ビタースウィート・メモリー2
聡子を腕に抱いて、俺は天井を眺めていた。あたたかさと程よい重みが心地よかった。聡子の肌はとてもすべすべしていて、まるで吸いつくようだ。その感触を楽しむように、手を滑らせた。
そして当の本人はというと、腕の中でおとなしくーーーーーー俺の胸の毛を触っていた。
毛深いのが悩みで、手足や脇はある程度処理しているのだが、胸だけは一度処理して腫れ上がったという嫌な思い出から、やっていなかった。
水泳部は男ばかりなので、気にするのもすっかり忘れていた。
『なんか気持ち悪くてさー』
元カノが友人と話していたことが頭をよぎる。
『でも我慢する。だって鈴木病院の息子だよ?しかも三男。ちょーー優良物件じゃない?』…………
苦々しい思い出に、ぎゅっと目をつむった(他にも色々言われていた。思い出すと今でも泣けてくる)。
そんなことを考えていると、聡子が胸にちゅっとキスしてきた。
驚いて硬直する。そのまますりすりとされてなおさら頭が真っ白になる。
え?え??
見ると、胸に頬を寄せうっとりした様子で目を閉じている。口角も少し上がっていて微笑みの形になっていた。
「ーーーーーーーー」
『気にしない女もいるって。元気出せよ』
コンプレックスを今までたった一人に話したことがある。同学科・同部活の吉田直樹。彼にはどういうわけか、すっと話してしまった。いきなり打ち明け話をされて驚いたと思うが、笑わずにきいてくれて、嬉しかった。そしてそのとき彼に言われた言葉。
そんなのいるわけねぇよ、と期待していなかったけれど。
(もしかして……もしかして……?)
期待が膨らむ。と同時に裏切られたらと思うとひどく萎縮した。怖い。聡子にまで「気持ち悪い」と言われたら、立ち直る自信がなかった。
「……………………」
そっと聡子のゆるく波打つ絹糸のような髪を撫でる。恵まれた容姿。秀でた頭脳。
(……なんのコンプレックスもないんだろうな……)
髪を撫でるのに合わせて聡子が嬉しそうに俺の胸にすりっとする。まるで猫がじゃれついているようだ。
愛しさと、少しばかりの切なさが込み上げてきてぎゅっと抱きしめた。聡子がさらに笑みを深めた。
それからさらに幾度か体を重ねたが、毛のことは聡子は特に何も言わなかった。
気を遣ってくれているのかもしれない。元カノだって何も言わなかった。……自分のいないところでひどく愚痴られていただけだ。
もう二度とあんな思いをしたくないと、聡子本人にきいてみることにした。一大決心だ。もし嫌だと言われたら……永久脱毛でもなんでもするつもりだった。それくらい、思い詰めていた。
「………………」
情事が終わり。愛し合った名残で頬を上気させながら、聡子が俺の胸に顔をうずめていた。最近ではここが定位置になっている。
「あのさ、聡子……」
「……うん?……」
うとうとしていたのかもしれない。眠そうな声がかえってきた。
いざ尋ねようと思うと、声が、中々出ない。
思いが胸につかえて、言葉をなさなかった。
「……どうしたの?……」
聡子が心配そうに半身を起こして俺を覗き込んできた。俺は少し顔を上げてちゅ、とキスした。
「?鈴木くん??」
すがるように、ちゅ、ちゅ、とキスし続けた。ふふ、と優しい笑い声がする。
「こらこら……もう一回したいの?……」
優しくあやすように言われ、なんだか目頭が熱くなった。
「いや、あのさ……」
『なんか気持ち悪くてさー』
頭の中で元カノの言葉が響く。
「?……何かあった?」
あたたかい声音に、
「!……何も、見てないからね」
涙がぽろぽろと流れてきた。聡子が俺を抱きしめてくれた。その安心感に、そっと目を閉じた。
「あのさ」
聡子が着替えを済ませ俺の服も着せてくれている最中、口を開いた。
「ん?」
はい、ばんざいしてーとTシャツを着せてくれる。
「俺のこと、気持ち悪くない?」
「?????????」
しまった、主語がでかすぎた。
「いやあの……俺……ーーーーけ、毛深いじゃん……」
言ってしまった。
もう後戻りはできない、という後悔と言えてすっきり、という爽快感がないまぜになって、俺の心を乱した。
「?うん?そうなの??」
聡子はわけがわからない、といった感じで首をかしげている。
「そう……なの。だから……、嫌じゃないかな……って……心配……してる……」
自信がないせいか、どんどん声が小さくなる。沈黙が流れる。
『本当は嫌だった』って言おうとしているのかな、と悪い方に想像が働く。
「えと…胸とかお腹のこと?を言ってるのかな??だとしたら、全然気にしてなかった…」
「!」
ばっと聡子を見る。恥ずかしそうにはにかんだ。
「というか、男らしくていいなぁ……って思ってた……。なんてセクシーなんだろうって……」
「あはは、私変なこと言ってるね、忘れて」
顔を赤くしてそっぽを向いた。
俺はと言うと。
「………聡子」
「うん?」
聡子を、思いっきり抱きしめた。
「苦しいよー」
「聡子」
「うん?」
「さとこ〜〜〜〜」
「はいはい、どうしたの」
優しく背中をさすってくれる。
神様、聡子と会わせてくれてありがとうございます。
何の神にかはわからないが、感謝した。
聡子に口付けする。想いが溢れて、だんだん激しいキスになってきた。
せっかく着せてくれた服をもう一度脱いで、そのままベッドへとなだれ込んだ。
「……あぁ、そんなことが……」
思い切って、過去のことを打ち明けた。
腕の中にいる聡子が、俺をぎゅっとしてくれた。
「傷ついたね」
「……まぁ。思ってもいなかったし」
『胸毛気持ち悪ーい』『大きい病院の息子だから我慢する』そして『なんか色々育ちよすぎて馬鹿にされてる気がする』ーー。
これだけ言われても自分から別れを告げる勇気もなくぐだぐだと付き合っていたが、その後うちの病院で不祥事がありマスコミで叩かれると、俺はあっさり振られてしまった。
『もしかしたら、愚痴を言っていたのは同性からの嫉妬を避けるためだったのかも』という、俺の甘すぎる期待は見事に打ち砕かれた。
「……うちの弟も、似たようなこと言ってたよ」
聡子がポツンと言った。
「あっうちは勿論鈴木くんちみたいに大きな病院じゃないんだけど。でも喧嘩したときに『開業医の息子だから付き合ってた』って言われたんだって」
「……!ああ、それは同情するな……」
「男の子たちは大変だ……」
「それで、弟くんはどうなったの?」
他人事とは思えず、聞いてしまう。
「しばらく女性不信に陥っていたけど、吹っ切れたみたい。『親を超えてやる!』って言って色々頑張ってるよ」
「そっか、よかった……」
ほっとした。会ったこともない弟くんだが、その一件でものすごく親近感が沸いた。
「まぁ姉としては、そんなこと直接言われるくらい怒らせるなんてあんた何したのって感じだけどね」
そう冗談を言って、聡子が俺を抱きしめた。俺もぎゅっと抱き返す。
「……なんか、完全無欠の鈴木くんでも悩みはあったんだなぁって、驚いてる……」
意外なことを言われ、こちらが驚いた。
「や、俺だって悩むことくらいはあるさ。今言ったこともそうだし、水泳でタイムあがんねーとか、将来どうしよーとか」
「ふふ、そうだよね。同じ人間だもんね」
「てか聡子の方がなんも悩みなさそうじゃん。顔かわいいし、頭いいし、彼氏はかっこいいし」
聡子がふふふ、と声を出して笑った。
「確かに、彼氏がかっこいいのとこはあってるけど。……私だって悩みとかコンプレックスはあるよ」
「えー例えば?」
聡子の髪でさらさら遊びながら、冗談半分にきく。
「例えば……ちゃんと卒業できるかなぁとか」
「できるできる」
「まじめにきいてよ……あとは、毎日の食事の支度がしんどいなぁとか。もっと要領よくやれたらいいんだけど」
「じゃあうちにおいで。空いてる部屋あるからそこに住めばいい。ご飯一緒に食べよ。あっそうだよ。聡子がうちに住めばいいんじゃん!」
「まじめにきいて。……あとは、うん、あんまり社交的な性格じゃないから、友達できづらいなぁとか、こんなんでチームプレイが大事な?医療界でやっていけるかなぁとか……」
「……………………」
うーん……でも聡子の場合は、社交的じゃないというか単に物静かなだけな気もするけど。ちゃんとサークルも入ってるし。仮に社交的じゃなかったら、サークルすら入らないんじゃないだろうか。
でもこんな偉そうなこと言えるほど俺も人間できているわけではないので、黙っていた。チチチ……と鳥の声がきこえた。
「……胸が大きいのも、嫌なの。高校のときとか、男子が体育のときじーっと見てきて嫌だった」
「そいつら、俺がぶっ殺すから」
「ふふ。ありがとう」
「あ、もしかして俺がパフパフするの、嫌だった?」
本能のままに行動している自分に青ざめる。
「……ううん、全然。鈴木くんが喜んでくれるなら、嬉しい」
嫌なの我慢してきた甲斐もあったかな。
そう言いながら笑う聡子。その健気な発言に胸がぎゅっとなった。
「……絶対結婚する……」
「え?」
「あ、いや、なんでもない。そっか、聡子も色々あるよな」
思わず出た本音を誤魔化すように、話しを戻す。
「悩みなさそうなんて言ってごめんね」
許して、とキスする。
「ふふ、いいの。私も無神経なこと言ったことあったかも。ごめんね」
聡子もちゅっとキスしてくれた。そのまま唇をついばみあう。
セックスも好きだけれど、こんなふうに聡子とキスし合う時間も同じくらい好きだったりする。
相性がいいのかな。そうだとしたら嬉しい。
聡子を抱きしめた。
今日、お互いの弱い部分を見せあって、また絆が深まった気がした。聡子も同じ気持ちでいてほしい。
「ーーーーーーくん、鈴木くん、もう夜だよ。起きてー」
揺り起こされ、俺はうっすらと目を開けた。隣では聡子が下着を手にとり、布団の中でごそごそと身につけていた。
「あ、服着るから、あっち向いてて」
俺が起きたことに気づいた聡子が明るい声で言った。
「はいはい」
そう言いながら向こうを向き、布団をかぶり直した。
何度も全身を見ているのに、行為中以外に見られるのは恥ずかしいらしい。
「……ブラのホック、やってあげようか?」
俺の、ちょっとした憧れ。
「ふふ、また今度お願いね」
あっさり却下されてしまった。がくっ。
俺も脱ぎ捨てていた下着を足でたぐり寄せ、身につける。
「はい起きてー。ばんざいしてー」
身支度を整えた聡子が、俺のTシャツを着せてくれる。いつの頃からか習慣になっていた。
そのままぎゅっと抱きしめた。
「……帰りたくない」
「あはは、泊まってもいいんだけどね。でもそれしたら、もし鈴木くんのご家族に会う機会があったらさ、なんか気恥ずかしいでしょ」
聡子が苦笑いしながらちゅっとキスしてくれた。俺は聡子にすりすりした。
「聡子。好き」
「うん。私も」
最後にもう一度キスして、帰り支度を始めた。
玄関で靴を履く。扉を開けたら、もう聡子とはお別れだ。
「じゃ、またね」
「うん。また」
「……………………」
「もう、そんな目で見ないで。私が追い出すみたいじゃん」
困ったように笑う聡子を抱き寄せた。
去年は。
彼女に振られ、病院の不祥事に揺れ、精神的に不安定で、夜中に泣きながら歯を食いしばって勉強したこともあったけど。
そのおかげで◯×大学に受かって。友人にも恵まれ。ーー聡子にも出会えた。
「……塞翁が馬……」
「?どうしたの、急に」
聡子がきょとんとしている。
「……いや、俺、勉強頑張ってよかったなって思って」
「あはは、私も。ぎりぎりだったけど、◯×大通ってよかったー」
花が咲くような笑顔。それを見て、そっとキスした。
「それじゃあね。俺が出たらすぐ鍵閉めるんだよ」
「わかってるって」
聡子が手を振るのに合わせて、俺もひらひらと手を振った。
マンションを出ると、あたりはもうすっかり暗くなっていた。車に乗り込む。エンジンをかけずに、ハンドルに突っ伏した。
(…………………………)
またこんなに人を好きになる日がくるなんて。
またこんなに人に恋焦がれる日がくるなんて。
巡り合わせの妙を思いながら、顔を上げた。まん丸の月が目に入ってきて、とても綺麗だなと思った。




