【第四章:説教旅行】 Das vierte Kapitel: Die Predigerreisen
ライン川といえば、ローレライですね。
Ich weiß nicht, was soll es bedeuten, dass ich so traurig bin ~ ♪
ハインリヒ・ハイネの詩で、フリードリヒ・ジルヒャーの曲で有名ですが、
実はあのフランツ・リストも同じハイネの詩で曲を作っていたんですね。
YouTubeで聞き比べるのも、一興です!
【第四章:説教旅行】 Das vierte Kapitel: Die Predigerreisen
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ヒルデガルトが最初に赴いた都市はトリーアである。彼女の著作である ,,Scivias (道を知れ) '' が認められた、あの教会会議が行われた場所だ。時期は1160年頃と思われる。
さて、移動だが恐らくモーゼル川 (die Mosel) やナーエ川 (die Nahe) にての船旅だろう。何故なら、彼女の医学書では、川の水質について言及されているが、これは旅行時の実体験として、それ等の河川を観察していたからだ。
ある川の水は「肉や魚を煮るのには問題は無いが、刺激が強いので、飲み水や洗顔や沐浴に使用するのは適さない」と断じ、また別の川の水は「飲食物の使用に問題は無く、また洗顔や沐浴にも適している」等、である。
トリーアの大聖堂はドイツで一番古い大聖堂だ。コンスタンティヌス帝 (Constantinus、在位306年~337年) の時代に建てらるも、五世紀にはフランク人に、882年にはライン川を遡上して来たヴァイキングの襲撃に因り、二度の破壊に遭っている。
十一世紀の初めから再建が始まり、現在見られる大聖堂は、この再建時が元と為っている。
つまり、ヒルデガルトは再建されて、当時は未だ左程経って居ないが、現在にまで残るこの大聖堂にて説教をした。
ヒルデガルトは自らの幻視体験を話す。聴衆者たちはこの司教座関係者たちで無く、当地の有力者たちや、更には一般の庶民も集まり、大聖堂の席は完全に埋まっている。
彼女が見るヴィジョンとは、光とも、燃える炎でもあり、とにかく確実なのは、彼女は神との対話をしている訳でも、何かの啓示を受けている訳でも、神と一体化している訳でも無い。
自身の魂が、たまたま神からの一種の一方的な受信機の様に造られているのであり、この光や炎に貫かれると、学の無い自分が、聖書に於ける神の言葉の真の理解の助けと為っている、と述べる。
こうして、旧約や新約聖書に著されている彼女が好む話へと移る。
簡単に内容を纏めてしまえば、聖職者には奢侈を改め、理性的な節制を求め、人々には怠惰を戒め、適切な労働に従事する事。
彼女の言説の一面を取り上げれば、この様に何処か教科書的な道徳を感じるだろう。更に云えば、ベネディクト会の戒律に対して、彼女が典型的な保守主義者である事を意味する。
但し、これは尤もな話しである。
事実、当時は堕落し、奢侈に溺れた聖職者が居た一方、彼女の師のユッタの様に「理性的で無い節制」に因る禁欲的な聖職者も居た。
謙虚と節制を心掛け、神の愛に感謝する。「中庸」とも取れるし、幻視を受けて来た彼女の宗教的態度で修業でもあった。
つまり、「極端を避ける」。これが彼女の信仰と思想の根本であるのだ。
ヒルデガルトの説教が終ると、トリーアの大聖堂は粛然と聞いた人々が、万雷の拍手を送る。
語り終えた彼女の声は、終始決して大きく無く、強い調子でも無かったが、荘厳な歌う様な調子であった。
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トリーアでの説教を終えると、如何やらヒルデガルトはルーペルツベルク女子修道院に戻らず、またもモーゼル川を利用して、メッツ (Metz、現在のフランス共和国のグラン・テスト州に在るモゼル県の県庁所在地であるメス市) に赴いた。
この地の司教座聖堂でも説教をしたのだが、現在見る事の出来る絢爛豪華なゴシック建築のサンテチエンヌ大聖堂 (la Cathédrale Saint-Étienne de Metz) は、十三世紀から造られ始めたので、それ以前の、今では見る事の出来ない、ロマネスク様式の大聖堂で彼女は説教をした。
内容は、先のトリーアで行ったのと、ほぼ同じであろう。彼女特有の比喩で説教をする。
「人が神の為にも人々の為にも善を行なわず、節制せず名誉を、労苦せず報償を得ようとします。これは何と云う悪意に満ちている事でしょうか。これは皆様にはご自分の行いが、聖霊の火で自身に輝いている事が、見えていないからです。如何か皆様には、好い規範に則り、火の柱と為って下さい」
こうして彼女の船旅は終わり、ルーペルツベルク女子修道院に戻った。
1163年には、彼女はケルン (Köln) へと赴く。これは当然ライン川を使用しての船旅だ。
これも現在見る事の出来る、あの世界最大のゴシック建築の傑作、ケルン大聖堂 (der Kölner Dom) は十三世紀に入ってから造られ始めたので、それ以前の古い聖堂だ。
彼女を説教に招待したのは、ケルン大司教座の司祭長フィリップ (Philipp、1130年生まれ ※1) で、彼はその招待の手紙の中で、自身と他の司祭たちの連名にて、強い懇請をしていた。
歴史上、カタリ派 (die Katharer) と呼ばれる、キリスト教の二元論的な運動。要するにカトリック側から見れば異端派の蠢動が、南フランスのラングドック地方 (Languedoc) で、十一世紀の初期頃から起こった。
これをキリスト教改革運動、またはカトリック教会体制反対運動、或いは当時の一種の新興宗教、と何かと断じるかは差し置き、一つの特徴として、カタリ派の指導者たちは、異常な禁欲主義と清貧を実践していたので、奢侈に溺れた一部のカトリックの聖職者を直に見ていた民衆たちの中には、彼らを支持し、その勢力は拡大して行った。
既に商業活動等が活発で、人々の往来が大きな時代。特にケルンの様な大都市では、早期にカタリ派の影響が確認されている。
要するに、このケルンでのヒルデガルトの説教は、完全にカタリ派を支持する者たちに対して、正しい教えに戻す為の物で、フィリップ司祭長としても、この高名な女預言者の説教で、当地に於けるカタリ派の影響を排除したかったのだろう。
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ヒルデガルトにとっても、カタリ派は二つの立場から反対であった。
一つは、その異常な禁欲主義。もう一つは二元論の主張だ。
二元論については、少し説明が必要か。精神と物体。つまり物質の様に眼に見える物を「悪」とし、霊魂の様に眼に見え無い物を「善」として対立させる。
物質である肉体は「悪」なので、禁欲的な苦行を実践し、現世の「悪」が造った「偽の世界」から、霊魂が「善」が造った「真なる世界」に到達する事を希求する。
ヒルデガルトの霊魂と肉体の考え方は、これと完全に異なっている。
先ず、肉体とは両親から授けられた物であり、霊魂とは神の御業に因って造られた物だ。神に因って霊魂を宿された両親から自身の肉体が造られるのだから、肉体が「悪」な訳が無い。
「自身を魂と肉体の尊さで律する」
この言葉は彼女がしばしば使う表現だ。
既にクレルヴォーのベルンハルトが、カタリ派の説教者であるローザンヌのアンリ (Henri de Lausanne) と、彼の信奉者であるアンリシエンたち (Henricians) の影響の強い、トゥールーズ伯領 (comte de Toulouse) での巡回説教を行い、ある程度この異端の広がりを抑え、当のアンリも捕えられ、獄死していた。
これは1145年頃の出来事である。つまりカタリ派の根絶にまでは至っていない処か、広がりを見せている。
余談ながら、この時ベルンハルトは奢侈に溺れ、堕落した聖職者たちにも、一喝を与えながら、巡回説教をしていた。
ヒルデガルトのケルンでの説教は、明確にカタリ派に対する非難から始まる。
「彼らは悪魔に誘惑されていますが、奢侈や金銭を好まず、節制をしていますので、非難をするのは困難です。彼らは自分たちが聖なる生活を送っていると信じ込ませ、皆様にこう言います。『私たち以外の貞節を守る、と称する者たちは、干上がった魚の様に終わってしまう。だが、私たちの貞節を守れば、そうは為らない。私たちこそが聖であり、聖霊に満たされている』。これでは正しい信仰から迷い出された人々は、彼らを信じ献身的に仕えてしまうのです」
そして、彼らの悪行についての告発をする。
「彼らは次にこう言うでしょう。『私たちに従い、私たちが示し命じた事を行いなさい。そうすれば救われるでしょう』。その後、彼らは正体を明かすのです。『私たちは全ての人々を支配した』。こうして彼らは邪な行為を行い、その時に為って初めて、彼らの罪は暴かれるのです」
だが、ヒルデガルトはカタリ派が弾圧され、終わりを迎える事を予告する。
「この様な邪な行いと、他の人々を不幸にする者共には、多くの災いが振りかかり、箒が全ての塵芥を掃き出すまで、ずっと罰せられ続けるでしょう」
処が、話は意外な方向での決着を告げる。
「最初は数は少ないでしょうが、彼らから、『私を助けて下さい。私は罪を犯しました』、と言う人々が出て来ます。やがてあらゆる種類の誤謬を捨て、正しく勇敢な力で以って回心するでしょう。その結果、後の人々はあの嵐はこの静けさの先駆けだったのか、と驚く筈です」
十三世紀に托鉢修道会と呼ばれる、清貧をより徹底するカトリックの組織が現れる。フランチェスコ会やドミニコ会が代表とされる。
フランチェスコ会の創始者のアッシジのフランチェスコ (Francesco d'Assisi、1182年生まれ、1226年没) は、イタリアのアッシジの生まれだが、プロヴァンス語 (※2) に堪能だった為、南フランスにルーツが有るとも謂われている。
ドミニコ会の創始者のグズマンのドミニコ (Domingo de Guzmán、1170年生まれ、1220年没) は、スペインのカスティーリャ地方の生まれだが、主に活動したのは例の南フランスのラングドック地方だ。
ヒルデガルトはカタリ派の本拠の南フランスから、托鉢修道会に因る再生を預言したのだ。
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1167年。1165年にリューデスハイムにアイビンゲン女子修道院が造られ、ヒルデガルトはルーペルツベルク女子修道院との、ライン川を往復しての兼任業務に追われた為か、または先年の長いの船旅の影響か、1170年まで病状が悪化し、三年間もの療養生活を送る事と為る。
彼女の二つの修道院は、周囲の市井の人々に医療も行なう施設だが、恐らくこの二つの修道院での最大の医師がヒルデガルトで、最も治療を受けた患者がヒルデガルトかも知れない。
快癒すると、ヒルデガルトはまたも説教の旅に出た。
修道女たちは心配する。病の事も有るが、もうヒルデガルトは七十歳を超えているのだ。
出発時に船に乗る彼女を見送りに来た、双方の修道院からの修道女たちに、彼女は優しい声をかける。
「大丈夫です。今回は長い旅ではありません」
こうして彼女は船出をした。
最初に赴いたのはマインツ (Mainz) で、彼女たちの所属管区なので、マインツ大司教座は比較的近い。
当地に暫しの滞在の後に南下し、シュヴァーベン公国 (das Herzogtum Schwaben) に入り、同公国内のキルヒハイム・ウンター・テック (Kirchheim unter Teck、現在のバーデン=ヴュルテンベルク州シュトゥットガルト行政管区エスリンゲン郡に在る市) に向かった。
シュヴァーベン公国は、あの赤髭王フリードリヒ一世を輩出した、当時のドイツの有力諸侯である、ホーエンシュタウフェン家の所領である。
この旅路での説教は、先のカタリ派の批判と対を為す、現職の司祭たちの堕落を批判する内容が主だった。無論、直接的に彼らを批判するのでは無く、幻視からの巧みな比喩を用いてだ。
「私は魂も身体もはっきりと目覚めていましたが、私の目の前に大変美しい女性が現れました。ですが彼女は着ている服は薄汚れ切り裂かれていて、履いている靴も汚れていました。彼女は私にこう言いました。『私の全身を美しく飾らなければ為らない者たちが、私を薄汚れたままにしている。私を清くする者たちが、私を顧みずに貪欲の中にいるからです』、と」
ヒルデガルトは明確に、司祭たちにもっと信仰心を持って職務を行って欲しい、と促したのだが、不思議な事に司祭たちは、この勧告を悪く思う処か、目を覚まし、心に留め、しっかりと銘記したのだ。
「この女性は更に剣を抜き、刀身を地に居る霊的な人々に向けています。ですが、皆様が正しく任務を果たし、節制を心掛けれ、回心を致しましたら、彼女の剣は鞘に納められ、聖霊の火が皆様に溢れる程に注がれるでしょう」
その後、ヒルデガルトはヒルザウ修道院 (das Kloster Hirsau) に赴いたらしい。
ヒルザウ修道院は、現在のカルフ市 (Calw、バーデン=ヴュルテンベルク州カールスルーエ行政管区カルフ群に在る市 ※3) から、僅か北に在る修道院で、十世紀から十一世紀にかけて行われた、修道院改革の中心地である。「祈れそして働け」を掲げた聖ベネディクトゥスの教えの下、当時の中央ヨーロッパの大開墾時代に向かわせた重要な修道院だ。
ヒルザウ修道院の影響を受けた修道院は、百とも百五十とも謂われ、多くの修道士たちと彼らに続く庶民たちに因り、多くの土地が開墾され、小麦や大麦や豆類を初め穀物や様々な野菜類の栽培、そして家畜の放牧と、これで一気に中央ヨーロッパの食糧事情は格段に上がったのだ。
残念な事に、現在ヒルザウ修道院はほぼ無人の廃墟だが、往時を偲ぶ建築物は多く残り、高い塔や修道院図書館などが残っている。
但し、礼拝堂 (die Marienkapelle) は唯一現在でも機能している。
こうして、ヒルデガルトの旅は、彼女の修道女たちに言った様に、1170年内には終わり、彼女はルーペルツベルク女子修道院とアイビンゲン女子修道院に、その年の内に戻った。
そして、これが彼女の最後の旅であるのだが、彼女の残り少ない人生は、所属管区であるマインツ大司教座の関係者たちとの様々な誤解と遣り取りに費やされる。
静かで穏やかな修道生活を行いたかった彼女だが、その生涯に於いて、終生様々な困難事に巻き込まれていたのだ。
【第四章:説教旅行】 Das vierte Kapitel: Die Predigerreisen 了
※1:後にフィリップはケルン大司教となります。
※2:南フランスで使用されているオック語の一方言です。
※3:カルフ市はヘルマン・ヘッセ(1877年生まれ~1962年没)の生誕地です。少年時代のヘッセは、よくヒルザウ修道院の跡地に遊びに行ってたとか。
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すごい頑張りますね。このおばあちゃまは…。これがリアル聖女なのです。
【カタリ派についての補足】
一説にはマニ教の影響を受けた教えだとされています。
ちなみに同時代の宋王朝では「方臘の乱」が起こっています。(1120年)
乱を起こした方臘は「喫菜事魔の徒」。要するに菜食主義を実践していたマニ教徒だといわれています。
カタリ派も菜食主義を実践していたそうです。
動物の肉とは生殖による食べ物なので、禁欲の関係から肉食(それで作られたチーズやミルクも)をタブーとするんです。
当時、魚に関しては海中や川で自然発生するものと考えられていたので、魚はタブー視されませんでした。
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