水面の上、青空の下、雲の横。
「ふむ、やはり珍しい能力じゃの」
放たれた水砲の軌跡を寸分違わずなぞって、更に大きさを増した白い水砲が、結界に激突し派手に闘技場中を揺らした。
「…間に合った」
上位文字に効果があるのかどうかは疑問だったが、何とかその効果を発揮できた。ほんの一握りの魔法だったが、あの魔法を跳ね返すには何とか事足りていたようだ。
「よし…」
最初の結びを何とか凌いで、体もようやく落ち着きを取り戻してきた。
ふよふよと緊張感無く浮かんでいるムイリオに向けて再び剣を構える。
慣れたのかそれとも緩んだのか、何にしろじっとこちらを無表情で見つめるムイリオに先程までの威圧感は感じない。
瞬きする間に、またしても水弾が練成される。馬鹿の一つ覚えだが、当たればひとたまりもないだろう。
「…取り合えず、続きじゃな」
返事の代わりに、浮いている水弾に向けて白い水弾を撃ち放った。
ほんの一握りほどの水だが、一つの例外も無く巨大な水弾を撃ち落していく。その全てを確認する直前にムイリオに向かって突進した。
幸いムイリオはまだ地上から手の届く所に、ふわふわと浮いている。あの歳で撃たれ強い事は無いだろうから一撃で決めることも出来るはずだ。
足元で水を跳ねさせながら、ムイリオへと直走る。
そして、ある程度近づいて、剣を振りかぶろうと柄に力を込めた、
瞬間。横からの衝撃に吹き飛ばされた。
「がっ…!」
ユキネを襲ったのは地面から、いや水面からと言ったほうが正しいほど水浸しになった足元から触手のように生えた水の鞭。
死角からの衝撃に一瞬視界が白く染まり、とっさに肩で防いだものの、体はそのまま宙に浮く。
下は水浸しだが流石に衝撃を吸収してくれるほどではない。何とか意識を引き戻し、しっかりと地面を見据えて着地すると、上半身を揺らしながらも再び中段に剣を構えた。
「ま、だ、まだ!」
「……」
流石に考えが甘過ぎた自分に喝を入れる。そう簡単に勝負を決められるはずも無い。こちらは格下。調子に乗ってしまっては一瞬で勝負を決められてしまう。
しかし通用しない事は無い。
このまま相手の魔法は無効化していき、隙を見て攻撃すれば。
と。そこまで思考が行き着いたところで、剣先のずっと先に浮いているムイリオが、額に皺を寄せている事に気付いた。
「…え?」
押しているのはこちらだと言ってもいい筈だ。しかし。この嫌に付き纏う不快感は一体何なのか。
威圧感ではない。ただ、まるでもうこちらの負けが宣告されているような。
堪えきれずに、先程反省したことも忘れて飛び出した。
「──面白いのはその能だけか」
足が止まったのは、その声が原因ではない。と言っても何か特別なことがあった訳でもない。
ただ、ムイリオの右の掌がこちらに向けられていただけ。ただそれだけの事が、意気って突き進んでいたユキネの前進を止めてしまった。
その老いて骨ばった左手が、途轍もない壁に見えた。越える事も、触れることすら出来ない、高すぎる壁。
「あ……」
悟った。
手加減されていた事に。手加減されて出来た虚像に手が届きそうだと勘違いしていた事に。
考えているよりもずっと、その壁は高くて遠い。
「──上がれ」
ここに来て初めて、ムイリオが動いた。
と言っても、ただ片手を少しだけ持ち上げて、ほんの一言詠唱を唱えただけ。
しかし生み出された結果の違いは劇的だった。
ぐん、と地面が持ち上がった。
いや、そうではない。
「こ、れ…」
持ち上がったのは嫌というほど撒き散らかせられた大量の水。今まで放たれた全ての水が、だ。
更に先程のように一纏まりではない。細かく大小様々に散りばめられた水が、そこら中で光を反射させている。
「そら」
人差し指がほんの少し折り曲がる。ほぼ同時に正面から水弾の嵐がユキネに殺到した。
続いて中指薬指と、順番にほんの僅かだけ時間差を付けて周りの水弾も後に続く。
とっさに水で壁を作る。しかし案の定、流石に背中を守れる時間も技量も足りていなかった。
無視できるレベルではない衝撃が、ユキネの背中に連続した。
「か…っは…!」
声にならない声と共に無理やり呼吸が口から絞り出された。水球の勢いは殺しきれず、地面に叩きつけられる。
しかしまだまだ周りに凶器は大量に浮かんでいる。季節は夏。更に闘技場内は既に水浸し。ほんの片手の一振りで、主導権ごと攻守を引っくり返された。
「…まぁ、正直失望した事は否めんが」
降り注ぎ続ける雨の弾を何とか凌ぎながら、その声を聞いた。
期待外れを予感している声に唇を噛み締めるが、完全に防ぐ事も出来ていない今、反撃など出来はしない。
防ぐと言っても、小さい上に数が多過ぎるため、ただ鎧が付いていない部分を剣で庇っているだけ。
体力疲労もダメージも着実に溜まっていく。
こんなに差があったのか、と心のどこかで小さく笑えた。
「そのまま、亀のように守っていれば状況が変わらんよ」
耳を貸す暇すらない。雨の弾の勢いは更に強くなっていっているようにも思える。
「儂は、空気中の水分すらも操れるのだぞ?」
退屈に業を煮やしたかのようにムイリオが呟いた。
弾が尽きることはない。そこら中から弾が生産され次第こちらに突貫してきているのだ。
そんな事は気付いているが、しかし、動くことが出来るわけでもない。動いた瞬間に水弾に蜂の巣にされて終わりだ。
「くぁッ…!」
成されるがままに雨足は最高潮を迎え、堪らずユキネは膝を突いた。
混乱する頭の中で、何とかこの状況から逃れる方法を模索して、思考が回る。
「う……ぁっ…」
先に体のほうが限界を迎えようとしていた頃、体中に逼迫していた衝撃が嘘のように止んだ。
完全に攻撃が止んだことを確認して、ユキネは困惑した顔を上げる。
既に闘技場は水で溢れていて、その中心で空中に居座っているはずのムイリオが、いつの間にか地面に降り立って冷めた目でこちらを見つめていた。
何のつもりかは分からないが、手の届く範囲まで降りてきたのはチャンス以外の何物でもない。
痛む体を立ち上げるが、それでもまだ足が言う事を聞かない。
「……期待しすぎていた面もあった。まだ戦えるようになって一年と言うところじゃないか?」
見下げられている。
力が劣っている事は認める。弱いと言われるのも慣れている。しかし期待を裏切ってしまったあの顔は慣れる事が出来ない。
口惜しさが更に足を震わせるが、結局睨み付ける事も出来なかった。
「それはいい。それはいいが、──その軽い面持ちはどういう事だ?」
優しい声は立ち消え、発する言葉の端々に険が混じり始める。
「これは闘いぞ。たとえ力があったとしても、いやある人間こそ徒に剣を取ってはならぬ」
手が振るわれ、今度は更に回転を加えられた巨大な水弾が空気を掘削しながらユキネに猛進した。
咄嗟に対抗して魔法を放つ。空気抵抗を弾き飛ばす水弾は、ユキネの体のすぐ近くで相殺された。
「お主は一回戦を勝って来たのじゃろう? お主は一つ以上の願いを摘み取ってここに居る。お主は、そやつ等が聞いて納得するような何かを持ってここに居るのか?」
言葉の端々に仄かな怒りを灯しながら、それに呼応するように水弾がその速さとを上げていく。
一つ、捌き切れずにユキネの髪を掠めて闘技場の壁に激突する。
すでに試合の最初の辺りに感じた殺気が、更に強く進化して復活していた。
「闘いを楽しみにきたのならまだいい。欲する物が戦いの中にあるのか戦いを越えた先にあるかだけの違いじゃ。…しかしお主にはそれも無い」
違う。そうじゃないと叫びたかった。しかし自分の中にそれを見つけられないのもまた事実。
「──ああ、成程。あの化生が惑わしたか。邪な類だとは思わんかったが、化生は化生か」
「レイを、そんな風に呼ぶな…!」
「そう呼ばせているのはお主じゃ。何も賭けていないからといってリスクが無いとは考えない方がいい」
「っ…うるさい!」
怒りに任せて、一気にムイリオへ接近する。未だ周りに浮かぶ細かな水球は反応しない。
結果、驚くほど容易く剣が届く範囲にまで入り込んだ。
そのまま勢いに任せて剣を振り下ろす。剣は水を纏っていて斬れはしないが、老体には痛恨の一撃に違いはない。
しかし、そう簡単に事が進むわけも無く。
その剣が届くことは無かった。
全力で振り下ろしたはずの剣は、無造作に上げられたムイリオの左腕に事も無く止められていた。
剣と手が接触したには余りに不自然な金属音を伴って。
「…何じゃ、それは」
服の切れ間から覗くのは鋼色の義手。振り下ろした剣はほんの数ミリ食い込んだ所で勢いを失っていた。
「近付きさえすれば、老体なんぞ如何にでもなると思うたか?」
フッとユキネの体が無重力に放り出される。
魔法ではない。ただ剣を支点に体の重心を崩され、投げられただけ。その速さからか熟練からか、ユキネからは一瞬で天地が入れ替わったようにしか思えなかった。
「──呵ァッ!!!」
ユキネの体が地面に着地する前に、覇気と共に打ち出された掌底が、鎧越しにユキネの体を打ちのめした。
再び義手と鎧が擦り合い、金属音が響き渡る。
続いて鎧を抜けて、ユキネの体にバラバラになりそうなほどの衝撃が浸透していく。
老人のものとは思えない怪力が、浮いたユキネの体の芯を叩いて、──吹き飛ばした。
ユキネの意識は未だ、剣を受け止められたところで止まっていた。
「…ぁ」
次に意識が現実に追いついたのは、地面を転がり、闘技場の硬い壁に、力無く背中を打ち付けてからだった。
「ぁ…っは…ぁ…!」
痛恨、いや致命的な一撃だった。鎧の防御力を貫通できる類の攻撃だったのか、ダメージは測るまでも無いほどに甚大。
息を全て吐き出してしまったせいか、喉からは妙な音だけが聞こえてくる。
呼吸を再開したいが、ユキネ自身には息を吸えばいいのか吐けばいいのかさえも分からない。錯乱する頭の中には苦悶と苦痛だけが渦巻いていて思考も上手く巡らない。
「お…ぇッ…!」
体中から酸素を求める危険信号が送られてくるが、目の前が暗くなっていくばかりで一向に苦しみが引くことは無い。
「終わったかの」
淡々とした遠い声を耳が捉える。
しかし、脳内には破裂しそうなほどの情報が充満していて、その声は脳に辿り着く前に無意識内に霧散した。
痛い。
痛い痛い。
痛い苦しい冷たい硬い辛い寂しい苦い暗い悔しい。
それは現実逃避なのか。この初めての感覚ではない。はて、どこでこんな感情を体験したかなどと、そんな思考が巡っている。
「──良い鎧じゃ。普通なら陥没ぐらいはしとるはずじゃが傷一つ付いておらんか。儂の義手も特製なんじゃがの」
パチャ、と水溜りを踏み抜く音が聞こえて来た。耳にではない。体中でその音が感じ取ることが出来る。
「まだ意識があるのなら、試合を降りなさい。まだお主には心も経験も足りていない」
虚ろな目に映るぼやけた視界に敵の姿が映る。
怖い。
脅すかのように振り上げられた右手が。
余りに無感動にこちらに殺気を向ける存在が、まるで違う生き物を見ているようで。
これも、この恐怖もまた、既知の物。
──ああ、思い出した。ただあの時は鎖に繋がれていたが。あの時も痛くて苦しくて寒くて寂しかった。
あの時はどうやって助かったのだったっけ。
もはや、戦意も、あるかどうか疑問だった自信も、粉々に砕かれている事を意識も遠く自覚する。
あの時どうしたかは思い出せないが問題は無い。
今はただ頭を垂れたまま、勝負を投げ出してしまえば良いだけだ。
「どうする? まだ意識があるようじゃから選択肢はそのまま目を瞑って力を抜くか、負けを宣告するか、剣を握り直すか。当然最後の選択なら儂もやるべき事が出来てしまうが」
考えようとせずとも、尚も頭が勝手に記憶をほじくり返す。
そうだ。
あれは、確か星も出ていない雲で覆われた底冷えする夜。
あの愚かな親子にボロボロにされて、慰み者にされる為に部屋に連れて行かれようとして、そして。
「──それとも、助けでも期待して泣き叫んでみるか?」
助けて、と呟いた。
自分の耳にも届かないような声だったのに、確かに届いたのだと思う。
「────、ぁあ」
また、助けを呼んでみようか。
辛いのは嫌だ。苦しいのは嫌いだ。痛いのは大嫌いだ。
だから、もしかしたらそれは間違った事なのかもしれないけれど。
もう一回、自分のためにあの人が怒ってくれるのなら、それも多分嬉しいと、感じてしまうから。
ああ、我ながら。
何て厭らしい。
だから、
だからハル。
どうか──。
◆ ◆ ◆
「落ち着けよ。これは試合じゃ」
「……分かってるよ」
「なら、取り合えずその拳は解いておけ」
大粒の雨に打ちのめされ続けているユキネをハルユキは最前列から見守っていた。
止めてくれ。と叫びたい衝動を抑えるのに理性の半分を使っていたと思う。何故こんな所で見ていなければいけないのかと腰を浮かしそうにもなった。
雨の弾が炸裂する度に喝采を上げる観客共の口を二度と開けないようにしてやろうかとも思った。
殺意も不安も、血が滴るほど拳を握り締めて、何とか抑え込んでいた。
もし。
万が一。
もしもの事があったなら。
あの老いぼれを、血祭りに上げてやると心に決めながら。
「…お主、本当に落ち着けよ…?」
「落ち着いてるさ」
漸く、雨の連撃が止み、闘技場に静けさが戻った。相変わらず鬱陶しい完成は耳に煩いままだが。
人知れず息をつく。
「歴然じゃな」
一人呟くレイの言葉に無言で肯定を示す。
無理だ。あれじゃ、10回やっても1回も勝てはしない。
だからどうか。
もし自分が親だったなら失格かも知れないが、どうか。
どうかこのままユキネが負けを認めるようにと。
そう願わずにいられなかった。
「──あ」
しかし、その願いは叶えられる事はなかった。無謀にユキネが突進して、力を受け流されて宙を舞う。
華奢な手足が力なくぶらんと宙に揺れる。
まるで玩具の様に。
「やめ…!」
吹き飛ばされた。
くるくると回転しながら。
まるでオモチャの様に。
その光景も音も遠い。
他人事のようにしか感じられない。
何よりもその事に耐えられ無かった。
既に、腰を上げていた。
「馬鹿が…!」
詰まらなそうに吐き捨てるレイを無視して歩を進める。
前にフェンが立ち塞がった。無言で見つめ合う。いや観察しているのだろうか。そしてハルユキが口を開こうとする前に、表情を変えないままフェンはハルユキの横に並んだ。
間を空けずに、闘技場との狭間の手摺に手を掛ける。
「駄目よ」
その腕を横から掴んで来た手があった。その手を負って顔に視線を向ければその先には、赤い髪に赤い瞳。
その瞳が少しだけ震えていた。
掴まれた腕を抑える力など苦にもせず、ノインの頭に手を運んで軽く力を入れると、ビクッと細い体が震えるのが伝わってくる。
「ハル…!!」
縋るような声と瞳。困らせたい訳ではない。泣かせたい訳でも、この萎らしい姿を見ていたいわけでもない。
だから、それをあやす様にクシャクシャと頭を軽く撫でた。
「勘違いすんな。別に暴れたりしねぇよ」
そんなつもりは毛頭無い。
あいつは俺の子供では決して無いし、あいつが戦うと決めたなら。
俺に出来る事なんて一つか二つ。
その中にお節介なんてものは決して含まれていない。
だから、常識を遥かに超える肺活量に任せて、全力で息を吸い込んだ。
◆ ◆ ◆
「ん…?」
ほんの少し顔を上げると、水面のせいか空が地面の下にもあるようで、真っ青な敷物など趣味が悪いかもしれないが、実際それはどこまでも幻想的だった。
少しだけ自分のどこかが落ち着いた気がした。。
右手を思い切り握り締めると、その中には無骨な鉄の感触。意地でも剣は離していない。
ならば。
助けなんて呼ばない。
そう、きっと。助けてと叫べばあの人は必ず助けに来てくれる。
でも戦う意思がないのならば、それはただ甘えているだけ。そんな事だから。
あの人は私を子供としてしか見てくれないんじゃないか──!
体を半分上げると同時に、鋼鉄の義手が躊躇無く襲ってきた。
「ぐッ…!」
思い切り手足に力を入れる。
酸素不足のせいか四肢は痺れていて、上手く力が伝わったかどうかは分からないが、取り合えず体は横に転がり、義手は地面と激突して轟音を立てる。
床石を粉々に粉砕した一撃は相変わらず老人のものとは思えない。
直ぐに立とうとすると、床石と共感でもしたのか鎧の中の腹部が先程の痛みを思い出して疼く。恐らく幾本かの肋骨に亀裂が走っているだろう。
結果、呼吸もまだ荒く、膝を上げることもまだできなかった。
苛立ち半分、困惑半分でムイリオが静かに此方を見据えている。
数秒そのまま膠着する。
もう体が動かないのだろう。それともそこまでする必要があるのか、とムイリオは今にも口に出しそうだ。
実際、どうなのだろう。
分からないけど、でも。
「──ユキネぇ!!!」
でも。
「────根性!! 見せろォオ!!!!!」
この距離からも、思わず耳を塞いでしまいそうな大音量で届いた愛しい声が、今度は励ましてくれているのなら。
「ぐぉ…ッ! あ、の小僧、何という声を…!!」
耳を塞ぐムイリオに対して、ユキネは剣を構える。
正直に言えば、かなり耳が痛いが、この声は聞いていたかったし、聞いていてやりたかった。
しっかりと息を吐いて同じ分だけ空気を肺に取り入れる。
更に少しだけ自由を取り戻した体を引き起こし、思い切り剣先をムイリオに突き付けた。
「……流石に、立ち上がれる程度の傷ではなかった筈だが…?」
理由。そんな物はただ単に。
「根性を、見せなきゃならなくなった…!」
片目はもう開かないのか、残る片目が大きく見開かれる。
「──ふははっ!」
しかし、次の瞬間には狂気を感じる程の笑みを取り戻していた。
いつの間にか両足の震えは収まっていて、肋骨の痛みも剣を振れる程度には回復していた。
見れば薄く、ほんの僅かに鎧が光の粒子を飛ばしている。
直感。
まだ戦える。剣を握れる。強くなれる。
前に、進める。
「ほんの少し、誤解しておった。──中々気持ちの良い連中じゃな」
観客席を見てカラカラと笑うムイリオの目線を追うと、周りの連中に物をぶつけられて、それを全て片手だけで弾き飛ばして喝采を浴びているハルユキが居た。
誰かやけに速く椅子を投げ付けていると思えば、その先にレイとジェミニがいて。
手摺から頭だけ出してこちらに小さく手を振っているフェンと、笑顔で大きく手を振っているシアがいる。
「──うん、皆良い奴だ」
「…成程。やはり感謝であっていたようじゃな」
「え…?」
「こちらの話じゃ、気にするな。そんな事より──」
スッとムイリオが宙に浮く。
「今度は退屈はさせてくれんのじゃろう?」
「…知らないね、そんな事」
「ふん、それで良い」
一度肩越しにハルユキのほうを見た。多分ハルユキもこちらを見ていたのだと思う。
負けるな、とハルユキの口が小さく動いた。負けないと前を向きながら声を出さずに口を動かした。
ハルは知っているのだろうか。
そんな声が、その声だけで。
私にどれだけ力を与えてくれるのか。
絶対に知らないな。言っていないのだから、知っているはずも無い。
だから、勝って、示して、会いに行って、お礼を言って、少し怒り直して、しっかり仲直りをしよう。
最初の一つ目。
こんな所で失敗できない。
「──では、心行くまで」
ムイリオが我慢できないと言わんばかりに言葉を漏らした。
同時に両手を天に向かって伸ばす。
──それは、指揮者を思わせた。
大きな入道雲を背に、優雅に手を振る。
呼応するように、再び地面が持ち上がり、闘技場内で精霊でも宿ったかのように霊水が踊る。
空中で跳ね回り、離合を繰り返し、くるくると形を変えながら闘技場の周りを加速しながら廻っている。
「──"賑やかにいこうじゃないか"」
まるで親しげに話しかけるように、祝詞を口にした。
是。
是是是是是是是是是是是是是是是是是是是是是是是是是是是是是是是是是是是是是是。
無数の魔水共が、肯定するように笑った気がした。
更に怒涛の如く回転数を増して行き、空気中の水分を絡め取っているのか、瞬く間にその総量を増していく。
それはまるで巨大な入道雲のように。揺蕩いながら、水の粒子が乱舞する。
不意に、指揮者が両手を掲げ局長を変えるかのように、その腕を振り下ろした。
直感に任せ剣を構える。考えるのは今ではない。今は今の最善を尽くすときだ。
飛来してきたのは、変わらず水弾。
しかしその数凡そ二百超。
四方八方から、勢いは殺さずに、その速さは弾の形を細長く楕円に変えてしまっている。
この数を裁くのは今の自分には不可能。ならば。
思考は一瞬。決断は刹那に。
相殺では敵わない。
詰められる限りの魔力を剣に集中。目の前まで迫った水弾に向かって、撃ち放った。
白い水弾が、只管に進行方向の水達を食らって肥大化していく。
一瞬後、ユキネが立っていた場所に、様々な角度から水の凶弾が炸裂し、地面を粉々に砕き割った。
「──見事!」
「…っく!」
白色の水弾の後を疾走し、その陰から飛び出したユキネの姿を、ムイリオは目聡く捉えていた。
その速さは驚嘆に値するもの。まるで重力を感じていないかのようだった。しかし、ムイリオは既に空中。必然的に地上に居る場合よりその姿が敵の目に晒される時間は長くなる。
ほんの一瞬だが、違いの程は途方も無い。
余裕を持って、振り下ろされた剣を義手で受け止めた。
先程よりもはるかに軽い一撃。それもそうだ、ユキネの足は空中に浮いている。
左腕を圧縮した水で包み込み標的を視認する。相手は空中。抵抗の仕様も無い。
しかし、容赦はしない。前足の親指の付け根の拇指に重心を乗せて、腕を引き絞った。
「──ぁああああああッ!!」
打ち出そうとした腕が無意識に止まる。
空中でいきなり、ユキネの体重が剣に乗った。
結果。
目の前で己の右腕が寸断された。
「ぬぅおッ…!?」
義手だ。痛みなどありはしない。しかし喪失感が一瞬体を強張らせた。
シッと空気を切り裂いて、鋼の具足で覆われた右足がムイリオの脳天を狙う。相手にも容赦は無い。
当然、これは只管に尋常なのだ。
ムイリオは興奮からか期待からか、自然と唇を吊り上げながら、"右腕"でそれを防いだ。
「な…ッ!?」
ユキネの口から驚きの声が飛び出た。先程切り捨てた筈の義手が当たり前のように存在していれば、それも当然だ。
鋼と鋼が一瞬だけ鍔迫り合い、両者共に同じ分だけ弾き飛ばした。
ユキネは空中に投げ出され、ムイリオも雲の上から弾き出される。
ほぼ同時に、地面に着地した。
「言ったじゃろ? 特製じゃと」
「特製…?」
半分破れた袖が引き千切られ、その腕が露になった。
余りに精巧な造りに息を呑みそうになる。恐らく上腕の中頃から義手になっているのだろう。僅かに覗く肘の関節部も、指の一つ一つさえ動きに本物と遜色は無い。寧ろ生々しささえ感じるほどだ。
その芸術的ともいえる義手と、更に対を成すような老いた手を、振り上げた。
「加護付加──」
当然、説明など何も口にしない。
刹那に交し合う理解と突破こそが戦いの醍醐味だろう、と。その三日月形の口端が語っている。
「──"投影"」
両手を掲げて指揮を振る。先程よりも荒々しく研ぎ澄ましながら。
ある一握りの水が薄く、また一つは厳つく形を変え、そして、次の瞬間にはそれが鈍色に色相を変えていく。
一つは短刀、或いは大剣。はたまた剛槌。苦無。矛。鎌。巨槍。棍棒。方天戟。
大小属地様々な武器が廻って踊る。
ただでさえ視界を覆うほどの武具は、青い水面にも浮かび上がり無言でユキネを威圧していた。
偶々近くに来ていた武器の一つを、警戒心から弾き飛ばすと、生じたのは確かな金属音。
無遠慮に空中を闊歩する武器達。その切っ先が全て自分に向いた事を想像して、いや、向いてしまう事を予感して、戦慄が走った。
「はッ──!!」
瞬時に水の魔力を放出して、ムイリオを急襲する。ほぼ同時に、スッと滑らかにムイリオの腕が振られた。
その行為で武具共が意思を手に入れたかのように。
ただ忠実に、ムイリオと魔法の間に割り込んだ。刹那、耳を劈くほどの金属音が響き渡る。
何の根拠があったわけではないが、やはり。白の魔法は、武具の壁に阻まれた。当然ムイリオの身には届いてはいないだろう。
「これだから、ボケておられぬのだよ!」
一瞬、鉄の壁にムイリオの姿を見失ったその瞬間に、ムイリオはユキネの背後にまで迫っていた。
しわがれていた筈の左手は厳つい篭手。
鋼の右腕には斬馬刀のような巨大な鉄剣。
何故これ程の速さと力を発揮できるのかは分からないが、とにかく現実はそこにある。
頭を働かせるのはそれを認識するまで。相手と交錯する際において思考は足枷。
後は今まで振ってきた剣と体が応えるだけだ。
薙ぎ払われる大剣に対し剣を斜めに構えて受け止める。
「ぬぉ…!」
巨大な刀身を、こちらの刀身で滑らせ足元に誘導し、鋼の具足でそれを受ける。ただで受ければ足が粉々だろう。
しかし鎧の強度に加えて、ほんの少しだけ体を浮かせれば、剣を支点、足を作用点に体は回転し、力は逃げる。
先程と変わらない速度で、天地が入れ替わる。しかしお互いの表情は真逆。ユキネは驚きに呆けるムイリオの顔をしっかりと目に捉えて。
剣を振り放った。
水で刃を保護した剣が脇陰に吸い込まれる。
しかし一瞬後、響いたのはまたしても金属音。左の篭手が身を呈してムイリオを守っていた。
弾かれる様に、ムイリオは地面に転がり、ユキネは剣を地面に突きたてて勢いを止めようとするが止めきれずに膝を突く。
まるで曲芸のようなやり取りに、背中で観客が沸いた。
「──ッ!」
顔を上げた瞬間、無骨な剣が数本ユキネに飛来していた。数は十三本。研ぎ澄まされていく感覚故かその全てを剣を振るうだけで事も無く防ぎきった。
「まさか接近戦で押し負けるとはの…!」
返答をしなかったのは、気まぐれではない。
「くそ…!」
返す余裕も無いほどに思考が巡っていた。
恐れていた事が現実になって目の前に。
全ての武具共がこちらに切っ先を向けて殺気を荒々しい向けていた。
「──さあ、そろそろ終演じゃ」
考えろ。
今まで使っていなかった分を全て使え。
模索しろ。
経験を能力を過去を手段を選択肢を。可能性を。
巡らせろ。
想像を自分の中にどこまでも──。
グッと楽曲の最後を締める様に、ムイリオがその手を硬く握り締めた。
水面に映ったせいで、その数何千にも見える血に飢えた凶器共が、標的に向かって、嬉々として殺到する。