太陽は眠らない
「フェン、今日の昼食代を貰えるか?」
「…今は手持ちが無い、から。後で届ける」
「いいのか? じゃあ、多分いつもの広場にいると思うから」
「…持って行く」
ありがとう、と屈託の無い笑顔で謝意を示すユキネをフェンは無言で見送った。
無言も無表情もフェンにとっては日常的なものでしかない。
しかし、今の表情は無感情というよりは、冷静と言った方が近かったかもしれない。
「…ハルユキ」
どこぞの王女が暴れたせいで壁が取り払われ、無駄に大きくなった部屋。
前なら入り口から見れば全容が見渡せたはずだが、今は少し視線を巡らせる必要がある。
視界の端で珍しく本など読んでいるハルユキに視線を止めると、一直線に部屋を横切ってその前まで移動した。
歩みに一切淀みなど存在せず、その小さい足から力強ささえ感じるほどだった。
「ハルユキ」
「ん? 何だ、どうしたフェン」
「…何してるの?」
「いや、少しは文字を覚えようと思ってな。暇だか…」
「そう。なら働いて」
ハルユキが言い終わる前に、スパッとフェンが言葉を遮った。
苦笑しながら本を掲げていたハルユキの表情が固まり、逃げるように視線を他の3人の元に泳がせた。
しかし、フェンの小さな声に加えて、広くなった部屋だ。各々自分なりのやり方で時間を潰している。
「あ、あれ…? フェン、ほら俺勉強してるし…」
「暇だと言った」
「い、いや、暇だけどさ」
「じゃあ、これをユキネに届けて」
スッと、小さな布袋をハルユキの目の前に差し出した。
その際に金属同士が擦れ合う高い音がした。その中身がお金であり、差し出されている物が財布だと明らかになる。
「お昼代…。ハルユキの分もある」
「でも、勉強……」
まだ食い下がろうとするハルユキに、フェンの無表情が向けられた。
一秒、二秒。いつまで腹の探りあいが続くかと思われた所で、ぼそぼそと小さくフェンの口が動いた。
それこそ、ハルユキにしか聞こえないほどの音量で。
「……行く?」
「行ってきます」
間に何が交わされたかは二人の間でしか分からない。
しかし、ハルユキの額に汗が走っている事から、行われたのが交渉ではなく脅迫だった事は明白だった。
◆ ◆ ◆
フェンは窓の傍の陰に隠れているベッドに座って、ハルユキが残していった本を読んでいた。
内容は子供向けのもので、物語自体にも目新しさは感じられない。多分、明日になれば忘れているようなどこにでもある小説。
それでも暇に追われて、ただ無感動に文字を目で追っていた。
「フェ~ン。来たわよ~!」
バン、と蹴り破らんばかりの勢いでいきなり扉が開かれ、この部屋には初めて現れる人間が闖入してきた。
現れたのはフードを目深に被った、フェンと同じ位の身長の少女。
フェンは、本に栞を挟み傍らに置くと、それからゆっくりと闖入者に視線を合わせた。
「………………うん」
「思い出して! 名前憶えてないのは何となく分かってたけど、思い出すのを諦めないで!」
「……………………………ハゼ」
「エゼ! ハゼって何!? …小魚じゃない!」
「エゼ。…賑やかな人」
「…うん。何か一緒に若干不名誉な印象もついたけど、今はそれでいいわ…」
全力疾走の後のように息を荒げながら、懐から布袋を取り出した。
「…ありがとう」
「まあ、私が借りた訳だから、ありがとうって言われるのも変な話だけどね。何にしてもこちらこそありがとうございました」
お互いにお礼を交わして、布袋を受け取った
先程フェンがハルユキに渡したものとよく似た小さな布袋。中身も同じくお金のはずだ。
フェンは何となしに、半分だけ開いた窓から外に目をやった。
空の割合は雲の白と空の青で2:8。雲は大体が一塊に纏まっていて、いかにもな夏空が広がっている。
もう太陽も頂点を過ぎた。あの二人も今頃は一緒に昼食を摂り終えているはずだ。
「ね、フェンは今日これから暇?」
そう言われて、予定を探る。
もう昼食も済ませたし、今日はもうユキネの試合ぐらいしか予定は無いはずだ。
「……日が沈むまでなら」
「よし! じゃあ、遊びに行きましょう!」
「…え?」
ベッドに座りなおして、再び本に手を伸ばそうとしたフェンが、予想外の言葉に顔を上げた。
「…何よ。私はもう友達だって思ってたんだけど…」
ミクロン単位でフェンの瞼が見開かれた。
余りにも小さな変化過ぎて、エゼには無表情を向けられているだけに見えただろう。
それでも確かな変化だった。
「…行く」
「うん、行きましょ」
「何処に行くの?」
「知らないの? 今日は朝から一層騒がしいじゃない」
半分だけ開いていた窓をエゼがこれもまた勢い良く開いた。
抑制されていた分の風が、雪崩れ込むように部屋の中に広がった。
「うん、良い天気!」
それは既に見ているので、エゼの横から顔を出して空を見上げるエゼとは反対に視線を落としてみる。
「………すごい」
見下ろしているのは大通り。向こう側の家まで何十メートルはあると言う巨大な道。
それが人の海に飲み込まれていた。
「まあ、これだけ多いのは今日だけらしいけどね」
エゼもフェンに合わせるように人の海に視線を落とした。
広すぎると言っても過言ではないほどの大通りのお陰で、詰まっている訳ではないが、それでもここから見た限りでは人の切れ目は見つけられない。
余りの人の多さに、魔法を使って屋根の上を移動している人間も少なくは無い。
大通りの異様すぎる光景は、大きな生き物が艶かしくうねっているかのようにも感じられた。
「今日…?」
「そ。今までのは"前夜祭"。今日から始まるのが…」
自慢げに指を立てて説明しようとしたエゼが、ふと思いついたようにその口を閉じた。
「ま、それはお楽しみよね」
悪戯っぽく笑うと、フェンの腕を取って外へ引っ張っていった。
◆
「うん、空いてる空いてる」
二人は屋根の隙間を飛び越えながら、町の中心へと向かっていた。
街の中心にあるのは巨大な城。その傍らにはまだ熱気が残っているかのように存在感を示す闘技場が鎮座している。
改めて、こうやって全容が見渡せる所まで来れば、いかに力を持った国なのかがよく分かる。
王女があまりに親密的なので実感は無かったが、ここは紛れも無く大国なのだ。
見上げていた視線を下ろすと、先に行っていたエゼが、何か口をぱくぱくさせながら上を指差しているのに気付いた。
もう一度城を見上げてみる。
しかし何も変わった所が無いので再び視線を下ろすと、エゼが両腕で×を作って次にバッサッバッサと全力で手招きを始めた。
「よし、ここで大佐以下は待機!!」
「………大佐?」
「何言ってるの! フェン・ラーヴェル大佐!」
「…えー…」
「えー言わない!」
小さな胸を精一杯張り切って、フェンの後ろをビシッと指差した。
屋根に天窓が開いていて、そこの縁に腰掛けられるようになっている。
ここに座って待っていろということらしい。
自分も一緒に行くと、視線を戻すが、既に姿は無い。
どうしようかと数秒考え込んだ後、結局そのままその縁に座り込んだ。
ふぅ、と小さく息をつく。
ボーっと、辺りに視線を巡らせて見るが、特に面白いものがある訳でもなく、ゆっくりと流れていく人の波を眺めている事にした。
一分、二分とただ惰性にまみれた時間が過ぎていく。
笑っている人間、疲れからか溜息を付いている人間、酒を掲げて陽気に歌っている人間もいれば、街の巨大さに落ち着きを失っている人間もいる。
あちらは自分が見ている事を知らないのだろうな、と思うと何故か妙な気分になる。
不意に、吸い寄せられるように二人を見つけた。
綺麗な金髪の少女に、塗り潰されたかのような黒髪の青年。
なにやらケンカしているようだ。少女が躍起になって繰り出す拳を笑いながら避け続けている。
周りから囃されている事に気付いているのかいないのか、それは少女のスタミナが無くなるまで続いた。
そうなって初めて周りの視線に気付いたのか、顔を赤くしたのが遠目でも分かった。
大慌てで男の腕を取って、雑踏の中に紛れていく。
不意に。
いや、不自然にと言ってもいい程に。
苦笑いしながら引っ張られていく男の視線が、真直ぐこちらに傾いた。
「……ッ」
慌てて、屋根の影に体を押し込んだ。
「……フェン?」
後ろから聞こえた声に、思わずビクッと体を揺らした。
恐る恐る振り返るが、居たのは想像に反して小さな体の少女。
視線を戻すと、ハルユキの姿は雑踏の中に消えていた。
「……何でもない」
「そ。じゃあ、行くわよ」
「行く…?」
「場所取りはしたし、思ったよりもまだ時間もあるしね」
エゼは、バンバンと窓の縁に敷かれた犬か何かの柄が入った布の下敷きを確認するように叩くと、立ち上がった。
「準備良し! じゃあ…」
がしっ、と何かを言う前にフェンの腕をつかんだ。
「フェンは風の魔法使えるわよね?」
ここに来るまでにも風の魔法を使っているのを見ていたのだろう。質問と言うよりは確認に近い。
勢いに押されながらも、フェンが首肯すると、エゼはそうと呟いて更に笑みを深くすると、屋根の緩い勾配を走って下り始めた。
当然、腕をつかまれたフェンも一緒に。
「──ジャ~ンプ!!」
大通りに向かって、思い切り宙に飛び込んだ。
「えー…」
「えー言わない!」
小さな影が二つ。
祭りに向かって飛び込んだ。
◆
「……うーん、78点!」
「嬢ちゃん。それは高得点なのかい?」
「平均点ね。もっと励むように!」
「こりゃ手厳しいね」
笑いながら料金を受け取る店員に、もう一度激を飛ばしてから二人は店を離れた。
「エゼ。買い過ぎ…」
「大丈夫大丈夫。お菓子なら幾らでも食べれるから」
両手に持った八十点以上のお菓子達は既にフェンとエゼの片腕ずつを占拠している。
もう日も落ち始め、西の空が茜色に染まってきている。陽が落ちればユキネの試合が始まるはずだ。
「あ、そろそろね。じゃあさっきの所に戻りましょうか」
落ちていく陽にエゼも目をやると、元の視線の先の屋台を諦めて裏路地に向かった。
「あ……」
いざ屋根に登ろうとしたところで、エゼが固まった。
「……どうやって屋根に登ればいいと思う?」
先程は宿の屋根から伝っていったからいいものの、こんな裏路地からでは普通は屋根には登れない。
いくらなんでも、知らない家にいきなり屋根に登らせてくださいとは言えないだろう。
「…任せて」
流石に風だけでは不安定すぎて屋根には登れない。と言っても攀じ登れる何かも無いし、体力も無い。
上に上がる手段など、階段か若しくは梯子くらいしか使えない。
要は、階段が在ればいいのだ。
「────」
フェンの言の葉に反応して、辺りの空気が一瞬で凍えていく。
パキパキと不安げな音を出しながら、蛇のように氷の塊が屋根へと伸びていく。
「さ、流石ね。世界征服も近いわ…」
所要10秒ほどで、裏路地に、何処の物語から出てきたのかと言うほどの幻想的な透明の階段が出来上がった。
足を乗せると、カツンと凛々しい音が鳴った。中に空洞がある音ではない。強度も問題ないようだ。
「…い、いい?」
「……? 何が?」
「いや、何か勝手に上がっちゃいけないような…」
訳の分からない事を口にするエゼを今度はフェンが手を引っ張って引き上げた。
トトッと前に躓きそうになりながら、エゼが階段を上がる。
「…大丈夫?」
「大丈夫大丈夫」
エゼは、先程の躊躇が嘘のように感嘆の声を上げながら階段を上がっていく。
「さ、急いで急いで。始まっちゃうわ」
「でも、もう試合が……」
横目に太陽の位置を確認すれば、もう太陽の体の半分は地平線の向こうに隠れている。
「大丈夫よ。試合は多分終わってからだから。それにどっちにしろ闘技場の近くだしね」
エゼが階段から屋根に飛び移り、それにフェンも続く。
フェンもそれに続いて、屋根に飛び移る。
自然と眼下の大通りに目が行き、その様相が先程屋根から見た景色とはまた違っていることに気付いた。
あの巨大な生き物が身動ぎをやめている。
皆が皆、誰も誰もが、足を止めて空を見上げている。
「──さあ、お祭りよ」
飛び跳ねるように屋根を走りながら、眼前のエゼが嬉しそうに告げた。
◆ ◆ ◆
最初に訪れたのは、静寂。
日が沈みきったその瞬間、異質ともいえる沈黙が町中を覆っていた。
殆どの視線が一箇所に集中している。その先で。
ぽつ、と光が生まれた。
光が生まれた事でその源が明らかになる。
巨大な牙から切り出されたとは思えない流麗な剣。そこに嵌められた血の様に紅い玉石から。
光は増大していく。
急速に甚大に煌びやかに、成長を遂げていく。
球状に成長した光の外周から、光が迸った。
それはまるで太陽を泳ぐ紅炎のように。
いや、それはまさに太陽そのものだった。
──"眠らない街"。
この街に入った時に目にしたその異名を、街が体現した時。
祭りが、始まった。