた言葉が呪詛のように重くラストの鼓膜を揺らす。


 今の男の姿こそ、鬼と言うに相応しい。


 何しろ、男の存在感は人間のそれを明らかに逸脱し、額が罅割れ、そこから"明らかな角が覗いている"。



 ああ、しかし。これを自分は待っていたのだ。


 鬼。これが、この姿こそがこの男の本質。そして全力なのだ。この姿のこの男の全力と、この一本角の灰色の鬼と対等に拳を交わせれば、自分の胸にどれほどの感動が去来するのか。



 拳を握る。震えは無い。自分も渡り合えると確信し、顔を上げ──。






"──糧となれ。壁となれ。何方も押し靡べて塵となれ"





 ばきん、と。


 響いた音に思考が飛んだ。




「…………は?」




 不規則に曲りくねった角がもう一本。太腿から顔を出している。それは先の一本と同じように、力であり、狂気であり、そしてまた剣のようでもあり。



「は、は……」



 乾いた笑いが、ラストの口から漏れる。


 しかし、心も魂も今までに無いほど潤い、そして唇は綺麗な三日月形を作り、目は爛々と光っている。


 だがしかし、幸福感は吹き飛び、代わりに絶望に似た恐怖が残された。



 全力だと、底だと思っていたそこから、更に何段階か。


 一本角が生えた瞬間、その存在感は圧力は狂気は、桁を一つ上げた。



 それでもまだ。


 その瞳の中には理性が残っている。それが何より歪に見えた。



「──まだ……! 何かあんのかお前はよォッ!!!」



 それは間違いなく歓喜の声。


 そして、その声を潮にラストが動いた。

 


 低く低く、体を地面に擦らせるほどの低姿勢で、ハルユキの懐に潜り込むまでほんの刹那。







 その刹那の間に、すっと白い何かが入り込んだ。


 それはそっと男の頬に触れる。その寸前、男が警戒するように後ろに跳んだ。



 ふらふらと布のように揺れるそれは、腕の形をしていた。

 成人した人間のような骨ばった腕ではなく、赤子の手のような柔らかで触り心地が良さそうな純白の腕。


 何かを感じたわけではない。ただ何かに導かれるようにラストとハルユキ。二人の視線が上を向いた。



 一面の白。


 遠目から見れば苔の様な、近くから見れば天井に生えた草原にも見える。その腕がそれら植物と違うのは、透けるような白さを持っている事と、風に靡く事無く一点を向いている事。


 そして向かう先は、黒髪の男。


 殺到する。


 それはきっと霊魂や幻に近い存在なのだろう。その数は勢いはこの世の物理法則に縛られていないのか、勢い余って地面に当たろうが一切地面に影響を与える事は無い。

 

 ハルユキは表情を変えることも無く、津波のように押し寄せるそれらを一瞥し、体から力を抜いた。



 その手に意思は無く、ハルユキのその行為に疑問すら感じることは無く、ハルユキに覆いかぶさる。ハルユキの姿は瞬く間に白い腕に覆い隠され、それでも矢のように腕の群れはハルユキに突き刺さっていく。




──そして、爆ぜた。


 何のことは無い。白い手が持ち上げようとしてしまっただけ。

 それは物理的に干渉するという事であり、今のハルユキにそれを悪意を持って行えば、それは即ち自殺行為だ。



「──行くぞ、化け物ォ!!!」



 ばらばらに砕けて宙を舞う腕の破片に紛れるように、ラストが拳を振り上げる。


 神速。その名を冠するに何の遜色も無いその速さ。しかし、ハルユキには何処までも愚鈍な拳。



「──"星母神の箱庭(バビロン)"」



 しかし、そこで僅かに世界が変わる。発せられた声は背中から。



 声を発したオフィウクスを中心に作られたのは、重力が入り乱れる無法の世界。


 重力特異点とも呼ばれるその場所は、光も時間の流れもさえも容易く意のままに歪ませる。



 結果。


 ラストの拳は鈍まなまま、しかし確実にハルユキの体に吸い込まれる。



 その拳の重さに自然ハルユキは目を見開く。

 見れば、その右拳以外にラストには魔力が通っていない。つまり、あれ程の頑強さを捨て、全て拳の先だけに魔力を集中させたのか。


 つまりは、決死の一撃だった。


 ダメージがある訳ではない。むしろラストの拳が拉げ、魔力を伝わせていなかった肩から奥の肉が弾け飛んでいる。



 それを当てさせるために、オフィウクスが動いた。


 それは連携か、──いや。



「──旭光レゴール



 重力も時間も入り乱れる空間の中、オフィウクスが極光の槍を放つ。


 星色に輝く、隕鉄の槍。


 岩盤から削りだしたような荒削りな形で、大きさは手に掴める程度。しかし魔法の技術を研鑽する人間が見れば卒倒しそうなほどの魔力を内包している。



 振るえば町の一角を灰燼と化し、突けば神の喉さえ貫ける。


 

 それが、無防備なハルユキの背中に突き刺さる。



 ラストから攻撃を受けた直後だというのに何処から抵抗する力を持ってきているのか、背中に槍が突き立った途端右腕が肩から消失したのではないかと言うほどの衝撃がオフィウクスを襲う。


 しかし、構わずオフィウクスは槍を突き出し、そしてハルユキの体が宙に浮く。



 ──そして。



「……貴殿は」



 空中に押し出されたハルユキは、五十センチほど"吹き飛ばされた"後、ふわりと地面に降りた。オフィウクスの全力は見事、ハルユキの意思を無視して五十センチ押し遣る事に成功した。



「──本当に嫌になる程、糞ったれだ。鬼の仔殿」

「心配するな。お前もだ」




 ごきり、と己の健在を示すようにハルユキが首を鳴らし、同時に。


 何かが割れるような音と共に、三本目の角が顔を出した。





 ◆





 腕は出来た。足は出来た。頭は出来た。脚は出来た。手は出来た。胸は出来た。背中は出来た。頭は出来た。目は出来た。鼻は出来た。耳は出来た。

 そして心臓もある。


 その瞬間、人知れずそれは生命として完成した。


 意思もあり、心臓もあり、魂もある。


 間違いなくそれは生命であり、しかしこの地上にこの生き物を指す名前はない。


 

 地上で無い場所から探すとするならば、神か、悪魔か。



 成る程。その高潔な魂は神のそれに近いだろう。

 成る程。その穢れた体は悪魔のそれに違いないだろう。




 しかし、神は完全に完全で有らねばならなく、悪魔は完全に不完全で有らねばならない、


 だとするならば、どちらも含むそれは神にも悪魔に近いだけで、そのどちらかに定義することは難しい。


 悪魔と神の間。

 しかし、そう定義するのに相応しい生き物に、人間がいる。


 ──しかし、人間だけではありえない。

 この何かが、人間である事だけはありえない。


 

 龍よりも鬼よりも狼よりも、火よりも水よりも風よりも土よりも、蛞蝓よりも蜥蜴よりも蛙よりも蛇よりも蛭よりも蛆よりも、埃よりも塵よりも。


 人間と言い表す方が、相応しくない。





 ドクン、と大きく鼓動する。



 生誕の時は近く、終焉の時は直ぐそこに。

 




   ◆ ◆ ◆




 五十センチ。

 それが、怪物だ傑物だと畏れられたオフィウクスの全力の末路だった。


 それも、一度ハルユキの体に攻撃する事に成功してから、一切攻撃に成功していない。いや、攻撃に移ろうとさえしていなかった。


 

 今も正に常人では立ち入っただけでその磁場により何らかの影響をもたらすであろう重力特異点を展開し、ハルユキに負荷を、そして自分に加護を与えている。

 それは常人でも飛竜と渡り合えるほどの物だ。


 その事実は今まで畏怖の対象ですらあったが、今は自分に己の卑小さを突き付ける矛となっていた。



 事実、飛竜と常人の力の差を覆すその場所で、それでも防戦が続いている。



 今までの経験を。研鑽を。才能を。

 全てつぎ込んで、そして漸く命を今まで繋ぎとめる事に成功している。



 そう、成功しているのだ。どうか、賞賛を送って欲しい。


 

 二対一で、限界を超える能力を使って、地の利を使って、時には敵の仲間に攻撃を放って。


 ──"たったそれだけの事で"。

 この鬼の前で息をしていられるのだから。



 振られた拳の延長線上にいるだけで肉は弾ける。

 一歩で千里を越える神脚が踏まれた傍にいれば地割れに飲み込まれる。



 

 視界の中から鬼が消えるたびに、死の予感が全身を舐め上げ、全身の感覚が生存本能から跳ね上がる。



 ──後ろ。 


 受け止める。──馬鹿げている。触れた瞬間肉塊だ。


 なら、避けろ。しかし、足に力を貯めている時間は無い。


 ならば、魔力を巡らせろ。我は魔王。魔力は伝達神経よりも速く自分の意思を伝えてくれる。


 重力が真横に作用する。



 ずれた時間が、歪んだ力の場がオフィウクスの体を痛めつけながら、無理矢理引き摺った。



 その僅か数センチ横を、拳が通過していく。

 とてももうそれは拳には見えない。触れれば弾ける。近付けば引き裂かれる。事実オフィウクスの体は切り刻まれ、吹き飛ぶスピードが加速する。


 

 突風に晒されたかのように十メートルほど吹き飛び、地面に一度体を打ち付けた後で、素早く体勢を整え顔を上げる。

 当然、先程居た場所に鬼の姿は既に無い。



 ──左。


 直感か、はちきれんばかりの緊張感が何かを掴んだのか、視線をやった先で轟音。


 一瞬遅れて、またしても突風が吹き荒れる。



 そこに居たのは白髪と黒髪の何ともコントラストが利いた、二匹の化物。



 あれ程膨大だった魔力を足の先一点に集中させ、ハルユキの腹部を打ち据えていた。


 しかし苦痛に顔を歪ませるのは、その体を血に染めるのは白い魔獣のほう。



 弾かれるようにラストの体が後ろへ下がる。しかし、同じ分だけ移動したハルユキとの間隔は、計ったかのように縮まりも開きもしない。


 そして、ハルユキとラストが腕を上げたのが同時。



 一瞬後に顔の前で交差させたラストの両手と、ハルユキの拳が衝突した。



 ぐしゃり、とラストの腕が潰れる嫌な音が響き、ラストの体が消え去った。

 ほぼ同時に、闘技場の壁が破裂し、その辺り一体が吹き飛び崩れだす。


 今度は何処まで飛んでいったのか、──しかし、死んではいないだろう。



 防御した腕が交差された時には、既に白い魔力が一点に集中していた。その大きさおおよそ拳一つ分。その他は無防備に一切の魔力は通っていなかった。

 間違いなく勘だろう。

 しかし、それがもう4度目ともなれば、それは本能と置き換えていいのかもしれない。


 それは怖かっただろう。


 先程の拳の半分の力でも、防御した他の部分に当たっていればその瞬間ただの肉塊に変えられる。

 


 しかし、ここから見た限りラストの顔は至福に満ちていて。



 ──そして、端正な顔をいや体中を、埃と泥と血でどろどろに汚したオフィウクスの顔も期待と興奮に満ち充ちていた。



 

 ──"色とりどりの世界を知っている"

 ──"世界を取り巻く星々を覚えている"

 ──"漏れる光は、我が退屈の中"



「──旭渦光レゴルボルクス



 三小節の詠唱を吹き飛ばし、ハルユキの周りで舞う塵が埃が欠片が石が、いや、闘技場内にあるそれら全てが、オフィウクスの光の従属と化す。

 目も眩むような閃光に、ラストを追おうとしていたハルユキの足が止まる。


 連携しているわけではない。

 先程吹き飛ばされて無防備になったオフィウクスをラストが庇ったのも決して打ち合わせたわけではない。


 ただ、この場でもし一対一になれば、三手以内に殺される。


 それが判っているからこそ、二対一と言う現状を壊すわけにはいかないだけ。



 大小様々な光の槍が、ハルユキに殺到する。

 その全てが当たるとは思っていない。当たったとしても何がどうなるとも思わない。



 突破口が無い。

 まだ、光の槍が地面を叩いている最中。



 ぼっとオフィウクスの胸から下が消し飛んだ。


 後ろには更に左頬から一本角を増やした灰色の鬼。




「ち……」



 死ぬ訳ではない。この体は仮宿だ。


 ただ敗走する。それが闘争の権化たるこの身には耐えられない。



 仕留め切れなかったことを悟ったのか、右腕と胸と首より上以外を全て持っていった右足を引っ込め、握り拳が振り上げられる。


 瞬間、鬼の体が硬直した。



 鬼の視線が肩越しに闘技場の入り口だった場所へ。

 そこには、邪悪に笑うレオとつれられた青髪の少女。


 同時。


 反対側から、興奮の猛りを響かせながら闘技場に戻ってきた魔獣の君が、闘技場の壁を吹き飛ばしながら終り鬨を吼える。



 見る。


 鬼の顔からほんの少し殺意が薄れ、この自分が意識の外に。



 ささやかな屈辱と、見つけた勝機に。


 意地汚い笑顔が表情を乗っ取る。 


 

 全力を。



 可能なのは、たかが五十センチただの半歩分のみ。



 しかし今はそれを切に願う。




「貰うぞ、その半歩──!!」



 手にするは、手に余るほどの旭光の槍。

 刃の行方は、自分を害虫ほどにしか見ていない鬼の脇腹。 

 

 刮目せよ。




 ──貴様の負けを。




 脇腹に突き進んだ槍は薄皮一枚貫く事すら叶わない。

 柔軟で剛直な筋肉は、内包した力を吸収して殺しつくす。

 

 

 ──しかし、ほんの半歩分だけ。ハルユキの体が宙に浮く。



 地面に這うように近付く魔獣の影。地面に浮いた鬼の背中を強かに打ち上げる。



 

「──オベリスク!」




 そして、近付いた太陽から巨腕が伸びていた。


 その幅何十メートルか、その長さ何百メートルか。



 今まで何処に隠していたのかと言いたくなるほどの巨腕が、その巨腕を見失うほどの速さで振るわれた。




 そして鬼の姿が彼方へ消える。




 死んではいない。


 あの巨腕がどれほどの速さで振るわれたのか、霊体か若しくは"神の身"だからかあの大きさでは物理的に有り得ない速さであった事は確か。


 しかしそれでも。あの鬼が死に臥している所をどうしても想像できない。



 今まで曲がりなりにも戦いになっていたのは、恐らくあの女子ユキネの言葉が迷いか何かを生じさせていたのだろう。


 動きにムラがありすぎたのだ。


 もし、殺す気だったのならば刹那の間に挽き肉だろう。それ以前に追っていったラストがいなければ、太刀打ちも出来なかった。



 余りの幸運の重なりに笑みが零れ、思い出したようにやってきた恐怖と充実感に更に表情が歪む。




 そして、残った人間達に視線を向けた。





 ◆ ◆ ◆




「ハル、ユキ……?」



 その姿を見て、思わず呟いてしまった事を直ぐに後悔した。


 聞こえるとは思わなかった。いや、そんな事すらも考えずに呟いた一言だった。



 しかし、聞こえてしまった。聞いてくれてしまっていた。


 もしかしたら、心のどこかに留めておいてくれたのか、気にかけてくれていたのか。


 いつもの表情をこちらに向けようとしてくれたハルユキを。

 優しい彼を。

 怨敵共が一斉に襲った。


 卑怯だと思ったし、憤りがあったし、何より余りにハルユキが哀れだと思った。



 古龍の口から尻尾までも一突きにするような巨大な槍を背中に打たれ、いつか見たあの破滅の化物に槍と同じ場所を殴り付けられ、最後に天から伸びた腕に打ち払われた。



「酷、い……」



 あまりにも非情な光景だった。

 槍先に挙げられ、地上から追い出され、更には神にすら汚らわしいと拒絶されたように見えた。


 周りの全員が敵であり、よってたかって殺意をぶつける。

 何故そんな酷い事ができるのか。

 彼が何をしたというのか。



「よくやってくれた」

「え……?」



 ぽん、とフェンの肩にレオの手が置かれた。



「これで、逃げられる」



 "お父様"。

 取り戻してしまった記憶の中に大きく幅を取って存在する人間。



「合流するよ」



 指し示されたのは、先程は確かに胸から下を失っていた金髪の男。いつの間にか体は形を取り戻し、ある場所に歩を進めていた。



「一応偉い人だからさ。粗相は出来るだけないように」

「あ……」



 その言葉に返事をしようとした訳ではない。


 思わず零れてしまった声は、金髪の男が向かう先にその三人を見つけたから。



 ジェミニが。レイが。ノインが。


 そして、その奥には壁に寄りかかるようにユキネが。全員、死んだように動いていなかった。



「あ、あ……!」



 それだけの、どんな感情が、どうやって、自分の中で働いたのかは判らなかった。

 ただその中で一番大きな感情が、彼らに嫌われたくないという自己保身だったことだけは判っていて。


 気付けば、震える両腕で杖を正面に構えて、その先を"お父様"の背中に向けていた。



 後ろを付いてきていない事に気付いたのか、"お父様"の顔がゆっくりとこちらを向く。


 杖を下げろ、と頭のどこかが厳しく命じるが間に合わない。



 向けられた杖と、幼稚な敵意を含めた視線を確認して。



 お父様は、冷めた視線をこちらに向けられた。





 ◆ ◆ ◆




 咄嗟に防御して、折れた腕を直して、立ち上がる。


 巨大な腕に殴り付けられてから、ハルユキの体が止まったのは、町の外延に設けられた灰色の結界の直ぐ傍。


 空中から街中に吹き飛ぶ場所を移してから町を尽く破壊してきたのか、一直線に削れた地面が闘技場から続いていた。



(──急げ、戻れ! 速く!!)

「判ってるよ、喚くな」



 頭の何処かが焦りを隠そうともせずに叫び、また何処かが気だるそうに返答をし体が闘技場のほうを向く。


 そこから地を蹴ってから、闘技場に帰るまでおよそ三十秒ほど。



「ああ、流石だ。鬼の仔殿」



 そこで見つけたのは、レイとジェミニをそれぞれ脇と肩に抱えている金髪の男。



「──離せ」



 言葉と同時に、男の顔面に拳を叩きつける。


 しかし、水蒸気を殴ったかのような軽すぎる感触だけが拳に伝わり、オフィウクスの姿は平然と佇んだまま。



「あまり時間が無いので、手短に言うと──」



 その後ろには、一度帰ると言い出したときに現れた毒々しい青色の穴があり、そして、レイとジェミニの体ごとオフィウクスの体は透け始めていた。



「今日は我らの勝ちだ」



 それだけ言って、呆気なくオフィウクスの姿は消えた。


 もう一度振りかぶっていた拳が、今度こそ何も無い空中を通り過ぎた。



「レイ……?」



 名前を呼ぶ。



「ジェミニ!! レイ!!」



 しかし、声は返ってこない。何処かに連れ去られた。ここにはいない。



「──、あ」



 嫌に冷静な頭がそう告げた。




「ああああああああああああああッ!!」



 単純に怒りからかその冷静な思考が嫌だったのか。怒号が腹の中から飛び出した。



「畜生がァッ……!」



 ぼろり、と体中から生えていた数本の角が崩れ落ちて砂に還る。

 思い切り両手を地面に叩きつけ、砕けた地面が腕と体と顔を傷つけた。


 逃がすと思うなよ、と呪詛を零しながら幽鬼のようにその体を起き上がらせる。そして、とりあえず闘技場から離れようと残されたノインとユキネを見つけて──。



「……フェン?」



 足りない一人に気付いて、辺りを見渡した。


 先程、一瞬しか確認は出来なかったが、確かにいたはずだ。しかし、その横にも誰か、そうまるで子供のような──。




 ──ぞくり、と。


 絶望に似た嫌な予感が背中を撫でた。



「フェン!」



 もう恐怖といって良いほどの、感情がハルユキの中で首を擡げる。



「居た……!」



 まだかなり鋭敏化されている聴覚が、小さい足音を見つける。


 そう遠くは無い。しかし、その足音は二つ。それも片方は弱々しく歪なリズムを刻んでいる。



 一直線にその音に向かって地面を蹴る。



「──除けぇッ!」



 その進行方向にあった闘技場の壁と家屋を吹き飛ばしながら、一瞬で闘技場の建物を飛び出し敷地を超え、そのままの勢いで家屋に突っ込む。



「フェン!!」

「あれ、いらっしゃい、どうしたんだい?」



 そして足を止めた路地裏に、二人を見つけた。


 一人は黒塗りの物騒なナイフを持つ子供。そして、もう一人は壁際に追い詰められナイフを突きつけられた見慣れた青い髪の少女。



「──離れろ」

「残念。流石にこれに関しては僕も妥協するわけにはいかなくてね」



 首筋にナイフをあてがったまま、子供はフェンを盾にするように後ろに回った。



「人質ってやつだ。どうだい」

「そのナイフが貫く前に、俺がお前を殺せないとでも思ってるのか?」

「またまた、判ってるくせに」



 ち、とハルユキは小さく舌打ちをした。


 ハルユキが立っている場所から子供の居る場所までほんの十メートル。


 今のハルユキならばほんの一息だ。


 しかし、それはあの子供とフェンが実体だった場合。




 ならば、今も逃げているのか。


 ──否。



 じりと足を僅かに前に動かせば、ぴくりとナイフが揺れる。


 つまりまだどこかで見ているはずだ。じっくりと確実に逃げられる機会を狙っているのだろう。


 場が膠着する。

 ちらりと首に腕を廻されたフェンを見る。



「……?」



 怯えるようにびくりと肩を揺らしたフェンに疑問を覚えるが、大丈夫だと小さく頷いて意向を伝える。


 そうすると、今度は小さく目を見開いた。



 フェンの無表情を読む事は得意な方だと自負していたが、今ばかりは疑問が残る。



「──じゃあさ、こうしようよ」



 構わないだろうとフェンに声をかけようとした所で、子供が一瞬速く口を開いた。



「取引だ。僕がこれを連れて行くのを見逃してくれたら──…、"さっき浚われた二人を返して上げる"」

「……っ!」



 思わず目を見開いたのはハルユキだけではなく、フェンもそうだった。


 驚いたのは、二人浚われた人間がいると言う事に対してだったが、同じように疑惑半分の視線をレオの顔にぶつける。



「本当だよ? 僕は──、いや僕に限らずうちの組織は目的の為ならいつでも裏切っていい事になってるからね。まあ当然誰かの目的を阻害する事になるからリスクはあるけど」

「ふざけるなよ……?」

「ふざけてないさ。一人と二人だ。そちらに得がある取引だろう」



 一度レオの顔を見る。


 驚いているフェンとハルユキの顔を確かめるように薄く笑っている。



「フェン」



 びくり、ともう一度フェンが肩を揺らして、いつの間にか落としていた視線を上げた。


 その目が、瞳が判り易いほど震えていて、今目を合わせている事にすら怯えているように見える。



 それが、ハルユキ自身に怯えているのなら、少しショックもあったが、恐らくそうではないのだろうな、とハルユキは察しをつける。


 どうせまた、後ろ向きな被害妄想で悩んでいるのだろう。



「大丈夫だ。今、助けるから」



 フェンの表情読みも、掛けた言葉も間違ってはいなかったらしい。


 フェンの顔が泣きそうに歪んでしまったが、少しその顔に安心する。



 ち、と小さく舌打ちしたのは子供。


 何か言おうとしたのか、子供がフェンに視線を移す。



 ──瞬間、ハルユキは足に爆発的な力を込める。


 一瞬で推進力を得た体は、とりあえず幻のレオの顔を貫き、驚いた気配を感覚神経を全開に探し出す。



 はずだった。




「……あ?」


 実際には、足に力を込めたはずのハルユキの体がそのまま地面に沈んで、地に伏しただけ。



 驚きはきっちり三人分。


 ハルユキと、フェンと、そして子供も。驚きを隠せずにそのまま表情に反映していた。



〈……馬鹿が。いきなり四本もいくからだ。動けなくなる事も判ってただろう〉




 絶望的な声が、頭の中に響く。




「──あ、ッハハハハハハハハハ!!!」



 耳障りな声が一瞬遅れて、頭上から降ってくる。


 不愉快と怒りを源に、荒々しく地面に手を付くが、それでも体が持ち上がらない。



 あの星屑龍の洞窟で、ラストを相手に九十九を使った時と同じ感覚。




「ハルユキっ!」




 しかし、聞こえた声に無理矢理上半身を持ち上げる。助けるといったばかりだ。情けない姿を見せる訳にはいかない。


 思い切り力を込め、しかし震える体はゆっくりとしか持ち上がってくれない。



 ひゅん、と黒塗りの刃が飛ぶ。


 刺さりはしない。力が無いだけで、今やハルユキの肌は岩肌より硬いだろう。


 しかしそんな蚊に刺されたような刺激で、ハルユキの腕は力を分散させられ、再びハルユキの体は地面に叩きつけられた。



「──っく」



 ならばもう一度。


 不愉快な視線が上から降ってきているのは判ってはいたが、それはむしろ行幸。いつ飽きられて逃げ始めるか判らないのだ。


 もう一度、上半身を持ち上げたところで。



「──ハルユキ」



 フェンの声が聞こえた。



「やっと、口開いたじゃねぇか……」

「……ごめ、ん、ごめんなさい」



 冗談に馬鹿正直に答える会話が少し懐かしい。



「あのね、ハルユキ」



 無理などしてない、と即答するとフェンは一瞬口を噤む。どうか今はそのまま黙っていてくれと、切に願いながら、上半身を起こし、地面に膝を立てる。


 しかしフェンは小さく首を振ると、



「私は、もう一緒にいられない。でもこの人は私の父親だから」



 早口で伝えられたその事実に、ハルユキは驚きに目を見開く。


 その顔に安心させるように一つ頷いて。ただ、帰るだけだから。と小さく続ける。



「だから、私は大丈夫」



 だから、無理はしないで欲しいと嫌に饒舌な話し方でフェンは続けた。




 そして。そう言った後。


 安心させるようにもう一度頷いた後。



 何かを思い出したかのように。



 フェンは目を細め口元を綻ばせ。


 確かに。




 ──笑ってみせた。



「……フェン」



 体中から力が抜けた気がした。



「そんな……」



 しかし、違う。


 一瞬だけ脱力して、一気に膨れ上がった筋肉がぎちりと軋む。


 軽々と持ち上がった右腕が路地の湿った壁にを掴み、その指をレンガの壁に食い込ませる。



「──そんな顔で、笑ってんじゃねぇよッ!!!」



 ゆらりと立ち上がったハルユキに、もう非力さは感じられない。 踏み出された一歩が、石畳の地面を割る。





 それを冷めた目で見ていたレオが、淡々と口を開いた。





「──いいよ。判った判った」



 ひょい、とフェンの体を子供は押し退けた。


 声の意味を噛み砕く前に、ととっとつんのめりながらフェンの体がハルユキの方に近付き、実質的に開放された。

 上半身を起こしたハルユキと振り返ったフェンが、一様に驚いた顔を子供に向ける。



「いいさ別に。仲良くやってよ。その代わり先に浚われた二人は勝手にどうにかしてよ。僕は邪魔しないからさ」



 そう言ってつまらなそうに子供は奥の角を曲がって消えた。



「ま、待て……!」



 せめてレイとジェミニの場所を聞き出そうと、ハルユキは足を進める。しかし緊張が切れたせいか、また僅かに体が重く力が入りにくく、小さくよろけ、視線がぶれる。



 ぶれた視線のその先で──。



「まあ、嘘だけどね」



 フェンの背中でナイフを構えている、先程角を曲がって行ったはずの子供に気付いた。



「フェ……!」



 しかし、そこでまた体から力が抜ける。


 視界がまた地面に接近しそうになった所でしかし、何とか踏ん張り顔を上げる。




 ──そこで、深々と胸の中心に貫通したナイフを呆然と見つめ、口から血を吹き出すフェンを見た。






  ◆





 君は要らない、と小さく言った子供は既にいなくなっていた。



「フェン……?」



 あれからどれだけの時間がたったのか、一瞬だった気もするし、三日三晩立ち尽くしたような気もする。


 呼ぶ声に返事は無い。直ぐ目の前にいると言うのに。



 気付けばふら付く様に足が目に進んでいて、ぱしゃ、と水溜りが足を濡らす。



「フェン?」



 膝を突くと、また水溜りで水が跳ねる。



 水溜り──?

 ここ一週間は雨なんて降っていないのに──?



 ぶつり、と思考がそこで途切れる。


 余りに不自然な思考の途切れ方に疑問も沸かない。



 膝を突くとフェンの顔が目の前にあった。


 頬に手を当てようとして、びくりとあまりの冷たさに指先が跳ねるように逃げた。


 触るのを恐れた事に強く罪悪感を感じ、慌てるように首と足に手を回して持ち上げる。



 持ち上げたのか分からないほどの軽さも、暑苦しいローブもそのまま。何時も通り。



 べしゃりと、フェンの髪についた"白い"液体を見つけた。


 そこで、景色が世界が、白と黒と灰色でしか構成されていない事に気付く。



 殺風景なモノクロの世界がどうしようもなく怖くなって、ハルユキは腕の中のフェンを抱きしめた。



「……?」



 冷たい。と感じたわけではない。ただ布の感触。布の暖かさしか伝わってこない事に小さな疑問が首を擡げる。



「────、あ」



 少し強く抱きすぎた事に気付いて、謝ろうとして、



 その。


 あまりの。


 無意味さに気付いた。




 世界がゆっくりと色を取り戻す。


 水溜りは赤に。地面は赤に。フェンの髪は赤に。体は赤に。支える腕は赤に。



 それが血である事を気付かないで済むほどに、ハルユキは鈍感でいられなかった。



 フェンの視線は中空で止まっていて、瞳孔は開き始めている。


 ぱしゃり、とフェンの手が血溜りに落ち、跳ねた血がハルユキの頬を汚した。



 その。


 余りに冷たい感触。




「────、あ」




 最後の言葉も残さないままに。




 フェンは。



 死んでいた。







 不意に。


 薄暗い闇が、晴れた。



 戦火の火ではなく。狂った目に光る物ではなく。



 それは確かに暖かい、太陽の光だった。


 結界が解けた、つまり、あの子供が町から離れたのかと頭の隅で誰かが呟く。その暖かい朝日は、それまでの全てが夢だったように思考を促す。



「──────、あ」



 その暖かい朝日を背中に、何かが町を見下ろしていた。


 それは雄大で、厳かで、神々しく、きっと神の形をしていた。



 ──否。


その姿は。

雄大と言う言葉で表せないほど大きく、浮いているその体はもし地面に立てば膝だけで町の最高点である城を上回り、倒れこめば町の八割を破壊し得るほど。



その威厳は。

厳かという言葉では表せないほど純白で美しく、六本の腕のうち四本が胸と頭の上で手を合わせて何かを願い、その無垢な表情は怒っているようにも悲しんでいるようにも笑っているようにも見える。



その在り方は。

神々しいという言葉では表せないほど汚らわしく、まるで、冷たくなったフェンを祝福しているようで──それどころか。フェンを喰らってそこに存在しているようで。





「──────────────、あ」



 神がああいう存在だというならば、もうフェンが帰ってくる見込みは無くて。


 神様、と祈る前に、拒絶された気がして。




「────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────、あ」






 一瞬視界が暗く落ちた後。



「今日は大盤振る舞いだな」



 少しだけ輪郭と明度を取り戻した、九十九と。


 灰色の世界で再会した。



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