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ハイイロ ノ カナタ  作者: mild
第一部
147/281

転々

 その光景をただ眺めていた。

 いや、眺めているしかなかったのだから仕方が無いといえば仕方が無いのかもしれない。それが言い訳にすらならないのだとしても。

 結果、力を失ったジェミニは誰からも支えられる事無く地面に体を打ち付けることになった。その隣に居るはずの、手を届けばジェミニの体を支えられるはずのレイの視線の前を横切って。




「──、……ぁ……?」




 逆転を確信していたハルユキの表情が固まって、まだ中途半端に笑ったままの顔でそんな声とも付かぬ音が口から漏れた。


 視線は、きっとハルユキがこの世界で最も信頼している部類に入る二人の元。しかし、そのうちの一人はもう片方の一人の暴力によって力無く地面に沈んでいる。



「どうして……?」



 ハルユキの表情が一瞬で凍りついた事に気付いて、重い身体でノインもハルユキの視線を追い同じ感情が篭った声を漏らす。


 その先では、見間違うはずも無い着物の麗しい吸血鬼がただ胡乱な表情で倒れ伏したジェミニの傍らに突っ立っている。皮肉にもその姿はいつも以上に人形染みていてどこか厳かさも感じさせた。



「……レイ……!」



 思わず手を伸ばして、しかしやはり薄い肉の膜のような壁に阻まれて小さく音を立てた。 



「……く」



 その音で我に返り、少しでも近づこうともう片方の腕も壁に押し付け、喉を震わせた。

  


「レイっ!! お前、何やってんだよ! ……ジェミニ! 返事しろ!」



 歯を思い切り軋ませた後、ハルユキは思い切り声を出した。その声はどこか悲鳴のように聞こえたが、それでもレイは微動だにせず、目の前に倒れたジェミニにすら視線を向けない。

 様子がおかしい。

 薄々気付いていた事実に、ハルユキはそれ以上レイへ向ける言葉をなくしてしまった。



「……何を、した?」



 代わりに言葉を向けたのは隣で相変わらず余裕の体を保っている金髪の男。

 ハルユキの言葉は反応としては妥当だったが、どこか動揺を誤魔化すための言葉にも聞こえる。それはきっと間違いではなく、そうでもしなければこの余りに脆い檻を壊してしまいそうだったのだろう。



「私ではないさ。まあ、想定していなかったかと聞かれれば、していたと答える他無いがな」

「どういう……!」

「なに、君達には最高の評価と、そして最大の警戒を持っていただけだ」

 


 ハルユキの言葉の途中で、男は黙って前方を顎で指し示した。指が示しているのは、レイとジェミニが居る場所。


 しかし先ほどとは違い、満面の笑みを携えた女が一人、レイの傍らで愛おしそうにレイン身体を撫でていた。



 この場には不自然なほど普通の格好で、血も埃も服には付いておらず逆にこの面々の中では浮いている。しかしその格好よりも印象的な何かが女の周りにはあった。


 そして数十分前にハルユキは同じ感想を抱いている。



「見て、オフィウクス! 彼女格好良いでしょう? 凛々しくて綺麗で強くて、それにね! 綺麗な信念せいぎもあるの!」



 ハルユキの感情を傍目に、女は無邪気な声を上げる。



「それは羨ましい。私も部下に欲しいほどだ」

「だーめ。この娘は私のだから」



 にこにこと嬉しそうに笑うスコーピオと名乗る女と対照的に、体中をべたべたを触られ続けるレイの表情は一切変わらず、ただ虚ろな目を虚空に向けている。


 後ろから更に黒尽くめの女が滲み出るように姿を表すが、そんなものは目に入りすらしない。


 もう一度、今度は名前を呼ぼうと思ったのかハルユキの口が開きかけて、しかし届かない事を悟ったのか、言葉を発する事無く口は閉じられ歯は噛み締められた。



 一瞬だけ、ハルユキが地面に視線を落として、直ぐに戻ってくる。



 その目からはおよそ人情だとか温かみだとか、そういったものが根こそぎ抜け落ちてしまっていた。





「──貴様ら」




 改めて、ハルユキは口を開く。


 今までの余裕のある言葉と比べて、明確に敵意が表れた言葉。自然と全員が口を噤みその声に集中したのはその敵意を感じ取ったからなのだろう。



「そいつに、……レイに、何をした?」



 その口調は恐ろしく静かで、しかし油を一滴でも注いでしまえばどれほどの烈火が燃え上がるのか想像も出来ない事を思わせる低い声。

 


「? 私が私の物をどうしたって私の勝手でしょう?」



 いけない、とノインは目を見開く。


 それ程長い付き合いではないが、それぐらいは分かる。穏やかなのは堪えているからなのだ。きっと耐える事には慣れているのだろう。その表情からは少し冷たいのではないかと思えるほどの平常心が戻っている。



 しかしそれはただ下火になっているだけなのだ。


 女の言葉に誘発されてか、力付くで押さえつけられた蓋が開き、少しだけ怒りが漏れて言葉に乗る。






「──何をしたのかって聞いてるんだよ、小娘」






 しん、と闘技場の外からの音も沈黙したかのように、その言葉を最後にして闘技場から音が消えた。


 言葉の内容が大して変わったわけでもない。それなのに、それを受けた頭はまるで違う反応を示す。


 答えなければ殺す。はぐらかせば殺す。意にそぐわない回答をしたら殺す。そう言葉尻に付けて殺意を叩き付けられたかのように、嫌な汗がいきなり背中を濡らす。



「……何かするのはこれからよ?」



 傍に居ただけのノインですらそう感じたというのに、直接言葉をぶつけられた女は涼しい顔でそう言った。



「これから、だと?」

「そう。みんな一緒に糧になって、みんな一緒に大きくなるの」

「か、て……?」

「そう、彼等の。そして私の。仲間入り」



 そう言って、スコーピオは三日月形に唇を歪めた。



 すると何が合図になったのか、ずるりと生々しい音を立てて何かが地面から湧き上がるように姿を現し始めた。


 それは赤黒い何かの液体。ハルユキは知らないが、それはレイを度々襲っていた正体不明の妖。


 ハルユキには初めて見る物だった。しかし、それが、それの仲間に加わるという事が、限り無く死に近い現象だという事だけは分かってしまった。



 怒りにもう言葉すら出てこず、ただ拳が握られる。しかし、目の前には大して厚くも丈夫でも無い割にどうしても超える事ができない壁が邪魔をしている。




「大丈夫よ。取り返せばいいんだから」




 取り乱した事が伝わったのか、ノインがハルユキに声をかけた。間違い無くただの気休めだが、間違っている訳ではない。そう、まだ。まだ諦める事はない。




 ──しかし、まるでそれも予定調和の一部だとでも言うように、もう一つ事態は悪くなる。






「悪いが、そんな機会は与えてやれない」

「……?」



 小声が風に乗って届いたのか、敵陣の一番奥にいる金髪の男が勿体付けるように口を開き。




「何しろ、我等はもう帰還するだけだ」




 当たり前のようにそう言った。





「な、に……?」



 金髪の男はゆっくりと歩を進めて、ジェミニの傍に立つと、自らジェミニを肩から背負う。



「総統、私が」

「ああ、頼む」



 言って、男は回りにも声をかける。



「タウロス、レオ、スコーピオ、ヴァーゴ、貴兄等はどうする?」

「……俺ァ帰る。また少し気分が悪ィ」

「私も。漸く二人とも揃ったんだもの。早く並べたいわ」

「僕は残らないと駄目でしょ。結界は保たなくちゃいけないし。まだ用も終わっていないし」

「すまんな」

「まあ、僕は裏方が仕事だからね。納得してるよ」


 意識の裏側でそれを聞いているような気分だった。耳は確かにその会話を聞いていて、しかし脳を綺麗にかわして反対の耳から抜けていく。


「タウロス。結界はまだ保ってもらうぞ」

「……あ? ああ、ありゃあの女の魔力奪って作ってる。消そうとしなけりゃ消えねェし、俺が死んでも消えねェよ」

「それは僥倖」


 ようやく、自分の口が動くのを感じた。焦りのせいか擦れていて声になったかどうかも怪しかったが。


「帰る、だと……?」

「何だ? そんなにおかしな事を言ったつもりは無いが」

「お前……、この町を消すんじゃなかったのかよ……?」

「まるで壊して欲しいように聞こえるが、まあそれはいい。気持ちも分かる。しかし町を消すのは私の役目ではないし、それに私達の用は粗方済んだのだ。留まる理由がないだろう」



 そう言って、男は何も無い目の前の空中に手を翳す。

 ジェミニを躊躇させたあの手の形。それが魔法という神秘に類するものだという事は分かる。しかし、その手の意味も現れた現象もまるで理解する事はできない。



 ギッと空気が嫌な悲鳴を上げたかと思えば、空中にぽっかりと穴が空いていた。

 直径二メートルほどの円形で一帯何次元に存在するものかも良く分からない。その円の中は黒か青か良く分からない色が交じり合っていて、少なくともそれに触れようとする気だけは起きない。



「さて、突然になったがお別れだ。何か言いたい事はあるかね」



 恐らく何万歩よりも遠く移動する一歩を控えて、金髪の男はその微笑をこちらに向けた。




 思考が止まっていた。

 考えなければいけない。何か言って引き止めなければいけない。


 それは判っているのに思考がそれ以上回転しようとしないのは、もうこの状況を覆す事が不可能だからなのか、──それとも、余りに判り易い選択肢が残っているからなのか。

 


「ハル」



 そんな心境を見透かしたかのように、ノインの声がハルユキの背中に届いた。


 たった一言で何を言いたいのかももう判る。頭ごなしに否定する事は、もう出来なかった。



「貴方がここに閉じ込められているのも元を辿れば私の責任。それにね、こんな状況でこれ以上役立たずを演じていたくはないの」



 その強がり半分自信半分どこかに隠した不安一割といった声を聞きながら、改めて敵の姿を見やる。



 一人。体中が返り血に染まった食人男。

 二人。ハルユキは初めて見る黒尽くめの女。

 三人。殺意の塊のような鉄の女。

 四人。レイをまるで従えるように後ろに連れている少女。

 五人。子供の体の中に老人が入り込んでいるかのような矛盾した子供。


 そして、最後の六人目。最後まで厳かな空気を崩さなかった獅子のような男。



 あの連中があの妙な穴を潜るまでに、助けがくるとは思えない。そして、レイとジェミニを手玉に取った連中を易々と倒せるだけの人材にも心当たりが無い。


 だから、やはりもう選択肢はそう多くない。



「……あ、あのね。勘違いしないでよ」



 座ったままの大勢では格好が付かないと思ったのか、ゆっくりとノインは腰を上げる。その動きに危なっかしさは感じられなかったが、感じないように見せているのだという事は感じた。



「確かに。……確かに貴方はあの時、その、ああいう風に言ってくれたけど。それは私が貴方に頼り切るって事じゃない」



 傷付いているはずなのだ。数時間前までハルユキの腕の中からは出られなかったほどに。

 それでなくても、昨日のユキネとの試合で魔力も体力も底を付いていると言っていた。しかし、彼女は力強く胸を張っている。



「言ったからには、支えてもらうし、助けてもらう。だけどね、別に貴方の庇護下にいたいわけじゃない」



 それは、虚勢だったし、見得張りだったし、限界だった。



「私が弱い部分を支えてもらうなら、私も貴方の支えになりたいわ。私はね、別に貴方が強いから好きなわけじゃないのよ」



 それでもやはり彼女は強い女性だった。



「────ノイン、すまない、本当に」

「馬鹿ね、良いって言ってるでしょ、私は。最初から」



 返ってきた言葉は強い言葉。

 心強くて、あまりに彼女らしくて笑ってしまいそうになるような言葉。


 しかしそれでもハルユキが、ハルユキだけは彼女の強さに頼る事はしてはいけなかったのに。



「あいつ等殺したら、何でも言う事聞いてやる」

「あら、私は欲張りよ。王女様だから」



 冗談交じりの声に小さく笑って見せてから、壁に手の平を当てる。その感触は柔らかく、まるで人肌のように僅かに温かい。



 "この壁を壊せば、ノインが死ぬ"



  

 どうかあの男の言っていた事がハッタリであって欲しいが、魔法に関する事だ。ハルユキの常識ではいまいちは借り切れず、その考えは希望的な妄想だろう。



「………っぁ」



 ぐ、と壁に力を入れると壁がほんの僅かにたわみ、それと同調して後ろから苦痛に喘ぐ声が聞こえる。




 一息にいった方がいいと直感的にそう判断して、



 ──しかし。




 貴様らの葛藤など知った事かとでも言いたげに、壁に変化があった。




「────っ」




 反射的に腕の力を緩めて止めた。壁の感触は変わらない。ただほんのり赤かったその色をほんの僅かに濃くしていた。


 一瞬遅れてその色の秘密に気付く。今触っている壁には何の変化も無く、ただ色が重なっただけだという事に。結界の外にもう一つ結界が重なった事に。




「駄目よ。おイタしちゃ」




 今にも壁を突き破りそうだった腕を反射的に引っ込めた。


 色が変わった結界をまじまじと見つめる。ノインのそれよりほんの僅かに赤みが強い壁の色。それは血の色に良く似ている。



「貴、様……!」



 何を行ったのか、見る事無く悟った。殺意に溢れた視線を上げれば、その想像通りレイが胡乱な表情のままスコーピオの胸の中で荒い息を付いていた。



「無理は止めてね。その結界は見様見真似だけど、きっと弱ってるこの娘は死んでしまうわ」



 恐らくタウロスの技を無理矢理真似した分の負荷が、媒体であるレイに押し付けられたのだろう。意識は無いものの、気丈なはずのレイが蒼を通り越して真っ白な顔で荒く息を付いている。



「……殺す。貴様は必ず殺してやる」

「殺されるのは嫌ね」



 顎に当てて、少女は考えに耽る。その様はただのポーズにも見えず、本当に思い悩んでいる風にしか見えない。


 そして、少女はただ本当に名案を思いついたのだろう。それはもう花開いたような朗らかな顔で。





「──じゃあ、殺される前に殺せばいいかしら?」





 殺意を剥き出しにした。








 一瞬で、本当に瞬きを一回するような時間で、その殺意が如何に巨大な物かをスコーピオは形で示した。



 所謂、魔力といわれるものがスコーピオの小さな体から噴出して迸る。それはだんだんと圧縮され集合し集約し、この世に魔法として生まれ変わっていった。

 


「な……に……!」



 巨大で、赤黒い塊。それは削り取った氷山の様に荒々しい表面で、所々は鋭利に尖っている。


 幾つもの刃を折り重ねて出来上がったようなその凶器が、また幾つも宙に浮き、──闘技場から見える空一面を覆っていた。太陽の光を背に受けて、それは更に血を欲するかのように鈍く光っている。



 驚きはハルユキだけではない。


 金髪の男と子供は感心したように声を漏らしつつも微笑は保ったまま、アリエスは僅かに目を見開き、残る二人は忌々しげにそれを見つめている。



「さて、通り抜けるように作ったつもりだけど。失敗したらごめんなさいね」



 女の指先一つで空一面の赤黒い血の結晶が一斉に力のベクトルを得て動き出す。あれだけ密集しているにも関わらず、一切ぶつかる事も音を立てる事すらなく。



 ハルユキの頭上を中心にゆっくりと闘技場上空を跋扈する様は、異様と表現するほか無い。その荒々しい中に規律を感じさせる動きは、さながら訓練された郡狼のようだ。


 見上げればそれは視界すべてを覆うほど。空を余すことなく埋めるそれは加速に加速を重ね、そして、ゆっくりと高度を下げ始めていることに気づく。




 ひたすら回転と加速を繰り返し、まるで万華鏡の中に放り込まれたかのように闘技場に鮮やかな光が散りばめながら。


 空が血の色に染まり、ひび割れ、堕ちて来る。





「くそ……!」




 猶予は無い。


 加速度は高く、殺意も増大しているかのようだ。



 結界内は狭い。あの血の塊一つで結界よりも遥かに大きい。避けるのは不可能だ。



 その光景は終わりを連想、いや──直感させる。


 終わるのが世界か、この乱痴気騒ぎか。


 その後ろ向きな感情は、倒れ伏したジェミニの姿や、敵の手に落ちて自我すらも見失っているレイの表情から来たもので、その光景はただ諦めようとする言い訳だったのかもしれない。



 だから、そんな直感は掃いて捨てた。


 しかし何か打開策を考える時間も無いようで。



 威嚇するように血の塊の一つがハルユキのすぐそばを突き抜けていった。越えられないはずの壁を易々と通り抜けている。ハルユキの事は硬く拒絶した壁は、ハルユキを守る盾にはなってくれないらしい。


 視線を逃がすように肩越しに背後を見やる。



 一度は起きようとしたのか、壁に背中を預け硬く瞼をつぶり、荒く息を吐くノインがいる。




 風を切る音だけで辺り一帯を揺らすほどの兇器の群れはもうすぐ隣に。しかし、今はそれに背を向ける。


 一つ一つ砕くにしても塊は大き過ぎてノインを逃す空間的余裕は無く、避けようにも同じ理由で出来はしない。


 受け止めればその瞬間に足元の結界が砕け散るだろう。



 ならば、ならば。



 足元にさえ一切の衝撃を逃がさずに攻撃を受けるしかない。


 無茶苦茶だ。



「くそったれ……」



 もう一度軽く悪態をついて、意識がないノインを押し倒しその体に覆いかぶさる。



 瞬間。


 その背に向かって敗者の誹りを刻み込むかのように、殺意の群れが殺到した。





  ◆ ◆ ◆





 灰色の空の下、底冷えする暗がりの中を小柄な影が警戒に路地を進んでいた。



「フェーン!」



 そして、その小柄な影──エゼは立ち止まる度にその喉を振るわせる。


 呼ぶのはどこか危なっかしく、それでも心根は優しい少女の名前。


 いつも無口で人付き合いが苦手そうで、あまり自分の感情を表に出さない。それはそれは危なっかしいとは感じたが、今胸中に渦巻いているのはそれを起因としたものではなかった。



「フェぇン……、どこ行ったのよぅ……」



 ユキネには言わなかった。


 数刻前に人がうごめく城内でフェンを見かけたことを。


 寝ているように言ったはずなのに出歩いていたその背中。人込みに飲まれて捕まえることができなかったのが悔やまれる。



 ────いや。


 そもそもあれは自分が知るあの優しい少女だったのか。



「……決まってる」



 暑くないのかと言いたくなる黒いローブに、秋の空のような淡い空色の髪。歩く度にひょこひょこと不器用に揺れる身の丈を超える木の杖。個性的な外見だ。見間違うはずも無い。


 しかし、ならば何故。


 何故、無理矢理にでも振り向かせてでも顔を──、あの無愛想な無表情を確認しなければと、強迫観念染みた物を感じたのか。


 どうして、あれほどの危うさを感じてしまったのか。



「もう、あの馬鹿も結局何処にもいないし……!」



 危うさを感じるというのならば、もう一人。仲間とも友とも家族とも言えない妙な連れが一人。数日前から姿を眩ませている。


 危うさと言ってもこちらはまったく別種のもので、どちらかと言えば今この町を包み込んでいる嫌な雰囲気と同じ類のもの。




 危ない。狂っている。──なんだ、こいつは。




 色鮮やかな血が舞う中で抱いた初見の印象は色褪せることは無い。


 数週間ぶりの雨を喜ぶかのように全身で血を受け止め、掻き抱き、哂い、飽き、表情を、感情を透明にして。そいつは──、現れた。


 死を求める求道者とも違う。破綻を夢見る不幸論者とも、削り合いを望む戦闘狂とも違う。その表情が見ているのはもっと単純な、いや、純粋な。



 今まで行動を共にしたのは、そいつの中にその綺麗な願望の中に、自分と似たものを感じたから、



「……なんて事はないけど」



 実際、一緒にいるのはひょんな事から。簡単に言うなら共通の趣味のせい。どうせなら我が野望に付き合ってもらおうという、そんな安易な腹心算。



 共有した時間は短くは無く、しかしどういう関係を構築しているかもわからない。


 知っているものがある。理解できない事があった。知っている部分が本当にあっているのか判らないものがある。あとどれだけの理解できな物を持っているのかは判らない。


 奇病のように突然血に塗れて帰って来る事もあれば、黙って寝ている事もある。起きている時は殆ど本を片手に文字を追っているのも全く似合わなくて不自然だ。



「…………」



 聞けば、フェン達も旅をしているらしい。


 エゼ達とは違い何か目的があるわけではなく、ただの根無し草だそうだが。



 だけど、そのせいか当たり前のようにその輪の中に加わって一緒に旅をしている自分たちを想像してしまったりもした。


 出会って間もないのに、相変わらず馬鹿正直な自分の欲望に苦笑いしながら、その朝は清々しく、やっぱり少し肌寒くもなる。



 しかし、きっと彼等はあいつの狂った琴線に触れてしまうから。そして、世界の主になる自分があの危ない男を御してやらなければいけないから。




「────…!」



 恨めし気に、手のかかる連れの名を呼ぶ。


 アレのことだ。きっとこの状況ならば何処かで何かを破綻させてやろうと牙を研いでいるはずだ。



「……ト!」



 半分自棄になりながら連れの名前を叫ぶ。



 この甘く香ばしい非日常。


 麻薬のように脳髄を痺れさせる感覚はエゼの中にさえ恐怖と共に混在し、心臓を強く叩く。




 そして、しかしアレの場合。


 心臓を高鳴らせるだけではすまないのだ。




 昂ぶるために。


 静めるために。


 傷つけるために。


 傷つくために。




 あいつは、この戦場を甘受するだろう。




「どこ行った、」



 だから、もう一度、何度でも、見つかるまで、その名を呼ぶ。


 もし今アレが何かを摘み取る瞬間で、その手が一瞬でも止まるようにと。


 一人では大事な友達を見つけられないから、少しは手伝えと。





「────ラストォ!!」




 終わりを意味するという、その名前。





 ◆ ◆ ◆






 闘技場中がどす黒い血の色に染まっていた。



 その赤は敵の攻撃である赤い結晶の色であり、ハルユキの周りを囲んでいる赤であり、そしてハルユキの体中から溢れ出る血の色でもあった。



 さすがに揺らぎ始めた意識の中で、ハルユキは一旦攻撃が収まったことを確認する。


 目だけを動かして地面を確認する。


 地面には鉄板が敷いてあり、その下には更に衝撃吸収のゴムマットを敷いてその下に結界がある。



 少しでも衝撃を和らげようと、無理矢理ナノマシンで作ったものだったが、何とか堪えてくれたらしい。


 結界で覆われた地面は憎々しげながらも変わらず健在で、ハルユキの体の下ではノインの胸が僅かに上下している。


 

 どうやら、あの無理難題も成し遂げられたらしい。

 


「……っ」



 しかし、その代わり攻撃を受け止めた己の体は無事ではなかった。


 込み上げて来た血を目の前のノインのぶちまける訳にもいかず、結界の隅に口の中いっぱいにたまっていたそれを吐き出した。


 べしゃり、と生々しい音を立てて地面を汚したその量は、大体コップ一杯分ほど。


 大した量ではない。体中から今も溢れ出している血の量に比べれば。ノインの服は汚してしまったようだがそれは我慢してもらうしかない。



 空を覆ったあの血の塊は一切の容赦も無くハルユキを打ち付けた。


 その塊は硬質であったがために一撃毎に砕け散り、砕けた破片をまた叩きつけ、また砕けてを繰り返し砂利ほどまでの大きさになったら今度は傷口から入り込んで中から皮と肉を抉り削った。



 ハルユキの体は柔軟で強靭だ。


 何故か戦いの度に精度と性能を向上させるその体は、強化された硬質ゴム──それもドラム缶一杯のそのゴムを繊維の太さまで凝縮し、それを使って筋肉を編み上げたかのような強かさだ。


 恐らく常人のそれとは、"質"どころか、"素"や"造り"まで異なってしまったであろうその体。


 幸か不幸か、万軍に対して用いるような魔法を一身に受けてもその体はまだ命を手放さず、そして恐らくまた、この攻防で何らかの変化を遂げていた。



 ノインに覆いかぶさっていた体勢から上半身を持ち上げると、ぎちり、と錆びた鉄を擦り合わせたような音が体内から鼓膜を揺らした。


 それはきっと体の悲鳴だったのだろう。


 しかし、そんなものは気にも留めず、あちこちで出血の量を増やしながらも、上半身ごと視界を持ち上げた。


 その拍子に零れた血がパタパタと地面を叩く音もまた耳を素通りする。


 辺り一帯の石畳は粉々に砕け散って砂塵となり光を遮断して、先ほどの攻撃の激しさを暗に物語っていた。



 ふらふらと安定しない焦点を無理矢理固定させると、砂塵だらけの景色と、ノインの顔が輪郭を取り戻していく。



「────ぁ……」



 ノインの顔に、赤い線が走っていた。



 額の中心から整った眉と平行にくっきりと。白い肌にその傷は余りに生々しく、正視に耐えない。


 ぎちり、と先ほどと似たような音がハルユキの頭の中で反響した。


 先ほどと同じく筋肉が軋んだ音なのか、歯が擦れあって搾り出された音なのか、──それとも、それを切欠に虚ろになっていた激情が目を覚ましたのか。



 所構わず暴れまわりたくなるようなその感情はしかし、今回に限り一瞬でその矛先の気配を感じ、定め、収束された。



 まぶたは硬直でもしてしまったのか瞬きを忘れ、ただその瞳がぎょろりと"矛先"を見据える。



 ぎしり、と今度は空気が軋んだ。



 感情が見事にろ過されて分離し、頭に残ったどす黒い感情がエネルギーに変換されていく。



 ごぼ、と音を立てて何かが沸騰する感覚。頭の中が白熱していく中で、手足だけは急速に冷えて感覚を無くして行く。


 それこそ、生温かい血を浴びようが何ら気にならないほどに。



〈殺したいなあ、堪らなく〉



 脳の中に住み着いた嫌な存在の耳障りな声に、今だけは賛同したい。


 この冷えた手を暖める為に、血を。



 ──血を。






「良い表情だ、ハルユキ」





 不意に。


 陰がハルユキの足元の地面の色を塗り替えた。






  ◆





 もうもうと、砂塵を撒き散らす光景をヴァーゴは呆れたように眺めていた。



「やれ、派手にやったものだ」


 

 豪風を超え、最早爆風と呼ぶほどまでに至った空気の流れをその身に受けながら、それでも眉一つ動かさず金髪の男──オフィウクスはそう言った。



「だって殺すなんて言われちゃったら、先に殺すしかないじゃない」

「道理だがね」




 何気無くヴァーゴが指を鳴らすと、傍に立ち尽くしていたレイが崩れ落ち砂塵の向こうで結界の内の一枚が消える。



 オフィウクスは少しだけつまらなそうに微笑を曇らせて砂塵が立ち込める空間を一瞥すると、肩に背負ったジェミニを担ぎなおした。


 幼稚な側面を隠そうともしない二人に疲れが祟ったのか、その二人の間に居た少年──レオがため息を付いて肩を竦めた。



「じゃ、僕はまだ用事があるから」

「すまんが、レオ。君は勝手に帰ってくれ」

「判ってるよ」


 

 そんな男に驚く事も無くレオは首を竦める。


 レオを除いて残っているのはオフィウクス、気絶したジェミニとただ立っているだけの女。それにスコーピオにヴァーゴ、アリエスとタウロス。後はただ砂塵が濃く舞っているだけだ。




「……オフィウクス……?」

「総統。ご帰還なさりますか」




 スコーピオとアリエスの声が重なり、アリエスはスコーピオに顔を向けるがこちらを見もしないので無視してオフィウクスを仰ぎ見る。


 もうもうと煙を上げる闘技場に敵影は無い。アリエスは闘技場を一見しただけでそう判断し、軽く頭を下げて『ご帰還なさいますか』と再び同じ言葉を発した。




「そうだな。戻るとしよう」




 当然の判断だった。国の一軍でも壊滅し得る攻撃をその身に受けたのだ。間違っても生き残ってはいない。避ける事も防ぐことも不可能。受ければ必死。


 そういう攻撃だったはずだったのだ。





「──オフィウクス!!」





 スコーピオが未だ発した事が無いような金切り声に、場が僅かに緊張感を帯びた。



「何……? これ」



 スコーピオの声は、初めて聞くものだった。その声には、困惑もあった。感じ得る事の無かった感情に戸惑いを感じていたのだろう。


 払っても落ちない虫を見るような目で自分の腕を見つめているスコーピオの目も、同一の感情で染まっている。




 スコーピオの腕は下唇と同様に小刻みに震わせていた。意思と反して、恐らく本能と呼ばれる部分から。




 そして、瞬間。



 空気が凍えて固まった。




「────っ」



 声を、いや息を詰まらせる。


 自然と視線がそこに移動する。


 砂塵の向こう。閉じ込めているはずの黒髪の、輪郭すら疎らな灰色の影。


 周りの視線も気付けばその一点に集中していた。



 殺意。



 視線に乗っていたその意思はもっと禍々しい何かに変容してしまったかのように荒々しく、どろりと粘着質で濃厚だった。


 琴線に触れたのだ。いや、それとも許容量を超えてしまったのか、どちらにしても己等は越えてはならない一線を越えてしまったらしい。




 怪物だ。


 ヴァーゴは口元を押さえて今にも膝を突きそうなほど、顔を土気色に変えていた。


 今この瞬間に周りの砂塵がどす黒い腕に変化して心臓を抉り取りに来るやもしれない。そんな妄想を可能性として考えてしまうほどに、殺意は充満している。



 砂塵で姿が隠れてしまっているのが、この時においてはヴァーゴ達には都合が悪かった。


 壁が見えないのだ。いや、砕かれれば判るだろうし、砕かれているのならばすでにその殺意をぶつけてくるだろう。



 壁は、檻は健在だ。


 しかし、それが確認できないと言うだけで恐怖は膨れ上がり、背中に冷たいものが伝う。



「──くはっ」



 しかし、その殺意に同じく当てられている筈の金髪の男の顔に浮かぶのはどうしようもない程に歪んだ喜悦の形。


 唇の端が吊り上り、単色の願望に頭が塗りつぶされていた。



 その顔は余りに人間離れしていて、笑っているにもかかわらず、まるで深淵のように底深く仄暗い。


 

 


  ◆




 今日は朝から調子がよかった。


 目を覚ましてから、思わず自分の手が人外のそれに変わっていないか確かめてしまうほどに。



 呼吸は浅くとも、普段の二倍は動けた。


 気分が良かった。



 あの黒髪に"相当数殺されて"エネルギーを補充するために馬鹿食いしたのが良かったのか、それとも他に理由があったのか。


 とにかく、気分も調子も最高潮だったのだ。




 ──今、この瞬間までは。


 眺めていた砂塵だらけの光景は濃い朱色に染まり、明滅を繰り返している。




〈何でだが、判るか?〉



 判るかよ。


 明滅した意識は判断と常識を鈍らせ、頭の中から鼓膜を揺らす声に疑問も沸かない。



〈言われただろ。お前は、草食動物タウロス



 ああうるさい。判っている。その先は聞いても仕方がない。



〈身に過ぎたものを喰っちまえば、食中りだ〉



 ふと、周りから人間が居なくなっている事に気づいた。煩わしい同士様共の姿も砂塵に変わっている。



 ──いや。

 独りでに進んでいる自分の足を見つけて、自分が移動しただけだと見当をつける。



〈お前が決勝に進むって言うから、わざわざ潜り込んだってのに、全く遠回りだった〉



 あんな化物と戦えるかよ。俺は弱いんだ。


 ひょんと出て来て、目の前で世界を終わらせるような光景を指先一つで操って見せる女の背中を思い出し、諦めにも似た心情が吐露された。


 

 俺には、性欲と睡眠欲が欠けている。

 黒髪には色々言いはしたが、どんな状況でも下半身が反応した事は無く、感じる情は食欲だけだ。

 寝るにしても、毎夜定時に酩酊感が襲い、気絶する用に眠るだけ。



 だから自分には、その感情しょくよくが全てなのだ。


 だから自分が求めていたのは、戦いじゃない。強者でもない。ただ安全に定期的に比較的自由に腹を満たせる環境だ。



〈なら舞台から降りろ。これ以上この場を白けさせんじゃねぇ〉




 不意に。



 いやきっと、いつでもそうできたのだろう。


 こいつはただ眺めていただけだ。


 タウロス達が人を殺める行為を、それに憤って戦う人々の姿を。まるで絵本でも眺めるかのように楽しげに。



 そして、絵本を眺めることに飽きたら絵本の中に入りたいと、そんな子供みたいな感情を実現させる。




 タウロスの体から腕が伸びる。


 その腕は血に濡れて、いつの間にか目の前にあった半透明の壁を汚した。



 タウロスから伸びている腕の根元からブチブチと何かを引き千切るような音が連続する。


 それはそうだ。



 肩から伸びている腕ならともかく、この腕は腹から、──しかも腹の中から生えている。





「良い表情だ、ハルユキ」




 そしてその言葉から察するに、もう目の前のこいつはタウロスへの興味すら失ったのだろう。





   ◆





 足元を暗くした影に顔を上げると、血飛沫が目の前を塗らしていた。



 目の前の血に遮られて、壁の向こうで何が起こっているかは判らない。


 不意に、頭の中が勝手にさまざまな光景を蘇らせて一つ一つ辻褄を合わせていく。それこそ、怒りを下火にさせるほどの勢いで。




〈……死んでるな〉

〈結構時間も経ってるみたいね〉




 最初に浮かんだのは、ノインと行った飛竜の討伐任務での事。岩窟の中で討伐対象の龍が全て殺されていた光景。



 そう、そうだ。おかしい。


 あの時は外の竜の群れが殺したのかと思ったが、あの時外の竜は岩窟に入ろうとはしていなかった。


 龍達が死んでいたのは岩窟の中。匂いや気配が嫌だと言うのならば、そもそも中に入って戦わないはずだ。飛竜達の目的が殺す事だけだったとしても未練がましく岩窟の周りに留まっている理由が無い。



 ──そもそも、アレは竜同士が戦った跡だったか?



 今思い返せば、爪や牙の跡は無かったようにも思える。しかしそれでは何故別のドラゴンに襲われたのだと考えてしまったのか。


 理由は二つ。一つは単純に巣の外に別なドラゴンの群れが屯っていたから。そしてもう一つは、その破壊の跡がとても人が為したものとは思えなかったからだ。 


 押し潰され捻じ切られ踏み潰されていた。


 人間の仕業ではない。だから、周りの竜達だろうと当たりを付けてしまったのではないか。



〈──あの子、妙に怯えてなかった?〉

〈あー…、確かに不安げには見えたが、この雰囲気のせいじゃないか?〉



 引っ掛かっているのはもう一つ。


 ギィのタウロスに対する尋常ではない怯え方。ノインは初めて会った時のようなと言い表していたが、その言葉は的を得ていたのかもしれない。


 最初はタウロスに生き物の本能として怯えていたのかとも思ったが、そうではない。



 タウロスと初めて病室であったとき、ギィは寧ろ敵意を剥き出しにしてノインを庇っていた筈だ。


 ならば。何かが変わったのだ。



 ハルユキがタウロスを撃退した昨日の夜から、この時までに。






 ──例えばそう、傷を癒そうと獲物を探していたタウロスの腹の中にナニカが潜り込むとか。




「よお」




 ハルユキが結論付けた瞬間を待っていたかのように、血の幕が完全に垂れ落ちる。その向こうには男が一人。




 それは、真っ白な男。



 ユキネの魔力の色とは違う、もっと退廃的で擦れた白の色。





「──なあ」



 唐突に男の気配が膨れ上がった。



「楽しい祭囃子に誘われて出て来ちまったよ」



 殺意が凶器が闘志が興奮がそして恐らく魔力と呼ばれる力の源が、練り混ざって右手に集約する。


 以前は白い湯気のように立ち上るだけだったそれは、無駄をなくし右手の周りに円を描きゆっくりと循環している。



 拙いながらも、それは洗練の気配を感じさせた。




「──引き篭もるのは無しにしようぜ」




 体に雪の精霊でも取り憑かせているのかという妙な感想は、その拳が千の刃よりも危険な物だと思い出した途端に霧散する。



「く……!」



 受け止めれば問題は無い。


 ただ、今目の前にはどうしても超えさせるわけには行かない壁が存在している。無意識が警告したのか、ノインの荒い息遣いが聞こえていた。


 男の拳は硬く握られ、帯びた白い影は白い線となって拳の軌道を装飾する。



 音は無い、空気が追いついていない。



 思い切り振りかぶられたその一撃は目を見張るほどに力強く、その上神速を誇っていた。




 ──その拳に、ぎりぎりで掌を合わせる。






「──っハははははははははァ! 奇術師かてめェはよォ!」





 笑いながら男は壁から拳を離した。その拳は全ての勢いと力を吐き出していて、しかし壁には一切の罅すら入っていない。


 ただ代わりに、ハルユキの口から夥しい量の血が吹き出し目の前の壁を真紅に染めた。



「て、ぇ……」



 確実に内臓が傷付いた。いや、引き千切れた。


 それもそのはず、本来は受け止めて足から地面に逃がしていく力を無理矢理体内の筋肉で押し止めたのだ。


 そんな人間には不可能な所業は作用も反作用も相まって、挙句、無理も祟ってハルユキの体内を掻き混ぜた。



 後から後から口の中に溜まっていく血は体の状態を顕著に表している。


 消化管に穿孔。内臓及び胆管の破裂。左肺穿孔による気胸状態、動脈の破裂、及び剥離が多数。



(くそが……)



 動く事を最優先にハルユキの体は作られでもしているのか、骨と心臓は無事。


 しかし、それを除けば大型トラックに轢かれたかのような重体だと言っていい。その上、状況は依然として変わってくれない。変えられない。


 いや、状況は変わっている。ただこの壁の中だけが凍りついたように何も変わってくれない。



「成るほど成るほど。この壁の外に出たいがこの壁は壊せない。また面倒くせェ状況だな」



 タウロスの遊びのような一撃とはまるで違う。

 タウロスのそれを金槌の一撃だとすれば目の前の化物の一撃は戦車砲のそれだ。


 威力も違うが、何よりただ純粋に殺す為だけに練り上げられた力がそう喩えるに相応しいと思った。



 襤褸切れを巻き付かせただけの様な格好は何とかローブだと誤魔化せるような物でしかなく、それも今はタウロスの血に染まって町を歩けるような物ではない。

 肌は病的なまでに白く、しかし見えている部分だけ見てもとても病人の体とは思えないほど引き絞られた体だった。


 好き放題に伸ばしたしわがれた白い髪も後ろは肩甲骨の辺りまで伸びて、前髪は顔の半分を隠し、時折髪の間から真紅の瞳を覗かせている。



 その目がさらに細められ、さぞ愉快そうに口の端が吊り上りこれまた病的なほど白い歯が見えた。

 


「いいねェいいねぇ、相変わらず御人好しで大いに結構。俺も思う存分人で無しになれるってもんだ」



 一先ず、口の中に溜まっていた血を無理やり飲み下した。


 自分の体がどういう造りをしているかは知らないが、材料さえ残していればきっとどうにか修復するだろう。幸い背中の出血も止まってきている。



「お前の……相、手をしてる、暇、はねぇよ。他……当たれ」

「ああ、取り敢えずはそうしよう。このまま殴り続けてもお前は死ぬまで抵抗しそうだ。今更お前に死なれちゃ悲しくて死んじまうよ」

「乙女……かよ、お前は」

「ああ、そうかも知れねぇ、夢見がちで一途な所はな」



 そして、好意的な敵意を剥き出しにしたまま、ラストは楽しげに告げる。まるで、先日読んだ小説の内容を楽しげに伝えるように。



「だから、お前の為には如何なる犠牲も厭わないんだぜ?」

「──ラスト……!」

「何だ、名前まで憶えてたのか」



 忘れる訳が無かった。


 出会ったのは半年前。旅を始めて間もない頃だったが、ここまで世界を見てきた中でこいつほど印象にこびり付いた人間はいない。



「まあ、状況がどうだか考えるのも面倒だが、一つ言えることは──」



 古龍を肉弾戦で圧倒するほどの暴力を撒き散らし、そして何より、こんな平和な世界でここまで理解が追いつかない人間はハルユキの記憶には他にいない。



 そして何より印象的なのは──。




「ここにいる人間全員殺せば、二人きりに為れるんだろう?」




 不吉な血の匂いと、破滅の香り。





   ◆





 ヴァーゴがオフィウクスの表情に凍り付いていた時、不意にタウロスが砂塵の中に飛び込んだ。




「タウロス……!?」



 その唇はオフィウクスと同じように歪み、しかし何処か身に過ぎる喜悦を表している。


 その姿は砂塵に呑み込まれて消えていく。追いかける事は誰もしなかった。オフィウクスは微笑を保ったまま成り行きを見守っているし、他はこの砂塵の中にわざわざ踏み込もうとは思わなかった。


 何しろ、未だあの鬼の仔のような化物がこちらに睨みを利かせているのだ。



 ──そして、幾許か後。



 ぎちり、とどこか遠くで音がして、同時に。黒髪の怒りの視線が僅かに緩み。


 再び、世界が変わった。



「……!」



 臭う。酷い臭いだ。


 夥しい量の血の臭いを、じくじくと侵食して別の何かに変容していく。



 ヴァーゴは直感する。



 状況が変わった。

 この化物連中の中では一番弱いという自負があるせいか、危険には敏感だった。


 何しろ自分はこの顔まで隠した黒尽くめの衣装が無ければ太陽の下にも立てない。基本的には裏方の人間なのだ。



「な、に……これ…?」



 確信があった。タウロスはもう死んだと。呑み込まれた。いや、あれの場合は喰われたといった方が良いのだろうか。



「なぁアあんでしょう?」


 明らかに、第三者の声だった。


 男の声だということは判るが、タウロスでもシキノハルユキの物でもない。



「……え?」



 すぅっと、あれ程濃く立ち込めていた砂塵が薄らいで消えた。まるで何かにひれ伏したかのように砂の粒は地面に落ち、景色が透明度を取り戻した。


 取り戻さないほうが良かったのに、と頭が何処かで悲鳴を上げる。


 しかし、晴れてしまったからには、もう目を逸らす事すら出来ない。




 ──ぽつん、と何かが闘技場のちょうど中心に立っていた。




 臭う、臭う、臭う。


 鼻を庇ったところで匂いは消えず体中の毛穴から入り込んで全身を蝕んでいくようだ。


 それは感覚を麻痺させ、思考を腐らせ、喉の渇きを思い出させる。



 何も判らない。


 素性も、正体も、何の生き物なのかも。



 ただ例外的に判るのは。





 あの怪物が、ここにいる全ての敵だと言う事。


  

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