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ハイイロ ノ カナタ  作者: mild
第一部
151/281

御遊戯戦争


 それは、言ってしまえば美しいとさえいえる光景だった。

 粗暴に見えて、その実一切の無駄は無く、全ての動きに意味が有り、そしてその洗練さは間違いなく美しかった。


 ただ、その動きが全て人を殺す事に費やされていなければ。



 歩を進めれば一瞬で敵の視界から消え、または懐の中に潜り込み、拳を振るえばどんな人間でも容易く吹き飛んだ。

 相手の攻撃も防御も抵抗も、まるで砂糖の壁のように容易く砕く。



 それは間違っても戦闘ではない。戦いでもない。決闘でもない。

 ただ只管に、そしてささやかに美しい暴力だった。



 たちまち、美しさは怖さに変わる。

 唾を飲み込む喉を自覚する。後退りしそうな足を意識する。



 怖い──? 

 ふと、自分が抱いた感情に疑問を覚える。


 恐怖だろうか。

 いや、正しくはそうではない。 



 怖くはない。そういえば嘘だろう。

 しかし、あの殺意を向けられている人間達が感じているであろうそれとは恐らく違う。



 ──手を伸ばしたのは。

 おぼろげに消えていきそうなその人を、どうしたかったからなのだろうか。



 

  ◆





 ああ、心地が良い。

 その中はまるで温やかな人肌に包まれているかのよう。



 ああ、素晴らしい。

 その中心にはまるで新しい命が萌芽を出したかのように。



 ああ、代え難い。

 殺意は根絶やしにされた。退屈は失われた。狂気は飲み込まれた。



 暖かく我を包む光は、まるで陽光か、はたまた母の水か。




 我が身は御身と一つに。


 溶け合い、混ぜ合い、絡み合い、巻かれ合う。



 ひらり、と音もなくページが捲れる。

 全ての頁に。その全て同じ場所に。全て同じ色で。全て同じ筆跡で。全て同じ意味の。全て同じ一節が綴られていた。



 意味は判らない。

 ただそれは、やんわりと己の歩みに手を添える。


 それは気付かないほどに緩やかで、優しく、抗い難い。


 

 いや、気付く事も出来ない。誘われるように、手を引かれるように。



 そも、進む景色は真白なのだ。自分がどう歩んでいるのか、自分は何処に向かっているのか。

 それに気付く事も出来ない。


 ただ、進むごとに、育つごとに、堪らない幸福と熱が全てを包み、その先に見つけたものならば、──それはきっと正義なのだ。



 

 ぱちり、と瞼が開く。

 同時に、自分が今まで瞳を閉ざしていた事に気付く。



 眼下に広がるのは、どこまでも風に果てた荒野のような箱の庭。

 元はさぞ華美な装飾に彩られていたのだろうが、どんな悪鬼が暴れたのか、もはや建物の形を繕っているだけだ。



 己は、それを照らす太陽の中。


 誰も目を向けない。

 かみの目覚めはかくも当たり前にやってくるのかもしれない。



 己は太陽の中。



 余りに大らかな気配に、全人の隣人に、だれも疑念も気配も感じることは無い。



 己はただ目を瞑り、世の流れを波と音と空気で感じるだけ。





 ──ただ、一度瞼を開けた時には。



 


 "ああ、あれだ"


 ぽつねんとそこにある黒い髪。


 自分が行うべき正義の形が、見つかる。死臭と腐臭に塗れた穢れた町が見える。

 


 純白に染まったそれに、それは何処までも穢れきった世界の害悪に見えた。




 悠長に言葉を交わすそれを見て、確かに自意識が憤りを覚える。


 何を人間の真似をしているのかと。何を優しい振りをしているのかと。何を笑う振りをしているのかと。



 怪物がいあくが──。



 人間になりたいのか。

 いや、許されない。貴様は悪として正義に処断されよ。





 ああ。


 我は貴様が人である事を許さない。  




 死ね、化け物。


 悪のお前は、正義の錆となれ。

 


 



   ◆






「………あ?」




 それは、とても白ける光景。


 闘技場中の気配が一変した。いや、その虚無感と喪失感は気配が消え去ったと言い表した方が近い。


 まるで、平和な日常の一頁だ。

 長閑で、間延びした、緩やかな毒を孕んだ何時も通り。



 視線の先には、何でもない女に手を取られただけで惚けてしまった想い人。



「…………そりゃあ、無いだろうよ」



 恋焦がれて、再会を演出して、貴様を殺す為の全てを求めた。


 どれほど狂おしかったか。

 まだ道半ば。貴様に届くとも、並べるとも、役不足だとも思ってはいない。

 

 しかし、それはないだろう。


 手を繋いでいる。

 それだけで、貴様はあれほどの怒気も、殺意も、狂気も、空気と綯交ぜにしてしまった。


 誰も望んでいないのに。


 そんな展開にあるのは決まりきった美しさだけ。有り体な友情にも、見慣れた愛情にも興味は無い。



 ──いや。


 あいつの事だ。

 あの女との間にはさぞ掛け替えが無い、力強い、それこそ触りがたいほどの強い絆があるのだろう。


 女の容姿は美しく、繋がれた手は尊く有り難く。そして短くは無い筋書きを辿ってきたのであろう。



 言葉に力があるのは、それに裏付けされた物語と経験と力があるからで。

 

 そしてそれは、何処からどう見ても美しく、純粋なもので──。しかし、俺の中では白けたものでしかない。




 ああ、しかし。



 この偶然に感謝しよう。


 たまたま行き着いたその領域に。お前を殺したいと闇雲に手を伸ばして掴んだこの手の中に、面白い物が転がっている。


 お前がそのつまらない舞台に上がるというのならば。


 俺はその舞台を根幹から破壊しよう。




 ──ラストの体から吹き荒れるのは、白い力の暴風。



 正しくそれは今までの行為と変わりは無い。


 しかし、地面を揺るがし空気を吹き飛ばし、その魔力が闘技場中に充満するほど濃度を増せば。



 一風変わった現象を引き起こす。


 前兆は、まるで空気が致死量の毒を吸い込んだように甲高い悲鳴。


 そして。


 飽和しそうな魔力を、滴り落ちそうな殺意を置き去りにして、ラストの姿は消え失せた。




 しかし、誰にも聞こえず誰にも見えないその高みで、ラストは変わらず拳を握る。


 

 更に強度を増した不可視のその拳の向け先は──。




 ──想い人を誑かす雌猫に。





 ああ。


 俺は。


 俺を置いて勝手に回る世界すじがきを許さない。




 目を覚ませ化物。


 その顔は、まるでお前が人間のようで不愉快だ。





  ◆






「無事だったか」



 聞こえた声は、やっぱり不自然なほどにいつも通りだった。


 しかし、服は所々が破け肌が露出し、残った服の面積の半分以上に染み込んだ赤い血が痛々しい。


 "ハルも無事で良かった"。と、言う事はとても出来なかった。



「離してくれ」



 ハルユキは穏やかに淡々とそう告げた。


 その声に殺意があるはずも無く、怒気も何もかもが押し込められている。


 しかし、無いはずがない。



 それは、ハルユキが攻撃を受けて血を流したからではなく。倒れ伏した三人が起因である事は容易に想像できて。


 だからこそ、こんなに平然としているわけが無いのだ。



「──離せ、ユキネ」



 案の定、と言うべきか。


 堪え切れないかのように、凶暴で冷たい殺意がじわりと空気に溶け始める。



 それは当たり前にハルユキに馴染んでいて、ここで言葉を交わせているのが不思議なほど。



「……」



 しかし不思議なほどにユキネの心内はその殺意に反抗的で、逆に繋いでいた手を強く握りなおす。



 ハルユキの視線が繋がれた手に落ちる。


 ハルユキにとって、それは正しく戒めであり、締め付けだった。



 殺したくて殺したくて仕方が無いと、その意思は表情は変わらずともユキネに伝わる。


 理解もした。

 納得も出来た。


 しかし、とても許容はできない。


 ハルユキからは、自分勝手な馬鹿女に見えるだろうか。綺麗事しか言わない偽善者に見えるだろうか。




「あいつ等を逃がさないのなら、許さないのなら。殺す以外の選択肢は無い。それは、判ってる」



 そう。


 たとえここで殺さずにこいつ等を捕まえるなどした所で、待っているのは処刑だ。


 計画的に町を壊し、王女を誘拐し、民を殺戮せしめた。情状酌量の余地も無い。民の溜飲を下げるのに使われて終わりだ。



 なら、同じ理由でなら、ここで殺した所で誰も困りはしない。



「あいつ等を見逃せってのか?」



 聞きながら、ハルユキの目が細められる。


 返答を誤れば、繋いでいる手を振り解かれ、邪魔が出来ないように意識を刈り取られるかもしれない。


 そうなってしまっては、ユキネには抵抗すら出来ないだろう。


 だから慎重に、それでも嘘偽り無い言葉を選ぶ。



「違う」



 その一言で、自分の中でも言葉になっていない全てを伝えるつもりで、否定する。


 しかし、ユキネの気持ちの何百分の一しか伝わらなかったのか。ここが戦場と言うのならば、余りに間抜けな質問は続く。



「あいつ等を許せって言ってるのか?」

「違う」



 首を振る。



「あいつ等を死なせるなと言ってるのか」

「違う!」



 三度目の質問で、ハルユキの手に力が篭もる。


 頑ななユキネの言葉が癇に障ったのか、それとももう感情に我慢が利かなくなってきているのか。



「私は、正義を諭すつもりはない。情を説く事もできない。だから何を言っても自分勝手にしかならないけど」

「……」

「それでも、お前が手を汚すのをただ見ている事は出来ない。──例えそれが、ノイン達の為だったとしてもだ」



 不愉快そうに、ハルユキは顔をしかめる。


 "何も判ってはいない子供"に切々と己の感情を言葉にする愚を犯す。





「あいつ等が生きているのは結果論だ。──もし全員が殺されていたとしても、お前は同じ事が言えるのか?」


「──言うさ。例え誰の死体の隣でも、私はお前が人を殺すことを是としない」




 しかし、想定していなかった即答に、ハルユキの目が大きく瞠られる。


 ユキネの言葉に嘘は無く、目を逸らしさえしないその強い表情に、ハルユキも嘘ではない事を知る。



「……本気で言ってるのか」

「ああ」



 もう一度、ハルユキは言葉で確認した後、もう一度表情を確認する。


 目が合ったユキネは、言葉を続けた。



「私は、ノインも、ジェミニもレイも。そしてハル、お前も。皆比べられないくらいに大切だから。

 だから、誰かが死んだとしても、そのせいで他の誰かが死んでしまうのは、傷付くのは。どうしても嫌なんだ」



 だから、とユキネは更に奥まで覗こうとするかのようにハルユキの顔を覗き込む。



「──お前が殺すぐらいなら、私が殺す」

「…………は?」



 は、と一瞬様々な感情も忘れて、呆けた顔を晒す。


 その顔に表れていたのは、驚きもあり、おかしさもあり、しかし何より呆れが色濃く現れている。



「……ふざけてんのか……?」

「ふざけてなどいない」



 びきり、とハルユキの額に井形模様が浮き上がる。


 腕の筋肉が僅かに盛り上がり手に力が篭もる、が。それはどちらかと言えば、ユキネの手を握り潰さないように感情の奔流から守っているのだろう。



「っガキがませた事言ってんじゃねぇぞ!」

「子供はどっちだ!!」



 視線がぶつかる。


 荒々しく、握った手はぎりぎりと軋みを上げ始める。


 今にも胸倉を掴み上げ、額と額をぶつけ合うのではないかと言うほど、二人の視線は強くぶつかり鬩ぎ合っている。



「お前にとって、私は何だ。子供か、被保護者か? 違う。私とお前は対等だ。少なくとも私はそうありたい。──私は、確かに強くなれたんだ」

「……だから、お前が殺す? 筋違いも大概にしておけよ」



 確かに強い感情の一部が、ハルユキの言葉に乗った。


 びりびりと空気を震わすほどの声に、孕んだ怒気に。しかし、ユキネはたじろがない。それどころか、ユキネは胸を張る、息を吸い込む、ハルユキの目の中を覗き込む。



「……私に殺させないというのなら、私だってお前に誰かを殺させる気は無い」



 大して大きくも無い声だったが、不思議とその声は深く大きく広がった。


 しん、と耳に痛いほどの沈黙が闘技場を覆う。



「……お前に、人を殺して欲しくない。ハル、お前が私にそう言ってくれる同じ理由で」



 伝わらないとは、思わない。


 いつの間にかハルユキから伝わる力は弱まり、その手はただユキネに握られているだけ。



 また沈黙が続く。その痛いほどの沈黙を嫌うように、ハルユキが口を開いた。



「俺は、何人も人を殺してる。何十人、何百人だ。今更──」

「何人殺しても一緒だと? 違う、そんな訳無い。そんな訳無いよ、ハル」



 ユキネが驚く事を想像していたのか、強く言葉を重ねてきたユキネにハルユキは僅かに目を見張る。



 ユキネには何も話していなかった。


 鉛弾と爆薬が主流だった頃の戦場に身を置いた事があることも、それどころか自分が一億年という途方も無い時間を生きている事すらも。

 当然、今握られているその手を、血に濡らした事さえも。


 無論、特別隠していたわけでもない。

 普通ではない戦闘力や、振る舞いから想像を膨らませる事が出来ない事もない。

 

 しかしならば、何故この女は平然と手を握っていられるのか。



「人の命だ。人のために怒れるお前が、自分を削ろうとまでするお前が、たかが人の命だなんて言わないでくれ」



 苦しげにユキネの表情が曇り、歪み、それを見せないようにか、初めてハルユキから視線を外し、俯いた。


 しかし、繋がれた手は益々強く握られる。



「お前は、人の命を歯牙にもかけないような、そんな器用な強さは持っていないじゃないか……!」



 なあ、春雪。


 と、ユキネは珍しい呼び方で、彼の男の名を呼んだ。



「私が見てるお前は、いつも我侭で、中途半端で頑固で、人間臭くて、情けに弱くて。そんな、綺麗な弱さを持った人間なんだ……」



 いつの間にか両手で掴まれた掌からは、ユキネの熱いほどの体温がハルユキの掌に伝染していく。


 それは、毒素が強い劇薬が血管に乗って体中に蔓延していくように、息苦しい。



 それでもお前が誰かを許せないのなら、と。いつの間にか俯いていた顔を、ユキネは上げる。



 その目は。


 涙で潤んでいるくせに、瞳は揺れているくせに。



 どうしようもなく頑固で暑苦しい。



「お前が手を汚すなら、私も汚れる。お前が私を守ってくれるなら、私は私の全てでお前の支えになりたい」

「…………俺は、お前を守ってるなんて思った事はない」

「……そうか。でも、それなら私は、私の我侭でもハルの為になりたいよ」



 毒が回り、力を失ったハルユキの掌から、ユキネはゆっくりと手を離した。


 ハルユキの手は名残惜しそうに一瞬その場に留まったあと、ゆっくりと下ろされる。




 そして、ため息を一つ。




「……重いなぁ、お前」

「お、おもっ……!? わ、悪かったな! 重い人間でっ!」



 露骨にショックを受けるユキネに、今度はハルユキから手が伸びる。


 その動きは緩慢だったが、ユキネは遠慮がちにその手を見つめて戸惑うだけ。



 その手が自分の頬に触れた瞬間、ユキネはびくりと肩を揺すらせて、恐る恐るといった風に



「ハル……?」



 手は添えられたまま、ハルユキは口を開いた。


 まだ馬鹿な質問を続けるつもりだったのか。それでも自らの殺意を押さえるつもりは無いと独白するつもりだったのか。






──結局、その言葉が発せられる事は無かった。



 ばちん、とハルユキの手が弾かれる。



「────は?」



 一瞬遅れてびりびりと強い痺れを手の甲が脳に伝えてくる。


 攻撃された、と脳が気付いた時、同時に目の前にユキネが居ない事に気付いた。




 どすん、と何かが何かに打ち付けられる音。


 視線を向ければ、そこに。闘技場の端にユキネが横たわっていた。





    ◆





 ──圏境、と言う技術がある。


 それは、謂わば眉唾物の技であり、文献に残っているものでしかない。


 しかし確かに存在したといわれている。



 ラストがその身に付けたのは、偶然発祥したものでしかなく、その現象を発した経路もまるで違う。


 たまたま、結果が同じところに行き着いたと、ただそれだけの事。



 圏境とは、己の気配を限りなく薄くし、周りの木々や空気、風や地面と気配を同化させ意識の裏に隠れるといった物。


 対してラストは、この逆。



 己を薄めて、己を押し止めて、己を変える圏境に対しての逆。



 つまり、変わったのは周りの方。



 己を強める、それは周囲の全てに己が毒となるほどに。


 己以外を押し止める。それは、周囲の全てを制圧するほどに。


 己を変えない。それは、周りのそれがその強さに憧れ、追随するかのように。



 それは、正しく支配だった。



 ラストは、ただ更なる強さを求めただけ。

 

 その副産物として魔力は濃く大きく変化していき、それは周囲を毒するまでのものになった。



 結果、さんざ悲鳴を上げ抗った後、周囲の全てがラストに屈した。



 自分変えて周りに溶け込む圏境。


 周りを変えて己に溶け込ませるラストの──謂うならば、殺境。



 通った点は己と周囲が境界を無くす事だけ。



 しかし、そこを可能としたラストの殺境は、圏境とほぼ同じ効果を生み出した。


 圏境にはありえない、命に有害となりそうな殺意と魔力を置き去りに。




 ラストはその姿を世界に秘匿された。




 重ねて言うが、ラストが望んだ訳ではない。


 ただもっと強く、もっと早くを望んだ末、世界がそれ以上に怯え、理の外に追い出してしまっただけ。



 結果、そこら中に放り出された殺意が撒き散らかされた代わりに、ラストは更なる力を手に入れた。



 姿が消えた、それは大した事ではない。


 空気にも水にも地面にも、この世界に属する何もかもに制約を受けない。



 それは、一つ天井を越えた瞬間。同時に、人間とそうでない物との境を跨ぐ行為。




 その一足は十里を跨ぎ、その腕は山を握り潰す。




 人外の拳を振り切れば、ハルユキの手の甲の上から泥棒猫は吹き飛ばされた。




 僅かに邪魔をされた。


 追撃しようと、足に力を込める。



 しかし、既にハルユキがユキネの元に到着し、ぐったりと動かないその体を抱き上げている。




「──寄越せ」



 その絵画になりそうな光景を砕くより、言葉を欲情を露にしたのは、これから必ず起きる何かへの恐怖を誤魔化すためか。



 聞こえるはずは無い。


 声が伝わるはずの空気はラストに怯え、震え、音を伝えてはくれない。



 しかしだからこそ、煮え滾るような感情を──いや、膨大な感情のほんの一部を。とても言葉にできない欲望の一欠けらを。



 喉を震わせて形にする。





 それは、心臓が燃えて、血が沸騰して。全身が一瞬で気化するような──。



 ──そんな感動と興奮を。




「──俺に寄越しやがれェッ!!!!」



 しかし、その声がまるで聞こえたかのように。ハルユキの視線が、ラストの視線と重なる。







 感じたのはデジャヴ。既視感。一度感じたことがある、視線。


 ハルユキの、灰色の瞳の中。



──再び、その中に住む何かと目が合った。





〈あーあ、馬鹿だろお前〉




 以前は、押し込められた狂気の奔流にしか感じられなかったのに、今は"それ"が愉しげに笑っている事。こちらを見ている事が理解できた。


 それは、ラストが半歩分人を外れたからなのか。




 ああ、そして後一つだけ。


 目の前の化物が、既に人から外れ切っている事も、嫌になるほど実感する。





 ──そして、鬼が目を覚ます。







 ◆ ◆ ◆





「起きれるかな、腹心殿」

「ま、痛みを騙してれば何とかね。帰ってから地獄見そうだけどさ」



 瓦礫に埋まって遠い目をしていたレオが、オフィウクスの声にレオは手酷い怪我を感じさせない動きで立ち上がった。



「それで? 満足したの?」

「いや。しかし時間切れだ。"彼"が起きる」



 視線を動かし、上を見るように促すと、レオはそれに従って上を見て『ああ』と、納得した声を出した。


 その視線の先には灰色の空だけが広がって、既に太陽は存在しない。



「成程。じゃあ僕も急ぐよ。アリエス達は?」

「帰したよ。どさくさに紛れてだがね」

「ま、しょうがないでしょ。相手が相手だったし、君はそんな体だし」

「ああ、もう完全にガタが来ている。程なく瓦解するだろうな」



 小さく掌を数回開閉させると、その反応速度からオフィウクスはこの仮宿の体の限界を確認する。


 辺りを軽く見渡すが、もう辺り一体街中の風景とは思えないほどに破壊されつくされていた。



 闘技場の一角だったこの場所も、地面は砂地と化し、強固だった壁もただの破片に成り下がっている。



「そろそろ、お開きかな」

「ああ、年甲斐も無くはしゃぎすぎた」



 じゃあ、とレオは何を告げる訳でもなく背中を向ける。



「何だ、行くのか」

「? 君も帰るんじゃないの?」



 肩越しにオフィウクスの顔を見て、レオは駄々を捏ねる子供を見るような表情を見せる。



「全く君は愚かだね。"レオ"」

「貴殿の醜さには負けるさ、"レオ"」



 笑うでもなく、怒るでもなくただ皮肉気に肩を竦めると、レオはその体を暗ませた。


 同時に、闘技場の周りから結界の全てが消え失せる。これで破壊し尽くされた闘技場が露になるだろうが、既にあまり意味は無い。



 後はもう役者を舞台裏に引っ込めて幕を下ろすだけだ。



 しかし、まだ幕を下ろしたくないとばかりに、駄々を捏ねる人間が二人。



 それも、どちらも怪物役。


 片方は確かラストと言ったか。


 あの視認し辛くなる技は、どんな概念と理論の元に成り立っているのか。それは判らないが、あれを技と言うのは少し語弊がある。



 技とは、弱者が強者を砕く為に用いるものだ。


 しかしあれは、そうではない。


 勝つ為に磨き上げた技術でもなければ、強者を打倒しえる物でもない。


 圧倒して、威嚇して、屈服させ、支配する。



 要は威圧の最高到達点であるというだけ。


 当然致命的な意味があるのは自分より弱者に対してだけ。



 しかし、ラストが思う弱者に分類されるものの中には、空気も地面も重力も含まれている。


 含まれていないのは、あの化物と。そして、この自分も。



 つまりは、簡単な事だ。




 ──ビビるな。己の方が強い。それが第一。




 自分でも下品に過ぎると思う、何かが破綻した笑みがオフィウクスの口元に浮かぶ。




 片や、形からすら人間の形を無くし始め、片や世界ごと押し潰しそうな魔力を大海の様に溢れさせている。


 これ以上無いくらいに驚いていたつもりだったが、その存在感にしばし酔い痴れそうになる。




 しかし。


 この身は元より闘争の化身である。



 気色悪いほどに優しいこの世界で、"戦争すらも起こらない"この世界で。この身は持て余したものだったが、今この時は違う。



 例え今の体が仮宿だったとしても、相手が化物であったとしても。



 幸い此処は闘争の舞台。


 誰かの敵になるという点に置いて、誰かに遅れを取るとも、役者不足である事も有り得ない。




「──"星母神の箱庭(バビロン)"」




 鬼の子が世界を脅かし、魔の化身が世界を支配すると言うならば、私は世界を変えて御覧に入れよう。








  ◆




「あ……」



 目を覚まして直ぐ、自分が程なくまた気を失う事をユキネは悟った。


 凄まじい衝撃がユキネを襲う一瞬前、何処からか現れた白い大剣がユキネを守るように目の前に現れたところで記憶は途切れている。


 しかし、そう長い時間は経っていないようで、目の前にはまだハルユキが背中を向けて立っている。



「……ぁ」



 しかし、折角引き戻した"ハルユキ"がまた薄くなって、その分何かがその気配を色濃くしている。



「ハ、ル……」



 ならもう一度、とユキネは手を伸ばす。


 しかし、その声は届かず、手は触れず。



 タイミング悪く踏み出したハルユキに触れることすらできずユキネの手は宙を掻く。



 もう、届かない。


 そんな諦観じみた思いと共に、ユキネの意識は再び闇に沈んだ。






  ◆ ◆ ◆





 杖を向ける先を無くして、フェンと言う少女はただゆっくりと町中を徘徊していた。



 何の理由も無くぼんやりと空を見上げると、目に入るのは灰色の空と陰った屋根とそして晒された死体。



 どのタイミングで空を見上げてみても、同じような光景だけが続いていて、そしてそれは恐らく町の何処に行っても変わらないのだろう。


 死体はまるで何日も風に晒されていたかのように腐り切り、鼻をつく異臭を放ちながらただ風に揺れ、黒と白が混じりあった灰色の空は蠢くように模様を変えていく。


 風は何処までも生温く、しかしじっとりと冷えた空気が足元にたまって、まるで体を這い上がってきているかのよう。



 石畳の地面は固く、歩みを進めるたびに足の裏を強く冷たく押し返す。


 それが、まるで町から拒絶されているようで、今にも血の杭で脳幹を砕かれようとも不思議に思う事無く死に行く事が出来そうにすら思う。


 理由わけは至極簡単。きっと自分は普通の人間よりも、この腐った死体に近い存在だから。





 人の死が怖かったのもきっとそう。


 森で狼に死を突きつけられて心が凍ったのも、ハルユキが誰かを殺してしまうのが嫌だったのも、桜の森でイサンの死を受け入れられなかったのも、この死体達を見て頭が割れそうなほど痛んだのも。



 全て、きっと。思い出したくなんかなかったからだなのだろう。



 おぞましく、生き汚く、それこそ泥の塊で人の形を象っただけの人形のような、汚らわしさを思い出したくなんてなかったのだ。



 泥。


 泥だ。


 ただ積もり積もらせて塗り固めただけの。夏の強い雨がどうか押し流してくれないかと空を見上げてみても、曇天に似た空からは何も落ちてはこない。



 ひたりと空から何かが落ちて来た。それは灰色の空から垂れてきたかのような濃い色で、頬に当たってどろりとした感触を伝えてくる。


 雨ではない、ただの血だ。



 腐った血。それを右手で拭うと肌に吸い込まれたかのようにその感触が消える。




 残るのは、そう。


 冷たい雨。熱を失った肌。零れた血と舐めた土の味。命の消え行く気配。そして、何もかもをうやむやに■■■感触。




 理解はしているのだ。


 感情が凍えているのではないかというほど冷静な思考は、恐らく今の状況をほぼ確実に把握していた。


 しかし少女の足はただ目的も無く町をうろつくばかり。


 恐らく今も何処かで戦い、または奔走しているであろう顔見知り達の顔はまるで傍らで見ているかのように鮮明に想像することが出来る。


 顔見知り。



 友人だとも、仲間だとも、もちろん家族だとも。


 心の中で彼らをそう呼ぶことを躊躇われた。


 嫌な訳ではない。そう呼ばれるだけでくすぐったくなる様な幸せを感じる。



 しかし、そう気軽に呼んではいけない事も強く感じていた。自分が知っている友人とは掛け替えが無い物で、仲間とは互いに命を預け合うもので、家族とはもっと通じ合っているのもだった。


 彼らに不足がある訳ではない。



 悪いのは自分。足りないのは自分。汚いのは自分。



 だから、少女は彼等と顔見知りという関係以上にはなれない。



 現に、彼女はただ自分勝手な感情一つで彼らに近づく事さえも出来ないでいる。



 怖い。


 ただ、それだけ。


 命を奪う事にではない。奪われる事でももちろん無い。



 あの恐怖は、この自分を取り戻したくなかった事から来た物だ。至ってしまった今では死など最早通過した物でしかない。




 落胆の目を知っている。


 拒絶の目を覚えている。


 離別の味を思い出せる。



 そしてその目が、自分を見つめる、自分に笑いかけてくれる彼らの目に投影される。



 怖い。


 唐突に地面から湧き上がる冷気が倍増したように感じて、自分の体をかき抱く。


 自分の手を覗き込む事さえも。怖くて怖くて怖くて、怖い。



 見つめた先が溶けて、泥になるようで。そしてそうなったらきっと、そのまま自分は無表情のまま生を諦めるのだろう。



 そんな記憶が体の中にごまんと存在している。


 その記憶の中で、この自分は何の変わりも無く、ただ周りが優しく在ってくれただけ。



 死んでいった、諦めていったその他と自分の見分けは付かない。いずれは、溶けて、混ざって、消えるのだ。




 記憶が元に戻って、大きな大きな泥の塊に既に自分は埋没している。



 もう、以前の自分がどんな形の土くれだったのかも、定かではなくなっていた。



 ──いや、きっと。



 そんな物は最初から無かったのかもしれない。


 ただ何かに憧れて、身に余る何かを願って、泥の自分に目を瞑って。嘘をついていたのだ。






「結局さ、君は誰なんだろうね」





 幼い声がした。


 柔らかく高いその声は聞き違う訳もなく子供のそれだったが、その口調も話し方も雰囲気もどこか老獪な雰囲気を感じさせる。



「いくら記憶を探してみても、君はこんな所に居る訳は無いんだよ。決してね」



 いつからそこにいたのか、大通りに続く路地の終わり。その傍らの壁に小さな体が背中を預けている。



「そりゃあ、数は有る訳だから可能性がゼロだとは言わない。だけど、君程の出来なら忘れる訳は無いんだ」



 意味ありげに目を瞑り、ゆっくりと壁から背を離しその小さい体同士が向き合った。



「何かの奇跡で君が戻ってきてくれたのなら、僕は嬉しいよ。だけどね、」



 伏せていた目が、ゆっくりとこちらに向けられる。



「もし君が勝手にその姿を使っているだけだと言うならば、肉の一片さえもこの世に残さず殺し尽くす」



 その目は鋭く、どろりとした殺意が体の自由すらも奪っていくようだ。



「私は──、」



 口は淀み無く言葉を繋ぎ、もしフェンを知っている人間ならば違和感を覚えるほどだろう。


 そしてきっと、次の言葉で耳を疑うのだ。



「フェニア・ミストガルナです、お父様」



 それを聞いた目の前の子供も、目を丸くして言葉を失くしている。しかし、暫くもせずにその唇が醜く歪む。額には期待からか汗が浮かび、きっとそれは嘘ではない表情。



「……へぇ、君はフェン・ラーヴェルではないのかい?」

「ラヴェルは記号ラベル。その名前は、──ただのレッテルです」



 嘘には敏感なこの男。感情が見え隠れしていた表情を一旦隠し、一欠けらの嘘も見逃さないつもりなのか少女に近づいて顔を覗き込んで、笑ってみせる。



「それじゃ、君はまた僕のために笑ってくれるのかい?」

「はい、お父様」



 そう言って、フェンは目を細め唇を綻ばせた。


 


 視界の端に、たまたま行き着いた闘技場が映っている。

 





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