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ハイイロ ノ カナタ  作者: mild
第一部
108/281

刃と杖を交えて

 完全に覆面を脱ぎ去った男の顔は、よくよく見てみると意外と肉が付いておらず、頬は弱冠痩けていて、無造作に一つに纏めて後ろに垂らした黒髪は疲れたように縮れている。



 しかし壮漢。されど歴戦の匂い。



 眼光光る目がこちらを向いている分、覆面の時より殺気は濃く感じたほどだ。



「我らが国は確かに誇り。あの少女とこの国との繋がりを持って帰れば更に国は潤う。それも我が国のためだ」



 ざわめく民衆を視線で一撫でして、男が視線をフェンに戻した。



「しかし、その事はお主に一欠片も関わりのある事ではない。まさか、勝ちを譲ってくれはしないんだろう?」



 それに対して、フェンは静かに沈黙を持って肯定を示す。



「当然ここで正体を現すつもりも無かった。もし負けてしまえば我が国の名に傷が付く。それは己個人の事で左右されていいものではない」



 ああ本当にその通りだ、と笑いながら、その時確かに一人の戦士の顔に成り代わった。



「──だが、ばれてしまっては仕方が無いだろう?」



 もう一度、闘技場を見渡す。


 その表情には好戦的なものが満ち溢れていて、会話の途中に攻撃しないように目を逸らしたのかと言われれば納得しそうだ。


 男の血潮が。男の心臓が。


 躍るように脈動したのが聞こえた気すらした。



「もちろん目的は揺らいではいない。我が身一つでそれが達成されるならば捧げよう。しかしまあそんな状況でもない」



 静かに白鞘を揺らしながら、直刀の柄に右手を添わせる。



「この滾る血をどう抑えようか苦悩していた。…だから、此処だけの話」



 スッと男の切れ長の目が再びフェンを捉え、同時にチン、と軽快な音と共に腰にぶら下がっていた刀が引き抜かれた。


 鞘から刃と一緒に冷たい空気が流れ出たかと錯覚する程に、刃の雰囲気で空気の温度が下がった。



「──名を聞いてくれた貴殿に深く感謝している」



 そして、そのまま切っ先をフェンに向けた。


 感謝など口先とほんの少しだけ。どうして感謝している相手に剣を向けられようか。


 それどころか、これ見よがしに当てられる剣気が体を震わせる。



 刀に反りは無い。主に暗殺などに用いられる直刀の刀身は本来一尺ほどであるはずだ。


 しかし、目の前の業物は少なく見積もってもその三倍はあり、大太刀並みの長さを誇っている。



「自分は偉そうな異名で呼ばれていたりもするが、出来るのは太刀これだけだ。魔力もそう高くは無い」



 凛々しい音を立てながら露になった刀身は、ほんのりと朱色に染まっている。



「そもそも戦いに向いた能力ではなかった。某の能のほとんどは日常の傍に寄り添うものだ。

 しかし、必要に駆られてな。無理矢理に抉じ開けた。当然多くの物を得る事は出来なかったがな」



 確かに男の方からそう魔力を感じる事はできない。しかし、刀の方からは長年に渡って練り込まれた濃厚な魔力が垂れ流されている。


 その切っ先を横一文字に振り抜いた。



「しかし、ただ実直に、一つを極める事は可能だった」



 戦いを、剣戟を。切に求めるように。



「もう油断は挟まぬ。お主も情は捨てるよう──」



 だらっとその刀を持った腕から力が抜け、切っ先が地面に触れる。


 一見隙だらけに見えるが、漏れる殺気が先程よりも格段に増している。あれは"構え"だ。



 他でもない、戦意の顕れ。



「──最早問答は埒も無し」



 戦意の切れ端が口から零れた。


 もうこの体は、どちらかが地に伏せるまで止まらないとばかりに。



 声と共に男の顔から笑みは消え、大きな体がギリギリと引き絞られて筋肉が悲鳴を上げる。



 同時に男の上腕の辺りから光が漏れた。



 そこに刻まれているのは"直"の文字。


 意味は察する事はできないが、異文字とはそもそもそういうものだ。考えている暇は無い。


 今出来る事は、こちらも戦意を顕すだけ。肺から空気を吐き出し、周りに魔力を満たす。



「力比べは好きだが、出来る事ならお主が屈強な男子だったらと思う」

「勝ってから言った方がいい」

「何、──直ぐだ」



 瞬間、男の足元の地面が爆ぜた。



「──バッ!!!」



 咆哮のような意気は、男の肺から大量の空気が吐き出されただけの音。


 

 男の走る軌跡は、元いた位置からフェンの懐まで一直線に迷いが無い。フェンは尻餅を付きそうになるのを何とか堪えて、杖を前に掲げる。



 呼気とも尾を引く空気の渦とも知れない風が、男の後ろから追随してまるで糸を引いているようだ。


 フェンが一を進む間に十進んでしまう、それ程に身体的な差が決然として存在している。



 しかし、この男より段違いに強くて速い人を身近に一人知っている。


 その人はきっと一の間に千は進んでしまう。だから、尻餅など付いていられない。私はあの横に立ちたいのだから。




 脅威を振り払い、静かに闘志を剥く。



 魔法の杖は手の内に。




「──"蜃気楼群ファントムミラージュ"」




 視界の端から端まで残らず景色が揺らめき揺れて。世界がまた異色に塗りつぶされる。



 その中の幾つかがが周りの空気の層ごと、音も無く寸断された。



「外れか」



 殺しては負けになってしまうので刃は返しているが、それでもその姿は真っ二つになった。


 その剣筋が己の体を叩く光景が、フェンの脳裏に浮かぶ。普段は貧弱なだけの想像力が、忌々しいほど活発に活動を始めている。



 嫌になりながら頭を振ると、自分の目からも映ってしまっている分の蜃気楼が、一緒に首を振ってくれていた。



「持久戦。まあ、それもまた兵法だろう」



 ならばまた次に行くだけだと、一瞬で二度剣を振り、その三倍の数の幻影を断ち切った。


 こうやって一つずつ潰して行けばいつか辿り着くのは自明の理。



「…しかし、あまり悠長なのは得意ではないのだ」



 男が小さく溜息を付いた。



「自分は不器用でな、異文字と言えど使える魔の技は二つか三つ。出し惜しみも出来んのだ、許せ」



 わざわざそんな事を教えてくれる男に裏が無いとは言い切れないが、ただただ愚直なこの男に裏があるとは考えにくい。


 そんな事を疑うより相手の次の手を考える方が有意義だ。



「十二直。たつたいらとるひらく



 相変わらず構えは無い。肩に力も入っておらず限り無く自然体に近い体勢から口だけが動き、爆発的に殺気が増した。



「──"巨直こすぐ"」



 呪は一言簡で潔に。到来する脅威に寒気が背中を通り抜けていく。



「――ッ!?」



 闘技場の中を、一直線に風が横断した。



 僅か一秒の間に三突き。結果、幻影の半分が突き殺された。


 目に見えたわけではない。ただ険を握った男の右手から一直線に空気の層ごと貫かれている。



 男の居場所は闘技場の中央のまま。ならば恐らく刀が伸びたのだ。大して驚く能力でもない。――ただ、音も無く、刀身の根本すら視認できな程の速さを除けば。


 再び、風が吹く。刃もそれを追い越しながら空気に紛れている。



 首筋に風を感じた。次の瞬間には、何かに追われるように目の前に壁を展開していた。



 氷の壁を三層。



 投石機の一撃すらも防ぐ代物だという自負がある。



 それでも。



 気付けば、目の前の壁を突き抜けてやいばが鼻先に止まっていた。



「そこか」



 静かに告げる声に肩が揺れる。


 攻撃か防御か。迫り来る刃の脅威に頭を絞る。既に男が体を小さくして接近してくる姿が目に映っている。



 ならば、歯を噛み締めろ。魔力を内で燃やせ。



 刃には、刃を。





 幸い男の動き自体は目で追える。言い換えれば引きつけられる。未だ先程の技を使わないのは恐らく刀の強度に問題があるからだろう。


 直刀だったのも、突きのみだったのも、恐らくそれ故だ。振れば空気抵抗に耐えられずに折れてしまうし、反りがあれば突きですら折れてしまう。



 余り多用できる技ではない、と信じたい。


 深く呼吸をして脳を酸素で満たし、前を向く。



 目の前には確実に攻撃を叩き付けようと、鬼気迫る空気を纏わせた一人の侍。



「――"氷戒"」



 男が刀を振りかぶると同時に呪を口にした。


 男の土俵では勝てはしない。ならば、今だけここを最北の氷地に変えて見せよう。



 呪文と共に冷気が闘技場内を支配する。



 一瞬で鎧を凍てつかせ、刀を凍らせ、全身の筋肉を凍えさせていく。



 男の歩みが刀が届く直前の位置で鈍った。


 自分の刀が、フェンの身に届く前に凍てつかせられる事を悟った男の額に皺が寄る。




 目は逸らしてはならない。のろまな自分に逸らす暇などありはしない。先に逸らしたのは男の方。それどころか、一瞬の内に男が視界から消えた。



 ふと、小さな影がフェンの足下を通過した。


 顔を上げると、男が懸命にはがしている腕に纏わり付く氷が、顔にぱらぱらと降り注ぐ。



「――"より鋭く"」



 宙を跨ぐ男の着地先、そこに剣が刃が一瞬で生い茂る。感覚は子供が一人は入れる程の隙間さえ無い。



「器用な真似を…!」



 鬱蒼と生い茂る氷の刃に、顔に嫌悪感、口に悪態が出るものの男の余裕は崩れない。一旦鞘に戻した刀を抜き様に着地地点に振り払った。


 男の周りの刃は刈り取られ、その刃を踏み砕きながら男は着地する。



 体にも鎧にも傷一つ無く、刀の一振りでは疲れすらないだろう。



 それも当然、攻撃はこれからなのだ。



「――"千刃の谷"」





 ミシッと、地面が悲鳴を上げた。


 

 男の背中にも先程の自分のように嫌な汗が走っているのが、表情から伝わってくる。



 何が起こるか分からない。理解できない。それが一番純粋な恐怖の形なのだから。



 もう呪は口にした。




 同時に。硬く鋭く、鋼鉄のように。


 そこら中に刃を生やした氷の大地が、本来の地面から引きはがれ、男を噛み砕かんとばかりにその顎を閉じ挟んだ。



 攻撃終わり。



 ふぅ、と一連の動作を追えて、ようやく疲れたようにフェンは一息付いた。





◆ ◆ ◆





『む、惨い…! 余りに惨いぞ、フェン・ラーヴェル! 誰だ試合前にあの子を心配してたのは! 俺じゃねぇか馬鹿野郎!』



 大衆の予想を裏切る展開に闘技場が沸いていた。


 訳の分からない事を口走る実況の声に賛同するわけではないが、心配していた人間はかなりの数がいたと思う。


 特別相性が良いとも思えない。



 思っていたよりもずっと、フェンは早足で進んでいたのだ。


 嬉しいのか寂しいのか分からない感情に、鼻の頭をかいて誤魔化した。



「……驚いたな。あやつ、思っていたよりも相当強いぞ」

「そうか? 俺は別に驚かないけどな」



 あいつがこっそりと強いのは自分だけが知っていた事だったが、これで周知のものになっただろう。



 これも、やはり少し寂しい。


 汚い独占欲の形だが、それでも、いやだからこそ喪失感は胸に残る。



「しかしな、これじゃ終わらんだろうのぅ」



 横で腕組みをしながら、レイが闘技場を覗き込む。



 未だその視線の先では動きはないが、まだあの氷の壁の間で、何かが時機を伺っているのが分かった。


 ここからでもその殺気の濃度は伝わってくる。それは、まるで息づいているようにさえ思えた。


 当然、一番近くにいるフェンも分かっているだろう。



 男に賭けていたのか、周りで数人がため息をつきながら頭を抱え込む中、敏感な人間は穴が開くほどに闘技場を注視している。



「知ってるのか? ビッグフット」

「聞いたことはあるが、訪ねたことはない。彼処はひどく腕が立つ者が多くての。余り羽も伸ばせんだろうと寄りもせなんだわ」

「……お前盗みとかやってたんじゃないだろうな」

「馬鹿を言え。悪漢を打ち倒して、日々の衣食住を賄っていただけじゃ」

「成る程な。兵士が優秀で治安が良いと食いっぱぐれると。…どこに行っても穀潰しだなお前」



 後頭部に走る衝撃。


 振り返ると、二メートル程ある椅子を持ったレイが青筋を浮かべている。



「……お前、これ普通は死ぬからな? あと言葉のないツッコミはただの暴力だ」



 奇妙なほどにこやかなレイの右腕が再び持ち上がる。もちろん椅子ごと。



「…すいません」



 ふん、と小さく鼻を鳴らすとそこらに椅子を放った。周りの奇異の目が面倒だが直ぐに闘技場に戻っていった。


 転がった椅子は後で戻しておくことにしよう。



「………微動だにせんとは。お前本当にどんな生き物じゃ」



 殴られた後頭部を軽く触ってなでるが、こぶさえ出来ていない。



 一億年の間に自分の体がどう変わってしまったのか、それとも九十九とのあの会話で何かが変わってしまったのか。


 それさえも分からない。

 

 しかし結果的に、この世界では重宝している。この平和な時代に俺の剣は災禍の起源にしかならない。


 元々使わないで良いように体を極限まで鍛えていたがそれでも人を外れるまではいかなかっただろう。


 外れたい訳では、なかったが。


 

 未だ動きがない闘技場からほんの少しだけ視線を上げて、闘技場から階段で続く上座に視線を移す。


 そこには初日から変わらず、古びた剣と憑物の牙から削り出された宝剣が飾られている。


 

 災禍の根源なのだ。


 それでも尚、あれを求めてしまうのは自分もまた災禍の種だからなのか、いや俺が持つからこそ災禍になり得るのか。


 

 それでも欲してしまうだろう。


 あれが自分以外の誰かの傍に在ることは許せない。


 誰かに譲ってもらうのでは納得できない。


 代わりに勝って貰うのでは承知できない。



 自分の力で、自分の勝利の果てにある物しか信用できない。欲しくない。


 そして、その障害になる物は打ち倒さなければならない。



 近しい者であるにしても、だ。



 だからこそ、強く成長しているのを確認するたびに、嬉しくそしてやはり寂しくなる。


 勝つことは難しくない。そして傷一つ付けずに勝つことも難しいことでは、なかった。


 しかし、これほど成長を遂げた人間を傷付けずに退ける事が出来るだろうか。



 手加減をして心を傷付けずに。暴虐を叩き付けてその命を削り取らぬように。



「……ま、何とかなるか」



 必要なのは力。自制心とあと一つ。



「それにしても、今回はそれ程騒がんかったのう。お主も成長したか」



 最後の一つも大丈夫。それは持っているつもりだ。例え一方通行であったとしても片方あれば十分。



「――信頼だよ」

「ふん、臭い事ばかりじゃなお前は、相変わらず」

 


 失笑するレイを傍目に闘技場に視線を戻す。



 とうとう飽和しそうな戦意に、観客達も当てられて闘技場に視線を縫い付けられている。


 そして、平穏を守っていた氷の壁に罅が入った。




◆ ◆ ◆




「――十二直、のぞくみつたいらさだん



 聞き覚えのある、しかしほんの少しだけ異なる単語の羅列。


 先程の意趣返しというわけではないだろう。しかし、未知という恐怖が否応なしにフェンを襲う。



「――"硬直"」



 硬く魔力を練り込んだ。密度の高い氷は時に鉄より硬くなる。鉄よりもとは言わないが、匹敵する程には作り出した。


 それでも、その壁を貫いて見覚えのある直刀が顔を出した。



 "硬直"。



 聞いただけで分かる。ただひたすらに強固さを追求した形の末。


 ガリガリと不快な音を立てながら、刀が氷の中を進んでいく。



 円を描くように一回りした刀はそこで一端形を潜めた。



 ゴトン、と力無く地面に倒れ込んだ氷の切れ端に嫌な想像が重なる。ゴリッと自分の姿を重ねていた氷が踏みつけられた。



「……やって、くれたな」



 流石に無傷ではないようで、後ろで一つに纏めた長髪の間から一筋の血が走っている。


 鎧にも所々に傷と凹みが見られ、決して無傷ではない。



 しかし、致命傷や厄介な傷は一つもない。頭の傷も目には入らない場所だし、四肢の付け根はしっかりと鋼が守っている。



 躱したのでも、防いだわけでもない。


 凌いだのだ。


 体に更に傷を増やしながらも。増やす事を厭いもせずに。



「不器用だろう? しかしこれでこれまでやってきたのでな」



 まるで己の恥をさらすように笑いながら、男が体の傷を見せびらかした。



「……出来ない事はやろうとしないで補うべき。恥だとは思わない」

「…成る程。お互い悩みは尽きぬようだ」



 衝突を控えた闘技場内で場違いな程に穏やかな会話が終わる。


 言葉を切ったのはフェンの方だったが、切らせたのは男の方。思わず笑ってしまいそうな程、分かり易く"切り替わった"。


 意志が殺気に。刀が兇器に。



 私は、それでも笑ってくれないだろうけれど。



 ならば杖を構えよう。


 元より、私に出来るのはこれだけだ。



「……受けてもいい。躱してもいい。しかし、死ぬのは勘弁してくれ」

「お互い様」



 深く息を吐き、軽く吸ったところで呼吸を止めた。



「――十二直。"のぞくみつたいらさだん"――"硬直"」



 口から出たのは先程耳にした硬化の呪文。


 一度しか見てはいないが真っ直ぐな呪文だ。効果の程も、言っては何だが知れている。



たつたいらとるひらく――"巨直こすぐ"」



 しかし、もう一つ。既知が重なり未知となる。


 そして、今度はそれが変化となって形になっていく。



 目に追えない速さではない。ずるずると這うような速さで刀身が伸びていく。


 対照的に、男は黙祷するように沈黙を守っている。


 今攻撃すれば、しかし瞬時に迎撃されて喉元に刃が迫る絵が頭に浮かび、躊躇を繰り返す。



鍛直うちなおし・大刀"緋々色金"」



 そして、変化が終わる。


 躊躇の後に選択したのは、とにかく距離をとる事。



 しかし、その大刀は際限なく成長を続け、最早近距離では視界に納める事さえ適わない。


 闘技場の中心に陣取る男が手を横に広げると、闘技場の壁に刃がガリガリと擦れて音を立てた。



 それ相応の重さは男の様子からは感じられないが、いとも簡単に削れる壁を見ると大きさに見合った重さを感じることも出来る。



 最悪は、重さはあるが男の負担にはならない場合。



 その場合、想像するまでも無くあの大刀は脅威だ。



「逃げる事はもう龍ですら適わぬ。屈強な男子ならもしくは受け止める事も可能やも知れん。――はてさて」



 その刃が届かない場所は既に闘技場内に存在しない。実質的に広い闘技場が僅かな間に刃の牢獄と化したのだ。



「か弱き御主はどう凌ぐ?」



 刃が振られた。



 折れる事も、曲がる事も、しなる事さえも知らない硬く直された刀身の先端は、音速を超え爆風と衝撃を生む。



 闘技場の外縁部を悉く灰燼と化しながら、小さな体に接近した――。





◆ ◆ ◆





 ユキネ。

 

 彼女は宝石だと思う。あの赤毛の王女もそうだ。



 磨けば光る。いや、磨くだけで光る物。


 このムサシという男は石。そして多分ハルユキも。



 しかし、ムサシもハルユキも、叩いて叩いて研ぎ澄まされて、今は宝石にも劣らない芸術性を伴った刃として完成している。




 では、自分はなんだろう。



 まず宝石ではない。そのような輝きは自分の何処にも存在しない。


 石でも岩でもありはしない。そのような強固さは自分の中に見たためしが無い。



 ならば何なのか。


 答えはそう難しいものではない。



 苦悩に俯き、落ちた視線の先。




 粘土だ。土で、砂で、泥だ。



 塗り固めて醜く形を変えていくしか能が無い。


 磨いても己の身を削るだけ。研ぎ澄ませても先端から力無くへたるだけ。



 ならどうすればこの身は輝くのか。


 どうすればこの身に価値が宿るのか。



 何かを形作ることは出来るかも知れない。


 しかし、贋作だ。


 嫌な匂いがいつまでも付き纏う。もしかすれば、塗り固めて塗り固めて出来たこの身もまた──。





 瞼の裏に映る。


 牙に貫かれて絶命する姿。地べたで人知れず命を散らす最後。ゴミのように折り重なったその上に捨てられる光景。



 この追想は。


 ふとした時に脳裏に浮かぶ時もあるし、悪夢のように眠りの中を支配する事もあった。




 自分で作り出した妄想猛々しいものなのか、それとも、未来の行く末を描き出しているのか。


 分からない。故に恐ろしい。





 でも、背ける事はしたくない。


 やる事はそうは変わらない。死ぬ気は無いのだ。


 

 いつか、自分の形を見出すまでは。



 諦めない。

 

 諦める事はできない。




 誓ったつもりだ。命を拾い上げられたその時に信頼に変えて誓ったのだ。



 諦めた振りはするなと。それが人生の秘訣だ、と。



 諦めたい時、いつもこの言葉が向けた背を縛り付けて逃がしてはくれない。


 きつくきつく縛られたこんな鎖でも、暖かい絆だと感じてしまう自分は、恐らく変なのだろう。



 そしてまた、底に沈んだ意識を人間臭い鎖が引っ張り上げていく。







◆ ◆ ◆






 重々しい音で体が揺れた。


 ほんの少し意識が遠のいていたようで、立ったままその音に身を竦ませる。



 厳つい鉄の二重壁。


 即興で作ったにしてはそれなりの強度を持った鉄の壁。その体を寄り掛からせていない方が地面に倒れこんだ音だった。


 あまりに急いだので、先端が縦横出鱈目に伸びていて、端の方は花弁が散るようにギザギザだ。



 中々趣きがあるなと偶然の産物に感心しながら、寄りかかっていた体を離す。



 「……っ…」



 左肩に激痛が走った。


 目をやれば、左腕が力なくぶら下がって少しでも腕を上げようとするとまた激痛が走る。



 どうやら、脱臼しているようだ。


 何しろ、体から遠い方の鉄壁が地面ごと持ち上げられ、もう一枚の壁に激突するほどの一撃だった。


 恐らく接触していた鉄の壁からの衝撃が、一瞬の記憶の空白とこの左肩の惨状を生み出したのだろう。



「不公平…」



 あれだけこちらは攻撃したと言うのに、相手は元気溌剌。直撃もしていない攻撃一回で、こちらは満身創痍。



「まだ、立っていたか」



 土煙の向こうに人影が見えたかと思った途端に、野太い声が聞こえてきた。


 その影は右手の先が不自然に伸びて視界の端に続いている。


 

 間を置かず、その不自然な影が再び持ち上がった。



「大したものだ。益々お主が男子だったらと思わずにいられない」

「…まだ、終わってない」

「……か弱き者よ。汝の名前は女なり、だ」



 残念そうに呟きながら持ち上がっていた刀が止まる。



 呟かれたのは、有名な戯曲の一台詞。



 間違いだとは思わない。腕力が平均的に男に劣っているのは事実だ。自分が例外的に剛力な訳でもない。


 それは確かに自分には無い物で、真似しようとしても偽物にしかならない。



「…でも、貴方に無いものを、私も持ってる」

「ならば、見せてくれ」



 それは別にはっきりと言えるものじゃないけれど。


 記憶だったり思い出だったり、嫌な思いだったり温かい手の平だったりで、ただ人それぞれで形が違うだけだけど。



 確かに、私だけの物だ。


 得てして、そういうものは力になってくれる。



 客席の入り口でじっとこちらを見守ってくれているハルユキに、微笑みかけようとして、やめた。今は何となく、笑えてしまいそうだったから。



「──"緋々色金"」

「──"氷晶結界"」



 限界まで圧縮した氷の壁を左側から180度。前方を通って重ねて展開。


 一撃では壊されないように幾重にも折り重ねた。何しろ弱い自分には工夫が要る。




 早速、目にも留まらぬ速さと衝撃波を伴って、兇刃が氷の壁を打ち付ける。数瞬で一枚目の氷の壁は形を崩し始め、欠片を空気に撒き散らす。


 間違いなく窮地である。勝利に導くのにそう選択肢があるわけでもない。



 だから。


 考え得る最高を選び得る最強を、選択し続けなければならない。



「──"氷岳"」



 男の足元に影が差す。


 視線を上げる男を見て覚悟を決めた。ここから先は止まることも許されない。




──《廻り廻る。季節は廻り世界は廻る》



 静かに、自分の中にだけ詠唱を響かせる。




 外界への準備も忘れない。


 程なく巨大な氷の巨槌が男の頭上に到来する。ともすれば氷山の一角だと言われても何ら可笑しくは無い。



「──"二連ツイン"」



 そして、その氷山の巨大な影の中にもう一つ。


 氷の鉄槌が姿を現す。



「……これは、また」



 驚きは一瞬。


 刀の動きも同時に止まった。



 瞬時に思考が廻ったのかそれとも本能が告げたのか。


 男は氷山に目もくれず、フェンに突進する。


 同時に刀が振りぬかれ、二枚目の壁が破砕する。残る氷は後一枚。




──《輪に加わりたいなら個を捨てよ。輪から外れたいなら理を捨てよ》



 しかし、もう流れは渡さない。フェンの頭の中にも勝利の絵は浮かんでいる。



「……っく…っぁ」



 左手に痛みが走り、杖を持つ右手が震えながら下がりだす。今までに無いほど一度に魔力を放出しているせいだ。


 しかし、杖を下げれば氷の壁も消え、勝利の芽は完全に摘まれてしまう。



 これを摘まれれば、負けは確定。


 指一本触れられずに、完勝する。その形しかフェンには描けない。



──《さすれば与えよう。元より全も一も渦の内》



 歯を食い縛って、詠唱を繋げる。



 瞬間。



 隕石でも飛来したかと言うほどの轟音が闘技場内に響いた。


 同時に壁を壊そうと荒れ狂っていた刃が動きを止める。


 しかし、もちろん隕石など存在していない。答えを導くかのように頬に当たるのは小さな氷の粒。




 今度は間違いなく本能が、男の身を前に投げ出させる。


 刹那、二つの氷山が男が居た空間を噛み砕いた。



──《廻り廻る。季節の中で世界の中で。それを感じたならば目を凝らせ》



 男にもう刀は振らせない。もうあと一撃で最後の壁は間違いなく崩れ去るだろうから。



「……怖いな、久しぶりに」



 最早災害ともいえる光景に、苦笑交じりに男が呟いた。知れず、男の頬に冷たいものが走る。



 何回目とも知れない氷の捨身の特攻が、男を両側から襲う。


 先程見た氷山だが二周りほど小さい。そこから導かれる答えを想像して、また身をかわす。



 最初の轟音でそれぞれ二つに分かれた氷が、二度に分けて男を襲った。


 そしてまた、氷が割れてその数を増やしていく。



 破砕音が三回なら氷の塊は全部で八つ。



 しかし、既に闘技場内に満ちて溢れるほど衝突音が満ちていた。



──《見つけたのならば、持って行け》



 氷は既に粉々。幾数百以上の氷が男の身を叩くがダメージは既に無い。


 しかし、脅威が無くなった攻撃も、何かの予兆として男に警戒を強制させる。


 あられよりも更に小さい氷の粒は最早指先で抓む事すら難しい。



 既に轟音の嵐も影を潜めて、木々のざわめきのような静かな音に成り代わっている。



「──"氷晶霧ダイヤモンドダスト"」



 視界が無い。聴覚もほとんど封じられている。


 この中で目覚める事があったなら、誰もここが町の中心だとは思えないだろう。



「これ、は…?」



 思わず頬を抓ってしまいそうな光景に、男は代わりに剣を強く握る。




──《その代償に示して顕せ。汝の僅かな一端を凝らせば良い》



 ──パチッ…



 そんな中、木々のざわめきとは程遠い音がした。


 最初は一度、次は続けて二度。



 加速度的にその間隔は狭まっていき、時折、閃きが二人の目を射す。


 黄色か紫か、神秘が宿るその色はまるで何か神聖な物を感じさせる。



 二度、三度。まるでどちらから喰らうか舌なめずりをしながら品定めをしているかのようだ。



「ぬ、ぁあああッ!」



 男の擦れた慟哭にもそれは耳を貸さない。


 しかし、その身を恐怖で縛られながらも男は刀を振った。柄を握った右手に今までとは違う感触が伝わる。



「させるか…!」



 辺りで爆ぜる何かを見ないようにフェンに接近した。


 氷の壁は砕けて結晶の群れに加わり、少女を守っているものは何も無い。



 迷わず、刀を振った。



 しかし。その剣が勝利に届く事は無く。



 小さな姿は、剣が触れた瞬間に揺ら揺らと空気に溶けた。



「蜃気、楼…!?」



 当然、守られた場所の中にいると思っていた。外は刃と氷の嵐なのだ。見つからないとしても、下手をすれば、気づかぬ間に勝負は終わる。


 か弱い少女は、ただの一瞬相手を欺くためだけに安全地帯を捨てていた。



「──狡賢いのも、諦めが悪いのも、女の方」



 トン、と呆けていた男の背中に、杖のような硬い感触。



 男が首だけで振り向けば、ローブの前面を泥で汚した少女が一人。




 氷の粒と粒が擦れ合い、その摩擦から更にその災害の起源が生まれては重なっていく。


 魔力から精製した不純な物ではない。その轟きも閃光も、純然たる自然の結晶。


 それが身動ぎする度に、床石が舞い上がり、粉砕され焼け焦がされ、塵芥になって消えていく。




──《この矮小な掌に、偉大な円環の一端を》




 詠唱はここまで。後はもう一言祝詞を紡ぐのみ。



「――"招致万雷"」



 その祝詞を待つそれは、魔力を贄にして神を召還したかのように。



神鳴の鉄槌(エル・トール)



 壁から壁に、地から天空に、天から大地に。何処までも縦横無尽に。



 紫電が暴虐の限りを尽くした。






「あ」



 自分の中の何かが尽きて、急速に瞼が重くなるのを感じる。


 閃光の暴虐が終わる前に、相手の剣士がどうなったか確認する前に、フェンは目の前の地面に倒れこんだ。


 気持ち良いほどに空っぽな中身。


 

 意識の終わりに、杖が地面にぶつかる音が、すぐ傍で聞こえた。


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