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ハイイロ ノ カナタ  作者: mild
第一部
141/281

名前

 何の手も入っていない、赤茶けた土の上に屋根と壁だけを取って付けたような倉庫の中。その中に無造作に積まれた木箱の上に、その闖入者の姿を認めた。

 小さく幼い、子供の姿。



「さて、再会の挨拶でもしておこうかジェミニ」



 ぱん、と場を仕切り直すかのように手を叩くと、その子供は歳不相応な流暢な言葉で声を上げた。その姿と言葉があまりに不釣合いで、どこか違和感が残る感覚が鬱陶しい。

 何年経っても変わらない、虫唾が走る声だった。



「久しぶりやのう。何年ぶりやろか」



 しかしそれでも、ジェミニの言葉に心情はさほど滲んではいない。先の子供の表情に比べれば無表情には徹してはいないが、代わりに形だけの笑顔が顔に嵌っている。



「まあ、思い出話に花咲かせたい所だけど、僕も色々忙しくてね、っと」



 どこまでも軽く適当な感情を言葉に滲ませて、子供は地を蹴った。立っていた場所は、無造作に積み上げられた木箱の上。

 そして降り立つ地面には、何も聞かされていなかったのか仮面越しにでも驚きを隠しきれていない憐れなピエロが一人。



「どーん☆」



 避けれない速さではない。

 子供の声が最初に聞こえた時からラィブラは目を離せずにいたほどだし、子供の方もただ落下していただけ。


 しかし、手足は縛ってしまっている。──いやもしかしたら関係なかったかもしれない。ラィブラは思考も体も固まらせて、そして道化の仮面は当然可笑しく笑ったまま、落ちてくる足を受け止めた。

 ぐしゃり、と耳を塞ぎたくなる音と混ざって、くぐもった悲鳴が小さく聞こえた。



「さて、質問だ。お前は闘技場で僕を待ってないといけない筈だったんだけど、何でここにいるのかな」



 地面に顔面を叩き付けられて起き上がろうとしたラィブラの顔面が蹴り上げられる。



「君を探す為に僕が歩き回ったんだけど。それはおかしいでしょ?」

「あ……ばっ……!」



 湿った音と共に夥しい量の血が地面に撒き散らされた。



「全く、手間、ばかり、掛けさせて」



 一度目の蹴りで仮面が完全に剥がれ、一度目の踏み付けで地面と血でグロテスクな顔面が汚れ。そして、二度目の蹴りは後ろから掴まれた感触に気を取られて、空を切っただけに終わった。



「ん?」



 掴まれた服を追うと、未だ薄くしか肉が付いていないか細い腕が繋がっている。そしてそれを更に辿ると、子供の記憶にもどこか引っ掛かりを覚えさせる蒼い髪。

 一瞬、驚きすらも忘れて表情が固まった。

 そして、直ぐにいつもの顔に戻る。



「なぁるほどね。でもジェミニ。流石にそれは無いんじゃない?」



 一見無邪気にも見える笑顔を残して、子供は姿を眩ませ、シアの手の中からも消えた。

 ぎょっとして目を見張るシアの視線の先には、既にラィブラもいない。



「そんな残酷な事するなんて、僕にはとても出来ないや。尊敬するね」



 声はジェミニとシアの後ろから。

 無造作に髪を持たれたラィブラは、いつの間にか拘束は解けているものの、血だらけの顔を隠す事も出来ていない。


 ラィブラの体は子供の体よりも大分大きく、子供の腕に特別力強さも感じないにも関わらず、ラィブラは足を宙にぶら下げて成す術も無く捕まっている。



「お前も相当なもんや。そいつ、一応仲間やないんかい」

「相変わらず仲間想いだね。その考え方に反論する気は無いけど、ラィブラ(こいつ)は特別だ。焦らす事でもないからさっさと言ってしまうとね、──まあつまり、こういう事なんだよ」



 そう言って、軽く広げた手の平でラィブラの顔をゆっくりと横断させた。



「何、だと……?」



 当然、一瞬だけラィブラの顔は隠れ、直ぐにもとの顔が現れるはずだった、が、そこにあったのは鼻や唇が削ぎ取られた猟奇的な顔とは別の顔。


 しかし、全く見た事が無い顔と言う訳でもなかった。


 事実、恐ろしいほどよく似た顔がその隣で溜息を付いている。



「ジェミニ。僕を知ってる君なら少しは思わなかったかい? こいつの魔法も声も話し方も、どこか僕と被ってただろ?」

「無茶言うなや……」



 確かにジェミニの頭の片隅に、似ているかもしれないという思いは、無意識下の中に少しも無かったとはいえない。


 しかし、顔は潰されているし、兄弟が居るなんて話も聞いたことが無く、まさか"同じ顔で似たような能力の人間がそう都合よく二人も居る訳は無い"。いや、"作れるとは思わない"。



「相変わらず何でも有りやな、お前は……」

「その分、時間と手間と魔力が必要だけどね。まあ重宝してるよ。でもね、流石に知能と思考を兼ね備えた存在までは作れないよ。一万年魔力を溜めても足りない足りない」



 得に力を入れた訳でもなく、ラィブラの体が完全に地面から離れる。



「だからね、これは"魔法"じゃなくて"技術"なんだ。まあ正確に言えば魔法半分技術半分って所なんだけど。その技術はね? クローンって言うんだ、知らないだろうけど」



 おもむろに子供が立てた人差し指をラィブラの前で横に振った。



「……?」



 それに合わせるように、あれほど強固だったラィブラの黒装束が切り裂かれて地面に落ち、ラィブラの肉体が露になる。筋肉質な訳でもなく、大して痩せ細っているわけでもない普通の体型。

 しかし、その体を見て吐き気を催さない人間がどれだけ居るのだろうか。





 ×。


 ×××××××××××××。




 服が剥ぎ取られたのは上半身だけ。しかしそれでも数えきらない烙印がそこにあった。

 胸、腹、背中、脇の下、首の下、脇腹、腰骨付近。あまりに多く押され過ぎて、もう何の形を象った焼印なのか分からない物も多くある。


 後ろから小さくシアの悲鳴が上がる。

 体中がひどく痛むだろうに、ラィブラは未だ気絶は出来ていないのか引っ張られる髪を押さえて、小さく呻く声が前からも聞こえた。



「笑えよ」



 短く告げられた声は刃物のように冷たく鋭く、その冷たさに道化はびくりと身を竦ませる。

 やがて、唇が削ぎ落とされた口がぎこちなく吊り上った。目は笑い、口は笑い、それでも大粒の涙を零しながら。それこそ、道化ピエロのように。



「良く出来ました」

「……!」



 声に隠れて短く音がした。同時にラィブラの肩から大きい剣が生えていた。

 

 ラィブラの目が驚きと痛みで見開かれる。それでも、呻き声一つ漏らさずただ息を荒くしている。それを見た子供は溜飲が下りたかとでも言うように、さっさと視線を逸らした。



「今考えれば何でこんな奴作ったのかって話なんだけど。まあ、今回は役に立ったよ。転移するにしても座標を求めらんないからね。憎たらしい事にこいつは何処に居ても分かるようにしてあるんだ」

「転移……?」

「……ん? ああ、はいはいそうだ、言うの忘れてたけど」



 ゆっくりと口角が上がり、裂けるんじゃないかと言うほどに唇を薄くしながら笑みで顔が歪む。反応が楽しみでたまらなかったのか、もったいぶった言い方で言葉を紡いだ。






「来てるよ、"彼"」





 短く、たった一言で、具体的な単語すら無かったものの、ジェミニが耳から入ってきたその言葉の意味を噛み砕いて、表情を凍りつかせるのに時間はかからなかった。

 どんな思考が駆け巡ったのか、それとも脊髄反射で殺意が沸き起こったのかジェミニの姿が掻き消える。



 一瞬後、耳を劈くような轟音と共に壁ごと子供の姿が吹き飛ばされた。



 雨露が最低限避けられるよう簡易に作られていた壁はいとも簡単に崩れ去り、倉庫の中の湿った空気を掻き出していく。



 地面が湿っているからか、あまり土煙は上がらない。



 結果、首元を押さえつけられて地面に抑え付けられている子供と、笑顔が殺気で崩れて、憎しみが形を作ったような表情で子供を押さえつける男の姿が露になっていた。



 しかし、そのまま首をへし折りそうな表情であるにも関わらず、男──ジェミニは軽く舌打ちをして手を離す。手を離した時には、組み伏せていた筈の子供は既にいなかった。


 指の先から逃れ出たかのように残っているのは霞だけ。それから視線を逸らすと同時に後ろから声。馬鹿でも煙でもあるまいに、その姿はまた少し離れた木箱の上。



「やっぱりまだ怒ってるんだね。いいじゃない代わりもいるみたいだし」

「──黙れ」

「黙ります」



 小馬鹿にした態度にジェミニの表情がまた一段と険しくなるが、子供は笑ったままでジェミニも攻撃を仕掛けようとはしない。



「ほら、やっぱり僕も暇って訳でもないからさ。むしろやる事は他の皆よりもたくさんあるんだよ。まあ、今一つ終わるんだけどね」



 言って、おもむろに取り出した短刀をラィブラの背中に添える。



「やめろ」



 反射的にジェミニが口にした静止の言葉に、子供が目を丸くして手を止めた。



「あれ? 何で君がそんな事言うの? 情でも移っちゃった?」



 別に大した理由があるわけじゃなかった。そちら側の人間だ。殺すならば殺せばいい。

 

 しかし。

 ちらりと肩越しに後ろで蹲っているシアを見た。

 決着をつけなければならないのだ。ラィブラの出生のルーツがどうであろうと、たとえ卑小な存在でしかなかったとしても、ラィブラは深くシアの過去と心に関連している。心因性で声が出ないのも恐らくそのせいだ。


 決着を。

 それが憎しみに任せた復讐行為でも、馬鹿正直に赦しを与えるにしても、シアがラィブラにアプローチを掛けて、そして決着が求められる。



「ああ、そういう事ね。まあ、大体の事情は聞いてはいるよ」



 相変わらずの目聡さで、ジェミニのシアへの視線の意味を悟ったのか、大仰に溜息を付いて感嘆してみせた。



「僕もどうしてもこいつが殺したい訳じゃないからね。君が処理してくれるのならそれでもいい。ほら」



 そう言って、ラィブラを掴んでいた右手を無造作に振った。


 振られた腕の延長戦を伝って、不自然なほど勢いよくラィブラの体が宙に舞う。動くまでもなく落下点はジェミニの立っている場所で、受け止めようと足に力を込める。












「まあ、嘘だけどね」




 そして、その声によって、自分の愚に気付かされた。



「お前は好く出来ていたよ。道化としては」



 気付いて視線を戻した時には、既にそれは子供の手から離れて一直線にラィブラの背中に向かっていた。


 その小さな腕では持ち上げることすら出来ないのではないかと言うほど大振りの剣が、それも複数本。



 ラィブラを受け止めようと地面に足を据えていたジェミニが動けるはずも無く、ラィブラの体に足に腕に。



「道化として生まれて、道化のように滑稽に生きて、なら後は道化のように虚しく死ぬべきだろ?」

 


 そして、道化の仮面が完全に剥がれ落ちたその醜い顔も、黙って剣を受け入れていた。




 相当な質量を持っていた大剣はラィブラの体を予想されていた落下地点を大幅にずらして、皮肉にもシアの目の前までラィブラを運ぶ。


 シアは絶望するでも、当然喜ぶでもなく、ただただ目の前の光景を受け入れられず、呆気にとられた顔で動かなくなったラィブラを見つめていた。



「……シアちゃん、しっかりして」



 助けを求めるような目がフラフラとこちらを向いた。酷なようだが、ラィブラと敵対していた時よりも遥かに状況は悪い。



「身内の恥を晒すのは恥ずかしくて。教育して、同じ顔を削り取ってもやっぱり好きにはなれないね」



 こみ上げてくる笑いを噛み殺しながら、子供は肩を竦めてみせた。



「ええと、じゃあ僕はそろそろ行こうかな。やる事が多いんでね」

「──奇遇やな、ワイもや」



 お前を殺さなければならない、とジェミニは言外に伝え、子供にもそれは伝わったのか『仕方ないな』と、もう一度笑って肩を竦めた。



「……シアちゃんはここにじっとしとき」



 それだけ言って、ただでさえ細いジェミニの両目が更に細められる。



 そして、まず子供の小さな姿がゆっくり薄らいで消えた。


 消えた訳でも、この場所を離れたわけでもない。まだじっとりとした嫌な雰囲気が背中を這い回って証明してくれている。

 集中によって細められた目で、ジェミニは倉庫の中を次々と見定めていく。


 赤茶けた地面。薄くも厚くもない木で出来た壁。無造作に積まれた木箱。未だ茫然自失としている少女。半壊した壁から覗く灰色の空。何かを亡くした道化。舞う木屑。──戦火の明かりに黒光りする短剣。



「お見事」



 切っ先はシアの眼前に向かって突き出されていて、それをジェミニが寸前で掴み取っていた。


 逃がさない、との意を込めて骨が軋むほどジェミニが子供の腕を握り締める。そして、もう片方の手も負けないほどに強く握り締められ拳となる。




 しかし、先に子供の拳の方がジェミニの腹部にめり込んだ。



 やはり尋常ではない力が拳から伝わり、肋骨が悲鳴をあげ完全に折れる前に後ろに跳ぶ。しかし掴んだ手は離さず、子供も引き連れて。


 拳のダメージを殺しきるには壁まで跳ぶ必要があり、ついでに子供のその軽い体を壁に叩き付けた。



 この二人を閉じ込める檻としてはあまりに脆い木の壁はいとも簡単に崩れ去り、子供の体はそのまま地面に叩きつけられ、宙に浮く。


 それを、投げ付けた勢いそのままで一回転したジェミニが思い切り横から蹴り付けた。


 子供の軽い体は玩具のように体重を感じさせず、くるくると飛んで行く。



 しかし、わざとらしい程に胡散臭い手応え、もとい足応えがまだ子供が健在だと言う事を忠告している。



 横目で、シアの姿を見やる。


 相変わらず、ジッとラィブラを見つめるだけで動きは無い。


 放って置ける状態ではないが、あの男を攻め手にして戦うのはあまりに愚かだ。



 僅かに逡巡した後、もう一度「ここにおってな」と釘を刺して子供の姿を追って、地面を蹴った。





 無残に串刺しになってしまった目の前の人を私は見つめていた。



 大した感慨は沸かないはずだった。私は確かにこの人を憎んでいたし、私の母も時間も声も奪ったのもこの人。


 鎖を付けられ烙印を押され、この人以外と関係を作る事さえ許されなかった。人柄が良さそうな人が他の奴隷を買って行く事はあったし、私もそうなりそうな事があったが直ぐに連れ戻された。


 最初は分からなかったが、私は売り物ではないという事だったのだろう。


 当然そんな事は自分には知らされず、自分に不届きがあったからだといって折檻をくらった。


 中途半端に外の存在を知ったせいで、苦痛にも孤独にも慣れる事が出来なかった。

 だからいつの間にかこの人は、自分の世界の中で唯一変わらないものとして途轍もなく大きな存在になっていて、絶対的な支配者として君臨していた。



 それなのにそれはただの幻想おもいこみで。


 その幻想は更に恐ろしい人の一吹きによって消え去った。




 ──この町に来たのは確か二年ぶりだった。


 定期的に住処を変え、馬車で一纏めにして運ばれるのはいつもの事で、馬車の中では一言すらも許されない。



 あれは確か夜で、いや、人が大通りに集まりやすくなる夕暮れ時で、慣れない石畳を蹄を付けて走ったせいで馬が転倒したのだ。


 何かが弾け飛んだ様な音がした後、ぐるりと視界が回った。体の至る所を軽くぶつけたが、特に外傷も無く頭を振りながら顔を上げ、



 そこで、目に入った。


 破れた布張の向こうに、光が踊っているのを。


 光の中には笑い声や歌声が優しく交じり合っていて、以前に一度だけ飲んだ事がある温かい牛乳と蜂蜜を混ぜた飲み物を連想させる。



 だから逃げようとか、もう嫌だからとか、きっとそんな理由ではなかったのだ。



 いつのまにか。


 それこそ誘蛾灯に群がる蛾のように。



 私の足はフラフラと町の中心に私を運んでいった。







 意味が分からなかった。



 第一印象がそれだけの言葉で埋め尽くされた事をよく覚えている。


 何でもない道端で杯を交し合う人達、肩を組んで歌う人たち、手を繋いで飽きもせず語らいを続ける人達。


 薄暗さに慣れていた視界にその煌びやかなその世界は斬新で、漂ってくる香ばしい匂いは黴の臭いに冒されていた鼻には背徳的なまでに甘美だった。



 歩いた。ただ只管に。


 常に減っていた腹はいつも以上に空腹を訴えてきたし、ボロ布を羽織っただけの格好に時々奇異の視線を感じたが、そんな物は些細なもの。


 それ以上に、枯渇して死に掛けていた好奇心とか渇望などが、刺激によって潤いを取り戻していく感覚が何より重要で、自分の中を占めていたのだ。自分が犯した愚に気付いたのは、日付が変わり人の通りが疎らになって来た頃。


 そして、当然そのまま帰れなくなって。物凄い罪悪感と後悔にフードを被って町を彷徨った。でもその代わりに色々な人達に会って。皆が皆、色んな形で優しくて。話の中でしか聞いた事が無いような生活を送って。

 世界は、確かに広がったはずなのに。




 この人が自分の世界の全てを支配していた時間はもう終わったのに、それでも自分の世界が半分以上削り取られているのを確かに感じる。


 何故。

 確かに恨んでいた。それでも親しみや愛情も感じた事も無かった。あるのはただただ怖かった記憶だけ。

 ならば何故。

 優しく教えてくれるのか、それとも知りたくない事を無理矢理見せ付けたいのか。脳裏に住む別の自分が、目の前の男の怯えた表情を思い出させてくれた。


 そして、必然的に気付く。



 私は、同情しているんだ、と。


 無意識下だとしても、醜く見下している故の憐憫の感情を。



 だって、しょうがないだろう。



 頭の中の記憶が剥がれ落ちて腐っていくように偽物の臭いを強くして、その下から身に覚えの無い記憶が真実味を増していくのだ。今、この瞬間にも。それは、きっとこの人が死に近づいているせいなのだろうが、それにしても、何故。

 よりにもよって、最後にこんな記憶を残していくのか。



 奴隷として他の人間の元に言った事なんて一度も無かったじゃないか。


 一番辛かった数人の男に嬲られた事も、腕が上がらなくなるまで殴られた事も無かった。妖精が毎日食事を運んできた訳も無い。体が壊す度にいつの間にか脇にあった水と薬も独りでに出てきたわけではない。冬に凍え死ななかったのもいつの間にか毛布があったからだ。


 良い人だったのだと言いたいわけではない。それだけの事、普通の人間が考えれば当たり前の事かも知れない。優しい人ではない。優しさとは隔たりが無い物だ。つまり、少なくともこの人にとって私は特別だったはずなのだ。

 それぐらい、気付く事もできたはずなのに。



 私はそれこそ邪神の様にこの人を見ていたのではないか。不安も覚えず、恐怖も感じず、もしかしたならば体のつくりからして違う人間味など欠片も無い人間だと。

 そんな事は、ありえるはずも無いのに。




 ──前から気配。



 顔を上げれば、手。



 か細く震え、生気が指先に灯っていた。



  ◆




 背中から思い切り地面に叩き付けられて、意識を失った。

 次に目を開けることは無いかも知れない、と心のどこかで確信染みた予感はしていたが、その予感はどうやら裏切られたようだ。

 


(まあ、何の意味があったのかは分からないけど)



 指一本動かすのも億劫な失血具合だ。

 致命的な頭部への投擲だけを何とか誤魔化すのが精一杯で、他の剣まで誤魔化すのは苦だったし、それに余り大雑把に魔法を使うとあの男は騙せないだろう。

 結果的に体中に剣が突き刺さり、致命的といえる傷は避けられていなかった。


 しかしまあ、少しは溜飲も落ちると言うものだ。

 あの男を騙せるのは、自分くらいのものだろうという考えは前からあった。当然犬の餌にもならないちっぽけな嘘に限ってしまうが。ならば今誤魔化せたお前の命は犬の餌にも劣るのか、と言われれば苦笑するしかないが。



 すぐに眠気が視界を狭めて、思考を鈍らせていく。

 今度こそ、二度目覚めることはないだろうと確信しながら自分の人生に思いを馳せてみる。




 大した事はない、以上。


 一番印象に残っている出来事と言えば、顔が似ているのが気に入らないと自我に目覚めた途端顔中のパーツを削ぎ落とされ、奴隷の烙印を体中に捺され、去勢された事なのだ。


 まあそれなりの事はあったかもしれないが、それでもやはり思い返すほど大した事ではなく、最後に騙し返してやれたと言うならばそれが一番。十分にハッピーエンド。文句は無い。


 不満ならば、後から精神論や心情をやりくりさせて感動的に装飾するのもいいだろう。



 例えば、"嘘"で作られた自分が作ったあいつに"嘘"を付けた事が、最後に平等になった証だとか。

 例えば、死ぬと言う事が自分を人間だと証明しているだとか。

 例えば、あいつの筋書きから逃れて、自分は永遠に演じるはずだった道化ピエロの仮面を脱げるのだとか。

 例えば、

 例えば。例えば。etc。etc。


 ……成程、もしかしたならば作家は無理でも脚本家ぐらいにはなれたかもしれないな、と思えるほどに、わざとらしく着飾った最期が煩わしいほどに想像できた。



「……?」



 さて、その結末から犬の餌の山のような我が人生をどう綺麗に締め括ってやるか、と腐心していた所で、隣に誰かいる事に気付いた。


 視界は既にぼやけて、それが人の形をしていると言う事しか分からない。



(何やってんだよ、こいつ……)



 しかし特徴的な髪の色は、ぼやけた視界にも目の奥に染み入るように主張してくる。


 蒼い蒼い、海の色。入道雲の隣の際立った濃い空の色。夏の色。



 不意に、頭が勝手に物語じんせいの結末を新たに紡いだ。



 ──例えば。自分と同じような境遇のくせに一人だけ幸せに生きようとしている少女を道連れにしたりだとか。



「……」



 ギッと拳を一度軽く握り締めてまだ体が動いてくれる事を確認する。魔法は魔装具を奪われたお陰で魔力は一発で枯渇するが、使用は可能。


 手が伸びる。




 細くてか弱くて、羨ましくも今は何の鎖も首輪も付いていない、その首に向かって血にまみれた手が。



 そして、手が喉に触れる。




「あ……」




 ラィブラの甲高い声ではない。


 少女の柔らかい声が、しんと周りの空気を揺らした。




──例えば。同じような境遇で、自分の自己嫌悪を押し付けていた女の子に謝ってみたりだとか。




(……ごめん、って言ったら怒るんだろうな……)




 言い訳するつもりは無いが、自覚はあった。


 自分の仲間を見つけた気がして、無理矢理死んだ奴隷の子供を奪ってみたり。

 でも、奴隷と主人として人間関係しか知らなくて、結局楽な育て方を選択してしまったり。

 こちらを怯えた目で見る子供に、憤ってしまったり。

 ぐずる度にどうやっても泣き止まない子供を魔法で辛い目にあわせて、恐怖で行動を縛ってしまったり。


 大した屑だ。良い悪役にもなれない。無駄にプライドが高いだけのただのチンピラがいいところ。



 しかし、もし謝れば、重荷になってしまう。さぞ鬱陶しい物を背負わせてしまうことだろう。


 自分が悪人のまま死ぬのは当然で、罰で、望む所だったはずだった。でも、迫る死があまりに透明で空虚で、自分は誰の心にも残らないのではないかと。

 自分は結局、アイツが怖くて、痛みが怖くて、現実が怖くて、死が怖くて。そして今度は忘れられるのが怖いだけなのだ。

 

 謝る理由は死ぬほどあるが、謝る意味は一つもない。

 

 悪役としてのプライドでさえも作れないまま、道化おまえは死ぬ。それだけなのに。






「名前を、教えてもらえますか……?」




 ──改めて久しぶりに聞いた声は、記憶の中にある泣き声とは似ても似つかない、女の声となって鼓膜を揺らした。


 そして、その言葉も酷く優しいもので、必死に強がろうとして偽装したプライドも簡単に溶かしていく。



 その優しさに甘えて、笑って、そして謝ろうとして。




(…………ああ)




 直ぐにその努力を放棄した。



 それはそうだ。そもそも自分は笑えない。


 動かす為の瞼は痙攣するぐらいしか能は無く、綻ばせる筈の唇は削り取られている。こんな顔で笑おうとしても、それはやはりあの男が喜ぶような醜い物しか出来ない。幻術を作ろうにも、既に魔力はからっけつ。いつでも笑っていた道化ピエロの仮面ももう無い。

 

 自分は嘘を付くか、仮面を被るしか笑顔を作る手段が無いのだ。

  


(止めだ……)



 と言うよりそもそも、何故ここまで悩んでまで何で笑顔を作ろうとしているのか。


 先程言ったように忘れられたくないからか? 実は良い人だったと思って欲しいからか? 最期を綺麗に飾り付けたいからか? 



 残念な事に言い訳と嘘は得意な方で、その代わりに言葉にすればたちまちそのどちらかに変わってしまう。



 なら止めよう。似合わない。名前も教える必要なんか無い。どうせ皮肉で付けたただの記号だ。そんな物は僕の最期には相応しくは無い。



「笑えよ、シア」



 何度も何度も繰り返した言葉。


 何とか絞り出したその声に、シアは俯きかけていた顔を上げると表情を変えた。笑えと言ったのに、その顔は笑顔とは程遠い。

 

 その表情が可笑しくて、思わずラィブラは苦笑する。



「笑ってろ……」



 そして、ラィブラはぎこちない笑顔のままその人生を終えた。





  ◆




 弾かれるでもなく、受け止められるでもなく、手の端から零れ出るように拳から感触が消えていった。



「おお怖い」



 おどけた様に笑いながら、薄らいで消えた姿は一つ先の屋根の上。


 闇雲に攻めても捕まえられない。そう悟ったジェミニは追撃の足を止めた。それを確認してやっと一息つけるとでも思ったのか、子供は暢気に視線を外す。



「うーん、どうも慣れないね」

「……?」

「いやね、さっきのアレの魔法を肩代わりしてるんだけど。これが中々負担になってね」

「……嘘付け」

「嘘です」



 魔法を肩代わりしているのは本当だろう。ラィブラはもういないのに未だ町に半円状に広がった結界は未だ健在だ。

 白と黒と灰色の絵具を空にぶちまけたようなモノクロの空。その異様な光景は一切の乱れも無く戦火の空を装飾している。



「さて、そろそろ旧交も暖まった頃合かな?」

「……逃がすと思うか? オフィウクス」

「うーん、まあ難しいとは思うけど、出来なくは無いって感じかなあ?」



 嘘。


 気付けばいつもそうだ。いつから騙されているのかどうやって騙しているのか、そもそも"何を"騙しているのかも分からない。


 目を凝らしても、魔力を追ってみても何ら普通と変わるところは無い。



 しかし間違い無く、もうこいつは目の前に居ない。こうして話していること自体に意味も無いので黙って背中を向けると、背後から溜息が一つ。

 それをも無視して思考を続ける。ラィブラはいい。直接関わってはいなかった。しかしこいつは駄目だ。必ずここで殺す。



 ここで逃げると言う事は、目的は自分ではないのだろう。恐らく組織的な目的もあり、そしてこいつは自分の目的以外にはほとんど動く事が無い。ならば。




「……ああ、言い忘れてたね。僕が今は"レオ"だから。彼の一身上の都合でね」



 不意に。


 聞き逃していたはずの言葉が、無理矢理割り込んで思考に皹を入れた。



「な、に……?」

「僕の名前の方が良いって事だからさ。交換したんだ、別に未練も無かったし」



 何でもない事を話すように子供は言葉を続ける。それはそうだ。名前そんなものこいつにとっては当たり前の偽名に過ぎない。他のメンバーもそうだろう。

 しかし。

 違う人間もいる。はずなのに。



「だから、僕の事はこれからレオって呼んでね。皆が混乱しちゃうから」

「待てよ"オフィウクス"……! 説明しろ……!!」

「あはっ、やっぱりそこに一番怒っちゃうんだねぇ。でもさ、僕は求められたから応じただけで真意なんて知らないよ。どうしても聞きたければ──……」



 肩越しにこちらを見る顔は胡散臭く、しかしふつふつと煮え滾る物を感じてジェミニの思考は鈍い。


 言葉の先を続けながら、オフィウクスは指し示す。


 

 小さな人差し指の先は、町の中心のほんの少しずれた場所。何度か足を運んだ闘技場。




「──直接聞けば良い」




 飄々とそれだけ言って、子供──"オフィウクス"は嘘のように姿を消した。


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