【第三章:バルバロッサ】 Das dritte Kapitel: Barbarossa (Rotbart)
戦の感じが…。やっぱり私は血なまぐさい話を書かずにはいられないのか…!
【第三章:バルバロッサ】 Das dritte Kapitel: Barbarossa (Rotbart)
1
「私は取るに足らない女。私は思うがままに風に乗って運ばれる小さな羽根」
これは、ヒルデガルトが自身を称する時に好んだ比喩である。彼女は幼い頃から病弱で、しばしば幻視を見ていたが、それは自身が神の代理者として選ばれた訳でも、何かの使命を帯びてこの様な体験をしているとも感じなかった。彼女は只静謐に穏やかに過ごす事を自らに命じ、そしてそれは他の姉妹たち、つまり彼女の修道女たちに対してもそうだった。
特に彼女が注意を払っていたのが、苦行とも取れる修道士が行なう禁欲的な祈祷だ。勿論、彼女は贅を尽くした生活を修道士がするのも反対していたが、それと同じく禁欲的な信仰形態にも反対していた。
これは師のユッタが若くして死んだ事に起因している。
彼女が修道院長をしている、ルーペルツベルク女子修道院は、ヒルデガルトが望むと望まないとに関わらず、彼女を慕う多くの修道女が年々増えて行った。
ルーペルツベルク女子修道院では、当然修道院なのだから、神への祈祷が第一だが、此処で過ごす修道女たちには、適度な労働や運動、適切な食事、清潔な生活、そして音楽を楽しみリラックスした日々が心掛けられていた。
音楽の多くはヒルデガルト自らにより、多くの聖歌、合唱曲、讃歌や賛歌が作られていた。 (※1)
然し、彼女自身は落ち着いた生活をするのが困難だった。何故なら、当時としては極めて特異である女性の著述家であって、それも彼女の代表作の ,,Scivias (道を知れ) '' は、聖的な最高指導者である教皇のお墨付きを得て、世に出された。
様々な噂を聞き付け、多くの様々な身分の人々が、彼女との面会を望んでいたのだ。
そして、一方で俗的な最高指導者もヒルデガルトに興味持っていた。
,,Scivias'' が完成した1151年当時の神聖ローマ帝国 (Heiliges Römisches Reich) の皇帝は、ホーエンシュタウフェン (Hohenstaufen) 朝のコンラート三世 (Konrad III. 、1093年生まれ) だった。彼はヒルデガルトに大変興味を持ち、彼女と彼女の姉妹たちが、どの様な聖なる生活を送っているのかを知ると、援助を惜しまない、とまで言い出し、ヒルデガルトに手紙を書こうとした程だった。
若し手紙が届けられたら、ヒルデガルトは宗教の最高権力者の教皇エウゲニウス三世と、世俗の最高権力者の皇帝コンラート三世から手紙を受け取る、と云う凡そ世界の歴史上でも類を見ない、手紙の受取人だ。
だが、これは実現しなかった。コンラート三世は1152年二月十五日に世を去ったからだ。
後継と為ったのは、彼の甥のフリードリヒ一世 (Friedrich I. 、1122年生まれ) である。
フリードリヒ一世は1152年三月四日にフランクフルト (Frankfurt am Main) でドイツ王 (ローマ王) として選出され、同月の九日にはアーヘン (Aachen) にて戴冠した。 (※2)
戴冠してからのフリードリヒ一世は、暫くアルプス以北の本国の統治に意を注いでいたので、主にインゲルハイム (Ingelheim am Rhein、現在のラインラント=プファルツ州マインツ=ビンゲン郡に在る市) の宮殿を、事実上の拠点としていた。
叔父であるコンラート三世の希望を叶えたかったのか、はたまた単純な興味からか。何とフリードリヒ一世はルーペルツベルク女子修道院へ、ヒルデガルトと直接の対話をしたいので、インゲルハイムの宮殿に来てくれないか、との連絡を遣した。
2
ヒルデガルトがフリードリヒ一世の宮殿に謁見へと赴き、会談をしたのは事実だが、何時頃かは不明である。
連絡が遣された1152年中に会談したともされるが、この年ヒルデガルトは大切な妹であるリヒャルディスの事で頭が一杯で、この彼女が憔悴しっきた時期は流石に無い、と思われる。
また、50年代後半に入ると、フリードリヒ一世は、イタリア政策に乗り出し、主に北イタリアの都市へ遠征する事が多かった。
凡そ53年から55年の間位か。
バルバロッサ (赤髭王) の異名は、フリードリヒ一世が赤みががった金色の髪と髭の所有者だったからだ。
既に彼は即位前に英雄の片鱗を見せ付けていた。
1145年から49年にかけての第二回十字軍で、フリードリヒ一世は叔父のコンラート三世の旗下の将として従軍し、見事な武功を上げていた。
この第二回十字軍は、以下の様な経緯で始まった。
先ず、第一回十字軍 (1096年~99年) でエルサレムを占領し、十字軍国家「エルサレム王国」が建国されている。
十字軍国家は他にも在り、その内の一つのエデッサ伯国 (現在のトルコ共和国の南東部の都市、シャンルウルファからシリア・アラブ共和国の北部の辺り) が、テュルク系の武将イマードゥッディーン・ザンギー (1085年生まれ) に因り、1144年に攻略された為、慌てたエルサレム女王メリサンド (Melisende、1105年生まれ) は西方へと救援要請をした。
こうして教皇エウゲニウス三世が十字軍の呼びかけを行い、クレルヴォーのベルンハルトは各地で勧誘演説をして回り、コンラート三世と甥のフリードリヒ一世は、軍勢を整え、陸路にて東ローマ帝国の首都のコンスタンティノープルに到着し、其処からエルサレムまで辿り着くも、この間にイスラム勢力に散々に撃破されていた。そんな中で一人、気を吐いていたのが若きフリードリヒ一世であったが、結果として彼個人の武勇が称賛されたに過ぎなかっただけだ。
また同時並行として、南フランスや北イタリアの諸侯には、イベリア半島のレコンキスタの援軍へ、また多くのドイツの諸侯は東方のヴェンド人 (※3) を初めとする、異教を信じるスラブ人やバルト人に対する北方十字軍 (ヴェンド十字軍) の方へ出征していて、これ等も含めて第二回十字軍とされている。
つまり、この第二回十字軍とは、エデッサ伯国の再興を目指すのか、レコンキスタの援軍なのか、北方十字軍が主目的なのか、要するに戦略上の優先順位を碌に定めず、主力のコンラート三世たちはエルサレムへと遠征し、途上イスラム諸国から一方的な敗北を喫していたのだ。
ちなみにレコンキスタの方はある程度の戦果を挙げ、イベリア半島の半ば以上をキリスト教国側が押し返している。
ルーペルツベルク女子修道院に、フリードリヒ一世が手配した近時の一行が現れ、ヒルデガルトは一人で彼らと共にインゲルハイムの宮殿へと発った。
インゲルハイム宮殿は、流石に皇帝の居城だけあって偉容あり何より広い。
カール大帝 (Karl der Große、747年、または748年生まれ、814年没) の時代に建てられたこの宮殿は、古代ローマの宮殿をイメージして造られたが、現在のホーエンシュタウフェン朝に入ってから、城塞として半ば要塞化され、防御壁や見張り塔等も設置されている。
ヒルデガルトは広く、天井の高い謁見室に案内された。壁には古代のローマの元首たちや、カール大帝を初めとする様々な英雄たちのモザイク画が、天井にも色鮮やかな様々なモザイク画が施され、荘厳を極めている。
一方、ヒルデガルトの身なりは、黒い修道服、そして頭から首にかけて白い頭巾で覆い、その上に被ったヴェールも黒く、腋下まで垂れている。
其処へ衛士の一人が大きな扉を開け、フリードリヒ一世の入来を告げた。
3
ヒルデガルトは両膝をついて、両手を握り締め、頭を垂れた。
玉座に進む間にフリードリヒ一世は、「貴女をお呼びしたのは余だ。どうぞ立ち上がって下さい」、と言い。近侍に彼女用の椅子を手配する様に命令する。
立ち上がったヒルデガルトは「この様に陛下に御招待頂き、大変嬉しく思います」、と述べる。
五十代半ば過ぎの、小柄でか細く、色白と云うより、やや病弱さを示す青白い修道女。
対するのは、三十過ぎの、壮健で逞しく、確かに英雄の覇気に満ちた王。
赤みががった金色の髪の上には王冠を戴き、膝上まで届く赤のチュニックの上には、豪奢な刺繍が施された金色の外套を羽織り、灰白色の脚衣に革靴を履いている。そして手には金色の王笏を持っている。
「どうぞお座り下さい。貴女とはゆっくりと話し合いたい」
近侍が用意した椅子に座る事をフリードリヒは命じ、自らも玉座に座った。
「貴女と対談したいと思ったのは、亡き叔父上が貴女と貴女の姉妹たちに援助を惜しまない、と聞いていたからです。また教皇猊下は貴女の為人を側近に調べさせたとか。為らば余は直接会って貴女の事を知ろうと思いましてな」
「陛下の様な御方が、私の様な小さき者を重んじられるとは、真に不思議で御座います」
「若し、貴女の修道院に必要な物が有れば、何なりと言って下さい。その代わりに余の治世についての助言を頂きたい」
フリードリヒ一世は、ヒルデガルトから何かしらの統治に関する助言が欲しい様だ。
彼女を預言者として敬っているのか、或いは教皇エウゲニウス三世やクレルヴォーのベルンハルトと書簡を交わす彼女の考えを知って、対教皇政策のヒントが得たいのか。
「修道院に関しては、必要な援助は有りません。また陛下の御治世については、私の様な小さき者には有用な御助言など出来ません」
「余は帝国の名誉の為に全力を尽くし、公正な統治の為に正義を尊重して行動しております。貴女から見て、余はその様に見えますか?」
ヒルデガルトは静かに立ち上がり、一礼をして言葉を発した。
「では陛下、私の思うがままにお話しします。虚心にてお聞き下されば幸いです」
フリードリヒ一世は促す。
「陛下にはあらゆる事に細心の注意をして、節制と慎重を心掛ける事を重んじて下さい。私が見る処、陛下は様々な人々との対立の中に生きられるでしょう。然し、今言った節制と慎重で以って治められれば、正しい事跡を成す筈です。至高の王である神が、陛下を打ち倒す事が無き様に、神の恵みが失われる事が無き様にお祈りを致します」
4
ヒルデガルトは間接的に、フリードリヒ一世の治世下で、教皇側と帝国側の戦いが始まる事の危惧と、注意を喚起した。
事実、フリードリヒ一世は北イタリアを直接支配する為に、教皇側との対決姿勢を示す。
長きに亘るこの戦いで、この赤髭王はローマに忠実な大司教を解任したり、ミラノ (Mailand) へ遠征して、当地を破壊したり、教皇アレクサンデル三世 (Alexander III. 、在位:1159年~1181年) に対抗して、四人もの対立教皇を選出したりした。
一方で、北イタリアでは彼の皇帝権力を嫌う「ロンバルティア同盟」が教皇の支援受けて、皇帝側と対抗する。
最終的に教皇側と皇帝側は、1177年に「ヴェネツィア条約」で和約し、フリードリヒ一世は再びアルプス以北の統治に力を入れ、ドイツ国内での帝権を確固たる物にする。
老境に差し掛かった1189年、フリードリヒ一世は第三回十字軍の総司令官として出陣する。
エルサレム王国が、サラディンことサラーフアッディーン (1137年、または1138年生まれ) により、1187年に攻略されたからだ。
イングランド王リチャード一世 (Richard I. 、1157年生まれ) 、フランス王フィリップ二世 (Philippe II. 、1165年生まれ) も司令官として参加した、最も規模が壮大と謳われる十字軍だ。
フリードリヒ一世は、若き日に従軍した第二回と同様に剛勇さを見せ付け、アナトリアの地でイスラム勢力を撃破していくが、キリキア・アルメニア王国 (現在のトルコ南部のキリキア地方) 内の当地を流れるサルフ川 (Saleph ※4) に沿って進軍中、馬が脚を滑らせ、鞍上から投げ出された彼は、川に落ちて、甲冑の重みで溺死してしまった。
1190年。享年六十八歳。
一説には、フリードリヒ一世のサルフ川での溺死は、次の様な事故だったともされている。
「……皇帝は行軍中に疲れを覚え、休息をして、体の熱さの為、川を泳いで冷やしたいと思った。だが、皇帝は神の隠された裁きに因って、嘆かわしい予期せぬ事故で溺れ死んだ」
ヒルデガルトのフリードリヒ一世への謁見から暫く経った1163年。フリードリヒ一世はルーペルツベルク女子修道院に対する保護勅令を発する。
両者の関係は一貫して友好的で、また教皇側も一貫してヒルデガルトと手紙での交流を持ち続けた。
教皇エウゲニウス三世は1153年に世を去り、次代の教皇アタナシウス四世 (Anastasius IV. ) は在位一年で世を去り、ハドリアヌス四世 (Hadrianus IV. ) の時代にフリードリヒ一世は、ローマにて戴冠し、正式にローマ皇帝と為るも、このハドリアヌス四世の時代に決定的な、教皇側との対立を招いてしまう。
そして、先に記した様にアレクサンデル三世の着座後、北イタリアでは皇帝派と教皇派の長い抗争が始まる。
ヒルデガルトや彼女の修道院は、この争いに巻き込まれなかったが、どちらの勢力からも好意的な扱いを受けていたので、彼女は心中で大変辛い時期を過ごしていた。
例えば、フリードリヒ一世が自身に忠実な者を、司教に任ずる事に対して、ヒルデガルトは反対の書簡を送っていたが、特に何の制裁も科せられなかった。
ヒルデガルトはそんな苦しい中、ルーペルツベルク女子修道院の運営と著作と作曲に明け暮れる日々を過ごすが、1160年代から、つまり彼女が六十歳を過ぎてから、その名声に因り、ドイツ各地へ説教旅行を行う事に為る。
生まれ付き病弱な彼女が、六十歳以上まで生きていたのが奇跡だが、そんな老境に入ってから、各地を巡る旅行を度々行う。
独特の著作、幻視と云う特殊な体験。各地の有力者たちは、そんな彼女の説教を聞きたい、と招待したからだ。
【第三章:バルバロッサ】 Das dritte Kapitel: Barbarossa (Rotbart) 了
※1:宗教曲の作者としても著名なので、色々調べれば、YouTubeを初め彼女の曲が聴けるサイト。またCDもアマゾン等で購入できます。
※2:かなりややこしいのですが、ドイツ王 (ローマ王) とは、教皇に戴冠される前の称号となります。ローマで教皇に戴冠されて、初めて「神聖ローマ皇帝」となるのです。また「神聖ローマ帝国 (Sacrum Romanum Imperium) 」の呼称は、このフリードリヒ一世の時代から記録に現れます。
※3:現在ではドイツ東部のラウジッツ (Lausitz) 地方に住む少数民族のソルブ人を指します。言語は西スラブ語系のソルブ語。
※4:ラテン語ではサルフ川。トルコ語ではギョクス川 (Göksu) 。
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キーワードに「十字軍」があるのですが、「十字軍」の話はこれで終わりです。
もし、その後の「十字軍」を知りたい方は、平井敦史様が去年の秋の歴史で書いた「フリードリヒ二世の手紙」をおすすめします。(何だこのブン投げは?)
・フリードリヒ二世の手紙 → https://ncode.syosetu.com/n8737hv/
ヒルデガルトとフリードリヒ一世の会談で、ヒルデガルトが「どうか水には注意してください」と述べたという話があったそうですが、これを採択するかどうか迷いました。
これ書いたら、「秋の歴史」じゃなくて「秋のホラー」ですね。
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