表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ハイイロ ノ カナタ  作者: mild
第一部
130/281

 上がる悲鳴が乾いた体に潤いを与えていく。



 もっとだ。もっと殺して奪って犯せばいい。


 お互いを削り合え。



 戦え。

 

 殴れ、突け、斬れ、殺せ、削れ、抗え、惑え、狂え、咽び泣いて。




──そして死ね。





 今この場において、殺意は肥料で命は糧である。




 さあ、余興はそこそこに。


 狂乱も悲鳴も犠牲も足りないぞ。



 努々忘れるな。


 この場において倫理は鎖だ。


 如何な殺意も狂気も、私が許容して血肉としよう。




 見ろ。焼き付けろ。生涯その瞼の裏から剥がれぬほどに。



 これ程嬉しい事は無いだろう?




 嗚呼、血と腐肉が舞っている──。




  ◆ ◆ ◆





『こちら民街西第三区! 例の化け物の発生を確認! 数が多い! 至急増援を!』



 机の上に並べられた交信用の魔石が次々と点滅して、芳しくない情報ばかりを次々に喚いていく。



「か、確認されただけでも、その数二万超! 既に我らの戦力を大きく超え、それも未だ増え続けています!」



 切迫した顔で通信を主な職務としている兵士が、悲鳴のような声で状況を報告する。


 悲痛な顔でその報告を受け取ったのは、ミスラの一つ下の役職で二人いる副長の一人としてその腕を振るう、壮齢を少し過ぎた程の男。



 先頭における腕よりも、傭兵だった頃の数多の経験を買われて副長の座についていたが、その彼にとってもこの事態は見識の埒外だった。


 それでも、呆然と開きかけていた顎を閉じ、唇を引き絞る。



「隊長殿が戻られるまで私がここで陣頭指揮を取る! 各員、第一種戦闘態勢! 民間人を保護する事を最優先に行動しろ!」



 今は気ままな傭兵ではない。


 隊長は王女の探索で留守にしている。ならば、今この城の軍事におけるトップは自分だ。


 頭がぶれた集団は容易く瓦解する。それだけは防がなければならない。




「繰り返す! 各員第一種戦闘体勢! その能力の全てを持ってこの国を守るぞ!」



 戦争は無かったとしても、この国の兵士は惰弱ではない。


 演習を繰り返し、進んで討伐依頼にも参加していた。時には死者が出るほどに苛烈だった任務もあった。



 なればこそ、この国は強い。


 痛みも、死も、知人友人との死別も知った兵士の集団。


 自分の経験は教えた。仲間の死で教訓と恐怖を手に入れた。


 その錬度の程は、例え軍事のトップだと謂われる大国ビッグフッドにさえ負けるとは思っていない。




町外そとと連絡を取れ。一応隣国に応援要請を取っておいた方が良いだろう」

「だ、駄目です。副長…」

「駄目だと? 何があった?」

「そ、外との通信は完全に遮断され、そ、それどころか、町の外に出る事が出来ません!」

「何だと…!?」



 自然と窓の外に見える、町の端に目を向ける。



「あの空か…!」



 生理的な嫌悪を与える汚らしい空の色。



 あれは、空ではない。


 街の終わりで完全に遮断され、地平線どころか山々さえも見えはしない。



「こ、これじゃ監獄じゃないか…」

「さ、更に報告…。町の外延部からこれまでとは比較にならない数の死兵の大群を確認…! 数え、切れません…!!」

「馬鹿な…!」



 通信を受け取った兵士がまたしても悲痛な声を上げた。


 男は声を荒げようとして、口を噤んだ。退路が塞がっていると言うのはそれだけで危機的な状況だ。その事に少なからず自分も不安を感じている。


 声を荒げると、それだけでその不安が伝染してしまいそうな気がしたのだ。



 しかし、その逡巡は一瞬。


 檄を飛ばそうと口を開く、が。




 ポンと肩に乗せられた手に驚いて、思わず言葉が引っ込んだ。



 驚いているうちに、その手の主が彼を追い抜いて一歩前に出る。



「──既に交戦した人間は判ると思うが奴等は魔術行使の産物だ。頭を潰しても止まらない。手足を潰せ」



 歩み出たのは、男の肩ほどの身長しかない女にしては大きいブロンドの髪の女。



「民間人の数は多い。城の中に全て収容出来ない事もないが、魔術位階がB以上の者は東西南北四方の大通りにバリケードを作れ! 兵士は住民の避難が終わるまで意地でもそこを防護しろ!死なせるな! そして決して死ぬな!」



 目指すのは常に理想。日常においても、戦場においても、諦める事勿れと。



「耐えろ。倒せとは言わない。二十分だ、それだけ私に時間をくれ。そうすれば貴殿等の努力に報いる事ができる」



 語調も荒く、彼女は、叱咤を叩きつけ勝利を謳う。



 しかしそこで、小さくほんの少しだけ女は表情を歪ませた。


 それも一瞬、小さく息をついた後にはその表情の名残さえも残っていない。


 気付いたのはそれを後ろから見ていた男だけ。続けざまに出された声にも、そんなものは億尾にも出ていなかった。



「……最後に、ノイン様の探索を今を以って打ち切り、以後いない人間として扱う。探索に当たっていた兵士も民間人の保護に急げ!」



 先程の表情の理由は、見るも明らかだった。実の子の様に溺愛し、同時に尊敬を捧げている王女を見限った。


 この女が、国に身を捧げている王女に身を捧げているが故に。



「勘違いするなよ、見捨てる訳ではない。あの方は必ず戻ってくる。その時に、国が無くなっていて、笑われたくはないだろう?」



 あの王女なら、確かに笑うだろう。


 全くしょうがないなと、呆れた様に笑いながら、我らの失敗を取り戻してくれるはずだ。



 たかが小娘に。


 二十にも満たない女の身に。


 頼りきりで我慢できていられるほど、彼らは出来た人間ではない。


 笑いもそこそこに、隊長殿は高々と意思と誇りを持って反撃の烽火を上げる。


 

「──この国が、彼女におんぶに抱っこではない所を見せ付けるぞ…!!」



 この国の兵士なら、彼女がどれだけ王女に心血を注いで生きているかは知っている。


 それ故に、その言葉の重みを理解しない人間は居ない。



 交信魔石を通じて、応、と彼女の言葉に応える声が部屋に響き渡った。



「…アデノフ殿。至急ギルドに助力の要請をお願いできますか? 連絡を取る手段は無いので、直接出向く事になりますが」

「やはり、そう来るか…」



 無理な注文に、それでも男は軽く笑ってみせる。この程度は、信頼の証でしかない。



「結構な金がかかると思うが。やれやれ、またお互いに給金が減りそうだ」

「それについては、本当に…」

「はっ。何、こちとらもういい歳で老後の準備まで終わっている。それに、まだ結婚祝いを渡していなかっただろう?」

「…アデノフ殿は確か御結婚は…?」

「ふん、生憎最近完全に失恋したばかりでしてな」



 言って笑いながら男は腰に帯びた剣に手を添えた。


 言葉の意味は分からずとも、その行為の意図は隊長殿も理解したのか、微笑みながら頷く。

 


「それに、俺はこんな黴臭い本部室よりも、血腥い所のほうが性に合っている」



 しゃらん、とその場で剣を引き抜くと、そのまま扉を開け放ち、外に控えていた配下の人間に向かって邪悪に笑い上げた。



「ギリオ! ミクラン! ギルドまでの心躍る死屍狩り行脚だ! 付いて来い!」



 悲鳴のような声と、めんどくさそうな溜息が部屋の中まで聞こえてくる。


 しかし、そんな頼り無さそうな仕草とは裏腹に、その二人が副長の腹心とも言える存在で、戦闘になれば三十の兵と並ぶほどの腕を持っているのは周知の事実。

 


 階段を飛び降りるように下りていく足音に信頼を寄せながら、ミスラは表情を引き締めた。




「──何処の誰だかは知らんが、この国を嘗めるなよ」




 ぼそりと呟いた兵の長は、またどこかに連絡すべく、王女探索の際、交信用に使っていた魔石を手に取った。





  ◆ ◆ ◆





 屋根を飛び移りながら、最短距離で大通りにまで到達した。



 宿から見るよりも、見上げる城が明らかに大きい。


 ならば宿はもう少し外に向かった場所にあるはずだ。



 屋根から飛び降りて、嘘のように"人通り"が無い大通りにゆっくりと降り立つ。



「………っ」



 突如として現れた化物の群れに、必死で抵抗したのか、道には死体が転がっている。



 転がっているのはその殆どが敵の死骸だが、動かなくなってしまえば、それはただの死体にしか見えない。



 所々には敵が折り重なるように未だ蠢いていて、その周りにはまだ腐っていない人間の破片が散らばっている。



 死んでしまって初めて、それを人間に近付く事ができる。


 それは余りに、惨い事実だった。



「……急ごう」



 まだ、じくじくと夜の闇から湧き出るように敵は数を増やしている。


 それに、外に向かう道にも黒く蠢いている何かが見える。あれが宿に接触する前にシアの所に行かなければならない。





 それに気付いたのは、何とか宿まで行こうと屋根に飛び乗ろうとした時だった。



 幾つか隣の屋根の上に、何か小さい黒い影。


 夜の闇のせいで動くたびに見失うが、それが近付いてきている事は分かった。



 バン、と一際大きく何かを蹴る音がして、姿を完全に見失う。その一瞬後。



「──よう」



 背後からの声と同時に、何かが着地する音、更に何かが涎を啜る音までもが、一同に鼓膜を揺らす。



 一瞬後に首筋に寒気が走り、本能的に前に身を投げ出した。


 続けざまにまた一瞬後、今度はガチン、と何かを打ち合わせた様な音が響き渡る。



「また会えて、思わず神様に感謝しちまいそうだ──」



 生理的な嫌悪が背中を走り抜けた。


 知り合いという訳ではないが、顔は忘れられない。アキラの腕を噛み千切ったあの男に間違い無い。


 しかし、明らかにあの時とは様子が違う。明らかに以前より気分が高揚していて、漏れ出る殺意を戦場の空気と混ざり合う様が余りに馴染み過ぎていた。



「余計な問答は面倒だ。俺達が王女攫って痛ぶった。まだ何か必要か?」

「お前が…!」



 得体が知れないとは思っていた。


 誘拐と関係があるのではないかとも考えていた。


 それは、どうやら的外れではなかったらしい。それを肯定するように男は黙って唇を歪ませる。



「ノインは何処だ!!」

「さァなァ、場所は教えねェけど心配すんな。お前等が信頼する黒髪と一緒だからよ」

「何…!?」

「もういいじゃねェか、あんな奴等はよォ、なァ。今お前は俺としけこむ事だけしけ込むだけ考えてりゃ良ィ。そうだろ?」



 言葉を返す代わりに、困惑で頭が真っ白になる。



 何だこの男は。


 矜持も誇りも執着も何も無い。



 ただ事務的に。


 言い方を変えれば、ただ一途に直向きに、自分の欲しか見ていない。



「じゃあ殴るぜ、避けんなよ──?」



 迫ってきたのは、拳とも掌底ともいえない中途半端な形で固められたただの手の平。


 鎧で受けようとして、その手に体の一部が噛み千切られる光景が脳裏に浮かんだ。


 咄嗟に剣で体をかばう。




「知ってるか──?」




 防御した剣ごと体が持ち上がる。



 普通の力ではない。

 普通の速さではない。

 加えて、普通の戦い方ではない。


 続けざまに、何処までも変則的に、斜め下から伸びてきた右足がユキネの体を強かに打ち付けた。



「肉ってのは、叩けば叩くほど柔らかくなるんだぜ?」



 更に上空に押し出され、肺の中の空気が一瞬で押し出される。


 しかし、男の攻撃の手は止まない。どういう跳躍力を持っているのか既に地を蹴り、空中にその身を移している。



「嘗めるなぁっ!」



 空中に投げ出されている足が、"足場"を見つけて、そのまま地面に向かって突進した。


 男の目が驚愕に押し広がり、しかし刹那、男の口元に笑みが広がり、嬉しそうに右手を引き絞って振り下ろされた剣に叩き付けた。



 響いたのは、以外にも金属音に近い音。


 感触から考えても何かを斬った感触ではない。


 こちらは重力に引っ張られながら、体重も全て乗せ切っていると言うのに、空中で一旦お互いの動きが止まる。



 それは間違い無く、力が拮抗した事を意味していた。



 更に振り上げられた左手に、飛び退いたのはユキネの方。


 力比べで戦うには分が悪い。



「そう、そうなんだよ。このぐらいが食べ頃だ…!」

「…なるほど。ハルからノインを奪われて逃げてきた訳か」

「ああ?」



 恍惚とした表情を露にしていた男が、露骨に嫌そうな顔をして顔を上げる。


 しかし直ぐに、自分が言う事を想像でもしたのか、愉しげな笑みを浮かべた。



「──あの黒髪なら、当分は動けねェぞ」

「何だと…?」



 まただ。


 また懲りずに、動揺から隙が出来ていた。



 気付けば、地面を擦るように体勢を低く男が接近している。



 しかし間に合わない事はない。先程の二の舞になろうとその腕の延長線上に剣を構えた。




「──ぁぁぁぁぁあぁああああああ!!!!!」




 しかし、その剣に何かが触れることは無く。

 

 地を這う脅威は、頭上から飛来した闖入者に顔面を蹴り飛ばされて、すぐ傍の家屋に突っ込んだ。


 

 ギッと、飛び込んできた勢いを殺した拍子に靴が摩擦を殺した音が鳴る。


 何時にも増して、ボサボサした金髪が僅かに揺れた。



「何さらしとんじゃ、ボケがぁあッ!!!」


 

 荒々しい語調の闖入者は、知っている顔。



 

  ◆





「あ、アキラ…?」

「ユキネ、こいつは俺にやらせてくれ」



ユキネが戸惑った声を出しても、アキラは反応こそするものの、男が突っ込んだ家から目を離さない。



「いやでも、こいつはこの状況を作った人間で…」

「はっ。また口実が増えたわい」



 口調もやや粗暴に、さらに、目尻が吊り上り、額には青筋も浮かべている。いつもの様子ではない、が、冷静さを欠いている訳ではない。


 アキラから目を離して、宿の方を見やる。他の通りよりは進行は遅いようだが、危機的状況は変わっていない。



「…知り合いが危ない。ここを任せていいか?」

「ああ、ぶっ潰してやる」



 短く返って来た返事を最後に、アキラが一点に集中を傾けた事が分かった。



「…直ぐ戻るからな!」



 地を蹴って、屋根に飛び乗る。走り出して直ぐに後ろから、怒声と轟音が背中を叩く。


 しかし、振り向く事はどうしても躊躇われた。


 走って走って、ただの黒い蠢く塊だった死体の山が、ちゃんと死体の山だと認識出来るような所まで行き着いて、やっと振り返る。



 しかし、もう姿も音も確認する事が出来なかった。



「あ……」



 宿はまだ見えない。


 しかし、随分と西へ行ったところに、同じように屋根を飛び移りながら険しい雰囲気で疾走している人影を見つけた。



「ジェミニっ!」



 声に反応して、顔がこちらに向く。


 いつもはあまり見ない真剣な顔に見間違いそうになるが、確かに信頼している顔の一つ。



「──シアをっ!!」



 宿の方向を指差して、それだけで事足りた。



 ジェミニが黙って頷いたのを確認すると、今来た道を全力で駆け戻る。



 先程自覚したが、やはり昨日の疲れからかほんの少し体が重い。ほんの少し、背中に赤ん坊を背負っている程度だが、拮抗した勝負では命取りになる。


 集中力を高めながら、ノインの時のように体を軽くしようと念じてみるが、どうにも上手くいかない。



 結局、体に疲れという重りを残したまま、先程アキラに託した場所まで到達した。



「くそ…!」



 この場所を空けたのは、おそらく5分程度。



 しかし案の定。


 辺り一帯の家屋を尽く破壊した跡だけが残っていて、当人達は消えている。


 

 戦いの気配を追おうにも、そんな物はそこら中に転がっていて、どれかを特定するのはほぼ不可能。



 強く舌打ちをして、がむしゃらに走り出した。




◆ ◆ ◆





「も、もう持ちません! 兵を引かせて城門を閉めましょう!」

「駄目だ! まだ外に何人の民間人が居ると思っている! ここは最後まで閉じはしない!」

「し、しかし…!」



 西の城門の両脇に付属している円筒形の塔から悲鳴に似た声が響く。


 窓からも既に報告にあった敵影が蠢いているのが見えていた。



 この城は、町の中心に位置しているが為に、四方に伸びた大通りに対応するように四つの門が建築されている。

 

 一番大きいのが南にある正門で、他の三つの門はそれに比べると裏門といった程度の大きさだが、それでも人間十人が横一列で入れるぐらいの大きさはある。


 敵が侵入したら十分致命的になる大きさだ。



「も、もうバリケードが…!」

「ほ、本部に連絡を…!」



 重々しい音と共にバリケードが崩れたのを見て、流石に狼狽し始めた兵士が、交信手段である魔石を握り締める。



「…………え?」



 そして連絡前に一方的に聞こえてきた本部の声に、思わず呆けた声を出した。



 「し、少尉! あれを!」



 部下が出した声に振り向けば、その部下が崩れたバリケードを指差してまた悲鳴を上げている。


 いや、バリケードを指しているのではない。



 指しているのは、退避する兵士達の流れに逆らうように死屍の群れに歩を進める一人の男。



 軍服は身に着けておらず、そこ等の酒場に居そうな格好で、明らかに我々が守るべき民間人の一人だ。



「何故まだあんな所に一般人が…!」

「…いや、待て」


 粗方の一般人の避難は既に完了している。


 完全とは言い切れないが、あの辺りはもう家屋の中まで探索は済ませているはずだ。



「まさか、…あれが?」



 魔石の向こうから、ミスラ隊長自ら告げられた言葉。


 ただ一言。



『二十分ご苦労だった』と。



 時計を見た。


 余りに心血を注ぎすぎて忘れていたが、確かにもう時計の針は大分進んでいる。



 刹那、肌に痛いほどに濃密な魔力が迸った。


 その源は言うまでも無く、先程の一般人。



 燦然と煌く『炎』の文字。



 それ以上何かを言う前に、尋常ならざる大きさの炎の波が、死兵の波を飲み込んだ。



  ◆



──東門



 カシャン、カシャン、と不自然な足音に振り向いた。



「さて、こちらはまだ余裕があるかの」

「は? 爺さんどこから来たんだ。早く城に避難してくれ」

「…お、おい、馬鹿野郎…!」



 突然現れた老体に顔を顰めて詰め寄ろうとした兵士を、隣に居た兵士が顔を青くして引き戻した。


 腕を引かれた兵士は困惑した顔を、その兵士に向けるが、再び老体に視線を戻した時、自らも顔から血の気を引かせる事になる。



「これは、ムイリオ殿! どう言った御用件でしょうか!」

「何、少し手を貸してくれと頼まれての。爺のしわがれた手じゃが、使わせて貰えるかの」



 恐縮したように、この部隊で一番偉い筈の大尉が平伏したように敬礼した。


 ムイリオ。



 最近配属されたばかりで実戦が初めてである彼でも、その名前は知っていた。



「まあ、こんな老い耄れに出来る事なんて高が知れとるが…」



 そう言いながら、後ろに組んでいた手の内の片方を掲げた。


 粛然と仄めく『雲』の文字。



 瞼を瞬き、目を再び開けた時には、静かに要塞が居座っていた。







──南門。



 バリケード越しに、死屍に向けて兵士が次々と槍を放っていた。


 腐っているせいか、その体を脆く、足に突き刺されば根元から崩れ去り、それだけでその一体は無効化する事が出来る。



「また入り込んだぞ!」



 5メートル離れていない場所から聞こえる声に反応する暇さえない。


 目の前にも、倒れた死屍を足場にして新たな死兵がバリケードを越えて来ている。



 掛けられた足を槍で突き砕く。



「くそ…!」



 その死屍は打ち倒したものの、力を入れすぎたのか槍が中頃から圧し折れた。


 間合いは短くなるが、腰の剣に手を伸ばそうとして、



「────ッ!!」



 呼ばれた自分の名前に振り向く。


 そこでは、一際グロテスクな死体が、肉が半分溶けた様な腕を振り上げていた。



 あ、と自分でも情けない程、惚けた声が口から出た。



 パンと響いたのは、自分の命が弾けた音だろうか。


 その説に賛同するかのように視界は黒に染まっている。



「──ご苦労さん」



 しかし、それはただ恐怖に目を瞑っていただけで、肩に置かれた手の感触に目を開けると、そこに見上げるような巨漢が佇んでいた。



「ギリギリだな」



 この町の人間なら誰もが名前を知っている。


 王女と並ぶほどの知名度で、この町から出た最強の戦士と謳われる、無手の傭兵。



 その巨躯からは考えられない程の軽やかさで、バリケードを飛び越える。




 既に目前に死兵の波は押し寄せていた。



 が、気後れもせずに篭手を嵌められた腕が振り上げられる。



 悠然と輝く『地』の一文字。



 全力で地面に叩き付けられた拳は、その先何十メートルもの地面を裏返し、散る破片で死屍共をバラバラに解体した。





◆ ◆ ◆






 道行く人々を眺めながら、暇を持て余し欠伸を噛み殺していた。



 町の外縁部から第二陣を放って、進行状況は予定の90パーセント程。


 予定していたよりも遅れているのは、王女という頭を失った割に機能を発揮している国兵の働きによる物が大きい。


 しかし、それでも想定の範囲の外ではない。


 

 時間が経つにつれ、その違いは揉み消されていくだろう。



 次々と生み落とされ、町の中心に進軍する屍兵の数はおよそ五万。全体数の十分の一にも達していない。



 しかしやはり、大国オウズガルだ。


 国民の中にもそれなりに戦える人間は多く、闘技大会に出ていた人間がネックとなっている部分も多い。



 つまりは、程好い感じに盤上は荒れている。




「さて、そろそろもう一手間加えようかしら」



 やれやれと女は腰を上げる。



「──ほら、行ってらっしゃいな」



 ズル、と足を引き摺りながら進む様はその他大勢の死屍と変わりは無い。



 しかし、その右半身は人体でもなく、腐肉でもなく、ただ空虚に影が蠢いている。



 ただ、その右目。



 その右目にだけ拳大の赤い宝石が嵌っている。




「──"略奪者サクリファイス"」



 ズル、と現れたときと寸分変わらない音を立てて影に沈んだ。




 極地にあるチェスでは、歩兵が敵陣の最奥に到達する前に値千金の練兵に変わると言う。


 チェスの盤に、いきなりそれを投入してもまた、面白い事になるだろう。



 さあ、もう少し、盤の上を荒らしておくれ。





  ◆ ◆ ◆






 座り込んだまま、目の前の壁に軽く手を触れてみる。


 思ったよりも柔らかくは無く、強化ガラスのようなしなやかな手触り。



 寄りかかるぐらいでは決して壊れはしないが、確かにハルユキが殴ればたちまち壊れる程度の強度だ。


 壊せる、しかし壊す訳にはいかない。その板挟みがどうしようもなくハルユキを苛立たせる。



 小さく舌打ちをすると、驚くほどのその音が反響して自分の鼓膜を揺らす。それを聞いているしかない自分がもどかしくて仕方がない。


 固めてしまった拳がやり場を失って、自分の膝でも殴り飛ばそうかという思いが過ぎる。



 それを思い留まったのは、腕の中で小さく動く気配を感じたからだ。



「ノイン…?」



 顔を向けた時には、気のせいとも思ったが小さく名前を呼んでみると閉じられていた瞼が僅かに震えた。


 そのまま薄く瞼が開いていく。


 ある程度瞼が開いていって、両目の焦点がゆっくりとハルユキに合わせられると、笑いたかったのか泣きたかったのか、その目が細められた。



「…馬鹿ね、何でいるのよ…」

「……おいおい、命の恩人に御大層だな」



 薄く目を開けたノインの第一声がいつも通り過ぎて安心してしまい、つい軽口で返してしまう。


 しかし、目は虚ろで呼吸は荒いままだ。目を覚ましたからといって放り出すわけにもいかない。



「貴方がここにいるって事は、まんまと術中の中って訳ね…。私を心配するなんて何様なの?」

「悪いな。罠の雰囲気全開だったんだが、油断した」



 余りにいつも通り過ぎる彼女に苦笑しながら、そう言えば地面に置きっぱなしだったお茶を飲ませてやろうと一旦ノインを地面に降ろそうとして。


 袖に小さく掛けられた力に気付いた。



 その方向に目を向けると、少しだけ目を伏せて唇を震わせる。いやその体も腕も震えていて、その震える腕で毛布越しに弱々しくハルユキの腕を掴んでいた。


 その様子に、ハルユキは逆に目を見開かされる。


 他の人間なら、簡単に見分けは付いた筈だ。


 だから、目の前の彼女がそうなっている事を理解するのに時間が掛かったのは、普段の彼女からは余りに想像し難いものだったからだと思う。



「……ごめんなさい、嘘を付いたわ」



 絞り出された声ですら震えを帯びていた事で、彼女が何を思っているのかようやく確信に至る。



「本当の事を言うとね。目を開けた時目の前に貴方が居てくれて、凄く安心したわ」

「…そうか」



 膝の上に乗せて少しだけ強く体を抱き寄せると、もう片方の手が背中に回り、ゆっくりとその手がハルユキの背中に押し付けられた。



「──結構痛くて辛くて、今は少しだけ、寒いわ」

「ああ」



 ほとんど締め付けるように抱きしめると、小さく苦しそうな吐息を漏らして、それでも文句は言わずに背中に回された手に力が篭る。


 しばらくそのままじっとしていて、大分ノインの体温が戻り震えが収まってきたあたりで、肩に置かれた彼女の頭から口を開く気配がした。



「……ね」

「ん?」



 ハルユキも短く聞き返すと、もぞもぞと体を動かして肩に置いていた頭を少しだけ離してハルユキの顔を覗き込んだ。



「……エッチな事したいの?」

「…放り出すぞ?」



 愉快気に笑う仕草は、いつもの物とそう変わりは無い。若干疲れは見えるものの、もうあの珍しい表情を見れはしないようだ。


いつものように放った軽口に、ノインは待っていたように顔を綻ばせる。



「何よ、つまらない男」

「…随分余裕だな。外の状況分かってないのか?」

「分かってるわ。でも、頼み込んでも貴方がこの結界を壊してくれないのは分かっているつもりだし、…それに」



 一旦言葉を切り、特有の挑戦的な目で再度言葉を繋いだ。



「私が手塩に掛けて育てた国を、嘗めてもらっては困るわね」



 あまりに自信満々にそう言い放った。


 全くもってその自信には脱帽するばかりだが、もちろん間違っている訳ではない。



「………成程。確かに外の奴等を信頼するしかないな」

「そ。だからこそ今は休むから、エッチな事は出来ないわ。ごめんなさいね」

「それは…」



 改めて軽口を放ってやろうとして、途中で言葉を止める。



「どうし…」



 直ぐハルユキの異変に気付いて、声をかけてきたノインにも人差し指を唇の前に立てて沈黙を促す。


 そして、それは間も無く再びやって来た。



『ギィ』と、余りにわかり易い鳴き声だった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ