はかなきもの
「よし、オッケー」
部屋を見回し、忘れ物がないかチェックする。
今日は、ついに退院の日。天気は晴れ。約1ヶ月ぶりに外を自由に歩けることに、わくわくしていた。
荷物の大部分は事前に聡子が持って帰ってくれていたので、着替えが入った紙袋を持ちボディバッグをかけ、病室を出た。
ナースステーションの看護師たちに、挨拶をする。
「おはようございます。お世話になりました」
「ま〜〜〜〜橘くん!!退院おめでとう!!寂しくなるわ〜〜〜〜!!って、こんなこと言っちゃいけないんだけどね」
対応してくれたのは看護主任。
しっかりしている人で、検査をしぶる患者や薬を飲まない患者を叱りつけている場面を何度も見た。頼りになるお姉様だ。
「あ、それとハンカチありがとうね。みんな喜んでた」
いらない、とは言われてもあれだけお世話になったらなにかお礼をと思うのは人の情。
他の人もそうしているみたいだったので、俺もほんの気持ちを渡した(大したものじゃない、ちょっと誰かにおごりたい気分なのだ、と言って、しきりに固辞するナースに押し付けてきた)。
「お礼って言ったら生意気かもですけど。本当に、お世話になりました」
ぺこっと頭を下げると、主任が笑いながら俺の腕をばしばし叩いてきた。
「研修、待ってるからね。鍛えてあげるわよ〜」
「あはは、もしそのときはお願いします。足手まといにならないよう、頑張りますね」
「橘くん来なかったらナース全員退職するからね!」
「あっはっは!!それは責任重大だ」
主任の際どい冗談に笑いながら、病棟を後にする。「ほんっといい男」というつぶやきがきこえ、会釈して微笑みで応えた。
会計を済ませ、タクシーを拾う。外の空気がおいしい。開放感にぐぐっと伸びをしたら、傷が少し傷んだ。しばらくは毎日消毒のため通うことになっている。
運転手に行き先を告げ、流れる景色をぼーっと眺めた。
マンションでは聡子が待っている。今回の件では本当に世話になった。何かお礼をしたいと思うのだが……
(……あいつが喜ぶことって……1つしかねーよな……)
鈴木のぼっちゃんのところへ、返してやること ーーーー
ゆっくり目を閉じる。
(ま、今日じゃなくていいだろ)
もう少しだけ、そばにいてくれ。
祈りにも似た呟きは、誰に聞かれることもなく、車の走行音でかき消されていった。
「ただいまー」
退院して、久しぶりの我が家。
「……お邪魔してます……」
聡子がリビングから玄関の方へのそのそ歩いてきた。出迎えているつもりなのだろう。愛しさが込み上げてきて、両腕で包み込むように抱きしめた。
「お前さ、そこは『おかえり、あなた』だろー?」
「もう一回入院してきます?」
「えっやだやだ、自由がねえもん!」
約1ヶ月ぶりの自室は、聡子がたまに空気の入れ替えをしていてくれたおかげで、以前とそうかわっていなかった。荷物をおろし、ソファに腰掛けた。
「おかげで無事退院までできたわ。ほんと、ありがとな」
「……いえ。大変でしたね」
「うん……。そうだな」
容疑者は1週間後には捕まった。やはり気を失う前に見たと思った同級生だった。動機はーーーー積もり積もった嫉妬。
1年の頃から俺に嫉妬心のようなものを持っており、この間の講義で彼が答えられなかったものを次に指名された俺が答えたらしい。それが、凶行のトリガーだったそうだ。
『どれだけ努力しても勝てなくて、打ちのめされて、もう殺すしかないと思いました』
泣きながら刑事にそう話したらしい。
ーーそして。
彼の部屋からは、20枚ほど俺の写真が出てきたそうだ。刑事が言った。
『全部きれいな状態で保存されて、1枚1枚丁寧にコメントまで書いてあった。なかでもね、君と2人で写ってるやつは写真立てにいれていてね。特に大事にしていたみたいだった』
多分、グループで実習をしていたあの頃だ。授業後みんなで昼飯を食いにいくのが恒例で。メンバーにカメラにハマってるやつがいて、飯そっちのけでパシャパシャやっていたっけ。できた写真は俺ももらった。よく撮れていた気がする。
『君には、嫉妬心もそうだけど、複雑で特別な感情を持っていたみたいだね』
刑事はそう言ったが、っかやろう、テメェの主観で語んじゃねぇ臥薪嘗胆って言葉知らねぇのかと先輩刑事から小突かれていた。どちらが本当かは、まだ、わからない ーーーー
ソファに深く腰掛ける。聡子がペットボトルの水を持ってきてくれた。
いつもは距離を取るのに、今日はちょこんと隣に座ってきた。こいつは、こういうところカンがいいんだよなぁ。
肩にもたれる。
「……その体勢、傷が痛みません?」
「実はちょっと痛い。膝枕の体勢がいいかも」
「…………少しでも楽になるなら」
聡子が俺を支えながら横にずれる。ぽんぽん、と膝を叩いた。
「どうぞ」
「……お、おお……」
まさか実現するとは思わなかった。怪我の功名だ。柔らかい太ももの上にいそいそと頭を乗せた。
「…………………………」
沈黙が流れる。久しぶりに落ち着いた気分になった。
「あの、傷、見てもいいですか?」
聡子が遠慮がちに言う。
「ははっ、いいぜ。興味あるだろ」
「ありがとうございます」
上着の裾をたくしあげて、少しガーゼをはぐ。聡子がわぁ、と声を漏らした。
「刺された傷ってこうなるんですね」
「消毒係の人もそう言ってたわ」
「そうでしたか」
聡子がふっと笑った。けれどすぐに真顔に戻る。
「すみません、不謹慎でした。今回は本当に、お気の毒でした」
「いやいやいや、葬式みたいなこと言うなよ。や、まぁ確かに同級生から刺されたってのは少なからずショックだけどさ」
別に嫌いではない奴だった。まじめで努力家で、少々要領が悪いところはあったけれど、普通の、ごく普通の関係の友人と思っていた。
「…………俺のこと、殺そうとしたんだよな…………」
聡子は何も言わず、俺の髪をそっとなでてくれる。その心地よさにゆっくり目を閉じた。
『ああ、言いにくいんだけどね、橘くん』
聡子ママの声が聞こえる。
『バスケも、前みたいには動けないかもしれない。それは頭の片隅に置いといてね』
「ーーーーーーーーーー」
友人から殺されかけて。バスケもあまりできなくなるかもしれなくて。ーーこの上聡子までいなくなったら、さすがに耐えられる自信がなかった。
「ーーーー今じゃなくて、いいだろ」
ぼそっと呟くと聡子が「え?」と返した。
「……なんでもねぇよ。なぁ、キスして」
「この体勢でできるほど私体柔らかくありません」
「ははっ、そうだよな。お前結構体硬いもんな」
そう笑いながら、よっこいせと体を起こす。膝枕、気持ちよかった。またしてもらおう。
そっと聡子の頬に触れた。
「聡子、好きだぜ」
「はぁ……」
「なんだよその生返事ー」
笑いながら唇を重ねる。甘い、甘いキス。
聡子の存在を確かめるように、何度も何度もついばんだ。唇を離すと、聡子の潤んだ瞳と目が合った。
「……ベッド、行こう?」
「傷開くからダメです」
「エッチは我慢するから。寝転んでちゅーするのが楽なんだって」
「…………………………」
いつもの抱っこはできないので、手をつないでベッドのところへ行く。ぽふっと横になると聡子もいそいそと俺の腕のところにやってきた。
「わ……キズ触っちゃいそうで怖いです……」
「ちょっとぐらいだったらだーいじょーぶ」
そう言いながら、聡子にキスした。ちゅっちゅっと唇を味わいながら、舌も入れた。病室でするのもスリルがあってよかったけど、やっぱり自分の部屋でするのが1番落ち着くな。心なしか聡子もリラックスしてるみたいだ。
約ひと月ぶりに聡子と落ち着いていちゃいちゃできて、とても嬉しかった。
胸の中にある迷いには、まだもう少し、蓋をしておこう。ーー正しいことはなんなのか、どうしたらいいのか、なんて、わかっているんだけどね。




