開幕 イルダーナハのアキトは月を目指す
かの叙事詩の一説にはこうある。
『その男はまさに全知全能であった。どんな苦難も試練も男の前では些細なことだった。いつしか彼はイルダーナハの二つ名で呼ばれるようになり、ついには魔女と衛士を道連れに旅立った。彼らは世界の果てを目指す』
(なんか思ってたんと違う……)
ティルソリウスの地を踏んで二ヶ月。アキトはものすごくヒマだった。
女神チートマシマシでの異世界転生だ。
王道らしく、最下級冒険者から伝説級の冒険者を目指すのがいいだろうか。
勇者も悪くない。突如街に現れた魔物の群れを撃退し、国命を受けて仲間と魔王討伐の旅だ。現代知識を持ち込み、商売で大儲けするのも捨てがたい。
そんなワクワクするような中世ヨーロッパ風ハイファンタジーな妄想は、即日終了した。
文明レベルがとにかく低かったのだ。
原始とまではいかないものの、古代といっても過言ではない。
言葉はあるが文字はない。鉄器がようやく普及したくらい。貨幣や通貨は概念すらなく、経済は物々交換で成り立っている。
女神アリアの言っていた「出来立て」とはすなわちそういうことだったのだ。
なにより、それ以上に困ったことがあった。
この世界は平和だったのだ。
妖精族や巨人族はいる。その点はファンタジーである。しかし、魔王も邪神もいなければ魔族も魔物も出てこない。魔獣の類はいるようなのだが人里に降りてくることは滅多にない。
日々死の脅威に晒されている世界の方が、どうかしているのかもしれないが、女神の加護全部のせ、異世界チートの塊のようなアキトには、ただ退屈な世界でしかなかった。
超人的な身体能力、強大な魔法も使うことができる。アキトは人間の枠を大きく超越していた。
やることが無さすぎて、ヒマつぶしに何でも屋の真似事をしているうちに、いつしかアキトはイルダーナハと呼ばれるようになっていた。「全知全能」「何でもできる男」という意味だ。実際はそんな大層なものではなく、単なる便利屋の二つ名、屋号みたいなものだった。
ついに退屈が限界に達したアキトは、村で仲間を募って、旅に出ることにした。
何でも屋の仕事で知り合った、エルフの魔女サーシャと村の衛士コノルが旅の道連れになった。
特にあてのない旅だったが、「世界を果てを見に行こう」とお題目をつけてみた。
それからしばらく経ったある夜のこと。
「綺麗な満月ですねえ」
アキトはしみじみと言った。
「月なんて珍しくもないだろ? 毎日出てる」
コノルはまだ十五だが、見た目はアキトよりもずっと青年らしい。赤毛の髭を蓄えて、精悍な戦士といった風貌だ。自慢の鉄兜を傍に置いて干し肉を齧っている。
「あら、月も休んでいる日があるわ。それに丸い月は一日しかないのよ」
サーシャは見た目こそ乙女だが、二〇〇歳を超えるエルフ。金髪碧眼の見目麗しい姿は、女神には及ばないものの、相当な美人だ。
「知ってました? 月にはウサギがいて餅をついてるんですよ」
アキトは何気なく言った。コノルとサーシャは目を丸くする。
「アキトは月に行ったことがあるの!? 月のウサギは地上のウサギと違うの?」
「モチってなんだ!? うまい食べ物なのか!?」
アキトはマズいと思った。この二人は好奇心だけで冒険についてきてくれたのだ。未知は命よりも価値のある、黄金のようなものだった。
「あ、いや……そんな話を聞いたことがあるっていうか。月なんて簡単に行けないですって」
慌てて誤魔化すも時遅し。
「そうね。簡単じゃないわよね。でもそんな話があるってことはたどり着いた者はいるのね……」
「サーシャ?」
「イルダーナハのアキトがいるのよ私たちなら月に行けるんじゃない?」
「はい?」
アキトは目が点になった。ロケットどころか飛行機もない。いくら魔法でも宇宙に行くなんてのは無理だ。
「今日が丸い月なら、なんとか間に合うと思うわ」
「どうやって月に……?」
問いかけたアキトは、サーシャの話を聞いて絶句した。
この世界は天動説だった。本当に天の方が動いているのだ。天の星たちはそれぞれ決まった道を動いており、それは天道と呼ばれていた。
「宙にいないときは、地面の下を動いているのよ。それが天道迷宮。世界最古にして最大の迷宮よ」
(地球の別の可能性って、こんなの完全に異世界じゃないですか!)
アキトは女神を思い出し、心中うめいた。