獅子の夢
する、と音も立てずに流れるような金髪が僅かに揺れた。
「ん? どうかしたかい、オフィウクス」
それを目聡く見つけたのか、一人の子供が浮かび上がるように姿を現して、無邪気に声をかけた。姿は確認できるもののその印象は限り無く希薄で、ここに実体があるわけではない。
言葉が送られたのは、質素でありながら、どこと無く重量を感じさせる黒木の円卓。薄暗さが手伝ってより空気が重く居座っているが、その金髪はそんなものは気にも留めずに、ゆらゆらと暗闇にひらめいた。
「──少し、微睡んでしまったようだ」
「珍しいね。そんな無防備な君は。それにその体は殆ど睡眠を必要としないはずだけど」
「……それに、どうやら夢を見たらしいな」
やれやれと自嘲しながら、何時も通りの頬杖を付く体勢に戻った。男は未だやるべき事は無い。しかし、だからこそ体を置いて心が先走り必要以上に躍ってしまう。
「楽しみで眠れなかったのかい?」
「そうなのだろうな。中々考えさせられる体験だったよ」
頬骨を乗せた右拳に体重を預けて、金髪の男は恍惚とするように目を細めた。
「過去の夢だったか、未来を夢想したものだったか、話そうとすればその端から夢の記憶が零れ落ちていく感覚だ。この喜びを伝えきれない自分が恨めしいよ」
「良いんじゃない? その夢が過去か未来かは知らないけれど、過去にしがみ付くのは老害だけで十分だし、未来を知って面白がるのは貴族のご婦人達ぐらいだ。僕はどちらも苦手だよ」
「そう言ってくれるなレオ。偶には少年のように夢に胸を膨らませても構わんだろう?」
嫌味を言ったつもりは無いよ、と肩を竦めて子供は笑う。
「いいなぁってね。僕は逆に億劫だから。見たくも無い顔も見なくてはいけないし。旧交を温めてる暇も無い」
「馬鹿な事を言う。天秤のの方はともかく、君が言うその"人形"には毎夜夢想しているのではないか?」
微笑を蓄えたまま言われた言葉に、やれやれとわざとらしく肩を竦めて頭を振りながら、その子供は金髪の男のすぐ傍に退屈そうに座り込んだ。
「計算高い我が腹心殿のことだ。良きも悪きも掌中の事だと見ているが、違ったかね?」
「…… おやおや、お見通しか。君に隠し事と言うのはどうも難しいね」
「確かに人心を読み解くのは経験上得意なはずだが、それでも貴兄の心を読み解けてはいないつもりだよ」
騙し、騙されている事をお互いに許容してそれでも二人の関係は敵対ではない。
優雅に笑みを携えているその光景は、もし画家達が居たならばたまらず画材を持ち出してしまうほど優雅で荘厳だ。
特に金髪の男の方。まるで浮世離れした風貌だ。
束から逸れた僅かな金髪が光を受け、まるで金色の火花を髪から散らしているようにも見え、視線一つで人を殺せてしまえそうな魔力をその身に秘めている。
「優雅だねぇ、絵画に引き篭もってた方が世の為になるんじゃない?」
「この容姿と声は数少ない好き嫌いの一つなんだがね。否応無しに威圧感を与えてしまうのは好ましいものではないだろう?」
「きっとカリスマ性ってのを付加しようとしたんだろうねぇ」
やれやれと小さく溜息を付く姿もまた、額縁をあてれば作品となるだろう。
それをレオは厄介事を抱え込んだ友人をからかうようにからからと笑うと、僅かに声色を変えて話を続ける。
「ヴァーゴから連絡があったよ。もう直ぐ事が終わるってさ。僕達も今帰ってきたところだ。もう直ぐアリエスが行くと思う」
「安心したよ。君達二人を使って国一つも相手に出来ないとなると、頭を抱えるところだ」
浮かべたままの微笑は、嬉しく輝いているわけでもなく、これ以上深まる事も無く。ただ静かに、ささやかな愉悦を示している。
「総統殿」
それは呻く様な声だった。
しかし低過ぎる訳ではなく女のものだということは辛うじて分かる程で、その声はただ中心に楕円の円卓が置かれただけの無駄に広い空間に深く響いて通り抜けた。
泣き叫び過ぎて潰れてしまったような、そんな声だった。
「やあアリエス。早かったね」
「黙れ愚族。貴様の様な化生の類に利かせる口は持ち合わせていない。総統殿への報告を邪魔するなら殺して晒すぞ」
「嫌われてるなあ、自分の人望の無さに驚きと動揺を隠せないよ」
ケタケタと笑う子供を敵意と警戒で見据えたまま、規則正しく歩を進めて円卓の中で一段だけ高く建造されている座の前に。
「分かっているさ。君と総統殿との睦み時を邪魔するつもりは無いよ。僕は彼女の方に挨拶してくるとしよう」
「下種な勘繰りをするな。私はそんな物を超越した所で総統殿を敬愛しているのだ」
そう言うとそこでようやく子供から視線を外し、その女にしては大きい体躯を極限まで縮めるように、その場に跪いく。
色をどこかに落としてきたような無理矢理押さえつけて所々がギザギザに跳ねた白い長髪が地面に付いて埃を付けるが構う事無く頭を更に下げて敬服を示していた。
白い髪によく映える黒い軍服。しかし仕える先は軍でも国でもなく、一人の男。
女としての感情があるかどうかは窺い知る事は出来ないが、よっぽど心酔してしまっていることは、向き合うその姿勢から言葉の端々から滲み出ている。
「あー、いたいたぁ。居たわよレオぉ。この人が首領様ね。わぁ、聞いていた以上に見目麗しい」
「ちょっと、一応ここは関係者以外立ち入り禁止だよ」
「いけない? どうせあたしも直ぐここの一員なのでしょう?」
「まあそうだけどさ」
聞こえた会話に、アリエスは僅かに頭を上げ、小さく一つ溜息を付く。
「済まないなアリエス。今はまだ彼女は客人だ。報告は跡で構わんかね?」
「御随意に」
そのまま一歩下がりながら顔を上げると、立ち上がって声のする方を向き、さらに忌々しげにもう一度溜息を付いた。
「"一人目"はどうだったかな? 目的の人物だったと思うのだが」
「ああその節はどうも。八百年探しても見つからなかったのにいとも簡単に見つかっちゃったから凄く今ビックリしてるの」
「それは行幸」
踊るように小走りで近寄ってきたのは、子供の姿をしたレオより更に頭一つ小さい背丈の少女。
純粋に驚いた顔、ただただ喜ぶ顔をむき出しの感情が顔の外まで出ているようだ。
腰まである長い髪を先だけ結んで適当に結んでいるだけで、格好も普通の街娘の格好と比べて何も変わらない。
「今は私の部屋で眠ってもらってるわ。それにしても国家を隠れ蓑にしてたとはねぇ」
「丁重に扱えよ、"スコーピオ"。あれはまだ我等にも利用価値がある」
そのまま、黒髪の女がアリエスの居る場所を踏み越えて、オフィウクスに更に近寄ろうとした所で、アリエスが釘を刺すように声をかけた。
レオの時のような険悪な声ではない。それは未だ彼女が同志というよりは客人の立場にあるというのも大きな要因となってはいるが、それよりは寧ろどこか透明な彼女の対応に警戒が薄いからかもしれない。
「えー、あれは私のよ。私がどうしようと勝手でしょう?」
「その貴様は半ば総統の所有物だ。白といえば白、黒といえば黒。股を開けといわれたら四の五の言わずに黙って開け」
「あら総統様ったら溜まっていたのね。私なんかの処女で良かったら幾らでも差し上げるのに」
その明け透けな態度は決して、彼女の知能の低さを示している訳ではない。
ただ、道具を使うのに人間が裏を読む事をしないように、彼女にとって人間同士の腹の探りあいに意味を見出せないだけだ。
「遠慮しておくよ。代わりといっては何だが、今度紅茶でもご馳走させて貰おうか」
「まあ嬉しい。珈琲でなくて良かったわ。苦いのは苦手なの」
くるくると人形のようにその場で回って見せると、それこそ何の企みも悪意も無い笑顔を浮かべてみせた。
透明感があって朗らかなその笑み。しかしその笑顔が誘発させるのは安らかさや和みといった物とは対極の、どこか薄ら寒いものだ。
「さて、ここからは殆ど私用だが、同じく私用のレオは当然として、アリエス。君はどうする」
その言葉を待っていたかのように、アリエスはただでさえ伸びていた背筋を一層屹立させると、加えて踵を打ち鳴らして気を付けの姿勢をとった。
上げられたその顔はきつく引き締まり、顔に走った細かな傷跡を勲章だとでも言うように見せ付ける。
「約束の通り一晩で事を済ませてきました。どうかこのまま次の戦場で背中を守る事をお許し頂きたい」
「それは何より。元より君以外に背中を任せる役を任せてはいないのだ。
君が私の期待を裏切る訳がないと私は確信しているが、──これは過信に過ぎるかね?」
「──いえ。その代え難いものがある限り貴方に闘争と勝利を約束します」
「頼りにしているよ、アリエス」
「はっ──!」
その言葉を最後に女物ですらない無骨な黒い皮のコートを翻らせて、女は円卓に置かれた燭台の光が届かない暗がりの中に突き進んで消えていった。
アリエスが去った場所に代わりに少女が音も無く移動して、にこりと笑顔を咲かせる。
「当然、私もよね?」
「ああ、もう一人はそこにいる」
「なら待っていて。女の子はおめかしが必要なの」
「おや、そういった物は気にしないかと思ったが」
「イヤァね。女の子はいつでも身嗜み。親の躾が厳しくて、これでも苦労は多いのよ?」
ひらり、とそれでも凡雑なスカートを体と一緒に回転させると、アリエスの後を追う様に消えていく。
「また個性の強い子が入ったね……」
「歓迎すべき事で、危惧すべき事ではないだろう」
珍しく気疲れしているのか、子供の姿には似つかわしくない動作で肩のコリを気にして見せると、レオもその姿を眩ました。
「さて──」
一人残った男は、夢の余韻に浸り足りないのかまた椅子に体重を預けて目を瞑る。
◆ ◆ ◆
普通の人間と比べて、特に優れた五感を持つレイには、その変化は酷く顕著なものだった。
神経を集中せずとも、肌が痺れるほどの魔力の奔流。
そして町中で海鳴りのように続いていた怨嗟の声が、削り取られたように一瞬で消失するのを確かに捉えた。
「…………フェン、返事をしろ」
そこで何が起こったかは定かではない。しかし、方向は正門の向こう。つい先程友人を送り出したばかりの場所。
幸いのっぴきならない事情により、謁見室での儀式魔法を中断して屋外──城の外の正門近くにまで来ている。
つまりは、フェンに一度会ってから、謁見室に行き、そしてまたここに戻ってきていて、それが幸いという訳ではないが、返答如何では駆けつける事も出来ないことは無い。
『…なに? レイ』
しかし驚くほどあっさりと、レイの予想は覆された。
魔石の向こうから聞こえてきたのは、驚くほどいつも通りの平坦な声。異常も感情も感じられない驚くほどの日常。
「…そちらで何かあったか?」
『……少しだけ大きな魔法を使った、それだけ』
「そうか…、いやすまない。問題がなければそのまま指定の場所まで頼む」
『……了解』
その声を以って魔石から光が掻き消える。
フェンの言葉に嘘も感じられず、逼迫した様子も特には無かった。ならば予想以上に良い働きを期待できるというものだ。
しかし、それにしても、原因も分からない一抹の不安がシコリのようにレイの胸に残る。
「………」
一度顔を顰めてから、魔石を袖の中に仕舞った。
レイは顰め面のまま、いつからこんなに振り回されるような人懐こい性格になってしまったのか、と一人心中でごちる。それもこれも周りの人間共が青春よろしく面倒な悩みを持ってくるからだ、と。
加えて唯一手のかからない男は、これまたどこぞの馬鹿の手にかかって姿を眩ませている始末。
「全く、手をかけおって…!」
がりがりと普段やらないような仕草で思い切り後頭部を掻き毟ると、正門とは反対側に跳んだ。
信頼とかそういう事を考えていた訳ではない。不本意ながらも気にかかって仕方が無いが、それでも何か根拠があるわけではないのだ。それに今から謁見室に戻って途中だった式を組みなおした方が、事を片付けるにはよっぽど速いだろう。
それに、過保護を行うのは自分の役目ではない。
自覚が足りないのだ。あの男は。
得意の鈍感さゆえに、自分が軸として周りを支えている事に気付いていない。
そもそも今日は優勝賞金を使わせて、以前作った貸しを返してもらう予定だったのに、だ。
苛立ちを足取りに多大に表しながら、辿り着いたのはいつかガララドとミスラが婚姻を誓っていた中庭。
今はここまで、血生臭い匂いが立ち込めていて、あの時の幸福な時間は思い出すは一苦労だ。
用があるのは謁見室。
この道程から行くのは初めてだが、一度は行った場所だ。大体の場所の見当は付いている。
「おい! 黒髪の! 貴様正門にどんな人間を送った!?」
予想される場所まで飛ぼうと、背中の肩甲骨の辺りに魔力を集中させていた所で、中庭に乗り出すようにミスラが顔を出して、声を荒げた。
先程の魔力の奔流は恐らく作戦本部からはさぞ良く見えたのだろう。
背中に十分魔力が溜まったのを確認して、血で真紅の翼を精製する。
長時間飛行は無理だが、脚力も十分、ミスラが怒鳴っている四階のその場所まで一気に飛翔する。
大きく羽を羽ばたかせて隣に降り立ったレイを、ミスラは眉を潜めて頬を引き攣らせた。
「……化物と呼んだら傷付きますか?」
「人間じゃないという意味でなら事実だろうさ」
やれやれとでも言いた気にミスラは、頭を振るがそれでも様子が気になるらしく、レイを先導するように歩き出した。
「……急いでください。それと見張りを数人付ける事になりました。邪魔はしないので構わずに」
その言葉の通り、かなり急を要しているのか早口で言葉を続けながら、これまた速い足取り、と言うより、全力で廊下を走り始めた。
「懸命じゃの。それよりどうした。嫌に口調が丁寧だが」
「いえ、先程は余裕が無かった上に、味方だと思わなかったもので」
「味方……?」
「ええ、利害が一致しているだけで、仲間だとは言いません」
「成程、これまた懸命じゃ」
ハッと緊張感無く笑ってみせるレイの反応に、ミスラが言葉を返そうと口を開いた。憤っている訳では決してない。どちらかと言えばそれは、気丈に貼り付けた指揮官としての表情が半分ほど外れかけたような、そんな表情だった。
「──門を、閉めるつもりです」
「何……?」
驚きで足を止めたレイをミスラが追い越し、それを見てまたレイがその後を追う。
戦争中で、しかも敵が攻め入って来ていて門を閉めるのは当たり前だ。しかし今回は状況が状況。あまりに唐突に陥った戦争だった故に、避難が終わっていない民間人が多数居た。
だからつまり門を開け放しにしていたのは、全て見捨てないという気概と、自身が培った国の強さへの信用の表れだったはずだ。
避難もほとんど終わった今、戦術的にはむしろ最善の一手だがそれでも門のすぐ外で戦っている戦士達が大勢いる。
言い方は色々工夫できるかも知れないが、やる事はつまり見捨てるという事と変わらない。
今はレイの作戦のためにこの町の三強は門の前を離れていて、強化される前の死兵でさえ完全に抑えきる事が出来ていなかった一般兵しかいない。
今この瞬間に城が平穏を保っていることが、如何に奇跡に近いかは誰にでも分かる。──同時に今この瞬間がどれだけ危うい物の上に成り立っているのかも。
「……もう、十分も持ちません。だから……」
だから、に続く言葉は尻すぼみに消えていって良くは聞こえなかった。
前を行くミスラの顔は見えないが、レイにはまるで目の前で覗き込んでいるかのように表情の機微まで想像が出来た。レイの洞察力もあるだろうが、それよりもミスラの言葉が感情に詰まっていた事がなにより大きい。
「もう、これしかないんです……!」
「……十分は無理じゃの」
このレイの言葉にも、僅かに下唇を噛んだだけでミスラの足は止まらない。想像が出来ていたのだ。この言葉も、そしてそのせいで死んでいく人間も。
「……無理を言っているの承知していました。十分とは言いません。どうか一刻も速く……!」
「儂は面倒臭がりでの。十分もかけてられんわ」
ミスラの足が一瞬止まりそうになったのは、その言葉が想像の外だったからに他ならなかった。
え、と聞き返すミスラにレイはまた先ほどと同じ表情で笑ってみせる。
「早過ぎる分には構わんだろう?」
その問いは問いではない。答えが分かりきっているのに、レイも言葉を失っているミスラの返事を待ってはいなかった。
「貴様等の王女はもっと太々しいぞ。人間らしく最後まで都合の良い奇跡を願っていろ」
自分の台詞に嫌気が差したのか、ふんと不満気に鼻を鳴らすとレイはミスラを速度を上げてミスラを追い越した。
速さには自信がある自分を追い抜いていくその背中に、ミスラは謝礼の言葉は出て来辛く、ただ『頼みます』とありふれた言葉しか返すことは出来ない。
ただ、レイを追って速度を上げるミスラの顔にはいくらか不安が減っていて、どちらかと言えば険悪だった仲に何となく頼もしさを感じられていた。
「……あと九分か」
中庭に面した通路を通りすぎると、右手に大きな階段が姿を現した。二十段ほどのその幅広い階段の奥には、巨大な両開きの扉が待ち構えている。
その扉はさすがに簡単には開かないだろうが、少し視線を下げた所に切れ込みが小さな扉となっていて、人一人が潜るには問題は無さそうだ。
「──待て」
勢い良く階段を上がるミスラの背中にレイは声をかけた。
開け広げられた小さな扉の向こうからは、廊下より僅かに明るい光が漏れてきていて、その橙の光は温かささえ感じさせる。
「どうしました?」
「向こう──謁見室に誰かいるのか?」
「言ったでしょう。見張りには一人私の副官と護衛も兼ねて数人を付けます。アギと言って先程貴女も会ったでしょう」
「ああ、あやつか……」
「何か問題でもありましたか、隊長殿?」
そうしている内にひょこっと、扉の向こうから痩せ細った、いかにも事務仕事が本懐だというような顔が顔を出した。
見た限り不自然は無い。
訝しげに眉を潜めたまま、レイはミスラの後について階段を上っていった。
◆ ◆ ◆
「──ッ!」
体の一部がもぎ取られたような感覚と共に、口の中に血の味が広がった。
原因は分からない。何しろ今は外界とは近くのほとんどを切り離した場所に居る。しかし、明らかに外で何か自分の粗筋を乱す何かが動いた事だけは感じ取っていた。
死兵召喚の魔法。自分の能力を織り込んで使用する儀式魔法だが、恐らくこれに何らかの干渉がされたのだろう。
影が肉体に随従するように、肉体もまた影に引き摺られる。結果として影のほうを操っているという訳だ。
よって、死体の兵を殺した所でこちらには何の影響も無いはず。ならば、力技で術式の方に何か手を入れられた可能性が高い。そういった経験は無いが、無理やり破壊されるとこういった症状が出るらしい。
流石に気になって、外にいる死兵の視界を借りて外の様子を伺う。
瞬時に回復はしたものの、魔方陣が削り取られた場所は分かる。一番近い死兵を選んだつもりだったが、それでもそこから数十メートルは移動しなければならない。
幸い屋根の上だったため、飛び移って問題の大通りに顔を出して──。
その瞬間に"何か"が死兵の顔面を貫き、繋がりが途切れた。
「──っ!」
自分の目ごと貫かれたような感覚に陥り咄嗟に両手で顔面を覆う。が、そこまで同調している訳ではないので当然顔に傷は無い。
息を僅かに荒くしながら、顔から手を離してヴァーゴは溜息を付いた。
それは、自分の過剰な反応に嫌気が指した事ともう一つ。恐らくこの血の味の原因を作り出した人間に、一切干渉できないと言う事にだ。
人形、とあの男──レオは言っていたか。しかし人形、と言うには余りに情愛に溢れた口調だったことも覚えている。
触れば、八つ裂き。そう言ったあの男の言葉を、いつも通りの"嘘"だと断定するのは余りに危険だろう。
は、と先程より随分大き目の溜息を付いてヴァーゴは思考を打ち切った。そもそもあの男と、に付いてはあまり考えても良い事は無いからだ。
好戦的、と言うより"人間に目が無い"タウロスは初対面で戦闘を挑んだが、結果は惨憺たるもの。能力上の相性もあっただろうが、触れることも出来ずに地面に転がされた姿は思い出すのに苦労はしない。
首領のオフィウクスに至っては、肘を立てて優雅に円卓に座ったままタウロスを屈服していた。
実際戦っているのを見たのはあの一度きりだったが、それでも逆らおうと言う気を奪うには十分効果的だった。
あの二人がそんな目的を持っての行動ではなく、噛み付いてきた他者をあしらっていただけだという事はヴァーゴにも分かっている。しかし草食動物は、肉食動物の一挙手一投足にさえ怯えてしまうのだ。
ともあれ、あの嘘つきに言われた以上手を出す事は出来ない。ならばあれの動向には注意を向ける必要も無いだろう。幸い、通りの延長線上にいたはず『略奪者』は健在だ。
略奪者。
自分に与えられた養殖の精霊獣の名前を思い返して皮肉気にヴァーゴは笑う。
これは、今の自分にはさぞ似合っている記号だろう。他人からそう蔑称された所で笑って肯定してやれる。
しかし今、ヴァーゴが名乗っているのは乙女だ。名前の意味の程は名前を定めた本人であるレオから聞いていた。
何とも皮肉な名前を付けるものだと、ヴァーゴは憎々しげに一人言い捨てた。
自分が乙女。
更に言えば、あの人食家が牛、そしてあの道化は天秤だ。つまりは"純潔"に、"草食"に、"比較"、いや"平等"だろうか。
くっくっ、と乙女は喉を鳴らして笑う。
実は余りに皮肉なものだから、少し気に入っているのだ。一枚の銅貨の為に、股を濡らしながら死体を操り血の海に酔っている乙女も、喜劇ならば奇をてらっていて実に愉快だ。
まあ、自分の純潔など空腹を満たす為に大分前に散らしてしまったから、とても乙女だとは言えないが。
色恋の一つでもしていれば少しは乙女らしくもなっただろうか、などと何十年振りかになる思考を頭の隅で働かせながら再び傀儡の一人の視線に潜り込む。
ズルン、とその影に自分を滑り込ませながらもう一度鼻で笑う。
何しろ、視線の先にいる妙な格好の黒髪の女が、その可憐な人形のような外見とは裏腹に、これまた乙女とはかけ離れて見えたのだ。