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ハイイロ ノ カナタ  作者: mild
第一部
135/281

混沌渦中


 そこら中から聞こえる絶え間の無い戦火の音。


 ユキネはそれを耳にしながら、そのうちの一つに向かって次々と屋根を飛び移っていた。



「くっ……!」



 いきなり敵が活性化してから、比較的安全だった屋根の上にも死体の兵が現れるようになっていた。それでも、地面よりは幾分かマシだったが、それでも移動に掛かる時間が大幅に上がっている事には変わりは無い。


 次の通りに出るまでに、敵はあと一体。もはや一切の躊躇も無しに後ろから切り裂いた。感触に顔をしかめている暇さえない。


 屋根を越えて、目指していた喧騒の元が視界に収まる直前、頭の中で神頼みに近い思いが巡った。



「また……!」



 しかし、願っていた光景とはまた違っていた。


 視線の先には、気が狂ったように地面と家の壁を殴り続ける死体がただ数人居るだけ。


 既にその家の中に人が居る気配は無い。しかし、そんな事も最早分からないのだろう。ただ自分の身を削りながら騒音と木屑を作り出している。



 ユキネは地面に下りる事すらせず、そのまま走る方向を180度変えた。直ぐに今までとは違う殺伐とした喧騒が耳を叩く。一番被害が大きそうな場所を一瞬で判断して走り出した。



「くそ…!」



 口から漏れたのは、自分への悪態の声。


 婦女としてどうなのかとは分かってはいるが、それでもそうでもしないと自分を殴ってしまいそうだった。



 次の場所へはそう遠くは無く、一分もしないうちに到着する。


 その場所はまた外れではあったが、先程のようにすぐさま身を翻すという訳にはいかなかった。



 一人の女性と、その腕の中にも小さい気配。そして、一度攻撃を外したのか、砕けた地面から拉げた腕を持ち上げている死体が一つ。



 呼気一閃。


 文字通り、閃光のような速さで加速した少女の剣が、有無も言わさず腐った体を中頃から寸断した。



「──ぅあ…」



 ユキネの耳に、とても今際の声とは思えない、まるで安堵の溜息のような死体の"声"が耳に届いた。



「あ…あ、ありがとうございます…っ!」



 固く閉じられていた目を開けた女性が、本当に生き返ったような声を上げる。

 

 一緒に喜んであげたかったが、ただ黙って頷いただけで返した。剣の柄を握りなおすと、まだ肉を切った感触が残っている。


 視線を上げれば、こちらに向かってきている兵士の一団が見える。


 倒れ込んでいる女性に手を差し出すと、自分の手が血に濡れているのと、それを見て女性が小さく悲鳴を上げて後ずさった事に気付いた。



「…あの兵士に城まで連れて行ってもらってください」

「あ……」



 伸ばした手を握って、後ろの兵士を指差して笑って見せた。女性がどうしたか確認する前に、後ろから腐肉が地面を踏む音が耳を掠める。振り返れば案の定、死軍の小隊がこちらに殺意を向けていた。



 大丈夫だ。この程度なら問題は無い。


 剣を対眼に。



「大丈夫」



 もう一度口にして、その言葉を刻みつける。



「問題無い」



 だって、この手は人をもう殺せるのだから。




 体にかかる血を少し増やして、屋根の上に戻った時には、既に女性は通りの向こう。近くに敵の姿も無い。体にかかった血を見て、また小さく悪態を漏らしてから、当り散らすように屋根を蹴り付けて次の喧騒に向かった。



 アキラの姿は未だ見つからない。


 それに、その場所にアキラが居なかったとしても、そこに戦火が無い訳ではない。見逃す事も出来ずに、剣を振っていた。それを繰り返す内に、刻一刻と体が昨日の疲れを思い出し、今ではもう常に肩が上下に揺れている。



 アキラを優先するべきか、それとも信頼して任せるべきか。


 城に完全に人間が避難しきれている訳では無い。まだまだ、今この瞬間にも命を落としている人間もきっといる。しかし、アキラは怪我が直ったばかり。しかも相手はその怪我を貰った男で、しかも不気味で得体が知れない人間だ。


 その男に腕を食い千切られ、血に沈む姿はまだ思い出すのに苦労はしない。



 くそ、とまた本日何回目になるかも分からない悪態をついて、また八つ当たり気味に屋根を蹴った。



 もっと早くもっと早く、と焦りが気持ちを急かし続ける。止まってしまえば、いや、止まらなくとも、少し気を緩めただけで、嫌なイメージが脳裏に浮かんだ。



 なにもアキラだけではない。ハルユキもそうだ。


 先程の男の言葉が頭を過ぎる。そして、それを肯定するかのようにハルユキの姿を見る事が出来ていない。


 以前見た、血まみれの姿が何度も何度も頭に蘇ってきて、また一つ悪態をついた。



 屋根を蹴る強さは上がっていき、当然ユキネの体は加速していく。疲れのせいかほんの僅かに圧し掛かる重さが、加速する度に比例するように重くなって、ユキネの体力を奪っていった。



 このまま、加速し続ければいずれ壁に手を付くことになる事は分かっている。先程それは一度経験していた。しかし、もう少しだけならば、と無理をする人間の常套句で自分を騙しているのならば、そんな物に意味は無い。




 何の前触れも無く、カクン、とユキネの膝が痙攣して折れ曲がった。ぐるん、と世界が綺麗に回る。



 しかも運が悪い事に、走っていたのは屋根の縁。体が嫌な浮遊感に包まれ、背中に寒気が走り抜ける。



「あ──」



 情けない声を最後に、ユキネの華奢な体は家と家の間に落下した。







「…っは…。はっ……は…っ」



 自分の口から漏れる一際荒れた呼吸と、両側を壁に侵食された、窮屈で不自然に薄暗い空を見て、ようやくユキネは自分が無様に落下した事を悟った。


 体を起こそうとすると、軽い痛みが体に走る。



 しかし、怪我と言うレベルではない。移動するのに少しでも軽くしようと外していた鎧が、いつの間にか体に纏われていて、更に、たまたまそこにあった空の木箱がクッションになってくれていた。



 体を起こそうとすると、カクンと膝が折れて、体から木屑が零れ落ちる。


 渇いた笑いで誤魔化そうとして、そこから膝が持ち上がらないことに気付いた。笑っていた口元を噛み締めて、その間からまた悪態が漏れる。



「くそ…ぉ…!」



 纏わり付く無力感に膝に拳を叩き付けた。しかし、そんな根性論でどうにかなる訳も無く。


 そのまま立とうとすると、拍子抜けするほどあっさりと、ユキネの体は崩れ落ちた。すとん、と尻餅を付いて図らずも壁に背を預けるような格好に。



 観念したように目を瞑る。



 無理をすればこうなる。だが、ただでさえ未熟な自分が無茶をしなかったら何も変えられない事も分かっている。



 小さく一回、大きく一回。最後に小さくもう一回。深く呼吸を繰り返す。甘い腐臭と、湿った空気が鼻をつくが、その代わりに頭の中は冷えていく。


 グッと力強く目を開けると、体が動かない分の体力を全て頭を回転させることに注ぎ込みだした。



 今これ以上動くことは困難だ。足の痙攣もすぐには無くならない。


 しかし、悔やんでいる時間は無い。無力感に苛められている時間も無い。



 原因はまず、当然疲れ。


 そして…、昨日の試合の内容を、ほとんど覚えていないことだ。


 一言で言ってしまえば、全て昨日の試合が原因。昨日の試合の疲れは一日では抜けきれず、代わりに得たはずの物は完全に見失っていた。



 ノインの炎による急激な酸欠。限界を考えない心身の酷使。初めての魔力切れ。原因は数え始めればきりが無いが、恐らく全てが原因の一端ではあるはずだ。



 憶えているのは、圧倒的な全能感と、体ごと擦り切れてしまうような疾走感。そして何より、重力の鎖を取り払って、空中にさえ歩む道が見えたあの世界の風景が瞼にこびり付いて離れない。



 自分の能力であろうと頼りきるのは良くない事だとは分かっている。


 しかし、今。今だけはあの魔法が必要だった。




「……どうして覚えてないんだ私は…!」



 こうして、じっと座っている時間がもどかしくて堪らない。しかし未だ大通りには数え切れないほどの死体共が湧き続けている。


 路地から出て行けば死体の雑兵にも対抗しきれないだろう。




 ふと、傍に無造作に放っていた剣が目に入った。



 惹き付けられるようにその柄に向かって右手が伸びる。手にとって直ぐ、流れるように迷い無く、剣の柄を額に強く押し付けた。余りに勢いが強すぎて、ガツンと、額と柄が音を立てる。しかし、ユキネはとり憑かれた様に微動だにしない。



「────…」



 冷たい鉄の感触が、火照った体を冷まし、意識が深く深く何処かに沈んでいく。


 埋没して、更に更に埋没していく。


 意識が感覚に埋もれて薄れていき、戦火の音も腐った臭いも、自分の中から消えていくのを感じる。冷たく冷たく、それでもどこか深く深くから、生き物のような鼓動が額を伝ってユキネの中まで伝わった。



「……メサイア」



 しゃらん、というあの涼しい鎧の音も聞こえず、凛然とした立ち姿も見えないが、



〈──お傍に〉



 透き通るようなその声が、目の前に傅く剣の騎士の存在を教えてくれていた。



「お前が見えないのは、私がやっぱり未熟だからか?」

〈お畏れながら。残念ながら直接手をお貸しする事は出来ません〉

「……そうか」

〈しかし、声は届きます。私にとってはそれこそが至上の喜びと存じております〉

「……ああ、ありがとう」



 姿は見えないが、強がり半分でメサイアに笑いかけながら、剣を地面に突き立てた。それを支えに、一気に体を持ち上げる。


 ほんの僅かだが、確かに指の先まで力が行き渡る事を確認すると、強めに石畳を何度か踏みしめて感覚を取り戻す。



 主、と聞こえた声に導かれるように屋根を見上げた。指差されているわけですらないのに、自然に顔が上を向いていて、その事に余り不思議すら感じない。



〈"わたし"は、その全ての魔法が一度きりです。一度使えば使えません。――いえ、使う必要がありません。そもそも速く動く事が目的ではなく、一つ天井を破った結果、そうあるべきだっただけであり……〉

「? …すまん。よく分からないんだが」

〈でしたら、もう長々と詠唱する必要はない事だけを、覚えておいて下さい。決して昨夜得た物を失ってなどいない事を〉

「しかし、現に…」

〈…私が、ここにいます。それでは証明に成り得ませんか?〉



 いつものからかい半分の口調ではなく、メサイアの声は真剣そのもの。あのお茶会の時よりもずっと近く、その表情も心の機微でさえも伝わってくるようだった。



「じゃあ、信じる」

〈――ありがたき幸せ〉



 芝居臭い言い様に苦笑しながら、改めて屋根までの道のりを確認する。


 そこからは、特別な事は何も意識していなかったと思う。とん、と浮かび上がるように一歩目が地面を離れ、二歩目が僅かにせり出した窓の縁をとらえて、次の一歩で、屋根の縁に足が届いていた。


 地面にいた時と比べて、明らかに勢いが強い風が頬に当たる。それもまた死臭にまみれていたが、意識を尖らせるには丁度良い。



〈お見事です〉



 待ち構えていたかのようにメサイアの声。


 不思議と、自分がここに到達できた事にさほどの困惑はなかった。むしろ、今まで何故出来なかったのだという気持ちの方が大きいかも知れない。



〈そうですか? 私は主がここまで到達した事に、相当驚いていますが〉



 …先程の、心の機微の何やらをここに訂正したい。と、そう強く意味を込めてユキネは溜息をついた。



「…お前の性格に対する線引きが決まったよ、メサイア」

〈申し訳ありません。主はいつも私の予想を裏切って、信頼に応えてくれるものですから。年甲斐もなく浮かれてしまいました〉



 メサイアの言葉に、不満を漏らそうとしたユキネの口が、ぐっと言葉に詰まって、代わりに恨めしげにメサイアに視線を向けた。



〈精神論が通用するのは、主の下積みと才能があってこそです。誇りに思っています〉

「や、やめてくれ、分かったから」



 こうまで言われて、しかもにやけそうになる口元を隠しながらでは何も言えない。メサイアはその辺りも分かってやっているのだろうが、長々と口論する暇があるわけでもない。


 かといって、今まで通りに出鱈目に走り回っても、解決などしない。ならばそれはもう止めだ。



 考えろ。矮小な自分の力を目一杯に発揮するように。…何より今は、考える頭がもう一つ付いてくれている。



「…私は、このままアキラを捜そうと思う」



 当然考え無しに、ではない。周りにまだ民間人がいる事も分かっている。



〈…そうですね、それがよろしいかと。幸いこの町の兵士達は優秀なようです。人手が足りているわけではありませんが、指示系統に関わっていない主ではあまり成果は望めないでしょう。それならばいっそアキラ殿と一緒にあの男を打ち倒して――…〉

「――ハルユキを」



 同じ考えだったのか、小さくメサイアが頷く気配がした。



〈しかし、不安材料はあります。あの男は"動けなくした"と言いましたが、あまり正確な言葉ではないため、多義的に捉えられます〉

「身動きがとれない状況なのか、それとも、身動きが出来ない体なのか、か。しかしなあ……」



 はい、とメサイアも呆れたような声を出した。


 倒される。あの男が、誰にも気付かれないまま。


 有り得ない。ない。それはない。身内贔屓でも何でもなく、倒されているなど考えるのは突拍子もない考えだ。



〈まあ、これは間違いなく前者でしょう。あの御仁を真っ向から倒せる人間などいないでしょう〉

「……メサイアから見ても、ハルユキは特別なのか?」

〈特別……。…いえ、あえて言い表すならば、ハルユキ殿は"異常"と言うのが一番でしょう。この世界の法則に全く当て嵌まっていない。まるで――…〉



 メサイアの言葉が、途中で遮られる。どうかしたか、と口を開こうとして、――直後。それが来た。



「――っ!?」



 薄暗い夜の闇を越えた向こうから、それは、声か怒号か、それとも咆哮か、もしくは遠吠えか。尋常ではないその大きさは、空気を震わせて、直接指で弾いたかのように鼓膜を揺らす。



〈…主、お急ぎを〉



 焦燥感が一気に背中を上り詰めて、寒気が追って背中を這い上がる。


 軽くなった足が地面を叩くと、驚く程大きく前に進んだ。



 速い。抜群に、先程とは比べようもない程の速さで街を走り抜ける。その分何かが燃える匂いと死臭が勢いよく顔にぶつかる。



「嫌な空気だ…」

〈戦争とはこういうものです〉

「………嫌いだよ、私は。大嫌いだ」

〈私もです〉



 未だ不吉を吐き出しきらない空気を切り裂きながら、ユキネは顔を顰めた。


 こうして不吉な空気に逆らって進んでいると、信じられないほど大きな何かに刃向かっているような錯覚を覚えさせられる。



「――嫌な、空気だ…」



 次々とすれ違う空気の匂いに、もう一度不安を口にした。しかし、一切速度を緩めることなくユキネは突き進んでいく。



 だから、遠吠えによって途切れたメサイアの言葉は。


 まるで我が主のように、と続くはずだった言葉は。当然ユキネには届く事はない。





◆ ◆ ◆





 気付けば、フェンは城門をくぐって大通りに入り口に立っていた。


 手の中にある血の楔を感触だけで確かめ直す。全長50センチ程の血で出来た楔。何故か妙に装飾が凝っていて、そこらの片手剣などよりは価値も攻撃力もあるだろう。



 小さく視線だけを動かして状況と、やるべき事を確認する。


 気付けば、とは言ったが、その言い方はあまり正確ではなかったかも知れない。意識がなかったわけではないのだ。もちろん、レイにこれを手渡された時の記憶も残っている。



 ただ、受け取った時のものと、今手に握っているものが、同じかどうかがよく分からない。


 いや、フェンにも記憶はあるのだ。必死に足を引きずるのを隠したり、怪訝そうなレイの表情も覚えている。そして、受け取ってからここまでこの楔は一度も離していない。ならば、これはレイから預かった物で間違いない。



 ただ、実感が抜けている。


 まるで、前の夜に見た夢のように、必死に繋ぎ止めていなければ忘れてしまいそうだった。


 今まではあれだけ激しく明滅していた意識も諦めたように静まり、引き摺っていた足も、今はふわふわと浮いていきそうなほど。


 ピリピリと肌が痛いのは、体の端々から魔力が漏れ出ているからだろう。月並みな言い方だが、今にも爆発しそうだ、と言い表すのが非常にしっくりくる。


 その体は、まるで自分の物ではないように。記憶は、まるで誰かから貰ったかのように。別人になったかのように。



 周りでは、好戦的な男達が嬉々として亡者達を次々と破壊している。ただ驚く事に敵は大幅に活性化していて、人間側にも被害は多い。


 身震いしそうなその激しい戦場に向かって、意識する前に足が進んでいた。


 フェンの体が小さいからか、それとも敵に集中しているからか、横をすり抜けていく小さな影に気付く人間はいない。



 ただ、気付く存在は他にあった。相変わらず口の端から腑汁を垂らしながら、生者の気配に襲いかかる亡者達は、どんな小さな命でも見逃さないのだろう。



 しかし、体から飽和しかけていた魔力が形と成ってそれを迎撃する。



 あ、と声を出しそうになったときには、既にその死兵は、地面から突き出た氷の槍に股下から頭上までを貫かれていた。


 びくん、とその死体は最後に体を痙攣させる。



 しかし、今はそれを見ても、もう何も感じていない事に気付いた。


 初めて見たときには、視界に入っただけで喉まで胃液が這い上がってきそうな程だった嫌悪感が、もう一欠片も感じられない。


 今になって思えば、何か大切な物だったかもしれないな、と思いながら、ほぼ無意識の内に足が前へと進む。



 一歩歩くごとに、敵が三体は襲ってきた。


 次々に殺到する死体達を、本能的に、反射的に、いや最早自動的に串刺しにする。そして、氷の槍は次々と数と勢いを増していく。


 こちらに害意を向けようとした者はもちろん、こちらに気づいていない者、裏路地から顔を出したばかりの者、果てにはまだ他の人間と交戦中の死体にまで。


 加速度的にその範囲を広げていく氷の針山の前に、一分と経たず、目に見える範囲の死体共は無力化された。



 目の前の磔になった死体の、充血で破裂しそうな血色の目がこちらを見つめる。どうしてお前だけが、と。


 嫌だ、とその意志を拒絶する度に、氷の槍が、または氷の槌がその目を顔ごと破壊して、遠ざける。


 しかし、そうやって力に任せて亡者達を遠ざける度に、今までの日常の方が背中に遠くなり、反対にこの死体達に近づいているような。


 そんな、矛盾に満ちた思いが、どうしても頭から離れなかった。




「おい…。おい、おいおいおいおいおい!」




 割と近くにいた、中背の男が信じられないとばかりに、大声をあげた。


 フェンの元に集まりかけていた視線が、男の伸ばされた指の先に移り変わって、皆が面白いように揃って目を見張らせた。



 そこには、死体の巨軍があった。



 抑え付け続けていたというこの町の要人が倒れてしまったのか、それとも他に何か原因があるのかは分からない。しかしとりあえず、あの黒い津波のような特攻に巻き込まれれば、二度と人の形を保てなる事は理解できた。


 抑え付けられていた分が増大しているのか、はち切れんばかりに膨れあがった死体の津波。地面を豪快に揺らして、地響きと死体達の怨嗟の声が混じり合って深い重低音となり、刻々とその轟音は迫ってきている。



 しかし、この傭兵達も修羅場は潜ってきているのか、剣を振りかざして飛び込みはしないものの、手を翳して各々が魔法をぶつける。



「――攻城氷槍バリスタ



 一瞬で構成された氷の巨槍。その大きさも、数も、以前のフェンの比ではない。そして氷の槍はその巨躯を眩ませて、一瞬後には傭兵達の魔法を追い越し死体の波の中心に突き刺さる。


 が、流石に太刀打ちできず、一瞬動きを鈍らせただけでさして効果はない。


 遅れて、傭兵達の魔法も次々と敵軍と衝突するが、一瞬の抵抗も出来ないままに吹き飛ばされて霧消する。圧倒的に質量が足りない。絶望的に勢いが足りないのだ。



 フェンはそれを確認してゆっくりと杖を前方に翳した。



「――黒鉄槌バウンドラッシュ



 土色と緋色の魔力が、空中に浮かび上がり、結合し混ざり合う。そして、黒い太陽のような無骨で所々が角張った鉄の塊が出来るのに、一秒もかからない。



 カランカラン、と剣を取り落とす音が連続する。三つ並べれば、この幅広い大通りも塞いでしまうのではないか、と言うほどの巨槌の出現に、周りの人間の方が萎縮してしまっていた。



 もう誰も魔法を撃たない中、その漆黒の鉄球が図らずも独占した大通りの中空を我が物顔で突き進む。余り形はよくないからか、出っ張った角が風を切り、獣の唸りのような音を撒き散らしながら突き進んでいく。



 死軍の津波。黒金の剛槌。



 どちらも轟音を喚き散らしながら、一切の勢いを落とさずに、――そのまま、衝突した。



 硬度はどう考えてもこちらが上。その為か、肉が磨り潰される音が、百メートル程離れたこの辺りにまで聞こえてくる。しかし、その音を追うように聞こえてきたのは、僅かに勢いを落としただけの地響きの音。


 まだ、まだ足りない。あれは腐っても人間だ。直線的な魔法では対応しきれない。



 しかし、それを想定していたのか、それともそんな物は最初から興味がないのか、フェンはその小さな体には大きすぎる程の杖を、体の一部かのように軽やかに振り回す。

そして最後に、とん、と杖の先を優しく地面に押し付けた。



「――火砕竜アグナコトル



 杖の勢いからは考えられないが、杖の先の地面が小さくひび割れて、隆起する。しかし、ほんの僅かに持ち上がっただけで、何ごとも起こらない。



 ──と、そう思われた瞬間、巨大な紅蓮の顎が、死体達の足下から石畳を突き破って、目の前の腐肉に食らい付いた。



 死体の津波の中を泳ぐように、その紅蓮の竜はその巨躯をくねらせる。その度に、歓喜に満ちた断末魔が響き、一瞬で焦がされる肉の臭いが充満する。


 先に放った鉄の塊をも飲み込みながら、竜は一心不乱に敵を飲み込んでいく。




 そして、静寂。



 目の前に出来上がったのは、固まった鉄と溶岩の壁。どこの城壁かと思えるほどのその壁は、厚く大きくて、暗く沈んだ色をしている。こちらに手を伸ばした亡者が鉄で塗り固められているのはまるで前衛的な芸術でも見ているかのようだった。


 しかし決して余裕の出来事ではない。巨大な魔法に蹂躙されながらも、死兵達は行軍を続けていた。その結果、城門と民間人達の目と鼻の先に到達するほどに。



 歓喜の声が、上げようと、ただ大口を開けて固まっていた傭兵達が、フェンに駆け寄る。


 しかし、目の前の光景に一番驚いて腰砕けになりそうだったのは、その魔法を使った小さい魔法使い自身だった。



 また、また実感だけが抜け落ちた。私だけではこんな事は出来ないはずなのに、知らない魔法だってあったのに、それなのに、この状況は何だ、と。



 ――そして、未だその小さな魔法使いが体内で魔力を練り込んでいる事に、その小さい魔法使い自身がやっと気付いた。




 びしり、と束の間の平穏に罅が入る音。




 ■■■■■■■■■■■■――――…!!



 

 怒号にも似た、怨嗟の声。重なり合って、混じり合いながら鉄の壁と反響するその声は、どうにも哀れで耳障りに感じる。


 ゴボん、と溶岩の塊が一部剥がれて地面に砕け、一瞬の静寂の後、――鉄の壁が一瞬で決壊して、いとも簡単に足蹴にされ飲み込まれた。



 フェンの存命を責める、死体の血色の目が見分けられる程に死軍は近い。



 死の気配がフェンの背中に走り抜ける。


 しかし、それは慣れてしまえば、――いや、元々慣れてしまった物でしかなかったのだ。


 あれほど恐かった死が、他人の死にさえ躍起になっていたのが、馬鹿らしくなる程に、滑稽で陳腐だった。





「――”原初を此処に”」



 詠唱は一言。



 知らないはずの言葉。覚えているはずのない一節。


 芋の蔓を引っ張り上げるかのように、その一言に導かれて、様々な物が引き摺り出されていく。


 頭に蘇る様々な記憶を、どこか人事のように感じながら、思考を逃がすように、別の事を考える。その間も変わらず、魔力は吹き出し、収束し、魔法と成っていく。



 やめて、と呟いても止まらない。

 ごめん、と謝っても許されない。

 許して、と媚びても叶わない。



 そう言えば、今日はハルユキとあまり話せなかったな、と子供のような事を最後に思って、少しだけ後悔した。



「――”混沌を希う(カオス・オーダー)”」



 白より黒く、黒より白く、その色は何とも筆舌しがたい。ただ、見ていて気持ちの良い色ではない。音もなく、光もなく、容赦も、赦しもない。



 その色に視界が、世界が染まる。




 そして、その色が通り過ぎた後には何も残らず、あの灰色に道連れにされて消え去っていた。


 あのしつこく鼻に絡みついた腐臭も、うなされそうな怨嗟の声も、当然、その源である腐肉の塊も。街の出口まで地続きだったはずの死霊達はおろか、それに面する地面も、家屋も、削り取られて消失している。



 驚きを言葉にすら出来ず、既に剣も取り落としてしまった傭兵達はただ呆然と口を開けて、瞠目を続ける。そんな中、何事もなかったかのように、彼女は前に進んだ。



 その顔は、今にも泣き崩れてしまいそうなほど頼りなく。




   ◆




 ずん、と地面が揺れた。



〈主…!〉



 その声に、返事を返すも間もなくユキネは屋根から大通りに飛び込んだ。


 瞬間、屋根の上をもの凄い強風が吹き抜ける。その風の中には引き剥がされた屋根の一部や敵兵の姿も少なくなく、いかにその風が荒々しいかを物語っている。



「何だ、この風は…?」



 その風を直接は受けていないはずの家が、ぎしぎしと軋む。家に近いここには被害はないが、大通りの向こう側には先ほど言った屋根の破片などが散らかっている。


 ギッと、最後にもう一軋りして、風が止んだ事を知らせてくれた。



〈分かりません、が。――主。考えている暇はどうやらないようです〉

「え…?」



 うずたかく積もったガラクタの中、その一部が、ゴトと音を鳴らした。



「――よう。まァた会ったな」



 そして、その場所に注意を払っていたのを嘲笑うかのように、背後の屋根から声。濁った夜の空に割り込むように佇むその姿を見つけた。反射的に剣を握って、鉄の感触を確かめる。



「探したぞ…」

「おいおい、相思相愛かよ。参ったな、抵抗されんのが堪んねェんだぜ――?」

「残念だがお前には何もやれる物はない。…アキラは何処だ」



 そう言うと、それを待ちかねていたように、愉快げにその男は唇を釣り上げた。


 すっとその笑顔を保ったまま、視線をずらした。その視線はユキネの後ろ。恐らく、先程屋根が動いた辺り。振り向いた瞬間、その視線とすれ違うようにユキネの頭上を飛び越えた。


 背後で、形容しがたい何かと何かが衝突した音がした。剣と剣ではない。拳同士でも、ましてや魔法などではない。無理に例えるなら、爪と牙がぶつかったような、そんな生々しい音。



 再び振り向いて、しかし視線から逃げるようにその黒い影は残像だけを残して視界の外に消える。



 そして、驚いた。


 その姿が何かまでは分からなかったが、影の大きさが尋常ではない。この街に来る時に出会った巨大猪と同じぐらい、いや、それよりも大きいのではないかと言う程の巨躯を誇っている。



 そしてズン、とそれが地面に降り立つ音がして、――直後。怒号に似た遠吠えが、再び夜の空気を震わせた。



「……!」



 思わず耳で手をふさぐ。その中で確かに見た。その影の正体、琥珀色の、巨大な狼を。



〈獣憑きです! しかし大神とは…! 信じられないかも知れないですが聞いて下さい。あれは…〉

「アキラ、か…?」



 琥珀色の硬そうな毛並み。


 その毛の色も、水ではとても梳かせそうにない硬そうな癖っ毛も、見覚えがありすぎる。


 あまりの変わりように、言葉を失っている中、アキラは体を低く屈ませた。そして、四本の足でしっかりと地面を蹴り出し、その大きさからは想像できないほど軽やかに宙を跳ぶ。


 その姿は、皮肉にもとても綺麗で、幻想的で、その殺意に濡れた牙でさえも神聖な物に映ってしまう。それこそ、先程とは違う意味で言葉を失ってしまう程に。


 その牙の向かう先は、変わらず屋根の上で、不気味に笑う生身の男。その獣を迎え撃つように、空間に切れ目が入る。



 再び、筆舌しがたい生々しい音が鳴り響く。



 空間の切れ目が牙となり、アキラを噛み砕こうと大口を開ける。それを爪で受け止めながら、本物の牙をその顎の向こうにいる男に食い込ませる。


 しかし、男は体に貫通する程、深く突き刺さった牙を見て、なおも笑顔を絶やさない。あろう事か、そのまま自分に刺さっている牙を思い切り握り締めた。



「はっははははははははははははははははははァッ!!」



 少なくない量の血を撒き散らしながら、男は更に腕に力を込める。ミシリ、と牙が音を立てて、砕けた。


 大口を開けて笑いながら、男は器用に体を回転させ後ろ蹴りを、自分の顔程もあるアキラの鼻にたたき込んだ。


 当たり所が当たり所だ。ダメージと言うより、怯みは必ず発生する。――よって、驚愕すべきは、その膂力。全長十五メートル以上はあるかというアキラの体が、"ずれる"ほどの。


 そして、場所は屋根の端。バランスを崩したアキラは口の端から血を撒き散らしながら、屋根の高さから落下していく。



 しかし、視線が未だ男から離れていない。



 すっと、高笑いを続ける男の足下が――いや、その辺り一帯が陰る。



 そこでようやく、アキラの視線と、更に上から振ってくるものに気が付くが、男は避ける事もせずただ両手を広げ、その唇を更に歪ませただけ。



 そして、アキラの振り上げられた琥珀色の尾が、屋根ごと男を強かに打ち付けた。


 その重量からか、男が立っていた屋根は一瞬も耐えることなく、壁ごと一階まで一直線に叩き割られる。パラパラと、木屑が舞って、その一つがユキネの頬に当たった。



「あ、アキラ!」



 驚きに身を固まらせていた事に気付き、ビクッと肩を揺らす。慌てて辺りを見渡すと、相変わらず、身を屈めて警戒を露わにしている琥珀色の獣を見つけた。


 そう離れてはおらず、一気に足下まで近づくと、またも驚きに身を固まらせる事になった。



 琥珀色の狼は思っていたよりもずっと大きく、屈んでいるにも関わらずここからでは手が届かない。


 その緋色の瞳は、未だ男が眠っているはずの家に向けられていて、その細長く拡がった瞳孔には、草書のように崩れた"狛"の文字が細々と光っている。



 そして、何より、口の端から流れる血。


 てっきり男の血かと思っていたが、その割に牙はほとんどが朱に染まり、流れ出る量の血の量も明らかに多すぎる。



〈こう言った体を媒介にする魔術は当然体に負担をかけるため、成人するまでは使ってはいけないと聞きます。止めるべきです〉



 聞こうとした瞬間に、質問の答えが返ってきた。


 頼もしさを感じながら、頷いて、直ぐ傍の琥珀色の毛並みに手を伸ばした。――そして、触れようとした、その瞬間。



 殺意に濡れた視線が、ユキネに襲いかかった。同時に、耐え難い程の寒気が背中を走り抜ける。



〈主、下がって…!〉

「……駄目だ。アキラが」



 目を逸らさない。それだけの事をするのにも、相当な覚悟と集中力が必要だった。


 警戒を滲ませながら、こちらを見定めるように目を細めるアキラには、自分の事は分かっていないだろう、とユキネは察しをつける。


 じわり、と手に汗が滲んだのが分かった。一度それを拭ってから、改めてアキラの前足に手を伸ばした。



「――大丈夫だ。もう、終わったから」



 触ってみて初めて分かる。その巨大な足が小刻みに震えている事が。


 恐怖だろうか。それとも無理矢理行使した魔法に、体が悲鳴を上げているのか。恐らくはそのどちらもだろう。低く唸りながら、視線はまだ壁が崩壊した先程の家に張り付いて離れない。



「――大丈夫だよ。まァだ終わってねェからよ…!」



 低く嘲笑うかのように、声が聞こえた。



「……お前…!」



 崩れた壁の破片を退ける音に振り返ってみれば、そこには先程の男がいて、目を疑った。生きている事ももちろんそうだが、そんな事より、その立ち姿に。



 太い牙は未だ背中から貫通したまま下腹部から突き出て、体のあちこちには小さくない壁の破片が突き刺さっている。足下から、喉元にも腕と同じほどの物が突き刺さっているのに、男は一切動じないまま、愉しそうに口元を歪めている。


 ぼたぼた、と血は零れ、しかし、数秒と経たない内に気化して消えていく。服を脱ぐような気楽さで、刺さった木々を抜いていき、その跡も瞬く間に消える。


 腹部に刺さった牙に至っては、体の中に埋まっていき、まるで胃の中に消えたように消えて無くなった。



「何千人の命背負ってるからよ。俺は簡単には死ねねェさ。――ただ、それにしてもだ。今日は馬鹿みたいに、気分が良い」



 ゴキン、ゴキンと首を鳴らして、全快を示す。



「さァて、そろそろ時間がねェ。俺にも多少は予定があるからよ。ここらで終わっとこうぜ?」



 殺意が再び足下から這い上がってくる。その殺意の濃厚さに寒気すら感じるのに、背中にはじっとりと汗が滲み出る。



〈――何だあの男は…?〉

「メサイア…?」



 メサイアからあまり聞き覚えがない口調の声が聞こえた。短い付き合いだが、メサイアがこんな口調で話す事があるのかと思って少し驚く。


 しかし、ハルユキの事でさえ驚かずに話してのけるメサイアが、いくら不気味だからと言ってこんな男に慌てるだろうか、とそんな思考も相まって、ますます場の状況が混迷を深めていく。



〈少し何かがおかしいです。出来れば様子を…〉



 それに挑むように剣を構える。見える男は昨日ハルユキに撃退された男で間違いない。しかし、確かにその力は昨日とはまるで違う。


 ドズン、と後ろで何かが地面を揺らした。何か、とはぐらかした所で一つしかない。


 剣は構えたまま肩越しに見れば、狼が荒く息を吐きながら横たわっている。



〈主…〉

「分かってる…!」



 気のせいか、既に先程よりも小さくなっている気がする。そもそも正気とは言い難い状態だったが、これで事実上一人で戦うしか無くなった。



〈い、いえ、そうではなく…〉

「え…?」



 メサイアの声のする方に目を向けると、理解しがたい事が起きていた。



 ――男が、力無く地面に横たわっている。



「……え?」



 意味が分からない、と驚きのあまり剣を取り落としそうになって、慌てて握り直す。ごそ、と男が身動ぎした。どうやら死んではいないようだ。



「を――…た…?」



 男の腕が地面に押し付けられ、ぐっと体を持ち上げた。



「何をしたァ…?」



 そう言っただけで、男は胸を押さえ、次の瞬間には致死量を超えているといってもいいほどの血を吐き出した。びちゃびちゃと、男を中心に血溜まりが広がっていく。



「あー…、こりゃ…ァ、ちと、拙い…」



 一瞬で、膨大な魔力が男の体から迸った。力任せに地面を蹴りつける。が向かった先はユキネから離れた屋根の上。


 こちらに憎々しげな視線を一瞥させると、そのまま背を向けて去っていった。



「ま、待て!」

〈主。あの男は逃がしたくはないですが、今はアキラ殿を〉

「っ…ああ。分かってる」



 悔しげにもう一度だけ男が消えた方向を睨んで、アキラが横たわっている場所に踵を返した。



「死んでは、いないな…」



 苦しげながらも、何とか呼吸を繰り返しているのを見て、ユキネは胸を撫で下ろした。


 琥珀色の毛が風に乗って消えていき、あの見上げるほどだった巨躯は縮んでいて、アキラも人の形を忘れていなかったようだ。


 怪我はなく、ただ魔力が切れてしまったのか、目を覚ましそうな気配はない。肩から持ち上げて背中に背負うと、何度か揺すって持ちやすい場所を探す。



〈今は一旦城に行きましょう。アキラ殿に治療が必要かもしれませんし、何か城の方で進展があったやもしれません〉

「そうだな…」



 背中にアキラを乗せたまま、城の方を見上げて。――それがユキネが空を見上げるのを待ち構えていたかのように、夜の空に広がった。



「何なんだ、一体…!」



 不可解に不可解を塗り重ねて、まるで人が混乱するのを楽しむように。ただ頭と状況を混乱させるために現れたようなそれは、昨日見た物とは違って、濁って見えて仕方がない。



 あの男だけではあり得ない。一体今、この街には何人の人間が糸を引いているのか。


 状況はただひたすらに混沌へと向かい、収束する気配さえも見せはしない。



 それを笑顔で肯定するように。ぽっかりと灰色の空に穴が開いたように。




 白い巨大な太陽が浮かんでいた。







◆ ◆ ◆





 水で細部までが投影された剣軍が、正確に敵の頭を打ち抜いていった。



「終わったぞい」



 何の変哲もない道の中心に、レイから渡された血のように赤い楔を打ち付けた後、ムイリオは手の中の魔石に向かってそう呟いた。その呟きは溜息混じりで、年相応の老いを感じさせる。


 周りにはとりあえず敵の姿はなく、やれやれと零しながら腰を叩くと、剣を一本杖代わりにしてそのまま城へと踵を返した。



 死体は未だに沸き続けてはいるものの、このままレイの策が上手く講じれば無力化できるだろう。


 ならば、後はもうこの戦争の終着を待つだけのはず、だが。ムイリオはどこか雲行きの怪しさを感じていた。何か根拠があるわけではない。山の雨を読むような漠然としたものだが、こういう予感は当たってしまう事が少なくない。


 やれやれと、再び溜息混じりに首を振りながら、帰路を急ぐ。――そしてしかし、ほんの数歩ほど進んだところで、ムイリオは何かに気づいて足を止めた。



「……どうした。何か用かガネット」

「ばれていましたか。気配を消すのは得意にしていたつもりだったのですが」



 裏路地に入る家々の間で金色の長髪が揺れた。ユキネが短く切り揃えてしまったので、今ではムイリオの知人の中では一番長い金髪となっている。


 ガネットは張り付いたような笑顔で、裏路地から姿を現すと、ムイリオから数歩離れたところで止まった。伊達に裏の世界で生きていたわけではないのか、その表情から何かうかがい知る事は出来ない。



「…少し、聞きたい事がありましてね」

「聞きたい事?」

「なに、このような状況です。聞きたいのは二つ。簡単な事です」



 言ってみろ、と意味を込めて、ムイリオはうなずいた。それに対してガネットも何時ものように、どうも、と嫌に礼儀正しく一礼すると口を開いた。



「――あなたが嘘をついた理由と、それがこの騒動に関係があるかどうかを」



 ぴくんと、ムイリオの眉毛が痙攣した。当然それを期待していたガネットはそれに気づくが、気付いた様子を微塵も見せずに表情筋を一ミリも動かさず笑顔のまま。



「……嘘? 身に覚えがないな」

「別に、それを聞いてどうこうするつもりはありませんよ。あなたには世話になっているし、私には善悪を問えるほど、強い人間ではありませんから」



 わざわざ身振り手振りを交えて、大仰に話すガネットに、ムイリオは剣に体重を預けて、押し黙ったまま。


 元から切れ長の目を更に細めてガネットはムイリオを観察するが、そこは歳の差。そうそうと墓穴を掘るつもりはないようだ。



「先日貴方には止められましたが、私はハルユキさんの一行に確認を取りに行きました。そこでは嘘をついている様子もなかったし、そんな事もあるのかと納得しただけでしたよ」

「何じゃユキネの話か。それは嘘ではない。お前も分かっているじゃろう?」

「いえいえ、嘘ですよ」



 確信に満ちた言葉に、僅かだがムイリオの呼吸が乱れた。いや、そのような気がしないでもないと言った程だが、間違いなくガネットの言葉は、ムイリオの中の何かの琴線に触れた。



「あの時ハルユキさんは二三国隣の国の事だと言っていました。私もこの辺りの事情には明るくはないので、そうなのだろうとしか思っていませんでしたが…」



 再び、ムイリオが押し黙る。その目は先程とは違い剣呑としているが、ガネットは軽やかに笑顔でそれを受け流す。



「――没落した王家? 民に政権を譲った国家? そんな物はここ50年は存在しない。少なくともこの辺りの国ではね」

「………」

「否定するというのならば、教えて頂きたい。その国の名前を。その王家の名前を」



 否定するでもなく、肯定するでもなく、ムイリオはただ黙ってガネットを見つめる。沈黙は肯定。”何かある”とは判断できる。しかしそこは八割方予想していた事。ならば今のムイリオの頭の中は、――ガネットの始末をどうするか。



「その質問は、どういった意図から来ておる」

「…何だと思います?」

「すまんが、今の儂はおふざけに構っていられるほど寛容ではいられん」



 ガネットの背中に冷たい汗が流れ落ちる。ムイリオが向けているのは紛れもなく殺気。伊達に”仙人”とまで呼ばれていない。静かな言葉だったが、ナイフを突き付けられたかのようにすら感じる。



「そうですね。好奇心ですかね」



 嘘ではない。もしこの状況に荷担した人間だったとしても、殺す気はなかったし、おそらく自首するように説得するだけだっただろう。


 小さく目を見開いたムイリオは、しばらく間を開けた後、観念したように溜息をついた。



「…その国の名を知っている人間はもういない。以前から一人しか居なかったがな。そして、――王家の名はメロディアじゃ」



 静かに告げられたムイリオの言葉に、今度はガネットが目を見開いた。



「メロディア…!? 馬鹿な、メロディアと言えば…!」

「――動くなよ」



 驚きに初めて隙を見せたガネットの方向にムイリオが剣を向けた。それを見て、ガネットは納得がいったかのように、冷たい笑顔を取り戻す。



「…残念です。貴方の事は結構慕っていましたよ」

「それは儂もだし、今でもそうじゃ。それに、先の言葉はお主に向けていった言葉ではない」

「なにを……?」


 

 怪訝に笑顔を引っ込めたガネットが、その表情のまま地面に倒れ込んだ。



「──厚かましくも、手を出させて頂きました。どうかご容赦を」



 その後ろに立ち、ムイリオと相対し直したのは、年端もいかないような若い娘。



「油断、しま…た、かね…」

「儂がお前に危害は加えさせん。今は眠れ」



 その言葉に、皮肉気に笑ってみせると、それを最後にガネットの体から力が抜けた。ムイリオはそれを確認すると、僅かに険しくなった目線を、未だガネットの後ろで直立を続ける女に向けた。



「貴様ギルドで受付をやっていた小娘か。成程、貴様が使いというわけか?」

「はい。ウェスリアと申します。聖女の命によりお迎えに上がりました」

「すまぬがそれは延期だ。この街の復興は手伝いたい。少し長くなるやもしれんが必ず行くと伝えてくれ」

「この男はどう致しましょう?」

「なに、儂が事情は説明する。どうせこやつと、あと一人は連れて行く予定だったのでな」



 その言葉に、ウェスリアはスカートの裾を満ち上げて、街の人間だとは思えないほどに高い気品と優雅さを持って一礼すると、溶けるように夜に消えていった。



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