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ふたりの恋  作者: ゆり
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別れ話は、突然に 

 俺が刺されてから早数ヶ月、周囲はすっかり日常を取り戻していた。


 傷もだいぶよくなっており、短時間ならジョギングにも耐えられるようになった。

うっかり受傷側に振り向いてしまったときなどの不意の「あ、いてっ」がなくなりつつあるのも、大変喜ばしい。


 全てが元通りになりつつあったそのとき。


 まるでこれが最後の試練だとばかりに、宙ぶらりんになっていたあの問題が立ちはだかったのである……。









「え?示談……ですか」


「そう。示談」


「それはまたずいぶん穏便な」


 その日俺と聡子は、コーヒーを飲みながら、俺の部屋で、事件の顛末を話していた。


「示談してたらさ、不起訴処分になる可能性が高いんだって。前科つかないらしいからさ」


「はぁ……」


 ずずっとコーヒーをすする音がした。


「被害届を取り下げることも考えたんだけどさ、そこまでしたらちょっとお人よしだし、示談金の交渉にも関わってくるらしいから」


「なんか……手慣れてますね……」


 聡子が引いた様子で言う。


「俺が考えたんじゃねーよ、弁護士の先生。こうしたいって言ったらじゃあこうしたらいいって考えてくれて」


「はぁ……」


「すげぇよな。俺、民事事件と刑事事件の区別があることすら知らんかったからさ、もう、圧倒されちまって」


「…………………………」


「さすが高い顧問料払ってるだけあるわー」


 背伸びした発言に自分自身少し恥ずかしくなった。実際は、弁護士を手配してくれたのは親父だった。病院の顧問弁護士に頼んでくれたそうで。


『マンションの価値が下がったんだ、示談金ふんだくってこい、とおっしゃっていましたが、本当は君のことが心配で心配でしょうがないんですよ』


 弁護士先生がウィンクしながら言っていたことは、話半分にきいておくことにする。


 




 コーヒーを飲み終わり、ふぅと一息ついた。







 静かな部屋で、飲み食いしながら勉強する。学生カップルにはよくあるこんな光景の中で、俺たちのこの奇妙な関係は一体どういったらいいのだろうか。


 名前のつかぬ曖昧さが、最近はどうももどかしい。


 ちら、と聡子を見ると、休憩は終わったとばかりに再びテキストを開いている。


 キスもセックスも応じてくれるが、言ってしまえばそれだけのことだった。聡子が何を思っているのか。いくら考えてもわからなかった。


「……なんです?」


 視線に気付いたらしい聡子が、訝しげに眉をひそめる。


「あのさ、お前って俺のことどう思ってんの」


「え?」


ーーーー言おう言おうと迷っていたことは、ある日突然ぽんと言えてしまうものらしい。

 重大な案件を、あろうことか日常の会話の延長線できいてしまった。「今日の夜何食べたい?」とでもきくような気軽さだった。


「いや、その……俺最初ひどいことしたから。本当にごめん」


「もう何度もきいてますよ」


 聡子が柔らかく微笑んだ。

 最近は俺にも笑顔を向けてくれる瞬間があった。

 だからこそ、無意識で「勝算あり」なんて馬鹿なことを考えて、こんな質問をしてしまったのかもしれない。


「うん……。でも今も俺といてくれるから。その……俺、ちょっとでも許されてきてるのかなーなんて……勘違いしそうなんだけど……」


 自信のなさと比例して、声がどんどん小さくなる。

 言葉にしてみると、自分はとんでもなく図々しいことを言っているように思えた。恥ずかしくなった。


「…………ってすまん、今のなし。もうこの会話やめ。勉強に戻るぞ」


 動揺を誤魔化すように大きく咳払いし、休憩中は外していた眼鏡をかけた。


 聡子が、潤んだ目でこちらを見ていることに気づいた。


 


 あ。


 


 潮目がかわったことを肌で感じる。

 これまでの女性とのお付き合い経験から、聡子がこれから俺が聞きたくない類の話をするのだろうという予感がした。



「ーーーーあの」



 言わないで



「その……少し」




 言わないで




「…………距離を、置きませんか」




 なんで、お前が泣くんだよ ーーーー













 聡子の目から、涙がこぼれる。ハンカチで目元をおさえていた。

 俺は聡子のところへ行って、そっと後ろから抱きしめた。


「……なんで?」


「……ずっと、考えていたんです。もう、けじめつけないとって」


 内容よりもむしろ「ずっと」という言葉に思いのほか傷ついた。

 ずっと、っていつからだろう。

 俺が心から幸せを感じていたあのキスのときも?

 仲良くじゃれあっていたあのときも?

 聡子は『距離ヲ置ク』ことを考えていたのだろうか。

 そう思うと、自分の空回りがむしろ清々しいほど滑稽なものだと思った。


 聡子を抱きしめる腕に力が入る。


「俺のこと嫌い?」


「……最初のときほど、嫌いではありません」


「じゃあなんで?」


「…………………………」


「…………鈴木のぼっちゃん?」

 

 聡子がびくっと震えた。ああ、なるほど。はいはい、そういうことか。


「…………元サヤ?」


「いえ、会話もろくにしてないです」


 それを聞いて、内心ほっとした自分がいる。


「……すみません、私の問題なんです。ごめんなさい」


「…………………………」


「……あなたのことは、最初は大嫌いでした。何度殴ろうと思ったかわからないです」


「…………………………」


「けれど一緒に過ごしているうちに、あなたの内面に触れて、なんだか私も調子が狂ってきて……」


「色々連れていってくれて、ありがとうございました。自分では行かないようなところなので、楽しかったです……本当に」


 聡子の声が震える。


「だからよけいに……その……私たち最初が最初なだけに、認めるのが嫌だったんです」







「あなたに、惹かれ始めてるって」






 俺は息を呑んだ。

 聡子が続ける。


「でも、鈴木くんを傷つけて……自分だけ幸せになんて……なりたくないんです。色々考えたら、一旦距離を置くことが


 聡子をぎゅっと抱きしめた。


「…………もう、言わなくていい」


「…………………………」


「わかった。お前の好きなようにしろ。けどさ」


「…………………………」


「別れ話で告白されるなんて、はじめてだわ」


 ふっ、と笑ってしまった。


「え、あ、いえ、その」


「……聡子の気持ちきけて、俺今すっげー嬉しい。ははっ、距離置こうって言われてんのにな」


「…………すみません」


「謝るなよ」


「悠介さん」


 聡子が、はっきりと俺の名前を呼んで、こちらを向いた。まだ目が赤くて、思わずキスしたくなった。


「あの。最初のことは、もう許していますから」


「!」


「どうか、もう気にせずーーって言ったら癪ですけど、次の人にいってください。あなたがこんなに謝罪し続けてくれるなんて、思っていませんでした」


「ーーーーーー!」


 突然の許しに、安堵よりも戸惑いを覚えた。


「…………悪かったって思ってるよ、本当に」


「ふふっ、また言ってる。もう言いっこなしですよ」


 聡子が俺の手を取り、握手するように握ってきた。


「仲直りです」


 ぶんぶんとふる手は、2人とも離すことができなかった。ふっと微笑み合う。


「洗面所の化粧品、持っていっていいぞ。どうせ使わねーし」


「誰かを連れ込んだときに邪魔だし?」


 聡子がいたずらっぽく笑った。そうか、お前そういう表情もするんだな。


「服も忘れんなよ。お前いっつも似たような格好してるからさ、たまにはおしゃれして行けよ」


「学校は勉強しにいくところですから」


「あーあと、ここ『酸素』じゃなくて『酵素』な。何回言ってもきかねーな」


 聡子のノートをトントンとする。


「あっほんとだ。……わー間違ってますね……」


「俺がいなくてだいじょーぶ?」


 笑いながらきけば「そっちこそ、私がいなくて大丈夫ですか?」と返された。


 絡む視線。


 キスしようと顔を近づけたが、聡子に頬をホールドされて動けなかった。


「……決心が、鈍りますから」


「鈍らせたい」


「やめてください」


 困ったように笑う聡子は、とても美しかった。聡子が瞬きをすると、涙が一筋流れた。ぬぐってやりたい気持ちを、必死で抑えた。









「じゃあな」


 勉強会は途中で切り上げ、帰り支度を整えた聡子。洋服や化粧品は紙袋に詰めて持たせてやった。

そういえば夕飯にと思って買ってた羊肉どうしよう。聡子が食べてみたいって言ってたからわざわざある所まで買いにいったのに。いいや。冷凍しとこ。


「……はい。お世話になりました」


「わりぃけど送らねーわ。理性保てる自信ねぇ」


「大丈夫です。いつも丁寧な運転、ありがとうございました」


 思ってもいなかったことにお礼を言われ、なんだかぐっとする。


「ほら、俺の気が変わらないうちに行けよ。気をつけてな」


「はい」


 最後にぺこっと一礼して、聡子はエレベーターの方へ向かっていった。あの角を左に曲がればもう姿は見えなくなる。

凛とした後ろ姿が最後こちらを振り返ったとき、泣いているように見えたのは見間違いではないだろう。









「…………………………」


 ベランダでタバコをくゆらす。ゆっくり吸い込んで青空へ吐き出した。

 ついに、飛んでいってしまった俺の小鳥。

 けれど思っていたよりショックではなかった。




『あなたに、惹かれ始めてるって』




 聡子の言葉がリフレインする。


 あのキスのときもじゃれあってるときも。別れがよぎりつつも、俺のことを少しでも好きでいてくれたのだろう。

 その事実だけで十分だった。


 煙を吸い込む。またゆったりと吐き出した。


「…………聡子」


 雲一つない青空へ呟く。


『なんです?』と聞こえた気がした。

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