万売り
チチチチ…。と。
中々に優雅な小鳥の囀りで、目を覚ました。
まるで小説の一節のようだと自分で思って、自分で嫌になり顔をしかめる。
頭を振って眠気を追い払いながら体を起こす。すぐ傍の窓の外では既に喧騒が復活していた。
まどろむ目でしばらく誰もいない部屋を眺めていると、昨日の記憶が途中で無くなっている事に気付いた。
眠気を噛み殺しながら記憶をほじくり返すが、レイと喧嘩になって二回目の鍛錬の後の事がどうしても思い出せない。
代わりに胃が空腹を思い出したようなので、諦めて顔を上げる。
するとそれを待っていたかのように扉が開いて誰かが入ってきた。
「………………起きておったか、ユキネ」
「…何だその間は?」
ユキネの言葉に全く耳を貸さない唯我独尊ぶりでずかずかとユキネに歩み寄ると、捲くし立てるように言葉を発した。
「行くぞ。準備しろ」
「え?」
どこに? 何をしに? と聞き返す前にレイの体がユキネを引っ張り上げた。
「何を不思議そうな顔をしておる」
不思議そうな顔でレイがユキネの様子に疑問を呈した。
「まさか、知らんのか?」
「何を?」
「兵士に説明された、と聞いておったが?」
兵士に説明。
そう言えば、昨日闘技場に出る前に何か言われたような気がするが、あの時は上の空だったので、会話の内容が欠片も頭に残っていない。
頭を抱えるユキネの様子に一つ溜め息をつくとレイが呆れたように半開きの目でユキネを見据えた。
「敗者復活戦じゃ」
「──え?」
「予選方法のせいで、毎年必ずと言っていいほど発生する事態らしいの。だから明日からが本戦なんじゃろ」
敗者、復活。
「運良く、お前の試合の勝者が、今朝方怪我が酷くての。棄権したそうじゃ」
それは当然、もう一度剣を持って戦うという事。
少しだけ体が竦んだのが分かった。
「…でも、私は」
「うるさい」
ユキネの言葉をレイがもの凄く不機嫌な声で遮った。
「レイ…?」
「ここを見ろ」
困惑するユキネに見せ付けるように、レイは右手で自分の首筋を指差した。
何事かと、その場所に目を凝らすと、顎に隠れて何か白いものが見え隠れしていた。
「絆創膏…?」
「昨日の鍛錬の十二本目でお主の剣の腹が思い切り打ち付けた跡じゃ」
「…すまん。覚えてない」
どうやら怪我をさせてしまっていたらしい。
しかし、それはつまり一本取れたという事だと気付き、申し訳無さと更に驚きも大きくなっていく。
しかしやはり申し訳無さが先行していた。
何しろそのこと自体覚えていないのだ。謝るにしても誠実さに欠ける…。
「まあ、その後思いっきりジャーマン極めたがの」
「お前のせいかッ!!」
道理で後頭部が痛むはず。
ジャーマンを極めた時の事を思い出したのか少しだけ気が晴れた顔を見せたが、直ぐにその顔が不機嫌になっていく。
「つまり、儂から一本取ったお主が予選落ちなぞ許されんわけじゃ、分かるな」
「いや、微妙だろ、それは…」
理不尽に抵抗するユキネを無視して、レイは懐から何かを取り出した。
「ほれ、持って行け。失くすなよ」
失くすなと言った割には、ぞんざいにユキネにそれを放った。
放物線を描きながら、ユキネの元に付くまでに、陽を浴びてきらきらと光を反射させていた。
「指輪…?」
ユキネの手の中に吸い込まれるように収まったのは、一つの小さな指輪。
白金色のリングに、米粒ほどの小さな青い宝石が慎ましく煌めいている。
「こんな物、どうやって手に入れたんだか…」
「え…?」
「いいから、それに意識を集中しながら何でもいいから念じろ。装着とか変身とか。何だったらポーズでも決めてみるか?」
「…?」
疑問が大量に残ったままだが、とりあえず言われた通りに、右手に意識を集中した。当然ポーズなど決めない。
そして。
「────…」
ほんの一瞬だけ視界が白く染まり、直ぐに世界が戻った。
いきなりの光の明滅だったが、不思議と目に閃光の残滓は残っていない。
何だったのかと、辺りを見渡して、にやけるレイの視線に気付いて、それを目で追って。
そして、気付いた。
「…! うわぁ…」
最初に見えたのは白金色の胴当て。この間の無骨な鎧とは違い、流麗で落ち着いた雰囲気が滲み出ている。
恐らく同じ素材で両手に篭手も付いている。
その下は白と青を基調とした戦衣になっていて、ふちは金色に刺繍されていてどこか誇り高さを醸し出しているようだ。
そして何と言っても、特筆すべきはその軽さ。
今ユキネは、"鎧を着ている"のだ。それに直ぐには気付けないほどの、一体感と質量は最早異常だといってもいい。
羽のようだ。
この鎧よりこの言葉が似合うものもそうないだろう。
「…やはりこれは、現存の物ではないのか?」
レイが真剣な視線と声を感じる。ユキネも普通の素材でないことぐらいはレイの様子からも察することが出来た。
「こ、これ…?」
「…お前の物じゃよ。貰っておけ」
レイの言葉にほとんど呆気にとられながら、おろおろと部屋を見渡した後、部屋の隅に設置されている鏡の元に走った。
「……似合っとるの、お主」
「そ、そうか?」
満更でもない表情で、ユキネは体を半回転させると、戦意の裾が規則正しくひらめきまた慎ましく元の形に戻る。
少しだけ、顔が綻んだ。
「満足したならさっさと行け」
レイの声で思い出し、ほんの少しだけ鎧が重くなる。
いかに煌びやかだろうが、いくら冷淡な美しさを誇ろうが、これは鎧。戦うための、道具。
先程まであれ程輝いて見えた鏡の向こうが、たちどころに曇っていく。
負ける事ももちろん怖い。怪我をすることだって怖い。
しかしそれ以上に。
全力で頑張ってみて、自分の可能性を全て使って、それで欲しいものまで届かなかったら。
自分がハルユキに、そして、ノインに。
決して届かないという事を確認してしまうのが怖い。
その怖さを覆して体を動かすものが、何もないのだ。
「何も無いのが、何も見えないのがそんなに怖いか」
滲み出して、吹き溜まって、腐りそうだったそれを、レイが掬った。
簡単じゃ、と見下すように笑いながら言葉を繋げて、レイが更に言葉を続ける。
「今いる場所から何も見つからないなら、移動すれば良い」
下を向くユキネの体が震えようが、例え膝から崩れ落ちようが、若しくは例え泣き叫んだとしても、レイは言葉を止めない。
「何も考えずに動けばいいじゃろうか。そんな事出来るのは若いうちだけじゃぞ」
ごん、と不器用な手つきでユキネの額を小突いた。
「──行け」
強い、押し流すような口調。
心は決まらない。
でも体の方がもう動きそうだった。
強い、押し流すような口調に背中を押されたせいで。
どこまで子供なんだ、私は。とまた自分が嫌になる。
顔は上がらない。
それなら、俯いたままでいい。
ただ少しだけ足を進めればいい。
優しさの使い方がへたくそな仲間に、ここまでさせて動かないわけにはいかない。
今は、その作ってもらった理由で、前に進める。
「ごめん。行ってくる」
「ダッシュで行け」
部屋から出て行くユキネを最後まで見送る事無く、レイはベッドに座り込んだ。
「全く世話の焼ける…」
そして盛大に溜め息をついて、何となく退屈を感じた。自分も参加すれば良かったと、ほんの少し後悔する。
「あの指輪…」
間違いなく、今手に入るようなものではない。
使われている素材に見覚えすらないのだ。いや更に言えば800年の生の中でさえ見たことがない。
しかし、あまり不思議だと思ってはいない自分が居た。何しろ。
入手元が入手元だ。
「運が良い奴じゃの…」
あの黒髪の馬鹿は全く。
◆ ◆ ◆
「駄目だな…。これじゃ」
五軒目の防具屋の鎧を一通り見終えて、ハルユキは焦ったように舌打ちをした。
これでは重過ぎる。最初の鎧と何も代わりはしない。
予選を自動小銃を8丁使って二十秒で終わらせたのは良いとして、それでも時間が足りなかった。
祭りの途中で店の閉店が遅れていなかったら、この店にも間に合わなかっただろう。
この店に来る前の二つの店はもう店じまいを終えていた。
ならばもう町中回っても、開いている店など皆無に近いだろう。この店が見つかった事でさえ僥倖だったのだ。
しかし、結果としてここに望みの物はなかった。
外に出てすぐ月の高さを確認する。
もう一度舌打ちをして、走り出した。
「……ここも駄目か」
完全に閉まっている雨戸の前で溜め息をついた。
看板にはいかにもそれらしい模様が描かれているものの、開いていないのではどうしようもない。
さて、どうするか。
もうこれ以上走り回っても開いている店は無いだろう。
何しろもう日付が変わった後だ。しかしそれでも何とかしなければならない。
夜にもかかわらずほとんど減らない人通りをみて、屋根の上から行くかと、一旦道の端に避けてから足に力をこめた。
「…もし、そこのお方」
もはや壁と言っても過言ではない程の雑踏の中から、声が聞こえた。
声には殺気も敵意も無い。ゆっくりとそちらを向くと、そこに居たのは小さい籠を背負った行商人。
その男大通りから外れるための裏通りに紛れ込むように、こちらをじっと見つめていた。
「もしや、武具でもお探しでしょうか?」
薄い。薄すぎる。
その男を見て、ただそう感じた。
背丈はおよそ160cmほど。頭には大きな編み笠を被っていて、良く顔は見えない。
声はなんとか男だと分かるほど程の特徴しかなく、大人なのか老人なのかさえ見当が付かない。
ここから見た限りでは、営業用の笑みを施した唇の端しか見ることはできない。
それ以外に、印象というものが何一つとして見受けられない。
「もし、お客人」
「…ああ、悪い」
しかし、先程言ったように敵意は一切感じられない。
男の声で我に帰ると、短く答えてこちらから男に歩み寄った。
「それで、防具はあるか?」
「はい、一品だけでございますが」
そう言うと、男は"懐"から何かを取り出した。もったいぶる様にそれを拳で隠したままハルユキの前に差し出す。
「…いや、俺は防具を」
そう伝え直しても、男は固めたかのように腕を動かさない。
防具が、もしくは防具に匹敵するものがこの中にあるんだろうか。
その疑問を感じ取ったのか、解答代わりに右手が開いた。
「……指輪、か?」
行商人の割に綺麗な手の中に納まっていたのは、小さな指輪。
銀色のリングに深い光を放つ青い宝石が嵌っている。
「魔装具の一つでございます」
防具ではない。その小さな身では指一本守ることは出来ないだろう。
しかし、どこか威厳のようなものがハルユキの周りの空気にまで漂ってきている気がした。
「ここで指輪の真意をお見せしたい所ですが、これは女性の方がいなければ使えません」
大した値段で無いならここで購入しても問題はない。しかし恐らくそう安い物ではない事ぐらいは察していた。
どうするかと、周りを見渡すと見知った顔が二つ。
屋根の上を滑る様に移動していた。
「…ちょっと待っててくれ」
その影は物凄い速さで屋根を伝い、町の入り組んだ方向へと向かっていく。
しかし、ハルユキが思い切り地面を蹴り全力でそれを追いかけると、数秒後にはその影に追いついていた。
「のわッ!?」
説明するのも面倒で、目の前のレイを腰から担ぎ上げるとそのまま一跳びで商人の元まで戻った。
「……お主いい加減にせんと、しばき倒すぞ…」
「悪い。急ぎだ」
謝罪の念をこめて、気持ちゆっくりとレイを地面に下ろす。
そこで初めて後ろのユキネが気絶している事に気付いた。
「…おい」
「怒るな。尋常なる勝負の上じゃ」
「明日試合があるかもしれないんだぞ、こいつ」
「何? 負けたと聞いたが?」
「誰に」
「ジェミニと、その小娘自身に」
「敗者復活があるかもしれないってのは?」
「…聞いてないな」
…この馬鹿。
どうやら、いやどう考えても、兵士の説明を聞いていなかったのか。
そうでなければ、わざわざ前日の夜中に"尋常なる"仕合いなどするはずがない。
「怪我は?」
「あー…、たんこぶ一つ」
「…まぁ、大丈夫か」
暢気に小さく寝息を立てているユキネの頭を、そっと撫でる。文字通り腫れ物に触れるように。
確かに少しだけ腫れてはいるが、その他に変わったところもないし、寝顔も安らかで幸せそうだ。
少しだけ乱れた金糸の髪を撫で付ける。柔らかくて温かい。まるで髪の先まで血が通っているようだった。
「おや、これは血の姫君。お久しぶりです」
その声で、目的を思い出し、ユキネの髪から手を離した。
「…万売りぃ? 何じゃこんな所で」
「この城に届け物が。それに私も商人の端くれですので。商人は人の多いところに寄って行くものです」
「あんな森中に来ていた奴がよく言うわ」
「あの家は昔からの御得意様ですから」
改めて笠を手で引き下げ、レイに向かって一礼した。
「知り合いなのか…?」
「前に言わんかったか? イサンの家まで食料やら何やらを運んでくる業者が居ると。それがこやつじゃ」
「以後お見知りおきを。万売りなどをやらせて頂いております」
先程と同じように笠を下げて、ハルユキにも一礼する。
「それで買うのはこの指輪かの?」
「はい、こちら"防具"となっております。しかしこのまま指に嵌めて楽しむだけの物ではありません。使い方があります」
「使い方?」
「はい、此方は女性の方しか使えない仕様になっておりまして…」
「それで、品質確認のために儂を攫った訳か…」
「はい、それではすみませんがこちらを」
献上するように両手の上にのせた指輪をレイの方に差し出した。
それを数秒見つめた後、フンと鼻を鳴らして指輪を手に取り、一言二言万売りと言葉を交わす。
「小僧、金を払え。帰るぞ」
受けとった指輪を無造作に懐に入れると、ハルユキに声をかけた。
「いやお前つけろよ」
「大丈夫じゃ。こやつは変な物を掴ませようとする似非商人とは違う。それにこの時間では他に当ても無いのじゃろう?」
「まあ、そうだけどよ…」
レイの言う事が最もなので黙って黙って財布を出す。しかし、その手を万売りの男がそっと押し止めた。
「それの値は御客様に決めて頂けますか?」
「相変わらずそれをやってるのか…」
「最初の顔合わせのときだけでございますよ。商人として良い印象を売っておきたいのです」
「嘘くさいわ」
値段を決める。
少しだけ考えた後、ハルユキは財布をそのまま男に差し出した。
「……助かった。ありがとう」
「…よろしいのですか? これだけあれば鎧なぞいくらでも…」
「俺は金の価値もよくわからない。だからいいよ」
「…分かりました。それではありがたく頂きます。代わりと言っては不躾ですがその指輪なら後ろのお嬢さんに相応しいことを保障しましょう」
心なしか、少しだけ微笑を深くすると。
ゆっくり。そして闇に紛れるように。
通路の奥に去って行った。
先程まで男がいた筈の、場所には何の痕跡も余韻も残ってはいない。夢じゃないかと言われればそうかもしれないと答えてしまいそうなほど。
「…いやいや、怪しさ満点だったなあいつ」
あの男の口振りは、まるで買った指輪をユキネが使うことが分かっていた様な口振りだった。しかも恐らくだが、そう気づかせるように話していた。
「得体が知れんのは前からじゃ。忘れろ、どうせ考えても答えは出ん」
「そうだな…」
一切の感情も薄らいでしまったかのような男だったが、ユキネを見た時に少しだけ見せた微笑みが何となくこれ以上男を疑わせなかった。
「それで? これはお前から渡してやるのか?」
懐から改めて指輪を取り出すと、見せ付けるようにレイがその小さな輪を弄び始めた。
「……いや、お前から渡してやってくれ」
「へたれ」
待ち構えていたかのように言い切るレイの声にハルユキは声を詰まらせた。
「まさかタダでとは言うまいの?」
「…何が望みだ」
「そうじゃのぅ…」
レイは面白そうににやけながら、思索し始めた。
一体どんな無理難題が来るのかと身構えていると、レイが何か思いついたのかこちらに顔を向けた。
「酒にでも付き合ってもらおうかの」
正直に言って、意表をつかれた。いや度肝を抜かれたといっても過言ではない。
「…それで良いのか?」
「当然おぬしの奢りじゃぞ?」
「まあ、それでいいなら」
「ああ、あとこの馬鹿もお前が運べ。重い」
疲れたように肩を鳴らしながら、レイが爆睡しているユキネをこちらに追いやった。
ゆっくりとそれを背中におぶる。
背中に移ったユキネは、触れたくなくなる程に繊細で柔らかく。
隣から聞こえる寝息が懐かしかった。