【第六章:そして、現在】 Das sechste Kapitel: Und dann, die Gegenwart
最終話です。
ちょっと急ぎ足ですが、現在まで一気に進めます。
【第六章:そして、現在】 Das sechste Kapitel: Und dann, die Gegenwart
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ビンゲンのヒルデガルトは、その死後に不思議と急速に忘れ去られた。
彼女の著作や、それ以前に珍しい女性著作家だったからと云って、排撃された訳でも、忌諱されたからでも無い。何の事も無く、時が経つに連れて彼女は忘れ去られたのだ。
或いは、静謐と穏やかな生活を好んだ彼女は、自身が死ぬ前に「自分が忘れ去られる様に」との願いを発したのかも知れない。
彼女が亡くなった十二世紀後半は、ヨーロッパの文化が変化する過渡期であった事も、忘れ去られた一因だろう。
例えば、建築・美術なら、ロマネスク様式からゴシック様式へ。
学問なら、この頃から大学が造られ始め、「七自由学科 (die sieben freien Künste ※1) 」の習得が必須とされ、学問を修める場所が必ずしも修道院だけでは無くなった事。
文学では、ヒルデガルトはラテン語で著述をしていたが、ミンネザング (Minnesang ※2) と云う主に騎士階級の遍歴詩人により、豊かで独特な抒情詩が作られていた様に、ドイツ語 (当時は中期高地ドイツ語 (Mittelhochdeutsch) ) で著作をする者が、次第に増えて行った事。
時を進め、三十年戦争 (der dreißigjährige Krieg) の時代。 (1618年~1648年)
スウェーデン軍に因り、ルーペルツベルク女子修道院は完全に破壊されてしまう。
アイビンゲン女子修道院は破壊を免れたので、この間にヒルデガルトの遺体を納めた棺は、ルーペルツベルク女子修道院から、一旦ケルンにまで運ばれ、改めてアイビンゲン女子修道院に埋葬された。
そのアイビンゲン女子修道院は、十九世紀に入ると、既に修道院としての機能をしていなかったので、実質的な解散と為る。
処が、次世紀に為る直前の1900年七月二日。アイビンゲンの修道院の新たな再建が始まり、四年後に完成し、1904年九月十七日。そう、ヒルデガルトが亡くなってからちょうど725年後に、十二名の修道女が移り、「聖ヒルデガルトのベネディクト女子修道院 (die Benediktinerinnenabtei Sankt Hildegard) 」として生まれ変わる。
今日、リューデスハイムのアイビンゲン地区で見る事の出来る修道院は、これが元と為っている。
ヒルデガルトが最初に修道生活をした、ディジボーデンベルク修道院は、十六世期の宗教改革 (die Reformation) の時代に、ほぼ解体されて行き、1559年に最後の修道院長が当地の権力者に譲渡して、修道院としての幕を閉じた。
此処も同じく三十年戦争で荒廃する。その後は所有者が次々に変わるも、十九世紀に入ってから、当時の所有者が遺構を整備し始める。そして現在では、礼拝堂と博物館を備えた跡地として残っている。
第二次世界大戦 (der zweite Weltkrieg) の時代。 (1939年~1945年)
聖ヒルデガルト女子修道院は、1941年にドイツ国防軍 (die Wehrmacht) の負傷兵の療養施設として使用する為、院内の百十五名の修道女たち全員が、ゲシュタポに因って追い出され、財産も没収されてしまう。
大戦中、リューデスハイムも連合軍の爆撃に合うが、聖ヒルデガルト女子修道院は破壊を免れ、大戦終結後、進駐したアメリカ軍に、ドイツ国防軍の施設だったので、修道院は管理下に置かれるも、程無くリューデスハイム爆撃で家々を無くした人々の宿泊施設として解放され、追放された修道女たちも、彼らの世話の為に戻って来て、また財産も戻る。
周知の様に、ナチス・ドイツ敗戦後、ドイツはアメリカ、イギリス、フランス、そしてソビエト連邦に因り分割統治される (※3) 。
アメリカ、イギリス、フランス統治下の領土で成立したのが、1949年五月二十三日に建国のドイツ連邦共和国 (Bundesrepublik Deutschland、通称西ドイツ)。
ソ連統治下で成立したのが、1949年十月七日に建国のドイツ民主共和国 (Deutsche Demokratische Republik、通称東ドイツ)。
同じく四カ国で分割統治されていたベルリン (Berlin) も東西に分断され、西ベルリンは東ドイツ国内で飛び地の様に、西ドイツ領として存在する。
また、この戦争終結から東西両ドイツ国の成立にかけて、東欧諸国に長らく住んでいたドイツ系住民の多くが追放され、彼らは難民として主に西ドイツ側に渡った。
聖ヒルデガルト女子修道院は、暫くこう云った東側からの難民の収容施設として機能していた。
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さて、ゲシュタポと云えば、大戦前に一時期拘留されていた、あのゴットフリート・ヘルツカ医師を想い出して欲しい。
彼は大戦中、バイエルン州で主に軍医として働いていたが、大戦後の1947年に、コンスタンツ (Konstanz、バーデン=ヴュルテンベルク州のフライブルク行政管区に在る市) 移り開業医を始めた。
医師としての傍ら、彼は「ヒルデガルト医学」の研究に没頭する。同市の薬剤師である、マックス・ブラインドル (Max Breindl、1905年生まれ、1991年没) と彼の妻のエレン・ブラインドル (Ellen Breindl、1923年生まれ、1997年没) と共に、この自然療法の医薬品を開発して行く。
1970年にヘルツカ医師は、この自然療法の医薬品を纏めた著作を上梓する。
,,So heilt Gott: Die Medizin der hl. Hildegard von Bingen als neues Naturheilverfahren''
「そう、治療するのは神:ビンゲンの聖ヒルデガルトの医薬、新しい自然療法として」
実はこの本でヒルデガルトは「再発見」された。
当時は ,,Women's liberation movement'' 、所謂「ウーマン・リブ」の時代。
多くの人々。特に女性たちは、このヘルツカ医師の薬草学の内容より、十二世紀の時代に、教皇と書簡を交わし、皇帝に政治的助言をし、頑迷な司祭たちと破門された貴族の埋葬に関して、妥協せず闘っていた修道女が実在していた事に驚嘆する。
フェミニズムの観点から、と云う特殊な事情も有ったが、これでヒルデガルトの知名度は格段に上がり、彼女の著作の研究に始まり、彼女の作った音楽は、古楽を専門とする楽団に因る演奏や録音。そして、何よりも健康食研究家たちからの注目を受ける。
尤も神学関係では、それ以前より彼女の著作は研究の対象であったらしく、一例を挙げれば、ボン大学の神学部のヨーゼフ・アロイス・ラッツィンガー教授 (Joseph Alois Ratzinger、1927年生まれ) は、その教授時代 (1959年~1963年) にヒルデガルトの著作を研究していた。
1979年九月。ヒルデガルトの没後からちょうど800年。教皇ヨハネ・パウロ二世 (Johannes Paul II. 、1920年生まれ、在位:1978年~2005年) は当時のマインツ大司教に、ヒルデガルトに対する記念の手紙を送っている。
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1990年十月三日。ドイツは再統一される。 (die deutsche Wiedervereinigung)
そして数年後の1998年。今度はヒルデガルトが生誕してから900年だ。
ヒルデガルト祭とも云うべき物が、彼女の生誕地を初めてして、ドイツ国内は勿論、彼女に注目していた人々に因って世界中で盛大に祝われ、様々なイベントが催された。
特に大きかったのが、やはり健康食品関係で、彼女のハーブを使った様々な料理が再現された。ハーブパンや野菜スープや豆と肉類の煮物、そしてハーブティー等だ。
イベントでは、多くの人々がこのヒルデガルトの時代の料理を飲食し、この種のレシピ本は現在に至るまで、本邦も含め上梓され続けている。
余談ながら、ヒルデガルトの「再発見」に貢献したヘルツカ医師は、前年の1997年三月六日に死去している。 (享年八十三歳)
教皇ヨハネ・パウロ二世が2005年四月二日に帰天 (死去) すると、同月十九日にベネディクト十六世 (Benedikt XVI. ) が教皇に着座する。
ベネディクト十六世とは、ヒルデガルトを研究していた、あのヨーゼフ・アロイス・ラッツィンガー教授である。
1979年頃から、ドイツのカトリック関係者たちは、ヒルデガルトを「教会博士」とする様にと、ヴァティカン市国 (der Staat Vatikanstadt) に働きかける。だが、実はヒルデガルトはそれ以前に「列聖 (die Heiligsprechung) 」されていなかったので、先ず「列聖」が必要とされた。
処が、このプロセスは中々遅々として進まず、彼女の生誕900年後の1998年辺りから、改めてこの運動を促進する為に、ヒルデガルトの著作群や膨大な書簡類の整理が始まる。
同国出身で、ヒルデガルトを研究していたベネディクト十六世の着座は、ヒルデガルトの「教会博士」への過程を一気に促した。 (※4)
「列聖」とは、ローマ・カトリック教会で正式に「聖人 (der Heilger) 」と承認される事である。先のヨハネ・パウロ二世の手紙の内容やヘルツカ医師の著作の題名でも、ヒルデガルトを「聖なる」と表現していたが、実はヒルデガルトが正式に聖人 (女性なので「聖女 (die Heiligerin) 」) と列せられたのは、2012年五月十日である。
聖人のカレンダー (der Heiligenkalender) で、ヒルデガルトの記念日は、当然九月十七日だ。
そして漸く、同年の十月七日。ヒルデガルトは「教会 (女性) 博士 (die Kirchenlehrerin) 」と、聖人の中でも特に偉大な業績を残した人物に贈られる称号も受ける。
「教会博士 (der Kirchenlehrer) 」とは、あのクレルヴォーのベルンハルトも列せられている、「聖人」の中から、極めて限られた人物のみにしか与えられない称号だ。 (2023年時点で三十七名。内女性はヒルデガルトを含め四名)
彼女のヴィジョンとそれに関する著作、医学や食事に関する著作、広範な人々との書簡の遣り取り、聖歌や賛歌の作曲、宗教歌劇の「諸徳の階程 (Ordo virtutum) 」の作成。これ等の業績が「教会博士」として相応しい、と判断されたのだ。
この翌年、ベネディクト十六世は健康上の理由から、退位する。 (2013年二月二十八日)
そして、同年三月十九日に、第二百六十六代教皇として、フランシスコ (Franciscus、1936年生まれ) が着座する。
名誉教皇と為ったベネディクト十六世は、2022年十二月三十一日に帰天する。 (享年九十五歳)
末
最後にヒルデガルトに関する事を色々と書いておこう。 (本来なら、後書きで書くような内容だが、後書きが長くなってしまうので、この物語内で記す)
2009年にはドイツ・フランス共同で、ヒルデガルトの映画が作られている。
題名は、 ,,Vision – Aus dem Leben der Hildegard von Bingen'' である。
聖ヒルデガルト女子修道院のウェブサイトもある。トップページよりオンラインショップ (Online-Einkauf) があり、色々な商品が揃っている。 (もちろん購入出来るのはドイツ国内だけです ※5)
ここではハーブとスペルトコムギを使用したビスケットやクッキー、ハーブティー、ジャム、そしてワインなどもある。
何と、修道女の手作りのロザリオまであり、またヒルデガルトの著作群や書簡類、様々な研究書、そしてCDなどもあり、閲覧しているだけでも十分楽しめる。
ウェブサイトにある、 ,,Führung durch die Kirche'' (教会へ通る案内) が興味深い。
教会の左右の壁に旧約聖書や新約聖書に関する、鮮やかな絵が飾られているのだが、そこは聖ヒルデガルト女子修道院の教会。左壁の下側には、ヒルデガルトの生涯を纏めた、五つの絵が飾ってある。
順を追って見てみよう。
最初は、 ,,Wie St. Hildegard zu der hl. Jutta auf den Disibodenberg geht''
「聖ヒルデガルトがディジボーデンベルクの師のユッタの元へ行く様子」
子供のヒルデガルトがユッタに出会う様子が描かれている。
続いて、 ,,Wie St. Hildegard auf den Rupertsberg bei Bingen zieht''
「聖ヒルデガルトがビンゲンのルーペルツベルクへ移る様子」
ヒルデガルトが修道女たちとビンゲンに移る様子が描かれている。
続いて、 ,,Wie St. Hildegard in Ingelheim zu Kaiser Barbarossa spricht''
「聖ヒルデガルトがインゲルハイムで皇帝バルバロッサに話す様子」
ヒルデガルトが玉座に座るバルバロッサに助言を与えている様子が描かれている。
続いて、 ,,Wie St. Hildegard Eibingen gründet und zu Rüdesheim einen blinden Knaben heilt''
「聖ヒルデガルトがアイビンゲンを建て、そしてリューデスハイムへの途上、ある盲目の少年を癒す様子」
本編では特に取り上げなかったが、少年の眼を治した、ヒルデガルトの有名な奇跡の様子が描かれている。
最後に、 ,,Wie beim Tode St. Hildegards am Himmel Zeichen geschehen''
「聖ヒルデガルトの死に際し空に兆候が現れる様子」
ヒルデガルトの死で、空が光り輝き、十字架が現れている様子が描かれている。
現在、ヒルデガルトの遺骨を納めた棺は、聖ヒルデガルト巡礼教会 (die Wallfahrtskirche St. Hildegard) で見る事が出来る。この教会はリューデスハイムの丘上に在る修道院に対して、葡萄畑を下って丘下の街中に在る。
毎年九月十七日には、ヒルデガルト祭 (Hildegardisfest) が当地で行なわれる。この日、普段は保護ガラス内に納められた棺は外に出され、そして担がれて、教区内の街中を回り、参列者たちの行列が連なる。
この祝祭の最後の催しは、聖ヒルデガルト女子修道院での晩餐会だ。
当地のワインやヒルデガルトに因るレシピの飲食を堪能しているのだろう。
【第六章:そして、現在】 Das sechste Kapitel: Und dann, die Gegenwart 了
教会博士、ビンゲンのヒルデガルト 完結
※1:文法、修辞、論理、算術、幾何、音楽、天文の7つになります。
※2:代表的な詩人はヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ (Walther von der Vogelweide、1170年生まれ、1230年没) 。
※3:オーストリアは1945年四月十三日のソ連占領後に、臨時政府が成立しドイツから分離します。大戦後に同じくアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の分割統治が同じく行なわれますが、1955年五月十五日に主権回復。
※4:2010年九月一日と八日と2回にわたって、一般謁見演説でヒルデガルトに言及しています。
・1回目:https://www.cbcj.catholic.jp/2010/09/01/7775/
・2回目:https://www.cbcj.catholic.jp/2010/09/08/7794/
※5:こちらがサイトです。本編を書くに当たって結構参考にしました。 → https://abtei-st-hildegard.de/
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これで終わりです。(ローマ・カトリックにおいて)聖人や聖女の上に「教会博士」なんて称号があるんですね。
ところで、YouTubeで見たんですが、ヒルデガルトの棺が担がれ街を回る様子は、まるで粛粛としたお神輿みたいで、失礼ながらちょっと笑ってしまいました。
こんな読み難い物語に付き合ってくれた、物好きな方には、ただただ感謝です。
最後の最後でやっと食事シーン!(これでテーマの「食事」はクリアしているのか!?)
これより冬童話の作成を始めますので、次は冬童話をよろしくお願いします。
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