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ハイイロ ノ カナタ  作者: mild
第一部
148/281

遭逢




 ヴァーゴがオフィウクスの表情に凍り付いていた最中、不意にタウロスが砂塵の中に飛び込んだ。




「タウロス……!?」



 その唇はオフィウクスと同じように歪み、しかし何処か身に過ぎる喜悦を表している。


 その姿は砂塵に呑み込まれて消えていく。追いかける事は誰もしなかった。オフィウクスは微笑を保ったまま成り行きを見守っているし、他はこの砂塵の中にわざわざ踏み込もうとは思わなかった。


 何しろ、未だあの鬼の仔のような化物がこちらに睨みを利かせているのだ。



 ──そして、幾許か後。



 ぎちり、とどこか遠くで音がして、同時に。黒髪の怒りの視線が僅かに緩み。


 再び、世界が変わった。



「……!」



 臭う。酷い臭いだ。


 夥しい量の血の臭いを、じくじくと侵食して別の何かに変容していく。



 ヴァーゴは直感する。



 状況が変わった。

 この化物連中の中では一番弱いという自負があるせいか、危険には敏感だった。


 何しろ自分はこの顔まで隠した黒尽くめの衣装が無ければ太陽の下にも立てない。基本的には裏方の人間なのだ。



「な、に……これ…?」



 確信があった。タウロスはもう死んだと。呑み込まれた。いや、あれの場合は喰われたといった方が良いのだろうか。



「なぁアあんでしょう?」



 明らかに、第三者の声だった。


 男の声だということは判るが、タウロスでもシキノハルユキの物でもない。



「……え?」



 すぅっと、あれ程濃く立ち込めていた砂塵が薄らいで消えた。まるで何かにひれ伏したかのように砂の粒は地面に落ち、景色が透明度を取り戻した。


 取り戻さないほうが良かったのに、と頭が何処かで悲鳴を上げる。


 しかし、晴れてしまったからには、もう目を逸らす事すら出来ない。




 ──ぽつん、と何かが闘技場のちょうど中心に立っていた。




 臭う、臭う、臭う。


 鼻を庇ったところで匂いは消えず体中の毛穴から入り込んで全身を蝕んでいくようだ。


 それは感覚を麻痺させ、思考を腐らせ、喉の渇きを思い出させる。





 何も判らない。


 素性も、正体も、何の生き物なのかも。



 ただ一つだけ例外的に判るのは。




 あの怪物が、ここにいる全ての敵だと言う事。


 





   ◆





 最初に襲い掛かったのはアリエスだった。


 男の足元に転がったタウロスは微動だにせず、アリエスを援護する事も無い。




「──"鉄柩リッサ"」



 紡ぐのは鉄の箱の名。


 今までの戦いに用いていた物と合わせて、闘技場中から集められた鉄の砂が空を覆う。



「──"影法師"」



 それに続くは、何処からかその巨体を持ち上げた影の巨人。重量を感じさせない動きで腕を伸ばすと、ラストの体を掴んで中空に持ち上げる。



「──"鋼鐵啼ファラリス"」



 拙くも連携という物を用いたのは無意識下でラストの脅威を感じ取ったからなのか。


 持ち上げられた蹉跌は、影法師がラストを地上から10メートルほど離した瞬間に、影の巨人の腕ごとラストに覆い被さった。



 瞬間、思わず耳を塞ぎたくなる様な錆びれた音が火花と共に闘技場中に溢れた。



 細かく振動する砂鉄の一粒一粒は、さながら鋸の様な切れ味を持って火花を散らしながら相手を粉微塵にする。



 更に更に更に。

 地面を削りその底から砂鉄を巻き上げ次第、ラストに叩きつけていく。



「──圧」



 既に球状にすれば直径二十メートルは下らないのではないかと言うほどその体躯を増した砂鉄の巨軍は、長たる女の一声によって一息にその体を半分以下に収縮させた。


 ギシリ、と鉄同士が擦れ合う音が闘技場内に響き渡る。




 しかし、まだ女達の気は休まらない。



「──"影縫い"」

「──"嶺王のウラド・ツェペシュ"」



 打てば響くように、祝詞に誘われてその魔法が体現する。


 影の刃は黒尽くめの女から溢れる様に沸きあがり、鋼鐵の杭は地面に待ち構える傷物の女の血と魔力を糧に。




 ──それぞれ膨大な物量と数量を以って、砂鉄の檻の中を余す所無く刺し貫いた。





 沈黙は一瞬。次の瞬間には影はヴァーゴの足元に還り、鉄の杭は砂鉄の中に風化していく。


 余りに圧力を加えすぎた砂鉄は薄く赤熱し、巨大な鉄の塊となりアリエスの支配から解放された後、今度は重力にその体を拘束され、ゆっくりと自由落下を開始し、地面を揺らして着地した。


 スコーピオが黒髪を攻撃してから僅か数分の出来事。

 

 それだけの時間で闘技場の石畳は細かに砕かれ端に追いやられ、地面は通常の高さから数十センチ降下し、舞台の中央には人の手ではとても除けられない鉄の塊が陣取っていた。



「……アリエス」



 ヴァーゴの声に頷くでもなく、アリエスは鉄の塊に近寄り手を添える。


 殺せていない。

 ヴァーゴは心中でそう断定した。


 理由としては理由として成立しないような感覚が一つだけ。


 纏わり付くように毛穴から入り込んでくる不穏な空気もそのままなのだ。いや。むしろ加速度的に大きく濃くなっている気すらする。



「下がれ、アリエス」

「そうと……っあ」



 いつの間にか後ろに立っていたオフィウクスに驚き、アリエスは振り向こうとする。

 しかしその前に腰を捕まえられ、数歩後ろに下げられた。



「総統、何を……!」




 瞬間、鉄の塊の一部が盛り上がって、その外皮を突き破った。



 中から伸びてきたのは一糸纏わぬ裸の腕。鉄の中を進んできたとは思えない速度で伸びてきた腕は、アリエスの首があった場所を握りつぶした。



 息を呑んだのは女二人。


 笑っているのはアリエスを抱え込んでいるオフィウクスと、そして恐らく目の前の腕の主も。



 見せ付けるようにゴキリと指を鳴らした後、腕はゆっくりと鉄の塊の中に戻る。


 ゆっくりと、本当にゆっくりと。


 まるで切り落としてくれても構わないとでも言うように、腕は暗く影の中に潜って行った。



「アリエス」



 オフィウクスがアリエスを離すと同時に、アリエスの名前を呼ぶ。

 何をしろと言われた訳ではない。しかし短くアリエスは仰々しい返事をすると、静かに直立したまま、目に殺気を漲らせて鉄塊を見据えた。


 その視線にこめられたのは魔力。魔法の源。

 オフィウクスの意思は、再び彼の男を殺し直せと言うことだった。だからその僕たるアリエスは思考を止めてでも感情を殺してでも魔を繰る。



 そして、その鉄の塊が宙に浮く。




「……命令を聞きません。どうやら制御から離れたようです」




 しかし、持ち上がったのはアリエスの意思によるものではない。

 原因は判りやすく、鉄塊の周りに薄く白い魔力が纏われていて、──そして、鉄塊の下に片手でそれを支える男が居た。

 何か面白い事でも思いついたのか、口は三日月形に割れ、ギヒッと判りやすい笑い声が歯の間から漏れる。



 不意に。

 ギチリ、と最初に音を立てて鉄塊が歪みはじめた。

 どろりと形を無くすように崩れた塊は、地面に落ちきる前に持ちこたえ、収束し、洗練され、形を変えていく。



「嘘……」



 身の丈を超えるだとか、その様な陳腐な大きさではない。太さはどこぞの神殿の柱よりも遥かに太く、そして大きさは闘技場の壁の高さより長いだろう。


 そして、それを何に使うかなど考えるまでもない。



「────」



 聞こえさせる気も無いのか、小さく男の口から声が漏れる。


 その声は余りに小さすぎてアリエス達の耳には届かないが、その口は明らかに単純な事を伝えようとしていた。


 ただ。




──死ねと。




 男の手の上で最終的に形をとったのは巨大な三又槍。太く、大きく、しかしそれだけの素朴な鉄槍。

 それが大きく身を反らし、振りかぶられる。




「総員回避行動」




 短い言葉、しかし発したのはオフィウクスだ。


 金縛りにあったかのように身を固まらせていた面々が一斉に縛りから解き放たれ、全員がその危険度を察知し、迫り来る巨槍の先の延長線上から身を逃がした。



 そして、凶器が振るわれる。



 横薙ぎにしたわけではない。上から振り下ろしたわけでも、突き出したわけでもない。


 男が選択したのは、残る最後の槍の使用法で、そして最も被害が大きくなると思われる方法。



 投擲。


 風を巻き上げ、唸りを上げながら巨槍は突き進む。そして、轟音と共に砂塵を巻き上げた。槍が通過した後の地面は抉れ、空気は裂かれ、その巨躯は余りの速さに霞んで引き伸ばされる。


 戦いの囲いに作られた強固なはずの闘技場の壁が、今は砂糖を押し固めただけの拙い壁に思えるほどに容易く砕かれた。



 しかし、槍の勢いと重量はそれだけではとても全ての力を吐き出しきれていない。



 やや上方に投げ上げられた槍は客席を舐め上げるように粉砕していき、客席の半ばから建物の中に潜り込み、しかしまだ止まらない。


 止まったのは、闘技場を半壊させながら外壁を突き抜け、一番近くの民家の壁に食い込んだ後。



 その時には既に破壊された部分から闘技場は崩壊を始めていて、円の形になっている闘技場の壁の十分の一が崩れ落ちていた。



「あんな生き物も居るのか、この世界には」



 放射状に広がった破壊の跡を見て、感慨深げにオフィウクスは呟いた。


 立っているのは客席の半ばの、それも今にも崩れ落ちそうな崖の先。隣にはいつの間にか子供の姿があり、他の面々も遠からない場所で未だラストに警戒を露にしている。



「……また、想定外なレベルの奴が出てきたものだね。こんな所で偶然出会うようなもんじゃないだろうに……」

「廻されているのかも知れんな。私共もあの白い男も、鬼の仔殿を中心に」

「……まあ、彼が居なきゃ出会わなかっただろうね」



 子供は肩を竦めながら、横目でちらりとオフィウクスの顔を見てそしてやれやれと溜息を零す。

 オフィウクスの顔に、いつもよりほんの僅かに濃い喜色が浮かんでいた。



「どうするんだい?」



 返ってくる答えをほぼ間違いなく予測しながら、レオは溜息と苦笑交じりにオフィウクスに予定調和を投げかける。



「結界はどうなっている? ここにこれ以上部外者が混じるのは避けたい」



 当たり前の質問。少しタイミングがおかしいが、闘技場の外観に深刻な変化があったのは明らかだ。その質問は集団の中心として義務ともいえる言葉だった。

 しかしレオにはその言葉が、まるでこの場所この状況を尊び、汚されたくないが為に発せられたかのように感じて、そしてそれは恐らく間違いではないのだろう。



「一つ精度を上げたよ。長くは持たないけど、もうこの場所には近寄りも出来ないはずだ。万が一近づいたとしても感知できる」

「助かる。流石は我が腹心だ」

「どうも」



 短く返して、次に来るはずの言葉をレオは待つ。


 先の応答で集団のトップとしての責は終えた。ならば、素通りされた先程の質問の答えが返ってくる。



「では、少し言葉でも交わして来ようか」

「まさか、仲間に加えるとか言い出さないだろうね?」



 レオの言葉に意味ありげな笑みを残して、オフィウクスの体が薄らいで消えていく。


 その後ろには先程作り出した空間の穴。信じ難いが見えている範囲と座標に印があるならば何処にでも移動が出来るらしい。


 この町に来ることが出来たのも、ラィブラの魔力を感知できるレオと協力して行った事だ。



 その姿は消えながら、必ずどこかに現れ始める。


 移送は一瞬。一秒の半分のそのまた半分もかからない。



 既にオフィウクスの姿はラストの正面に。



 

   ◆




 滲み出るように目の前に現れたオフィウクスに、驚きもラストはただ唇の端を更に歪ませる事で反応を見せた。


 可視の白い何かが薄く体中から立ち昇り、それは神聖な羽衣とも陰鬱な死装束とも思わせられる。


 太陽が出ているこの夜でもその存在は浮いていて、目を閉じれば残光のように瞼の裏に映りこみそうだ。



 ゆっくりと太陽を背にオフィウクスに近寄りながら、強い光のお陰で濃く引き伸ばされた陰がオフィウクスの足元に届こうとしたところで、ラストの足が止まる。



「さて、初めましてだ」



 言葉を聞いているのか無視しているのか、ラストはただ黙して拳を軋ませる。

 それを確認したオフィウクスも返答は要求せず、ただ浮かべた微笑にほんの一握りだけ子供染みた残酷さを滲ませる。



 ──それで?



 小さくラストの口が言葉を発する。


 その頬は吊り上り、それに呼応するようにオフィウクスのそれも三日月形に歪んだ。



「何、一応この場を仕切っていてね。柄にも無いのは判っているが。挨拶だとでも思ってくれ」



 一瞬だけ、両者の視線が重なる。


 直ぐに両者の視線は足元に落ち、代わりに両者ともあからさまな笑みを顔に浮かべた。



 キヒッとラストの歯の間から笑い声が漏れる。

 くっくとオフィウクスが口の中で小さく笑う。



 笑顔を保ったままラストの握られた拳が、地面と平行に持ち上げられる。


 瞬く間にその腕に収束するのは、密度が高すぎて触れただけで毒されそうな純白の魔力。



 拳を握った、力を入れたというだけではとても納得できないほど大きな、まるで鋼の弦を鋸で弾いたような濁った音がわめき出す。


 余りに濃厚な魔力はラストの右拳を白く霞めさせ、うまく視認すら出来ない。




 対するオフィウクスは、変わらずゆったり右手を前に持ち上げるだけ。ふわり、と優雅に腕を差し出す様は、ラストの所作と同じ行為だとは思えない。



 それは綺麗過ぎる怪物が異常なのか、それとも粗暴に過ぎる化物が歪み過ぎているのか。



 オフィウクスの背後が歪む。波打つように歪んだその奥から顔を出すのは、そのまま削りだされたような掌で包める程の小さな石。


 何処にでもありそうな小石はしかし、その小さな体には耐え切れないはずの力が圧縮され内包されている。



「どうだ? 折角の出会いだ。交わせるのならば言葉でも交えたいが」



 しかし、その脅威はラストに見せ付けるように解かれた。

 その所作は、攻撃の意思が無い事を伝えるには十分で、そしてラスト自身もその事には気付いたのだろう。




 しかし、その博愛的な行為にラストが返したのは、更なる殺意と歪んだ笑み。



 祝詞も不要。

 魔法ですらないのかもしれないそれは明らかにこの世のルールから逸脱したもので、ただ力を込めることの延長線上でしかないのかもしれない。

 背後で先程自分が起こした破壊と劣らない破壊を見もせずに、ともすれば感心すらもなく、ただラストはその拳に力を込めて──その姿が霞んで消える。




 気付けば、ラストの姿はオフィウクスの頭上。



「総統!!」



 健気な忠臣の声と共に、オフィウクスの背後から鉄の槍と影の刃が飛ぶ。


 空中に踊り出たラストは避けられなかったのか、いやそれとも避けようとしなかったのか。



 ──その刃も槍も、薄皮一枚貫通した所で勢いを失った事から考えると、避ける必要がそもそも無かったのかもしれない。



 ラストの紅い目が夜の闇にも、太陽の下にも不思議と良く映える。更に大きく魔力が纏われたその腕は、太陽さえ昇っていなければ白月のように鮮やかで、





 ──そして、本当に月が落ちてきたのではないかと言うほどの破壊をもたらした。




 轟音は当然、震撼は当然。


 闘技場は哀れ、更に形を無くす事になった。


 

 何の抵抗もなかったように地面に吸い込まれた拳は地面を砕き、捲り上げる。


 地割れの伝染は闘技場の隅々まで行き渡り、何処も彼処も等しく砕き捲れ上がれ、隆起していく。


 それはまるで闘技場の中心に巨大な花が咲いたかのように、不規則に地面と壁がそそり立ち花弁と為した。



 ただでさえ不安定になっていた観客席が更に崩れ落ち、盛大に音と土煙を吐き出す。




「……これはまた」




 いつの間に移動したのか、地面から十メートルほどの中空に浮くオフィウクスは呟いた。


 視界の中にラストは居ない。


 隠れようとした訳ではないのだろうが、結果として闘技場が半壊してしまって視界は利かない。


 地面には既に平坦な場所は無くなってしまった。オフィウクスはまるで危険を楽しむ子供のように表情を綻ばせたまま空に向かって割れた切っ先を向ける元地面に着地して改めて辺りを見渡す。




「凄まじいな。まるで怪物か、もしくは悪魔だ」




 不意に、砕かれた地面の破片の一つが持ち上がった。


 隠そうともしない気配と禍々しい殺気が、そこに何がいるか無意識に伝えてくる。


 破片と言っても、小さな欠片を手の中に持っている訳ではない。"土"文字持ちの人間が10人がかりでやっと作れるような巨大な塊。その切っ先は鋭くまるで土の巨槍のようだ。


 間を空けずに、それが全力で投擲される。




 対したオフィウクスがやる事と言えば、相変わらずゆったりと片手を持ち上げるだけ。


 空間を波打たせて現れたのは、先程と変わらない小さな小石が幾つか。しかし今度は無闇に突撃する事はなく、オフィウクスを中心にゆっくりと円軌道を描き出す。


 まるでオフィウクスを守るように周回するそれは、まず飛来してきた石槍の切っ先を砕いて、殺傷能力を殺した。



 白い線が体の周りを回っているようにしか見えない速さで、石槍が十センチも進まないうちに別の小石が下から石槍を穿った。


 顎先に拳を叩き込まれたように、石槍が腹を見せる。


 しかしそれでも、勢いが止まらない石槍にオフィウクスは右手を翳す。



「狭苦しいのは苦手でね」



 じわり、とその右手から今までとは違うベクトルの何かが滲んだ。


 元より色を持たない魔力が変換されて、出来上がったものもまた色がないのなら感じれるはずもない。しかし、地面に向けられたその手からは、どうしても不吉なものを感じざるを得ない。



 オフィウクスの魔力が出鱈目に壊された闘技場の隅々に行き渡るまで、要した時間は一秒も無かった。





 そして、地面が大きく縦に揺れる。



 オフィウクスが行った事は、説明するなら簡単だった。


 ラストとは逆の事をやってのけたのだ。


 ラストの拳でひび割れ捲り上がった地面を、上からそのまま押し戻した。


 まるで空気が巨大な重石にでもなったかのように、更にその身を崩されながら闘技場の地面は"平らに馴らされていた"。




 それでもしかし、闘技場が元に戻ったとは言いがたい。


 壁はほぼ全ての場所に罅が入り、今もぼろぼろと崩れている場所がある。


 床にぴっちりと嵌っていた石畳は、既に砂利に成り下がった。


 ほんの僅かに湿っていただけの普通の地面は、砕かれ押し潰され今や砂場と言ったほうがいい。




「言葉を交わす、か。成程、どうも私は無粋だったらしい」




 

 慣れない事をするものではない、溜息を付く。


 しかし、それも結局は言葉に過ぎない。オフィウクスも歩み寄るラストに返事は期待していなかったし、ラストも殺意を笑みの中で捏ねるだけ。


 足元まで伸びた長い襤褸切れの外套はあまりに軽く風に揺れ、亡霊と並んでもそう違和感は無いかもしれない。



「──お前は」



 風に乗って、ラストの声がオフィウクスに届いた。

 


「悪の怪物か、それとも正義の味方か?」



 淡々と告げたその言葉に、ふざけた様子もましてや冗談を言ったようにも感じられない。そして、ラストの足はいつの間にか止まっていた。

 答えを待っている。

 言外にそう伝えていた。


 

「知らん。善だ悪だと拘った事は無い」



 オフィウクスの言葉に、つまらなそうに鼻を鳴らすとラストは再び歩を進め始める。

 ゆっくりと、走るわけでもなく近寄ってくる。しかし、一歩毎に身に纏う魔力と殺意の濃さは目に見えるほどに増していく。


 しかし、その顔は曇ったまま。



 対極的に口の端を吊り上げているオフィウクスを見据えて、




「が、傍から見ればそれはもう悪党だろうな」




 ──そしてその言葉に、またぴたりと再び足を止めた。


 

 数秒の後。



 キヒッとラストの歯の間から笑いが漏れる。

 吊られるようにオフィウクスも口の中で小さく笑う。



「──ギャはははははははははっはは!!!」

「──っハハハハハハハハハハハハハ!!!」



 静かな闘技場の中に、両者の笑い声が酷く閑散と響いていく。可笑しくて可笑しくて堪らないと何処かが捻れて歪んだ二人は外野を置いて、目の前の享楽に歓声を上げる。



「悪党か、成程。──なら、殺すぜ?」

「ああ、実を言うと私も会話より殺し合いの方が得意だよ」




 顔に笑顔を、視線に熱を。


 そして拳に掌に、彼等は殺意を躍らせる。





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