闘技は進む
陽はもう大分傾いていた。
闘技場も、これまで最高の戦士達の名に恥じぬ激闘を繰り返してきたせいか、所々に小さな傷や凹凸が目立ち始めている。
もしも、一回戦ごとに会場の整備を行わなければ、もう地面の床石など跡形さえ残っていなかっただろう。
ある者は敗者として労いが贈られ、ある者は勝者として喝采を浴びる。
それを繰り返しに繰り返して、幾15回。
その煌びやかであり、また華やかであった"舞武"の一回戦の最後の試合が始まろうとしていた。
「…あれ? レイ?」
「ん? ああ、ユキネか。この頃よく顔を合わせるの」
ユキネが、何とか一回戦を勝利で終えて一息ついて、一回戦の最後の試合が始まると聞いたので客席に入ると、丁度出入り口の所にレイが壁に凭れ掛るように立っていた。
「暇じゃったからの。お主の試合も見とったぞ」
「……お粗末でした…」
「いや、全くのぅ」
カラカラとレイが笑う。
その笑顔を、不貞腐れたような恨みがましいような顔でユキネが睨みつけるが柳に風だった。
傍から見ていた分には接戦で面白かったかもしれないが、戦っている側からすれば冷や汗もの。あの鎧が無ければ負けていたかもしれない程に接戦だった。
「あれは泥仕合と言うんじゃよ」
「……むー…」
「はっは、むくれるな。お主の相手も中々の傑物であったし、まだ本調子でもないみたいだしの」
本調子ではない。
手前味噌だが確かにそれは自覚していた。レイと鍛錬している時より明らかに動きも反応も悪い。
「原因は何だ。…と言うより、そうか。まだ喧嘩しっぱなしだったか」
「別に…」
喧嘩しているわけではない。ただこの頃一言も言葉を交わしていないだけ。
「勝利に労いにでも行ってやれば、それで解決するだろうに」
「……」
行った。
行ったけど、先客がいて、入って行けなかった。
嫌に、距離が近く見えて、気が付いたら背中を向けていた。
今の心情を表すように、小さく風がユキネの横を通り抜けていった。冷たい感触に少しだけ身震いする。
風は粗方冷えてしまい、陽も斜方から弱々しくあたっているだけ。
しかし、それでも会場の熱気は冷めるどころか、興奮と闘いの残滓だけで一度も下がる事無く上がり続けていて、今まさに間違いなく最高潮に達そうとしていた。
『──さぁ』
やけに勿体付けたような声が闘技場に響いた。
同時に、会場の中で静けさが広がる。決して冷めたわけではない。どちらかといえば溜めたといった方が正しい。
空気が期待と羨望で膨らんでいく。
『さァさァさァ!! やって来ました一回戦最終戦! 混戦を極めた試合の数々だったが実質的にこれが主役だ! 実際この試合だけを見に来た野郎も少なくないだろ?』
会場の客席のある所から走る様に次々と何かが打ちあがり、祝砲のように激音を撒き散らす。
それに文句を言う人間もいなければ、気にしている人間すら居はしない。
会場の人間が見つめているのは東方の入り口のみ。
それ以外は、たとえ実況でも雑音であり、夕暮れ時の黄昏であってもただの風景に過ぎないと言うかのように。
『それでは、御出で下さい!! 我等が女帝!! 名実共に"舞武"の覇者!! ──ノイン・マド・トエルウル・オウズガルドッ!!!!』
爆発だった。
声が火種になり、熱狂が燃料になり、興奮が起爆剤となっていた。
爆発は爆発を呼び、声が反響する。反響してそれに声が乗っかって更に爆発していく。
そのはず、その名前はこの町この国に於いて、救世主とも言える名前なのだ。
強く、聡明で、美しい。
一つで人を魅了する物を三つ、ひょっとすれば更に幾つか兼ね備えているのだ。国民が陶酔しきるのも無理は無い。
しかし。
どこまでも続きそうだった歓声が、少しだけ遅れを覚えた。
理由としては、いつまでも役者が登場しない東方の入り口。次第に興奮が疑問に変わり、歓声がざわめきに変わっていく。
『……ここで残念なお知らせだ。どうやら我らが姫様が控え室に居ないらしい。このまま太陽が沈むまでに何の音沙汰も無かったら……待て待て待て待てぇ!?』
太陽の位置を確認しようとした男が、それを見つけて、興奮気味に声を荒げた。
ざわめきの中からその声を聞き取った人間がつられて空を見上げる。隣の人間が目を細めて空を見つめている事に気付いた人間もそれに習う。
そして大半の人間がそれに気付いた時にはそれが何か視認できる位置まで近付いて来ていた。
それは一匹の飛竜。
白銀の鱗の鎧に、たなびく艶やかな純白の糸のような毛並み。翼を広げれば四メートルはあるだろうと言う飛竜が静かに闘技場に降り立った。
その様相に獣染みたものは無く、むしろ気品さえ感じる様で頭を垂れた。
観客席からは一切音がしない。
それもそのはず、竜とはそもそも人間にとって脅威の存在であり、恐怖の象徴ですらある。
しかしそれにしても、悲鳴ぐらいはあるはずなのだ。
竜の背中に、待ち望んだ人物が乗ってさえいなければ。
「──ごめんなさい。寝過ごしてしまったわ」
静かな世界に、その声は不思議なほどに隅々までよく響いた。
そして、その静けさは、打ち壊される。
先程最高潮を迎えたと思われた歓声を確実に上回る程の、噴火のような大音量で。
比喩等ではなく、本当に闘技場が震えていた。
◆ ◆ ◆
「昼寝とはずいぶん余裕なことだ」
待たされた挙句、完全に忘れられていた事に苛立ちを覚えていた男の戦士が、大歓声の中、吐き捨てるように言った。
「それは本当にごめんなさい。この時期しかゆっくりできないからつい、ね」
そう言って、ノインは目を伏せるように謝罪した。
男は、笑う。
最早我慢ならんと言わんばかりに。
この会場の熱気に中てられているのは、決して観客だけではない。
止め処無く溢れ出る興奮を消費するにはもう、目の前の相手を屈服させるしか有り得ない。
『王女サマぁ! もう始めちまってもよろしいですかい?!』
声を出しても届かないので、ノインは笑って手を上げてその言葉を肯定した。
『──では、非常に恐縮だが、この私めが音頭を取らせて頂こう。どうかこの試合が尋常なるものでありますように。──では銅鑼を』
静かに告げられたのは開戦の予兆。
『──試合、開始ィ!!』
結論。
事は一瞬だった。
その姿はあまりの速さの中に隠れ、挙動の音は銅鑼と歓声の音に隠れていたのかもしれない。
結果として。
銅鑼がその体を震わせるのを止めた時には、既に闘技場には一人しか立っていなかった。
男がゆっくりと地面に倒れ込むの光景に観客は息を呑み、そのまま言葉を失う。
思い出したかのようにノインの居た場所に、炎の残滓が煌いた。
「確か、今大会で一番早く試合を終えた、最初のシキノ・ハルユキ選手」
またしても静寂が支配する空間に声が響く。
「宣戦布告。覚悟していなさい」
そう言って笑いながら、ノインは剣を鞘に納める。
観客が声を思い出したのは、それから数秒後。ノインが控え室に姿を消してからだった。
◆ ◆ ◆
地面を震わせるような歓声が連続していた。
それは余りに巨大すぎて、あれ程の大音量で発している実況の声さえも完全に隠れてしまっている。
もう最後の試合も終わり、この次に試合を控えても居ないにもかかわらず、だ。
「ほお、あちらは随分華やかに終わらせたのう」
「…悪かったな、粗末な試合で」
「いやいや、見応えではそう負けておらんかったぞ」
「……褒めてるのか、それ?」
「はっはっは、馬鹿にしておるに決まってるじゃろ」
「性悪め…」
思い切り非難がましい目をぶつけてみるが、暖簾に腕押し。まともに取り合おうともしない。
カラカラと笑いながら、レイが闘技所に背を向けてこちらを向いた。
「帰ってからまた鍛錬するぞ。それだけ元気なら大丈夫じゃろ」
「い、今から…?」
「お主から言い出した事じゃろうが。それとも教えてもらう側の都合で行うものなのか?」
「うー…」
「それにしても、……仕事ってのはどうしてああもストレスが溜まるんじゃろうな」
「ひ、ひとでなし…!」
「ひとではないしの」
悪戯の玩具を見つけたかのように笑いながら、レイがユキネの服の襟を掴んでズルズルと引きずって行った。
◆
「あいたたた……」
レイのしごきのせいで僅かに痛む腰を押さえながら、立ち上がった。
「それだけ若い時から、腰痛とは難儀じゃの」
「誰のせいだ」
「お前のせいじゃ」
思い切り腰を伸ばして、声と痛みのしこりを搾り出す。
「よし! 帰る!」
「元気じゃな。もう一回やっておくか? ん?」
「無理。明日も試合」
フン、と意地悪そうに笑うレイの背中に続いて、広場の出口に向かった。
「明日は、誰と戦うんじゃ?」
「んー…、どこかで聞いたような名前だったけど…、どこだったかな」
不意に、ピタッとレイの体が止まった。そのままレイにぶつかりそうになって慌ててユキネも歩を止める。
「レイどうかし…」
「止まれ」
言われなくても既に止まっている。しかし、レイの言葉が自分に向いていない事に直ぐに気づいた。
ユキネより頭半個分ほど高い場所に位置する黒目が、闇の先を見据えて静かに威嚇している。
「待て待て、怪しい者ではない」
「ならその下手糞な気配の消し方は態とだと言う事か?」
「下手糞…。これでも本気で隠れておったんじゃが…」
「稚拙に過ぎんわ」
その言葉に返事は返ってこず、代わりに右と左で聞こえが違う足音が近づいてきた。
レイも、相手に害意はないと判断したのか、その事に何か言う様子もない。
「…おお、漸く見つけたわぃ」
広場の入り口の方からしわがれた声が聞こえた。
殺気も敵意も無い、至って穏やかな声。
「こうして、改めて見るとやはり間違いないのぅ」
腰が途中まで折れ、近付いてくる足音は左右の音が違う。
薄い闇の中から、足から順に現れたのは、柔和でどこか疲れたような老人だった。
互いの顔が確認できる位置まで近付いて、その老人はユキネが困惑していることに薄く笑う。
「よし、ならば改めて自己紹介でもしようか」
その言葉が鍵にでもなったかのように、少しだけ老いが減った目の前の男の姿が、頭の中に蘇る。
「以前は仰々しい名が付いておったが、今はただのムイリオ・ラングリオと名乗っておる」
本当に優しく、申し訳無さそうに、そしてまた疲れたように笑った。
「本当に久方ぶりじゃ。生きておったようで何よりじゃよ。──スノウ王女」
ムイリオ。
思い出した。
確かあの王女の祖父で。
昨年の"舞武"の準優勝者で、そして。
次の対戦者の名前。
◆
「──いや、お主が王女だったとはな。流石に驚かされたわ」
ムイリオが広場を去った後、すぐ後に広場を出て宿へ帰るまでの道すがら、レイが溜息交じりに口を開いた。
「あ、別に隠してた訳じゃなくて…」
「そんな事を言いたい訳ではない。そんな事よりお主は明日の試合のことを考えなければならんのじゃないか?」
「…準、優勝者」
フン、と詰まらなそうにレイは鼻を鳴らすと、足を酒場のほうに向けた。
「まぁ、あの爺に勝てなければ少なくとも小僧と去年の優勝者には勝てんだろうの。せいぜいしっかりやれ」
「…言われなくても、やるさ」
何を思ったのか、愉快そうに笑うと、ヒラヒラと馬鹿にしたように手を振りながら酒場に入っていった。
宿と酒場はほぼ向かいの場所に位置している。少し小腹がすいた気もするので、酒場で何か腹に入れるのも良いし、もう少し魔法の練習もしたいところだ。
でも、責めている訳では決して無いが、少し昔を思い出して体が冷たい。風が寒い。布団に包まってしまいたい気持ちも捨てがたいのだ。
それに、明日も試合。それも相手は優勝候補筆頭の一人。間違いなく力も経験もこちらが下だ。
これ以上やると明日の試合に影響が出るだろうから、今日出来ることはあと頭の中で実践を繰り返すことがぐらいだが、そんな事でも今は没頭していたい。
「あ…」
何となく酒場に向けた視界の端に、すいすいと人混みをすり抜けながら酒場に入っていくハルユキを見つけた。
話しかけようかと思った。肩でも叩いて、笑って見せて一緒にご飯でも食べる。
簡単な事だった。
もう喧嘩している訳でもないし、挨拶ぐらいはする。
でも仲直りをしたわけではなかった。だから溝だけが残って、距離を感じるようになって、それで。
でも、後ろから赤毛の女の子が付いて来ているのを見つけて、結局足は動かなかった。
なぜか飛竜も一緒に付いて来ているので、人々が騒然としているが、今日の最後の試合で王女に懐いているのが広まっているのか、パニックにはならなそうだった。
やがて、翼を畳みながら来店した飛竜に酒場内が騒然となる気配が聞こえてきたが、すぐに笑い声に変わった。
「───邪魔な奴」
そして喧騒のどこからか、声が聞こえた。
ハッとして、直ぐに愕然とした。
その声が聞こえたことにではない。
その、嫌にジメジメした陰気な声が漏れたのが自分の口からだということにだ。
「……最低だ」
嫌悪感。
自分で気後れしているだけのくせに、人のせいにした。
無意識的に、自分の都合だけで邪魔な奴だと。
「……本当に最低だ、私は…!」
衝動的だったわけではない。
"現に今でもそう思ってしまっている"。
今悔いているのだってそうだ。申し訳ないなどではなく、ただそんな自分に嫌気が差しているだけ。
唇をきつく結んだまま、宿のほうに体ごと顔を向けた。
今日はもう寝よう。
真っ暗な毛布の中が今は一番恋しい。
◆
「マスター…。酒くれ」
余りに周りに迷惑だったのでマスター命令でレイがノインを連れ去った後、ハルユキは再びバーテーブルに腰を下ろしていた。
「まだ九時だぞ。また飲むのか。それにしても珍しく酔えてるな今日は」
「今日はもうあと寝るだけだからいいよ…」
いくら酒を飲んでも、普段は全く酔いなど回ってこないが、今日は散々飲みまくったせいか少しだけ頭の中が酩酊している。
俗に言うほろ酔いぐらいだが、ハルユキには新鮮な感覚だった。
「うーっす…。って何だこいつ何でこんな荒れてんだ?」
「キィラル。今日は遅かったな」
「ああ、ちょっとルウトのところに顔出してたからな」
マスターのラスクと言葉を交わしながら、キィラルがハルユキの横の席に腰を下ろした。
「あれか? またユキネちゃんか?」
「ああ、夕方頃に一回戦が終わったらしくてな。さり気無く祝ってさり気無く仲を修復する予定だったんだろ」
「それでまだ帰って来ないと」
「ああ」
ぶすっとした顔でまた酒を煽るハルユキを見て、キィラルは、体を震わせて、直ぐに吹き出した。
「だっはっはっは!! まぁだ喧嘩してんのかおい!」
喧嘩などしていない。
ただ仲直りとかそういった感じの事もやっていない。
だから、何か溝としこりだけ残ってしまったような中途半端な現状。
「父さん。明日の事なんだけど……ってどうしたのハルさん」
「女に振られて傷心中だってよ。ブフッ!」
「……おい、さっきから黙って聞いてりゃだいぶ好き勝手言ってんなぁ!!」
「お、っ! ま、待て…ギャアああ!!」
「一人で息子に会えなかったような親父が随分偉そうな事言うようになったじゃねぇかコラァア!!!」
「荒れてるね…」
「ああ、今日は酔い入ってるからな」
「オラァアア!!」
「ぎゃあああ!!」
「歩いて帰れるぐらいにしといてね。持って帰るの面倒だから」
「ルウトあとで家族会議な! そしてハルユキ! 分かったから! 俺が仲でも取り持ってやるから!」
「父さんじゃ無理でしょ。威厳ないし」
「ああ、そうだよな…」
「俺の威厳の無さで落ち着き取り戻してんじゃねぇ!!」
飽きたのかハルユキはポイっとキィラルを地面に投げ捨てた。
「おいこら待て、誑し野郎!!」
「うるせえ。帰る」
キィラルの罵声を無視しながら、ポケットから多目に硬貨を取り出して机の上に置いた。
お釣りがあるかも知れないが、それは今度来た時に飲んだ分にすればいい。
毎度あり、と常套句を述べるマスターの声を聞いて、出口へと向かった。
少し深刻二酔ってしまったようで少し足元がおぼつかない。しかし、出口から出て外気に当たると簡単に酔いは冷めていった。
今日は早めに毛布にもぐり込むとしよう。
◆
「おや、お帰りなさいムイリオ翁。ずいぶん楽しそうな顔をして、何か良い事でも?」
「おお、良い事と楽しみな事が一遍にやってきおった。長生きしてみるもんじゃのう」
「それはそれは」
ベッドに仰向けになったまま本を読んでいたガネットが、丁度読み終わったのか本に閉じて脇に置くと、ベッドに腰掛けた。
中々にひどい怪我だったため今日一日寝て過ごしていたせいか、ベッドの横には本の山が出来ている。
「恐らく明日帰ることになると思います。御計らいを無にしてしまい申し訳無かった」
「よいよい。まだアキラの奴がおるし、それも駄目だったら来年また試みるまでじゃ」
「来年…?」
本の山の中からまだ読んでいない本を探していたガネットの手が止まった。
「あの王女の想い人はどうするのです?」
「あれは駄目じゃ」
「……理由を聞いても?」
「あんな馬の骨にノインをやれるか、という所でどうじゃ?」
人を食ったような態度に、ガネットは溜息をついて再び本の探索に戻った。
歳の差か、この老獪から本当の話を聞きだすのは困難という推測からの判断だろう。
「全く、あの"仙人"ともあろう御方がそのような事を」
「……良くそんな事知っとるの、お主」
「多少調べればすぐに分かりますよ。不敗神話などというものも耳にしましたよ」
「残念ながらそれは実の息子に打ち破られたよ。老いじゃ、老い」
カラカラと皺くちゃな顔で笑いながら、ゆっくりとベッドに腰を下ろした。
「そう言えば、楽しみな事とは何だったのですか?」
「うむ、まぁ、もうもう一人の孫に再会した、という所かの」
「孫? 隠し子でも作っていたのですか?」
「阿呆。例えじゃ例え。知り合いの子じゃよ。今はまだ十五ぐらいか」
「紹介して下さい」
「絶対に教えない、絶対にじゃ」
言いながら片足を外して脇に置き、ベッドに寝転んだ。
実に健やかに、実に美しく成長してくれていた。
それだけでムイリオ自身の心が、ほんの僅かだが救われた。何もしてやれなかった罪悪感が少しだけ。
恐らくとしか言いようが無いが、あの若造のお陰だろう。
あれだけ小さな頃に、無力のまま放り出され、頼りになる大人達を全て殺されて。
絶望の淵に立たされたはずだ。命の危機にもあったはずだ。
それなのに、よくも、よくぞ、本当に。
年甲斐も無く瞼が熱くなってきて、薄く笑って誤魔化す。
似たような境遇でもノインには、ガララドがいたミスラがいた。遅ればせながらもムイリオ自身もいてやったつもりだ。
そして何より力があった。それはあれの中で確固たる自分として支えてくれていた事だろう。
この頃はノインもまた変わっていたようだが、それもまたあの若造だろう。
助けて、支えになって、護ってきた。
あの子の傍に、あのような人物が居てくれた事を。これだけは本当に感謝したい。
魔法もいつの間にか使えるようになって、美しく健やかにそして強く。
そして何より、あの奔放な母親によく似ていた。
あれを初めて見た時には、魂を抜かれたかと錯覚した。何処か禁忌を感じるほどに神聖な美しさ。思い浮かべるだけで脳裏に蘇える。
中身とのギャップに大笑いした事もしっかりと覚えているが。
「まぁ、うちの婆さんには負けるがの」
「……ボケましたか?」
義足を投げつけて黙らせると、明日の試合を夢想する。
楽しみで仕方が無い。
昔、初めてノインと決勝で当たった時とよく似た心境だった。
◆ ◆ ◆
『二回戦 第一試合 ムイリオ・ラングリオ選手 vs ユキネ選手』
先に鎧と剣を装備して、闘技場内に足を踏み入れた。
一回戦がハルユキ達側からだったので、今度は逆ブロックから二回戦は始まる。
『さぁ、前評判ナンバー2! 妖怪爺こと、ムイリオ・ラングリオ! しかし昨年は孫にこっ酷くやられ、弱冠涙を誘う78歳! 言わずともがな大会最年長!』
反響する声に、会場が笑いを伴いながら沸いていく。しかし、目の前のムイリオは当然しかめっ面だった。
「好き勝手言いおって。…まぁ、あの爺不孝者にやられたのは確かじゃが」
「…いや、なんと言っていいか…」
「…何を哀れんでおる。お主もこれ位の時には髪の毛を一方的に毟る仲だったんじゃぞ」
「いや、それは知りませんけど…」
さわさわと頭頂部を気にしている所をみると、毟っていたのはユキネの方だということらしい。
何度かユキネの国にも訪問していたらしいが、この国が傾くよりずっと前の話なので、おそらくユキネが5,6歳頃の話だろう。
ユキネの父親と個人的に付き合いが合って、助けが送れなかった事を聞かされた。
しかし、反乱と言ってもほぼ数日での国盗り劇だったので実際は余り関係が無い。同盟関係でもなかった。それに気持ちだけでも嬉しい、と。
そこまで言って、漸く顔を上げてくれたのが昨日の話。
「少しよろしいか?」
「え?」
楽しそうに破顔していた顔に、少しだけ影が差した気がした。
「あのハルユキとかいう奴はどのような人間なのかの?」
「ハルユキ…?」
「孫の想い人じゃ。気にもする」
「…それ、は」
どんな人間か。以前の自分なら多分淀みも無く答えていた。強くて、時々は優しい人間だと。
しかし、今はよく分からなくなった。強いのも優しいのも多分変わらない。でも、知らない部分が余りに多過ぎて、それぐらい知らないのかも分からない。
まだ自分が見ていない部分が本質かもしれないのだ。
「…そんなの、自分の孫に聞けば良い、じゃないですか」
「ふむ、第三者の意見を聞きたかったのだが。まぁ確かにスノウ姫には関係の無い話題だったか」
「今は、ユキネ、だから」
「失礼ユキネ殿。──顔見知りの子を打ちのめすのは気が引けておったが、すまんの。やはり負けるわけにはいかないようじゃ」
余計な御喋りはここまでだ、と殆ど塞がってしまってほんの僅かしか見る事ができない瞳が語っていた。
後は銅鑼が鳴れば、試合が始まる。
「何の関係が…?」
問い返すユキネの言葉は小さかったがそれでも決して聞こえないようなものではなかった。
それでも既に、闘いに身を投じ始めたムイリオには届いていないのか。
ユキネももうこれ以上口を開かずに、剣を体の前に差し出した。
グッと剣に力を入れる。
剣先の、更に先でこちらを見据えるムイリオと目が合った。
「──親側としてはやはり、娘や孫の想い人は大嫌いなものじゃろ?」
どうやら聞こえていなかった訳ではなかったらしい。それを機に、柔和な部分が顔から消え失せる。
「では、尋常に」
顔見知りを打ちのめすのは気が引ける。確かにそう言っていたが、絶対に嘘だと確信した。
嬉々として、口を三日月形に歪ませたその顔に好戦色以外の感情が見られない。
この爺にして、あの孫有りだ。
「──推して参る」
一瞬で空気の種類が変わる。同時に頬を冷たい汗が流れ落ちた。
それに合わせたかのように、荒々しく銅鑼が重低音を響かせる。
一瞬でピン、と空気が張り詰めた。
この気温ごと体温を引き下げられたかのような感覚。
叩き付けるように、打ちのめすように、相手の意思と殺気がぶつかってくる。
相手は自分の何を感じているのだろうか、と一回戦の時はそう感じた。
だが今そんな事を考える余裕は、とてもじゃないが存在しなかった。
「準、優勝者…!」
始まって数秒で、今までの認識が甘かったことを自覚させられた。
逃げ出しそうになる体を落ち着かせる。
ぎりぎりと張り詰めた糸が悲鳴を上げるかのように、更に更に更に空気が引き絞られていく。
もし殺気という物が目に映るというのならば今は闘技場中に迸っている事だろう。
恐怖が体中を走り回る。
目を逸らしたいが、間違いなく逸らした瞬間に致命的な負傷をお見舞いされる。
不意に。
ズッと、足を引き摺る様にしてムイリオが前に出た。まるで、周りの空気さえも一緒に引き摺るかのように印象強く。
気付けば同じ分だけ、足を下がらせていた。
その事に驚いて反射的にほんの僅かだけ視線を下げた。
それは。
致命的な隙だったはずだ。
「──あまり」
細く弱い乾いた声にユキネは肩を全力で跳ねさせた。
「小細工というのは好きではない。まあ、血筋かの」
隙を突いてユキネに飛来したのは攻撃でも殺気でもなく、この空気の中には余りにも似つかわしくない何処か困ったような声。
いきなり、すとん、とムイリオがその場に"腰掛けた"。
「やはり、立って戦うのはちと辛いな。何時も通り行くとしよう」
フッとそのままムイリオが宙に浮く。
「"雲"。儂の能力じゃよ。昨日少し鍛錬を覗いてしまったのでな。これでお相子じゃ」
「…上位文字」
「知っておるか。手前味噌で申し訳ないが、これは中々厄介な能力じゃぞ?」
突然、宙に水が凝縮された。もっと言えば空気中の水蒸気が水に"凝縮"された。
手を動かしてもいない。目線を動かしたわけでもない。何の前触れも無しに水が突然ムイリオの両隣に生成された。
ただ爆発的に規模と温度を広げる"炎"とは違い、"雲"は空気中のありとあらゆる水分まで操る。それが"雲"の基本的な力。
何故腰掛けていられるのかは分からないが、そこは何かからくりがあるのだろう。
しかし形成速度と水球の大きさが尋常ではない。直径5mはあるだろうが、恐らくこの大きさを成したのは並外れた集中力の賜物だろう。
それこそ、生成されたというよりは忽然と現れたといった方が近い程だ。
「ノインの時は根こそぎ蒸発させられたが、──さてどう防いでくれる?」
やっと体が動く事を忘れていた事を、頭が思い出した。
その隙を今度は見逃してくれず、またしても予備動作無しでムイリオが動いた。
ぐん、とその形を楕円形に変えながら水球がユキネに迫る。
「くっ…!」
数は二つ。ユキネに当たらない様に両脇に打ち出されたのは優しさからではない。
そのままここに居た所で余波で体が押し潰される。当然左右にも避けられない。
一瞬で思考が駆け巡り、足が前に進んだ。
所詮はただの水の塊。直接的な殺傷能力はさほど高くない。
しかしこの量、更に速さまで加われば、破壊力は普通など容易に外れていく。
間一髪で、水球の隙間に頭から飛び込んだ。
一瞬後、後ろで爆発音が響いて、余波がユキネの体を襲う。
床石が砕け散り、その破片と振動が地面を伝ってユキネまで届く。。
幸運にも鎧のお陰でダメージは無い。
しかし。
目の前で愉快そうに笑うムイリオを見れば気など抜ける暇も無かった。
「それ、もう一つ」
罠。
簡単な誘い出しだ。だが、考える時間など無かった。
軽い口調に誘われるように先程の水球を一つにしたような巨大な水球が現れ、今度は一瞬も間を空けずに、一直線にユキネに叩きつけられた。