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ハイイロ ノ カナタ  作者: mild
第一部
146/281

暗転



 ──ユキネが城に着く十五分前。





 無数の剣群となり飛来する血の色の刃と、それを迎え撃つように、ヴァーゴの足元から鋭利に伸びた影が交錯する。


 片や人外の力を纏った紅の剣。片や平面から生まれ出た故に極限まで研ぎ澄まされた暗い刃。均衡すらせず、すれ違うように剣戟の音を残した後、そのどちらも敵の身に届く事無く空気に霧散する。



 ──"影絵"



 呪詞に応じて、女の影が新たにこの三次元せかいに形と質量を持って誕生する。

 

 刃、巨人と来て、生まれたのは女そのもの。女の黒尽くしの格好が後押ししてそれぞれの真偽は間近で見ても分からないだろう。



 それこそ部屋中に女と完全に姿形を同じくした木偶デコイが無数に量産され、──しかし次の瞬間には、それもまた無数の切っ先に貫かれ形を失くし、空気に溶けていく。



「ぐ……っぎ……!!」



 的確に木偶を狙い打った剣は、一寸の狂いも無く腹部の中心に突き刺さり、そしてそれはその中に紛れ込んでいたヴァーゴ自身も例外ではなかった。


 そして、ほんの一瞬怯んだ隙にヴァーゴの懐の内で殺意の気配。



 次の瞬間には、体に尋常ではない衝撃がぶつかり体が成す術も無く吹き飛ばされた。追撃するように地面に倒れこんだヴァーゴの首元の床に剣が突き刺さる。


 しかし、その剣の横を影となった体がするりとすり抜ける。同時に数体の影の巨人が足元からせり上がり、拳を振るった。



「……ふん」



 それを一瞬で見渡した後、レイは腕を横に振った。その僅かな動作で幾多もの剣が飛び影の巨人を壁に縫い付ける。


 その間に今度は女の足元の影がそのまま伸びてレイの足元に接近する。もし捕まれば足元から影に沈むのか、それとも動きを縛られてしまうのか、どう考えても良い想像はとても出来ない。



「くっ……!」



 しかし、結果として触れもしないのだから、そんな妄想には意味は無かった。



 一方的な展開が続いている。その一因となっているのが、身体能力が余りに違いすぎる事。


 ゆったりとした動作から考えても決してレイは全力で動いていると思えないが、それでもその動きはヴァーゴがギリギリ目で追えるほどの速さ。



「ちょこまかと……!」



 下調べは行っていた。信じ難いがヴァーゴと相対している女は吸血鬼。童話の中そのままの生き物だと言うならば、常軌を逸した生き物がどれだけ常軌を逸した行動が可能だろうと驚きは無意味。しかし、それは納得に繋がる訳ではなく、ただ理不尽による苛立ちが募るだけ。


 巡らせるヴァーゴの思考の中、レイの姿が視界から消える。何の事は無い、思考に意識を傾けすぎた事と、ただ遂に目が動きに追いつけなくなっただけ。

 

 しかし、それにより被る実害は"だけ"では済ませられない。



「八回目」



 ズルリ、と、まるでそこから生えたかのようにゆっくりと、胸から剣先が飛び出した。



「お……ッぁ……!!」



 決して演技ではありえない生々しい喘ぎを漏らしながら、それでも女のは腕を振り自分の体の下から影が伸ばす。


 黒塗りの刃のようなその影は研ぎ澄ます必要も無いほど薄く鋭い。その分切れ味は申し分無く、体を二つに裂けば痛みに気付かせる事なく絶命させる事も可能だろう。



 しかし、その影に脅威も恐怖も感じないかのようにゆったりとした動きのまま疾風のような攻撃をすり抜けて、紅い剣を手の中で煌かせる。


 その剣筋に躊躇いは無く、投擲された剣は吸い込まれるようにヴァーゴの首のすぐ側に突き刺さった。



「こ……ッの……ッ!!」



 自分の命が見逃された事に安心してしまう一瞬の後に、ヴァーゴはその顔を怒りに歪ませ影を振るう。


 しかし当たらない。


 壁のような物量と、その速さをもってしてもレイの体はまるで指の間をすり抜ける水のように掴み所が無い。



「なんの、つもりかしら……?」



 一回や二回ならまだしも、命を刈り取られそうになった回数はもう十に手が届く。それにも関わらず、未だヴァーゴはこうして息をして悪態をつけている。

 いくら回復力が高いとは言っても不死身ではない。あの女ならば殺す手段は幾らでもあったはずだ。



「……別に同情しているわけではないから安心しろ。しないのではなく、出来ないだけじゃ。無論、お前が死ぬ事に心も痛んだわけでもない」



 ぴたりとそこで歩みを止めると、レイは何の危機感もその身に纏わずに話し出した。



「他に首謀者が居て、恐らく我等の鬼札も同じ場所に。ならば雑兵おぬしの相手をする意味も無いだろう?」




 憎々しげにレイを見つめるヴァーゴは、そこでようやく気付く。




「──会話で時間を潰せるのなら、別にそれでも構わんのじゃよ」



 その目に。相対しているはずの女の目に、意識が灯っていない事に。



「──ッ!」

「おや、ばれたか」



 激昂に駆られて、影の刃が振り乱れながらそれに殺到し、レイの体はそれを避けようともせずまともに受け止めた。五体が十分割されるほど細かに切り刻まれ、しかし、手応えは薄い。


 その内部は表面ほど精巧に作られておらず、血の塊となってそれは地に落ちた。



「貴様……! 今何処に……!」

「何、まだ壁一枚挟んだ先じゃよ。離れるのはこれからじゃ」



 床に散らばった血の塊は、ただの血溜まりに戻ることは無く、元の形に戻る事こそないものの未だ主の声を中継する。



「しかし、また妙な結界があるようじゃのう。今度はあれを解かねばならんのか」



 ふむ、と新しい頓知噺でも持ちかけられたように愉しげに唸ってみせる、その様子が目にも浮かぶようだった。


 目指しているのは闘技場。他に結界を張っている場所なんてそこにしかありはしない。まさかこのタイミングで町の外に出ようとする訳も無い。



「──さて、ならばまた一つ力比べといこうじゃないか」

「……なに?」

「お主は儂の、儂は闘技場の結界を。どちらが先に解けるのか。楽しみじゃろう?」



 言葉の端から。口調の軽さから。相手の顔から心情までが突きつけられるように思い浮かぶ。


 遊び感覚。


 こちらは頭を働かせて、魔法をこねくり回して全力を使っていると言うのに、その言葉はあまりに残酷すぎる。


 おまけに、今まで戦っていた相手がただの人形。それも今まで一方的に圧されていただけに歯痒さは何倍にも膨れ上がった。



「化け物が……!」

「ふむ、まあ賛辞として受け取っておこうかの」



 しかしな、とレイは言葉を続ける。まるで子供をあやす大人のようにその言葉は優しく穏やかで、しかし明らかに挑発の類のそれだ。



「まだ負けを認めるなよ。チャンスはあるじゃろう? 儂がこちらを解く前にお主がそちらを解けばいい。そちらから仕掛けた遊び(じゃれ合い)だ。飽きたからと言って途中で投げださんでくれ」



 一つ、ため息をついた音の後。



「──ほれ、頑張れ」



 それだけ言って、部屋の中から今度こそレイの気配が消え去った。


 静かになる。もう血の人形が奔る事も、自分が影を繰る事も無い。余りに静かな空間に暫し呆然として置いて行かれた事を自覚する。


 完全にこの密室に置き去りにされたのを確認──、いや自覚して、ヴァーゴは神経が逆立つ程を感じた。



「あの女……!」



 怒りに任せて影で部屋中を覆った。光を透過していた窓も、燭台の炎すらも包み込んで飲み込んでいく。と言っても自棄を起こしたわけではない。この結界を粉々にしてやろうと言う思いの上でだ。



 ──しかし。



 ばきん、と、この小さな世界にすら拒絶されて影は脆くも破砕する。



「くそ、……くそ、くそっ!!」



 駄目だ。


 と、一度失敗を経ただけで一方的に投げかけられたこの競い合いに勝ち目が無い事を悟ってしまう。過度に悲観的になっているわけではなく、力量の差を感じた故にだ。


 町中に張り巡らされた杭の魔法はその仕組みさえ理解できず、恐らく即興で作られたこの結界でさえも、自分の手が届かない領域だと感じさせられる。


 そもそも、あちらが勝手に用意した戯れだ。当然あちらが有利になるように仕組まれているのだ、元々勝ち目などあるはずが無い。


 ならば無理に相手にする必要も無いのだ。



「……あ」



 しかし、気付く。


 そちらから仕掛けたじゃれ合いだと、女はそう言った。こちらから仕掛けた事などあの死体の行軍の他には無い。


 そう、だからこれは意趣返しだ。


 用意された盤の上、片方に圧倒的に有利な状況。つい先程目の前でそれを引っくり返されたばかりじゃないかと。


 "自分は出来たが、お前はどうなんだ"と、そう言われているのだ。



「あの、女ァ……!!」



 しばらく振りに自分の口から感情にまみれた言葉が飛び出た。


 あの吸血鬼と比べれば稚児のようなものかも知れないが、ヴァーゴも一般的にはもう子供といえる年齢ではない。


 何が特別という訳ではなく、感情をそのまま吐露する機会など無く、つまりその時は久しぶりの怒りの感情で周りが見えていなかった。加えて言うならば、隔離されている状態でそんな物に気を配る理由も無かった。





「貴女、ヴァーゴさん?」



 だからこそ。



「こんにちは。人を探しているのだけど、時間よろしいかしら?」



 当たり前のように後ろに立っていた女にも気が付かなかったのだ。





◆ ◆ ◆





「……そういう事を言われたのは二度目だ」



 持って帰ってもいいかしら。と、言われたユキネは言った娘に溜息交じりにそう返した。


 改めて思い返せば果てしない昔だった気がするが、あれは確かほんの半年程前。まだ力を手にする前で、母の友だと言う霊龍の死を見取ったその直ぐ後の話だ。


 あの時もまた、場に似合わぬ男だった事をよく覚えている。



「へぇ、その時には何て?」

「"馬鹿なのかお前は"と」

「あら」



 胸の前で嬉しそうに小さい体も、手を合わせて首を傾げる様子も、何の裏も無く朗らかに笑う顔も平和的で思わず微笑んでしまいそうな物だ。背景が、いつもの町の風景か、もしくは祭りの最中のものであったのならば、だが。


 しかし残念ながら、今は戦乱の真っ只中で、そしてここは恐らく王座の前。


 戦闘の跡もまだ新しい背景の前に、その少女は異様が服を着ているようにしか見えなかった。



「ヴァーゴさんには先に行って貰って少しこれを眺めてたの。なんだか微笑ましくて」



 そう言って指差さされた先には、大理石の床と赤い高級そうな絨毯と、そして薄っすらと紅色の魔方陣が広がっている。しかし、発せられた言葉はその魔方陣ではないはずだ。その造りは精巧で複雑で、とても"微笑ましい"などという言葉が出てくるものではない。


 しかし、もしそうならば。これ程の物が稚拙に見えるのならばそれは──。



 人知れずユキネの剣を持った柄が軋んだ。


 戦闘になる空気ではない。しかし、危機感がユキネの右手をそう反応させる。



「そんなに怯えないで?」



 とん、と軽い音と共に視界の中から娘が消え、更に剣を握った右手に軽い感触。温かく、まるで流れる血にそのまま手を包まれたような。



「──っ!」



 反射的に手を弾いて距離を取る。


 反応できないほどの速さを見せられた後では、その行動はただ自分の恐怖心に準拠しただけで、ほとんど意味は無くむしろ愚考といえるものでさえあったが、幸か不幸か女が見ているのは。



 女が欲しているのはユキネではない。



「すれ違いなの。この世界はままならないのね。一つ勉強したわ」



 そう言って、スンスンと何度か鼻を小さく鳴らすと、穴が開いている方向に顔を向けた。


 そして、またその姿が掻き消える。




「じゃあ、また縁があったら逢いましょう? その時には──…」




 貴女の血で再会の祝杯を。部屋中に不思議と響く声を最後に、完全に娘の気配は消えた。





◆ ◆ ◆





 雪駄が地面を噛み締めて、結構なスピードで進んでいたレイの体にストップをかけた。



「これか……」



 到着した闘技場を見上げて、人知れずレイが呟いた。こうして実際に見てみても得に変わった所は無く、中から人の気配を感じる訳でもない。


 しかし、ほんの僅かにこの場に似つかわしくない魔力の気配を感じる。



 そう偽装する事がこの結界の効果であり、そしてまた恐らく何の対策もせず足を踏み入れた者にも何らかの仕掛けがあるのだろう。


 また派手な爆発音が背中から聞こえて、思わず後ろを振り返る。視線の先ではここからでも視認出来るほど巨大な化物が町を侵略している。



 ここに兵士が居ないのも、あの敵あの場所が最期の敵だと思っているからなのだろう。


 いや、少し見渡してみても兵士どころか人っ子一人見当たらず、賑やかだった時のこの場所を知っているレイには奇妙に映っていた。


 実際には、まだ敵は居る。むしろあれは囮なのだろう。良くは分からないが敵の"キング"とやらと、そして、あの夜の闇に浮かび上がるように浮かんでいる太陽。


 心なしかその光は胡乱で、どこかぼんやりと妖しい光を放つように変わったように感じる。




「……まあいい」



 さっさとあの阿呆を自由にして、面倒なことは全て押し付けてしまおう、とレイは太陽から視線をはずした。


 それにはまず目の前のこの結界。改めてその境界を見定めて、手を伸ばす。





「やっと追いついた。移動するの速過ぎるでしょう貴女は」



 自分の想定の中では聞こえるはずが無い声に、耳を疑った。


 勢い良く後ろを振り返れば、間違い無く先程密室に置き去りにしたはずの黒尽くめの女の姿を認めた。



「……速かったのはお主の方だろう?」



 正直な感想が口から漏れた。


 あの結界は即席とは言えど、出来うる限り強力で難解なものを作り上げたつもりだったのだ。そもそも事が終わるまであの場所に閉じ込めておこうと思って作ったものだ。


 技量を見誤っていたのか、それとも見誤るように謀られていたのか。どちらにしても余り良い状況ではない。



「私? 私は違うわ。そもそも長い時間光に当たっていたくないから、予め各所に移動する為の拠点を置いておいただけよ」



 言いながら顎で後ろを指せば、その先に兵士が一人倒れている。あれが拠点、と言う事は恐らく支配した人間の影を渡れるとかその辺りの能力なのだろう。



「それで、どうする?」

「……どうする? 別にどうもしないわ。ここにはただ様子を見に来ただけだもの」



 女の態度の煮え切らなさに、レイは眉間に皺を寄せる。


 ここまで高速で移動した理由はそれで十分だ。しかし、部屋から離れた理由が未だ謎のまま。それに女の態度も気に掛かる。


 最後に話したときには、こちらにかなり苛立ちを向けていたようだったが、今それはない。それどころか興味すらなくなっているように見える。



 今までの慌てた様子も怒る様子も全て演技だったと考えれば、否定は出来ないがしかしとても演技だったとは思えない。



「……でもそうね。折角だからここで雪辱でも返しておくとしましょうか」



 女の言葉に必要以上に警戒を露にしている自分に舌打ちしながら、手の中に数本の剣を精製しいつでも投擲できるようにそれぞれ指の間に挟みこむ。


 何のきっかけも無しに、女の足元から刃のように研ぎ澄まされた影が伸びる。



「……?」


 普通の人間になら十分に必殺の一撃になるだろうが、それは先程の応酬の時のそれと何ら変わらず、これと言った工夫も見当たらない。


 これをかわすと同時に剣を投擲し体制を崩した女に接近する。それは先程の戦いで嫌というほど経験したもののはずだ。今更こんな単調な攻撃をする意味が分からない。よもや自棄になっている訳でもないだろう。



 ならば何故。


 疑問を抱えながらも、とりあえずは迫ってきた刃をかわした。



 しかしその疑問が、剣を投擲するのを止めさせ、女を警戒しながらも通り過ぎた影の姿を追って。



 その先に町娘が一人歩いているのを見つけた。



「──っくそ!!」



 女に気を取られすぎたのか、驚きが自覚しているよりも大きかったのか、何故気付けなかったと叱責しながらも剣を投擲し、微妙な耐性から力任せに跳んだ。


 影の刃の数はそう多くは無い。投擲した剣が悉く影を地面に縫い付けるが、一つだけ場所が悪かったのか自らの体の半分を引き千切りながらも、少女に向かって突き進む。



「貴様……」



 しかし、剣に影の一部を削り取られて一瞬動きが止まった隙に、レイは紙一重のタイミングで少女を抱き止めて影の刃から逃れていた。


 体に傷は無い。その代わり無理な体勢で跳んだせいか、右足首に鈍痛と、──そして着物の袖が切り裂かれた。


 破れた袖に視線をやり、レイは判りやすく表情を変え額に井形模様を浮かべた。



「やってくれたのぅ……」



 後ろ手に娘に逃げるように伝えて、怒気の篭った目線は女に向けたまま静かに手を合わせる。


 体内の各所に隠してあった魔方陣の殆どが一度に起動され、辺り一帯を真紅に照らす。


 魔方陣の大きさは直径十メートルはあるだろうか。そんな巨大な魔方陣が合わせて十二個。




 その全てがレイの前で女に向かって一列に並び、その中心が更に強く発光しだした。




「──"神殺し《グングニル》"」




 真紅の光の標的にされた女の顔は驚きで気が抜けただ目だけを見開いている。




「消し飛べ」

「ちょ、ちょっと──…!」



 姿を現したのは真紅の巨大な槍。


 それは間違い無く血で作られてはいるが、魔術的な効果のためか細部まで細かい文字や装飾が刻まれていて、そしてその大きさは見上げるほど。



 一秒で、槍は折り重なった魔法陣の中から完全に姿を現し、次の一秒で辺り一帯の空気中の魔力まで全て其の身に取り込んだ。


 そして次の一瞬で闘技場の一角ごと吹き飛ばす。




 しかし、その最後の一秒が訪れる事は無く。




「素敵……」




 後ろから聞こえた感極まった声に、思わず魔法の制御が僅かに乱れた。振り向く前に、優しく首筋を撫でられる。たったそれだけ。それだけの行為で、全てを奪われた。



 言葉を、意識を、そして、自由も。





 意識が暗くなる寸前に、後ろから姿を現したのは先程助けたはずの町娘。




 ゆっくりと近づいてきたその娘は、もう一度悩ましげにレイの首筋に手をやると──。



 和服のせいで露出している首筋に、深々と牙を突き刺さした。




  ◆





「ハッははァッ!!」




 技術など欠片も盛り込まれていない力と野性任せの一撃を下から小突いて自分の頭の上を通過させる。


 そのまま流れるように、拳と肘で三回連続打撃を加える。一撃の間隔が刹那とすら言えるほどの速度で、しかも一撃で岩をも砕く一撃。



 打ち下ろし打ち下ろし、最後に打ち上げ。



 ダメージを与える為に最初の二発、相手を吹き飛ばす為に最後の打ち上げ。それも狙いは鳩尾だ。これなら十分に戦闘不能に出来るはずの技だった。


 しかし、食らったタウロスの身体は二メートルほど後ろに飛ばされた所で、足の指が地面に噛み付くように押し付けられ、それ以上吹き飛ぶ事も、そして当然膝を付く事さえもない。



 その痛みを噛み締めるかのように暫しその体勢で固まったまま、溜めに溜まった肺の空気を吐き出した。それに合わせる様に腹から薄い湯気のような物が立ち上りタウロスが受けた傷を治癒していく。



 回復力は尋常ではない。しかし数瞬相手の動きを止めたのに、わざわざ回復を待っているほどジェミニも甘くは無い。


 男が顔を上げても既にジェミニはそこには居らず、その体はタウロスの直ぐ後ろ。丹田に力を入れ、身体は低く地面に這うように。移動してきた勢いもそのままに首を刈り取らんばかりの脚撃がタウロスに迫る。




 更に加速。


 時間の流れを瞬時に最高遅。一瞬で世界は息切れを起こしたかのように失速し、ジェミニの背中を見失う。



 だから、手加減をしていたつもりは無い。それこそハルユキレベルの人間にしか捉えられない速さだったはずだった。



 しかし。



 ぎょろり、タウロスの瞳がジェミニの視線と重なった。



「な、に……!?」



 その目に、その反応に、一気にジェミニの警戒度の針が振り切られた。がちん、と歯を鳴らす音。その音のする先など見もせずに、無理矢理蹴りの軌道を捻じ曲げる。



 右足が無くなる事を想像してしまいそうになりながら、結果わざと空振らせた右足はタウロスの頭の上を通過し、その勢いのままジェミニはタウロスから距離を取る。



「何や、それ……?」



 ジェミの問いに答えるつもりだったのか、それとも食欲を持て余しただけなのか、がちん、とまた歯と歯が打ち鳴らされる。


 しかし、その動作がどんな理由であるにしても、それもまた異常の表れに類されるものでしかない。



 口で、また牙が打ち鳴らされる。それだけならまだ良い。しかし過ぎた食欲は異常となって体中に現れ始めている。



 頬で額で後頭部で首で胸で腹で臍で肩で二の腕で肘で手の平で腰でわき腹で足で膝で、周りの空気さえもが。


 飢えに飢えて、物欲しげに歯を打ち鳴らしていた。



「今日は、気分が良ィ……。最高ォだ……」



 胡乱なその目はジェミニなど見ていない。


 夢を見ているわけでもなかろうに、目の前のありもしない御馳走に思いを馳せているかのようだ。



 ひひっ、と"何処かの口"が堪えきれないように笑い声を漏らした。


 吊られるようにまた別の口が。そしてまた、また、また、また、また、また、また。



 大小様々な口がそれぞれ違う声と形で笑い上げる。その不協和音にも似た声は混じって重なり、闘技場の空気を盛大に揺らした。



 余りの異様に、ジェミニは足を止め、ただ頭の中に鳴り響く警戒信号に身を委ねる。



 そして、笑い声が徐々に小さくなり始めた。十秒足らずでその声は萎んで行きそして、今完全に静寂が戻る。






──接近は一瞬。



 気が付けば目の前に大きく拡げられた大顎があった。


 漆黒。常闇。拡げられた顎の奥に広がるのは、そんな言葉が良く似合う黒。唯一色が違う白い唾液の糸も、臭う腐臭と同じくただ吐き気だけを加速させる。



 しかしジェミニも然る者。


 正面からの攻撃をまともに喰らいはしない。頭から食い千切ろうとする顎を避けながら後ろに跳ぶ。



 しかし、未だに顎は目の前。もう一つ、タウロスは人間を外れていた。


 手の平にあったはずの大顎。いや、未だ手の平にいるといっても良いのだろう。しかし届かないと分かった右手の口は、首を伸ばしていた。



「う、お……!」



 まるで、口と食欲しかないミミズの様な姿形。


 今初めて実現させた能力の一端なのか慌てて数歩下がったジェミに目の前でガチンと歯を打ち鳴らせ、それ以上の前進を止める。




「忘れられるとは舐められたものだ」




 しかし食欲の権化の次は、鉄と殺意の塊が待ち構えている。




「成程、貴様を殺すには力と重さでは効率が悪いらしい」




 言葉と同時に何かがジェミニの顔に飛来した。空気を切り裂く音を発しながらジェミニの頬を掠めたのはやはり小さな黒い塊。




「手数と速さ。これならば貴様を死に至らせる事が出来ると確信した」

「……正解」



 黒い塊といっても、あの馬鹿でかい立方体や三角錐ではなく、その形は小さく、その代わりに薄く細い円盤。


 物凄い速さで回転しているのだろう。空に停滞している今でも小さく風を切る音が幾重にも折り重なって聞こえる。そして少しでも手数を増やそうという算段なのか一際大きい歯が一枚に付き四つほど刃が突起している。


 その攻撃手段も工夫も、全く持って効果は抜群である。



「女の子がそんなん使ったら駄目やでー?」

「ならば、その下らん理念フェミニズムごと挽肉にしてやろう」



 女の言葉で、一度に周りの砂鉄達が意思を持ったかのように動き出す。


 より一層回転しだした円盤は鋸に似ていて、町中の草刈が一人で出来るだろうなと現実逃避にも似た思いを巡らせている内に、その鋸たちが唸りながら殺到した。



 上から下から斜方から右から左から視界いっぱいを覆い尽くすほどの物量が雪崩のように押し寄せる。



 防ぐ。無理だ。斬撃に加えてこの量。


 流す。不可。上に同じ。




 ならば。逃げろ。




 瀕した危機も手伝って、ジェミニの集中力が更に研ぎ澄まされる。それこそ魔法を使わずとも時間が遅く感じられるほど。


 どの方法でどの身体運びならば突破できるか予測を立てる。その予測した自分のほとんどが鋸に切り刻まれながらも、ほぼ無傷で切り抜ける道もある。



 ならば、後はただ実行するだけ。


 時間を刻んで引き延ばし、円盤の腹を叩いてはたき落とし一転突破。



「ちっ……」



 女の舌打ちが回避の成功を知らせる。追い討ちとしてまた幾つかの砂鉄が飛び出すが、足元に向かっていたそれを跳んで避ける。

 

 そして今度は狙い済ましたかのように、隠し切れない食欲が歯を打ち鳴らす音として背後から鼓膜を揺らす。肩越しに視線をやれば相変わらず悪趣味な、常闇が続く口腔が視界の端にちらりと映った。



「────」



 行ったのは、時間干渉とほんの少しの自転干渉。一秒の半分の半分の更にその十分の一ほどの時間、自分の身体をこの星から切り離す。


 空中にも関わらず音速を超えた推進力を得たジェミニの身体は、脇をすり抜けるように大顎の脅威を逃れた。



「……っと」



 二人から十メートル以上離れた位置まで移動して、体勢を整えた後漸く一息つく事が出来た。


 二人はそれぞれ違う意味を込めた視線をこちらに送っているが、相変わらずの殺意の濃さだけは共通している。





 改めてこの二人を相手に捕縛と言うのは少し難しいんじゃないか、と頭を抱えたくなった所で、──変化が訪れた。




 とん、と軽やかな足取りで背後に誰かが降り立つ気配。


 警戒心を最大に瞬時に振り向き、その姿を確認して安堵の余り思わずその名前を呼んだ。




「レイちゃん!」



 奇抜ながらも艶やかな藍色の和服という格好に、三つ編みで一つに纏めた黒く長い髪は優雅に揺れていて、そんな個性的な存在は二人と知らない。



 だからジェミニに警戒心は無かったのだ。この場、このタイミングでの助けに味方なのだと信じきっていた。





 ──人外の力を込めた拳が、ジェミニの無防備な鳩尾に食い込むまでは。



 ジェミニに一握りほどの警戒心が沸き起こったのは、その痛みと苦しみに膝を付いてから。




「れ、い……?」




 しかし、その警戒もたった一瞬の事。


 名前を呼び終える時間すらも待ってはくれず、首の裏に強い衝撃を感じてジェミニの意識は黒く塗り潰された。











  ◆ ◆ ◆










 霞のように消えてしまった娘を探してユキネは部屋中に視線を巡らせていた。




〈主。どうやらあまり良くない状況のようです〉

「え?」

〈閉じ込められます〉

「ええ!?」



 女がもう既にここを離れたと断定して、とりあえずメサイアの言葉の意味を探す。閉じ込められると言われて初めて視線をやったのが王座から廊下へと続く大きな扉。


 しかし、先刻も今もぴっちりと閉ざされていて何も変わってはいない。



 視線を移してやっと今なお変化を続けているそれを見つけた。



「何で……!」



 その"穴"に向かって毒づきながら地面を全力で蹴り飛ばす。


 目指す壁に開いた穴は──いや、開いていた筈の穴は今この時にもその面積を縮めていく。



〈ふむ。どうやらあれは物理的な物ではなく魔術的なものだったようですね〉

「暢気な……!」



 いや待て、と身体は全力で動かしながら一つ疑問。


 メサイアが閉じ込められると言ったから走ってはいるものの、閉じた所で普通に扉から出ればいいだけではないのだろうか。



〈何か強い結界らしきものを感じます。主ならば出れない事はないでしょうが一秒でも拘束される時間は回避すべきかと〉

「そりゃそうだ……!」



 メサイアと返答を繰り返しながら最後の三歩を大幅に踏み切り、未だ縮まり続ける穴に頭から飛び込んだ。


 壁の天井から床までを直径とするほどの大穴が、今ではその幅五十センチほど。身体のあちこちを妙な間隔の穴の縁に擦りながらも、何とか身体を捻じ込む事に成功する。



 爪先が外気に触れた瞬間に穴が完全に消えてなくなった。



「……あ」

〈主、足場足場〉



 我ながら凄い速度で走り抜けたのが幸いしたのか、落下の始まりが緩やかな内に空中に足の指を咬ませて姿勢を正す。


 最近肩口で切り揃えた髪が、いつもより大きく体を揺らす。いつもより多めの風を首筋に感じながら、ユキネは口を開いた。



「レイが何処に行ったか分かるか? メサイア」

〈いえ。その結界のせいで謁見室のレイ殿の気配が大きくなっていたようで。加えて今は杭の魔法のせいで今は町中から彼女の魔力を感じます〉



 そうか、と呟いて次に出てきそうだった言葉を飲み込んだ。そのまま感情に任せて口に出してしまえばそれがそのまま現実になりそうで怖かった。



(そんな、訳はない……)



 フェンは姿を消し、ジェミニも居らず、シアもレイも居なかった。そして、ハルユキさえも、今この不安を消してはくれない。


 まさか、もうこの町に皆は居ないんじゃないかと。漠然とした不安が付き纏って離れなかった。



〈……主〉




 最悪の結末を、決して消えはしないユキネの弱い部分が脳裏に投影する。




〈主──!!〉


「え……?」




 メサイアの言葉に自分が呆然としていた事に気付いて、咄嗟に顔を上げる。



 その目前にまで、白い何かが迫っていた。



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