その後
図書館ボランティアの日々も無事終わり最終日だった今日。お疲れ様でしたの花束を頂いた後、私は管弦楽サークルの部室でチェロの練習をしていた。
最初は緊張したけれど、図書館ボランティアの日々はとても楽しかった。司書の丸山さんともずいぶん仲良くなり、今度一緒にお茶を飲みにいく約束をした。
『歳の離れた友人ができて嬉しいわ』
娘みたい、ではなく友人と言ってくれたことが、なんだか嬉しかった。
時計も22時近くになったので、片付けを始める。自分以外誰もいない部室は、一つ一つの音がよく響いた。部室の鍵を閉め、サークル棟を出る。夜風が少し冷たく、ぶるっとした。
夜空に浮かぶ半月を見ながら歩き始めたが、ベンチに座ってこちらに手を降っている人物を認め、体が硬直した。
「やあ。チェロの音聞こえてたからもしかしたらって思って」
にこっと笑って近づいてきたのは、橘悠介。楽しかった図書館ボランティアの日々のーーーー汚点。
「今帰り?送るよ。結構家遠いじゃん」
「……ご心配なく。慣れてますので」
「えー冷たいなー。俺たち、あんなに愛し合った仲なのに」
声量を落とすこともなくさらっと言ってのけたさまに、慌てる。
「ちょっと……変なこと言わないでください。夜は響きますので……」
「だって事実じゃーん」
「ちょっと……」
こんな場面を知り合いにーー鈴木くんにーー見られたらと思うと気が気でない。
そんな私の様子を見て、橘がくっくっと笑いながら言った。
「ね、腹減らね?なんか食べにいこーよ」
「…………」
「あの日の詳細、水泳部の奴らの前で言おうか?」
耳元で囁いた。楽しそうに笑っている。こいつならやりかねないと判断した。
「……わかりました」
握った拳が震える。怒りのため?それともーーーー恐怖?
「オッケー、そうこなくっちゃ」
橘が機嫌良くにこっと笑った。
車に乗りこみシートベルトをつけると、橘がキスをしてきた。予想外のことだったので、反応が少し遅れた。平手打ちしようとした手も易々と押さえつけられる。
「……!……!」
嫌がってもしつこく舌をからめられ、うんざりして抵抗を諦めた。
「おかえり」
下唇をちゅっとされ、ようやく離れてくれた。口をごしごしとぬぐった。それを見て橘が笑った。手はゆるく私の胸に触れている。
「…………手」
「あ、ごめんごめん。つい」
名残惜しそうに乳首のあたりを指でなで、ようやくエンジンをかけた。
「何か食べたいのある?なんでもいいぜ、俺奢るから」
「……特にないです。食欲がありません」
「えー?張り合いないなぁ。ほんとに何もないの?」
「………………」
「じゃあ俺が食べたいのね。文句は受け付けねーからな」
なめらかに発進し、滑るように車が進む。意外に穏やかな運転に、本人とはちぐはぐな印象を受ける。
しばらく車を走らせ、「お、あったあった」と入ったのはファストフードのドライブスルーだった。店員さんとスムーズにやりとりする。受け取る際にも「ありがと。お疲れ様です」と一言添えていて、外面の良さにぞっとした。
「はい、持ってて。ちゃんとお前の分もあるから」
「………………」
無言で受け取る。
車がすーっと発進した。おそらく橘のマンションへ向かっているのだろう。窓から見える夜景がきれいだ。
……一緒にいるのがこいつじゃなかったら、ロマンチックな夜景に心から浸れただろうに。
心の中で舌打ちしながら、外を眺めた。車内に流れるクラシックが、妙に憎らしかった。
橘のマンションに着き、車を降りた。エレベーターで部屋に向かう。「においがすげえな」と橘が言っていたけれど、返事はしなかった。
部屋に入る。ぱっと電気をつけ、リビングへ向かった。
「テキトーに座ってて。俺着替えてくるわ」
「……どうも」
目についたところに座り、食べ物をテーブルに出しておいた。戻ってきた橘が少し嬉しそうだった。
「よっしゃ、いただきまーす」
「………………」
「お前も食えよ?せっかく買ってきたんだから」
夜中の空腹に、ファストフードの香りは大変魅力的だった。ポテトを一本、口に運んだ。
「……おいしい……」
「ははっ、たまに食うとうめーよな」
橘が、自分はハンバーガーを頬張りながら言った。
「ほら、お茶もあるから飲めよ?のどつまるだろ」
「…………」
いちいちうるさいな、と思いつつ指示通りちゃんとお茶も飲む。橘が満足げに目を細めた。
「猫に餌やってる気分。かわいいわ」
「………………」
今のは聞かなかったことにしよう。
「そうそう、そういえばさ」
橘が楽しそうに話す。私は無言でポテトを頬張っていた。
「水泳部の奴からきいたんだけどさ。後輩が彼女の浮気が原因で別れたらしくて、相当荒れてるんだって」
「!」
「今日も飲みに連れていってやるって言ってたけど、誰のことだろうね?」
聡子ちゃん、心当たりある?
かわいらしく小首をかしげる橘を、本気で殴りたかった。
『聡子、何か言ってよ』
苦しそうに顔を歪め、言葉を絞り出した彼を思い出す。
「ふふ、黙っておけばよかったのに。真面目なんだから〜」
「………………」
そのつもりだった。ーーけれどこいつがつけた跡はなかなか消えず、最愛の人に見つかってしまったのだった。
今の状況は、そんな卑怯なことを考えた自分への罰のようにも思えた。
『………………見損なった』
目を閉じる。
こいつを殴ったところで、時間は戻らない。起きたことは取り消せない。全部、後の祭りだった。
目頭があつくなった。
財布から千円取り出し、テーブルに置く。こんなところにはもはや1秒たりともいたくなかった。
「うん?帰る?」
無言で立ち上がり、玄関へ向かう。玄関の鍵に手をかけたところで橘が後ろから抱きしめてきた。
「帰るなよ」
「離して」
「いや」
予想通りの返答。じたばた暴れるも腕の中に閉じ込められて、効果がなかった。
「ははっかわいいなぁ。一生懸命で」
キスされる。そのまま人さらいのように抱きかかえられ寝室へ向かい、ベッドに放り投げられた。上からのしかかられる。
「……ねぇ、もし俺がお前のこと気に入ってるって言ったらどうする?」
徐々に私の服を脱がしながら橘が言った。
「気持ち悪いです」
「即答かよ」
くっくっと笑いながら私の胸にキスした。強く吸われ、跡がついた。「ん、俺の証」と橘が言った。
「ま……とりあえず気持ちいいことしよっか?聡子ちゃん……さとこ……」
その日は私が怒り出すまで寝かせてもらえなかった。平手打ちをしようとしたが、すんでのところで止められた。
こいつは、しつこいから嫌だ。
「我ながら……ちょっと昨日はやりすぎたわ……。ごめんなー」
ちっとも悪いと思っていない素振りで、橘が私の首筋にキスを落とした。ちゃぷ、とお湯の音がした。どういう風の吹き回しか、朝(昼?)起きると「一緒に風呂入ろうぜ。綺麗にしてやる」と浴室へ連れてこられたのだった。多分犬を洗ってやる感覚なんだろうと思う。
「お前、肌白いから余計目立つな」
「………………」
「そうそう、この入浴剤どう?お前のために買ったんだぜ?」
嘘つけ。前の彼女(もしくは今の彼女または他の私のような存在)が置いていったやつだろう。
「いいにおいだなー」
「……んっ……」
そう言いながら私の首筋にれろっと舌を這わせ。手は私の胸の突起をいじっている。
「……やめて……もうやだ……」
「やっと、話してくれたな」
橘がふっと笑い、私をそっと抱きしめた。ーーなんだか様子がおかしい。こんなに優しく触れてくるなんて、まるで恋人同士みたいじゃないか。気持ち悪いからやめて欲しい。
「聡子」
『聡子』
不意に、愛しい人の声が重なった。びくっとする。
ーーこんな天気のいい休みの日は、一緒におでかけしたり、部屋のソファで膝枕して、うとうとするあなたの髪をなでていたっけ。
『聡子。大好き』
眩しそうに目を細めてそう言ってくれたよね。
今の状況からかけ離れた愛に溢れた光景に、顔が歪むのがわかった。
「……泣いてんのか」
ばしゃっとお湯をかけられ、我に返る。
「気に入らねぇなー。俺と過ごしてんのに、何が不満なんだよ」
どの口が言うのだろうか。その自信はどこから出てくるのだろうか。あまりの暴言に理解が追いつかない。
「鈴木のぼっちゃんより俺の方がいいだろ」
「……はい?」
「かっこいいし、金持ってるし。次期院長だし。ぼっちゃんは三男だから病院継げないだろ」
ちなみに、乗ってる車も俺の方がいいからな?
ぎゅっとされ、橘が耳元で囁いた。それらを聞きながら、なんだか、彼がかわいそうになってきた。……今言ったようなことでしか、彼は判断されてこなかったのだろうか。恋人からは?友人は?ーーーー親は?
「……憐れね」
「ん?」
洗面器を手に取り湯を汲む。振り返ってざばーーっと橘の頭からかけた。
「………………へ?」
「……あがります」
鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしている橘を置いて、湯船から出た。鈴木くんには後ろ姿を見られるのも恥ずかしかったけれど、橘には何を見られても平気だった。ーー動物に、獣に、何を見られても恥ずかしくないでしょう?
脱衣所で体をふき、衣服を身につけた。新品の下着が用意してあるように見えたが、他の女性のものだろうと判断し、触らなかった。
髪を乾かしていると、橘があがってきた。体をふき、下着一枚の姿で私からドライヤーを奪った。
「貸せ。やってやる」
「…………」
抵抗するのも面倒で、そのままやってもらうことにした。温風と冷風を使い分けて、丁寧に乾かしてくれるのが不気味だった。
「いー天気だなー」
窓から降り注ぐ光に目を細めながら橘が言った。ブランチのクロワッサンをもぐもぐしている。私の分も用意されていた。昨日からまともに食べていなかったせいで空腹に負け、宿敵からのほどこしを受け入れてしまう。……食べ物に罪はない。
「どっか行かね?行きたいとこねーの?」
「……ないです。帰りたいです」
「じゃ聡子の部屋に行こー!」
「絶対嫌」
一刀両断し、食事に戻る。このクロワッサン、とてもおいしい。用意してくれたのが橘じゃなかったら、どこのものなのかききたいくらいだ。
「そういやお前、俺が用意してた下着とか、着なかったの?」
「はい?」
「用意してたろ、新しいの。昨日のやつそのまま着るのいやだろうと思って」
「……?」
「俺の厚意を無にしやがって。気分わりー」
橘がこどものように唇を尖らせている。その様子に苛立ちを感じながら、心に浮かんだ疑問を問いかけた。
「あれ、私に着ろってことだったの?」
「あ?他に何があんだよ。女の下着とか集める趣味ねーよ」
……橘という男がわからない。
ああ、そうか。こういう手口なんだろうと思い至る。飴と鞭ということか。そうして、骨抜きにしたところで用は済んだ、とばかりに捨てるのだろう。
多分そうされたときの女性の表情を見るのが好きなのだろうと、あたりをつけた。悪趣味、ここに極まれり。
「………………」
「ま、いーや。今度着て。化粧品とかも、教えてくれたら揃えとくから」
その手に乗るか。こいつから何かしてもらうんだったら、顔パリパリになった方がマシだ。
「聡子」
突然名を呼ばれる。普段のちゃらちゃらした様子からは想像できない落ち着いた声音に驚いた。
「……なんですか」
なんだか圧を感じ、思わず話してしまう。
「俺の名前、知ってる?」
は?何を言い出すのだ、いきなり。
「知ってます。橘悠介。覚えてるのも脳の容量の無駄使いですけど」
「あはは!」
私の暴言に、何がおかしいのか楽しそうに笑った。
「よかった。じゃ、名前で呼んで」
「………………」
「フルネームで覚えてくれてたなんて、意外だったなー」
橘が嬉しそうに笑った。その笑顔を見て、犬みたいと思った。
その日は、どこにも行かず家まで送ってくれた。
私は自分の部屋でもう一度お風呂に入り、ゆっくり眠った。




