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ハイイロ ノ カナタ  作者: mild
第一部
145/281

牙剥く牛と、固い羊

「────」

「────」



 睨みあいは一瞬。


 片方は憎悪と殺意に濁った目線、片や郷愁と喜びが混じった目線。


 その二つが相容れる事はなく、全く対極の感情で戦意が交差し魔力が膨れ上がった。



 先手はジェミニ。時間の流れにまで干渉し、その体を少しでも早く敵の懐まで。拳はいつの間にか固く握られ振りかぶられている。その動作に一秒の半分の時間すらかかってはいない。


 しかし、対する男もその動きをしっかりと目で追って、ゆったりと手を掲げた。



 向かう掌はジェミニではなく空に向いている。



「ちぃっ……!」



 しかし、それにも関わらずジェミニは飛びずさって距離を取った。


 傍から見れば臆したかと揶揄されるだろうが、そうではない。


 近づくだけの行為にも最大の警戒を。一瞬で収束した男の魔力は、迂闊さ一つで容易くこの世を離れる事になる事を物語っている。



「ジェミニ。私はお前と戦う気は無い」

「何だと……?」



 改めて攻める機会を探していたジェミニが、その言葉に顔を上げた。



「フェアじゃないだろう、今の私とお前では」

「……知るかよ。お前がどうしようと俺はお前を殺す。過程なんてどうでも良い。お前が死ねばそれでいい」



 ジェミニの言葉は想定していた事なのかそれとも他に思う所があるのか、自嘲するように笑うと男はジェミニから僅かに目を逸らす。



「何、退屈させる気は無いさ。──アリエス、タウロス」



 決してこの集団は団結が取れているというわけではない。むしろ個々がばらばらに動いているようにさえ見える。しかし一人一人がどうであれ、この頭となっている金髪の男は良く配下の人間を理解しているのだろう。


 名前を呼ばれただけで二人が直ぐに戦闘体勢を取ったのは、その賜物だと言える。



 片方は確かに忠誠心から主の言葉を汲み取って、もう片方はただ原始的な衝動に身を任せて。


 動機は違えど結果は同じ。多少やり方は歪ながらも統制だけ取れていればいい。



「さて、元はと言えば俺ァお前を殺す為にこんな場所まで来てんだ。ちょっと味見させろや」

「足を引っ張れば貴様を殺すぞ、タウロス」



 片方は愉しげに首と拳を鳴らしながら、もう片方はただ自らの殺意を加速させながら身体を起こし。──一瞬で両者がその姿を眩ませた。




「────」


 

 ジェミニも阿呆ではない。後ろから手練が二人も迫ってきていると気付いた途端に、金髪の男への殺意を収め、タイミングを合わせて後ろ回し蹴りを叩き込んだ。


 不意打ちのつもりで警戒が薄かったタウロスは防御こそ出来たものの回避は出来ず、蹴りの勢いで数メートルの後退を余儀なくされる。


 そして、もう一人。ジェミニはタウロスを退けた蹴りの勢いをそのままにその場でもう半回転。再び回し蹴りを鋼鉄と化した女に向ける。



 あの能力に大して半端な打撃は意味が無い。


 よって狙われたのはその足元。


 剃刀のように鋭い足払いが、女の体を宙に浮かせ、その身体に掌を添える。



 そして、また衝撃がその身体に叩き込まれる。ゴボッと女の口から尋常ではない量の血が吹き出し、これもまた数メートル吹き飛ばされて地面に堕ちた。



「……終わったぞ」

「流石だねぇ、ジェミニ」



 聞こえた無邪気な声に、ジェミニが鋭い目のまま視線を向けた。視線の先にはからからと笑う子供の姿。


 言葉もなく、今度はその子供に向けてジェミニは拳を握る。



「アリエス。僕も加勢してあげようか?」

「──貴様は下がっていろ。寄生虫」



 平然とした声に今度は後ろを振り向くと、またあの女が立ち上がっている。


 その足取りにも表情にもダメージがある様には見えず、口の端から顎に走る線がなければ、今までの攻撃が全て夢幻だったのかと思えるほどだ。



「強いな貴様」



 まるで痛みなど感じていないかのように、平然とした表情で目だけは殺意をより増幅させている。



「だが私も弱くはない」



 ゴキリ、と不適に首を鳴らす動作からか、その格好からか、ジェミニとそう変わらないほどの背丈のせいかとても女には見えない。



「さて、殺し合いだ」



 女の言葉に隠れるように、ピシピシと何かが罅割れる音がしている事に遅れて気付く。



(……何だ?)



 周りに目を凝らせば、辺りの石床が一斉にひび割れ始めていた。同時に足元にかすかな振動を感じる。




「跳べ、ジェミニ!!」



 ──瞬間。


 石床を捲り上げて地面から黒塗りの刃が、天を衝いた。



 しかし、その刃はジェミニの服の裾を僅かに切りつけただけに終わっている。ハルユキが飛ばしたその声のお陰で、一瞬だけ早く反応できたのが幸いだった。


 声に行動を委ねて考える前に地面を蹴り、空中に身を投げる。


 しかし、変わらず地面は足元にあった。



「ち……」



 いや、追って来たのは地面ではなく、その上に重なっていた床石だけだ。しかしそれでも決して簡単に持ち上がるようなものではない。


 更にそれが目的だったのか、自分の下半分の視界を奪われ、同時にて敵影を見失う。



 間髪入れずに再び石畳がピシピシと悲鳴を上げる音。気付きはしたものの、身体は空中だ。ただやって来る物を待ち構えて臨機応変に対応するしかない。


 一瞬で周りの空気さえも落ち着いて重くなったかと錯覚するほどにに、急激にジェミニの集中力が高まる。



 迫る石畳。ぶつかる速さではない。しかし同時にその石床に切れ込みが入る。下からの攻撃。否。自分で障害を作っておいてわざわざ壊すわけが無い。よって──。



 ──先ずは右。




「──ハッはははァ!!」




 迫るのは空間が割れたような大顎。覗く口腔からは腐臭に似た異臭が漂い、吐き気を催しそうだ。


 手の平で軽く空気の流れを操作して、爆ぜさせる。推進力により身体を回し上顎に上から思い切り踵を振り下ろした。



 顎は空間が分かれているその辺縁だけが物質化しているようで、外から触っても裂け目は鋭く牙と化していて、間を狙ったと言えど多少は足に傷が付く。


 しかし、その代わりに大顎は強制的に閉じられ、その先にいた男の姿が視界に入る。男もほぼ同時にこちらの存在を捉えて、また大顎を出現させた。



「何……?」



 しかし、出現したその場所はジェミの近くではなく、タウロスの足元。


 疑問に一瞬だけ思考が止まったジェミニを愉しそうに笑いながら、タウロスはその大顎を思い切り蹴り付けた。



 空中に居たはずのタウロスの身体が力を得て、ジェミニのいる高さまで一直線に飛んでいく。


 驚きはあった。タウロスには動きも膂力もある。しかしその殴り方が素人だ。敵を壊す事しか考えていない真直ぐすぎる拳。



「──っし!」



 敵が伸ばした拳と腕に隠すように、拳を振り抜く。相手の腕と自分の腕で十字を描きながら肩口からその頬へと拳を叩き込む、所謂クロスカウンター。


 無防備なタウロスの頬に拳が減り込む。



 その、一瞬前。



 タウロスの"頬"が"大顎を開いた"。



「な、に……!?」



 拳を寸前で止めるが、しかし完全には間に合わない。耳の傍にある口の端が、小さく吊り上り喜び勇んでその牙を交差させた。


 ミヂ、と小さく肉が抉り取られる音が否応無く鼓膜を揺らした。



「っ……」



 持っていかれたのは拳の先となっていた指の背の薄皮一枚。その一片でも飢えの代わりになるのならと、美味しそうに頬の顎が咀嚼して嚥下する。


 しかし、そのおぞましい行動にジェミニは怯みも一瞬。



「──首と交換だ」



 あくまで冷静に、嚥下した瞬間を狙って首筋に蹴りを叩き込んだ。


 足が触れた瞬間、タウロスの首がまるで刃物にでも当たったかのように裂け、首の半分ほどまでを断ち切ったところで慣性が追いつき錐揉みさせながらタウロスを吹き飛ばす。



(一人……)



 気は抜かない。もう一人は未だ間違い無く健在だ。


 直ぐに残るもう一人の姿を探して、余りに分かり易いその姿を地上で見つけた。



 黒い渦。


 その黒い渦はまるで生きているかのようにうねりを繰り返しながら増殖していき、その度に石床が捲れ湿った柔らかい地面が外気に晒される。



「──"鉄柩リッサ"」



 最終的に為した形は、黒い立方体に直方体、そして綺麗な正四面体。そのそれぞれがまるで中で生きた人間が暴れているように動いている。


 一目で分かる。あれは盾であり刃であり鈍器であり足場であり。ありとあらゆる人の殺し方を可能とする武器だ。



「……砂鉄か」



 女が軽く跳ぶとその下に潜り込む様に立方体の塊が潜り込んだ。そしてそのまま軽やかに宙に浮く。


 同時にジェミニは地面の上へ着地した。



 瞬間。



 何の口上もあるわけは無く、何の脈絡も無しに黒い直方体がそのまま空を転がってくる。


 巨大な体積を感じさせないほど動きは速いが、避けられないほどでもない。身をかわそうとして、そこで初めて何処にも三角錐の黒い塊が無い事に気付いた。



 そしてその直ぐ一瞬後その在り処に気付く。紙の様に薄く形を変え地面の上を這うようにこちらに接近している。


 細かに振動と移動を繰り返していて、恐らく触れれば皮は裂かれ肉は抉られるのだろう。



「"閉"」



 言葉に呼応するようにその黒い地面が上空へと噴出し壁を作り、それは結果的に檻となる。



「"封"」



 そして唯一外と繋がった上空から、残った直方体が唸りを上げて砂の檻ごと地面まで叩き潰した。



「逃げてるよ」



 女の耳に愉しそうに忠告する子供の声が入り込み、同時に目の端に何かが走りぬけた残像を捉える。その影を追えばその逆で上で下で後ろで前で。縦横無尽に影が通り過ぎる。



「ちっ……」

「ひゅ~ひゅ~」



 馬鹿にしたように子供の口笛に苛立たせながら、女は全身を鉄鋼化。いつでも迎撃できるようにと影を追うのを止め、ただ受けの姿勢を保つ。


 しかし、気付く。


 その姿が捉えられない訳ではなく、完全に消えている事に。



「意趣返しだよ、アリエス」

「……下か」



 その言葉が無くても気付いていた、と言うほどのタイミングでアリエスが反応する。砂鉄をすべて足元から顔まで続く一直線上に。


 そしてその防御も完全ではない内に、地面の下から当たり前のように拳が突き出した。



「甘い」



 傍目から見れば何の工夫も施しているようには見えない裸拳。



「なっ……」



 しかしそれが、地面を抉り砂鉄の盾を次々に砕いて、敵を穿とうと迫ってくる。その簡潔さは美しさほど感じるもので、しかし最後の砂鉄の盾を砕いたところでその拳の勢いは完全に殺される。




 結果的にジェミニの攻撃もアリエスの防御も死に、結果的には目の前で再び対峙した結果となった。



 それでも決して両者が同じ条件とは言えない。


 奇襲された側とされる側で準備のし様はまるで違う。加えてアリエスが攻撃を加えるのに砂鉄を操らねばならないのに対して、ジェミニはその攻撃の簡潔さ故にもう一つの拳を握るだけで良い。



「退かないなら死ね」

 


 その拳は振りかぶられ、女の頬へ減り込み、力を集約した一撃は鉄の身体といえど軽くない傷を与える。



 ──はずだったのに。



「ん?」



 間近で女の顔を見たジェミニの拳が、女の顔の寸前でピタリと止まる。



「……………君、女の子なん?」

「馬鹿にしているのか貴様」



 砂鉄の攻撃をまともに喰らい、ジェミニは呆気無く吹き飛ばされた。





◆ ◆ ◆




 吹き飛ばされてこちらにごろごろと転がってきたジェミニを見て言うべき言葉は、そう多くは無かった。



「……馬鹿かお前は」



 発した声に反応して、ごろんと身体を転がしてジェミニが今見つけたかのようにハルユキを見て驚いた顔をしてみせた。


 その身に纏った空気が、拍子抜けするほどいつも通りで、先程の鬼気迫った表情は何処に言ったのかと突っ込みたくなる。



「いやね、女の子の顔殴るんはなぁ、ちょっと抵抗あるというか、いやうん無理」

「お前腹に思い切りかましてただろ」

「あれはハルユキの技やから、お前の責任」

「て言うかお前。やっぱりその口調素じゃないのかよ。まあ元から不自然だったけど」

「ワイのこれは不自然が自然なんよ」



 調子の良い言葉に頭を抱えながら、しかし少し安心してしまった自分が居るのも否定は出来ない。何しろこちらが目に入らないほど怒り狂っているのかと思っていたところだ。



「お前この結界解除できるか? 壊すのは無しの方向で」

「……出来ん、事は無いやろうけど。調べて解く間にあいつらが大人しく座っといてくれたらの話になるわな」

「……そりゃそうだ」



 ハルユキが先程壁の中から攻撃を仕掛けたせいか、敵は近寄っては来ないがジェミニがこの壁をどうにかしようという動作を見せればたちまち襲ってくるだろう。


 それで無くともじりじりとこちらににじり寄ってきているのだ。



「何でアイツ生きてんねん……」



 迫ってきているのは二人。


 先程の言葉を侮辱と受け取ったのか、目の中の殺意をより一層濃くした鋼鉄の女と、そして、半分以上が千切れた首を無理矢理抑え付けて繋げている男。


 ほんの数秒で元通りにくっ付いた首の稼動を確かめるようにゴキゴキと鳴らすと、にぃ、と愉しげに笑った。



「あれは、中々死なんぞ。縛り付けたほうだ速いだろうな。お前等は魔装具とやらがなければ魔法使えないんだろ?」

「女の子も縛るんか?」

「それも嫌か」

「……いや、望む所」

「変態だな」



 さて、と最後の言葉と同時にジェミニの顔から笑顔が消える。相手は二人。しかもまだ余裕を持って戦いを観戦している敵ももう二人。



 実際問題として、ジェミニにダメージを与えるのは困難だ。


 打撃も斬撃も火も風も、全てを受け流してしまうのだ。ダメージを与えようとするならば、何らかの形でジェミニの処理能力を超えなければならない。



 力でも速さでも手数でも、なんならば不意打ちでもいい。受け流しは全自動ではないので、確実にダメージを与える方法は存在する。


 しかし、あの二人ではその壁を破る事は出来ないだろう。


 だからこそ、もう一人。もう一人誰かが居てくれればジェミニが時間を稼ぐか、その誰かが時間を稼ぐかしてくれれば簡単に状況は覆る。


 長かったが、好転は一切ジェミニの登場以外何一つとしてなかったが、それでもあと一手で解放される所まで来ているのだ。まあそのもう一人の条件がかなり厳しい事も承知しているが、心当たりはある。


 理解も出来なかった数式が、上手い具合に解けて解答までの道筋が見えてきた気分だ。自然と身体にも力が入る。




 そんな中、音も無くジェミニが目の前から掻き消える。とほぼ同時にタウロスが顔の横で交差させた腕に勢いが乗った右足が叩きつけられる。


 

「あの男……。さっきはあんなに強かったかしら?」

「……なに?」



 ノインが掠れた声で問いかけてきた疑問に思わず疑問で返す。


 

 改めてジェミニと渡り合う男を客観的に眺めてみて、ノインの言葉が誇大どころか少し物足りないほどである事を知る。


 元々そういう能力なのか、それとも何か飛躍的な成長を促す何かがあったのか、


 ハルユキがあしらった時にはあれ程の素早さも力強さも無く、雑魚とは言わずとも何人居ようが問題が無いレベルだったはず。



 今、もしあれが十人居るならば、噛み付かれるかもしれないと、そう思えるほどには。



「でも、それ以上に強いのね、貴方達は……」



 ──それでも、ジェミニは負かすにはまだ足りない。



 そもそもジェミニは今この場を除けばタウロスを見た事さえないはずだ。


 今まさにその能力を膨れ上がらせているとしても、それは実力を隠しているようにしか見えず、その可能性を鑑みて戦っているジェミニには実際の戦闘力向上以外に意味は無い。


 そして、戦闘力が上がった男と拳を合わせながら、女性相手に決め手を欠きながらも、優勢に事を運んでいる。


 

 だから、問題は日和見を決め込んでいる残る二人。

 

 確かに負ける事はないだろうが、圧勝できる訳でも、無傷で勝てるほどでもない。恐らく傷を負った状態では残った二人を相手取る事はできないだろう。


 子供と金髪。そして、今はどこかに消えたあの娘も。あれらは一対一で、そして出来るなら確実な算段を用いて戦いに望むべきだろう。


 それはジェミニも分かっているのか、時々金髪の男を憎々しげに睨みながらも今は回避と防御に集中している。



「誰か待っているのか?」


 

 ふらっと、いつから近づいていたのか視界の端から金の髪が姿を現し、ハルユキのすぐ隣に並んだ。


 並んだと言っても当然壁は隔てており、先程タウロスを吹き飛ばした距離とほぼ同じだ、当然攻撃の手段はある。その事は間違い無く分かっているだろうに、男は無警戒にすら思える余裕を保っていた。



「レオが受け継いでから益々町の結界は強固になっている。誰かを待つ事に意味があるとは思えんが」

「……」



 改めて空を見上げてみても、魔力とも魔法とも縁が無いハルユキにはその結界とやらを見る事も敵わない。



 結界の有無などやはり分かりはしないが、しかし、外と切り離されているのは感じる事が出来た。


 人の死の臭いも、死体と爆煙の臭いもしない。外の気配も、音も希薄だ。今はジェミニたちがけたたましい騒音を撒き散らしてはいるが、少し離れたここではその騒音の奥にどこか白けたような静寂を感じる。



「みたいだな……」



 ハルユキでは力尽くでしか壊す方法は無いだろう。すり抜ける方法も華麗にかわす方法も知らない。


 しかし、そういう事に長けている奴は知っている。





──とん、と軽やかに地面を蹴る音が聞こえた。





 それはジェミニが地面を滑るように移動する音とも、タウロスが食欲を持て余して歯を鳴らす音でも、アニエスが殺意を砂鉄に混ぜ込む音とも違う。



 もっと涼しげに。軽やかに、皮肉気に。



 雪駄か草履かよくは判らない履物で地面を強く擦る音が後に続いた。


 きっとまだ自分しか気づいていない。しかし、妄想でも幻聴でもないと確信を持って断言できる。確かにこの闘技場を外界と分かつ壁は大きく厚いのだろう。あの女が仲間意識を持っているとも思わない。


 しかし、あれは負けず嫌いで性格が悪いのだ。


 ハルユキが下手を打ったと知ったのならば、嬉々として貸しを押し売りにやってくる。絶対、などとは言えないが、少なくとも逆の立場ならハルユキもそうするだろう。



「……”普通なら”などと、君達とは無縁の言葉を前提に使っても仕方なかったか」



 隣の男も気付いたのか、まるで自分の迂闊な言葉がその存在を引き寄せたかのような言い回しで溜息をつく。



 とん、とん、とん。と男の言葉を聞き流している内にも力強い愛音が連続で鼓膜を揺らす。


 

 そう。ジェミニもここに辿り着いた。ならば、あれがここに辿り着けない理由も見つからない。むしろ、これ以上遅れるはずもなかったのだという思いすらある。


 その足音が一向に近づかないのは、まさかその場で地団太を踏んでいるわけではなく、恐らく彼女が地面とは直角に走っているから。


 

 おおよそ四歩。


 それだけで闘技場の反り高い壁は踏破され、彼女の姿を白日の下に押し上げるだけの足場と化した。



「彼女は陽の下よりも月下の方が似合いそうだ。無粋な事をしたようだ」

 


 少しばかり気障ではないかとも思える男の言葉はしかし、濃い灰色の空を背負った吸血鬼には少し物足りないほど。


 風に靡く黒い髪は夜の闇と同じ色だが、決して溶け合って境界を無くす事はないだろう。


 黒い瞳も藍色の着物も同上。夜に住みながらも、闇に溶ける事は決してない。



「……やっと、来たか」



 皮肉混じりに言ったハルユキの言葉は、込み上げて来る歓声を押し潰すのに力を入れすぎたせいか、口の中で聞こえただけで誰の耳にも届いていない。



 しかし、まるでその声に応えるように彼女の体が空中に飛び出した。



 わずか一歩で客席の中腹を抉り、二歩目で舞台の縁に足をかける。


 そして、最後により一層強烈に闘技場の縁が蹴り飛ばされ、日が指す舞台には似つかわしくない筈の吸血鬼が躍り出た。



「レイちゃん──!」



 ジェミニは待ちかねていたかのようにその闖入者の名を呼び、それ以外の人間は一瞬動きを固まらせる。


 勢いのわりに静かにレイは舞台へ下りた。


 ゆっくりと闘技場を見渡す様はいつものように悠長で憎たらしく、しかしその顔に何時もの微笑は無い。




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