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教会博士、ビンゲンのヒルデガルト  作者: 大野 錦


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【第一章:道を知れ】 Das erste Kapitel: Scivias (Wisse die Wege)

 文化史における歴史上の女性で、本当に有名な人のお話です。

 全六話となります。最後までお付き合いのほど、よろしくお願いします。

【第一章:道を知れ】 Das erste Kapitel: Scivias (Wisse die Wege)



 1938年。ウィーン (Wien) で医学を修めたゴットフリート・ヘルツカ (Gottfried Hertzka、1913年生まれ) なる者が、アンベルク (Amberg、バイエルン州のオーバープファルツ行政管区に在る市) に居た。

 1938年といえば「アンシュルス (Anschluss) 」、所謂ナチス・ドイツとオーストリアの合併が起こった時期だ。

 ヘルツカはある夜、アドルフ・ヒットラー (Adolf Hitler、1889年生まれ) の「我が闘争 (Mein Kampf) 」を読んでいたが、翌朝に本のヒットラーの写真を切り抜いて、とある十字架に備え付けた。

 彼が何故そのような事を行ったのかは不明だが、当然ゲシュタポ (Gestapo ※1) に捕まり、約九カ月間、アンベルク市の収容所に拘留された。

 

 その拘留中、ヘルツカは次の様に神に祈った。


,,Wenn ich dieses Grauen überlebe, werde ich den Menschen die Medizin der Hildegard bringen''


「もし、私がこの恐怖を生き永らえば、私は人々にヒルデガルトの医学を伝えよう」


 このヒルデガルトとは何者か。

 以下にヒルデガルトの生涯と簡単な事跡を述べる。



 年の頃は六十の半ば位か。

 小柄でか細い修道女が、恐らく彼女と共に生活する若い修道女たちに、色々と指示する。

 場所は立派な修道院内の調理場だ。

「ガレットは何時もの様に二種類をお願いね。イブキジャコウソウ (タイム) を粉末にして、それに水と小麦粉を混ぜた物。ナツメグとシナモンと少しのチョウジノキ (花蕾) を粉末して、それらに水と小麦粉を混ぜた物ですよ」

「はい!エプティシン・ヒルデガルト様! (Äbtissin「女子修道院長」) 」

 若い修道女たちは口を揃える。彼女たちの院長であるヒルデガルトに対する眼差しは、尊敬と敬愛に溢れている。

「特に水は大事ですよ。激しい流れの川の水は胃腸を弱くするから、身体を洗う清潔で穏やかな流れの川の水を使うのですよ」


 時に1166年。場所はライン川の中流域に沿ったリューデスハイム (Rüdesheim) のアイビンゲン女子修道院 (das Kloster Eibingen、現在のヘッセン州のダルムシュタット行政管区に在る市、リューデスハイム・アム・ライン) だ。この修道院は一年前に創設された。

 このアイビンゲン女子修道院は、二つの目的で造られた。

 一つはヒルデガルトが元々修道院長として勤めていた、丁度ライン川 (der Rhein) の対岸に位置する1150年に創設したビンゲン (Bingen) のルーペルツベルク女子修道院 (das Kloster Rupertsberg、現在のラインラント=プファルツ州のマインツ=ビンゲン郡に在る市、ビンゲン・アム・ライン) が手狭に為った事。

 もう一つは、この修道院はより庶民の為の修道院。つまり貴族階級以外にも入れる修道院を創設したかった事。

 つまり、ヒルデガルトは貴族の出身だと云う事が、これで分かる。


 1098年。正確な日付は不明だが、一説には五月一日から九月十七日の間に、ヒルデガルトは小貴族の父ヒルデベルト (Hildebert) と母メヒティルト (Mechtild) の間に十番目の子として生まれる。

 両親の出身地はプファルツの貴族シュポンハイム伯爵領 (die Grafschaft Sponheim) のベルメルスハイム (Bermersheim) で、恐らくこれが彼女の姓と謂えるのだろうか。

 ある残った文書では、父の姓名はラテン語風に ,,Hiltebertus von Vermersheim'' と署名されている。 または、父の姓名はヒルデベルト・フォン・ホーゼンバッハ (Hosenbach) とも謂われている。

 何れにしても、記録にしっかり残らない小貴族の出身である事は確かだ。


 現在、「ヒルデガルト・フォン・ビンゲン (Hildegard von Bingen) 」として知られているが、これは彼女が創設した修道院の在る地名に因んで、「ビンゲンのヒルデガルト」という意味合いであり、ビンゲンとは彼女の姓では無い。


 ヒルデガルトは生まれ付き体が弱かった。そして、物心つく頃、いや母メヒティルトの乳を飲んでいた頃からの記憶が有るので、その頃からしばしば幻視とも云える奇妙な体験をしていた。

 ある時、この様な事があった。

 幼いヒルデガルトは身籠った牛を見て、こう言った。

「あの牛を見て、生まれてくる赤ちゃん仔牛の頭と背中に脚に、白い斑点が有るでしょ」

 周囲は笑ったが、実際に生まれた仔牛には、ヒルデガルトが指摘した箇所に白い斑点が有った。


 この様な奇妙な体験を話すと、周囲は不思議がり、更に不気味がるので、ヒルデガルトは長じるにつれ、この幻視体験をしても語らなく為って行った。

 さて、ヒルデガルトの病弱に対しては、両親も心配し、安全に育て上げる自信が無かったので、彼女自身の早い決意もあり、修道院で生活する事に為った。

 ヒルデガルトが八歳の時、両親はユッタ・フォン・シュポンハイム (Jutta von Sponheim、1092年生まれ) に娘を預けた。

 ユッタはその姓の通り、シュポンハイム伯爵家の娘で、この頃ヒルデガルト一家が過ごしていたアルツァイ (Alzey、現在のラインラント=プファルツ州のアルツァイ=ヴォルムス郡に在る市) 近郊のディジボーデンベルク修道院 (das Kloster Disibodenberg) で生活をしていた。

 ディジボーデンベルク修道院は男女併存修道院であり、男女が別々に暮らす修道院だ。

 当時、ユッタの様に貴族の子女が高等教育を受ける為、修道院に入るのは珍しい事では無く、ヒルデガルトは此処で、後に述べる男性修道士との知己を得る。


 ヒルデガルトより、六歳上のユッタの教育は特殊であった。

 それはラテン語の習得なのだが、彼女は詩編 (旧約聖書の神への賛美の詩) をデカコルド (十弦琴) を弾き、歌いながら覚える様に教示した。

 こうしてヒルデガルトは、ラテン語の語彙を覚えて行ったが、肝心の格変化や時称の用法が身に付かなかったので、後年彼女の著作は口述筆記だったり、自身が書いた物を正しいラテン語を身に付けた者に、清書させる形式と為る。

 但し、逆に音楽に因って文字を覚えた事は、後の彼女の業績でもある、音楽作品に寄与する。



 さて、根本的な問題。

 何故、修道院為る物が、中世ヨーロッパ。それも現在のドイツを初めとして、設立されていたのか。

 元々、修道生活とは、より徹底したキリスト教徒としての生活の追及で、人里離れた過酷な環境で、修道士たちは荒行に近い祈祷に明け暮れていた。

 これは主に東方、東ローマ帝国でのスタイルである。

 これが西方に伝わると、違った形に変化して行った。


 ドイツを初めとする中央ヨーロッパとは、抑々鬱蒼とした森林に覆われ、現在より暗く湿って、多くの人々が住むには余り適さない地であった。

 修道院の修道士の主な役割は、土地を開墾し、ひたすら労働する事であった。

 この西方の修道制度の創設者と謂われる、ヌルシアのベネディクトゥス (Benedictus Nursiae、所謂ベネディクト会の創設者、480年生まれ、547年没) の著名な言葉、 ,,ora(オラ) et(エト) labora(ラボラ)'' (ラテン語で「祈れそして働け」) にこの理念は集約されている。


 労働が神に祈る事と同等とされていたのだ。

 そして、修道士とは、この時代一番の労働者であった。

 一見、パンが主食と思われるが、この様に森林が多い地では作物自体が生育出来ない。

 狩猟に因る獣肉(ジビエ)も些細なもの。

 川魚は当時は貴重とされていたので、長らく中央ヨーロッパに住む人々は、北海 (die Nordsee) からのニシンやタラ等の海産物を一番に消費していた。

 三圃式農業。つまり開墾した耕地箇所を、春耕地 (大麦や燕麦や豆類) と秋耕地 (小麦やライ麦) と休耕地 (家畜放牧) と三分し、一年毎にこの土地利用をずらすローテンションで、如何にかヒルデガルトの時代に入る頃には、安定的な食糧の生産に繋がる。


 また、労働は何時しか、知的な労働。つまり学問に従事する事も、労働の一環と見做された。

 修道院で、修道士たちは主にイスラム圏から伝わった古代のギリシャ・ローマの学問を摂取し、更には異教時代のゲルマンやケルトの伝説まで纏めていたのだ。


 そして今でも身近な物である、ワインやビールも修道院が生産していた。

 ヨーロッパのワインやビールのラベルには、しばしば修道院や修道士の絵が付いているが、これ等は元は修道院で造られていた、又は造られている事を意味する。



 ヒルデガルトはある時、意を決して、師のユッタに自らの幻視体験を話した。

「私は生まれてから、しばしば強い光を見て、天からの声を聞いていました。それも疲れや法悦の状態からでは無く、通常に目の前に起こっている日常と同時に見聞きしているのです」

 所謂トランス状態からの幻覚では無く、しっかりと自己の意識が有る状態で、突如同時並行で神秘を見聞きしていたのだ。

 あの母牛の腹の中に居た、白い斑点を持った仔牛を見ていた様に。

 ユッタは驚いたが、この事をある人物に相談した。

 ディジボーデンベルクの男子修道院の修道士フォルマール (Volmar) である。


 フォルマールは即座にヒルデガルトの理解者と為り、彼女の良き相談相手、後の著述の書記役など、ヒルデガルトの活動に欠かせない人物と為って行く。

 さて、ヒルデガルトの最初の理解者のユッタは1136年に死去する。

 彼女は極めて厳格で禁欲的な生活を、自己に対して行っていたので、早い死を招いてしまったのかも知れない。

 師の若い死は、体の弱いヒルデガルトに逆の方向で影響を与え、ヒルデガルトは健康を第一にする修道生活を志す。

 その一環が、医術であり、特に食事や食材の効能には大変気を配った。


 そして、ユッタの後継して、ディジボーデンベルク修道院の女子修道院長に、ヒルデガルトが選ばれた。

 尤も、この女子修道院は本来の男子修道院の付属の様に在るので、僅か数名の修道女の長でしか無く、「修道院長」と云うよりも、ユッタもヒルデガルトも修道女たちの代表者、と表現すべきか。

 

 1141年頃から、ヒルデガルトはこの幻視体験の著作を始める。ラテン語で ,,Scivias(スキヴィアス) (道を知れ) '' と題され、冒頭にはこうある。

「私がこの世に生を受けてから四十二年と七カ月…」

 全三巻からなる著作だが、フォルマールは執筆の手伝いだけでは無く、この著作の公式な許諾を得る役割も果たす。

 フォルマールは、ヒルデガルトの幻視体験とそれを執筆している事を、クーノ (Kuno) 修道院長に知らせていた。

 狼狽したクーノ院長は、所属司教区の責任者であるマインツ大司教ハインリヒ (Heinrich、1080年生まれ) に、ヒルデガルトの事を知らせる。


 1147年末。トリーア (Trier、現在のラインラント=プファルツ州のトリーア=ザールブルク郡に在る市) で行われた教会会議。ローマ教皇エウゲニウス三世 (Eugen III. 、1080年生まれ ※2) を筆頭に、枢機卿たち、各司教たち、各修道院長たちが参集した、この重要な集まりに、クーノ修道院長とハインリヒ大司教は、ヒルデガルトの著作を読んで欲しいと頼み込んだ。


 教皇エウゲニウス三世は、二人の司教をディジボーデンベルク修道院に派遣させ、ヒルデガルトの著作だけで無く、その為人も調査させる。

 そして、この二人の司教がトリーアに持ち帰ったヒルデガルトの著作の一部を、教皇自ら読み上げた。

 列席者は皆驚嘆し、特にこの時代に最も影響力を持っていた、クレルヴォーのベルンハルト (Bernhard von Clairvaux、1090年生まれ ※3) がこう結んだ。

「神からの霊感に満ちた、これ程に感嘆すべき光、如何か消さない様に注意すべきです」


 また、この頃には、ディジボーデンベルク修道院内の女性修道院がヒルデガルトの名声に因って、女性が集い、手狭に為って来たので、完全な女子修道院の設立と、彼女たちの移転が決まる。

 驚くべき事にこの許可を実質出したのは、教皇エウゲニウス三世であった。

 何と教皇自ら、ヒルデガルトに手紙を著し、彼女の著作の後押しの返信をしたのである。

 その最後の部分が以下と為る。

「……聖ベネディクトの規則に従って、貴女と貴女の姉妹たちが規律正しく生活出来ます様に」

 彼女たちだけの修道院を造り、其処で生活する事を進めたのだ。


 場所は先に記した、ビンゲンでルーペルツベルク女子修道院が1150年に設立される。

 ディジボーデンベルク修道院とは左程は離れていない。 (凡そ30キロメートル以内)

 さて、この修道院の設立には、ある貴族の援助があった。

 それはヒルデガルトと共にディジボーデンベルク修道院に居た、リヒャルディス・フォン・シュターデ (Richardis von Stade) のシュターデ伯爵家だ。

 シュターデ伯爵家は、ノルトマルク辺境伯 (der Markgraf der Nordmark ※4) に長らく任命されていた大貴族である。

 高位の貴族の娘のリヒャルディスは、正しい学問を身に付けていて、フォルマールと同じく、ヒルデガルトの著作の手伝いをしていた。

 リヒャルディスの生年は不明だが、彼女の兄のブレーメン大司教のハルトヴィヒ (Hartwig) が1118年生まれなので、ヒルデガルトと年齢的には母と娘程離れている。 (一説には1124年生まれ)


 実はこの移転の前後にヒルデガルトは、生来の病弱が悪化し、まるで石の様に殆ど動けない状態だった。

 処が、ルーペルツベルク女子修道院に移ると快癒した。

 こうしてヒルデガルトの「道を知れ」は十年掛かって、1151年に完成する。清書にはリヒャルディスとフォルマールが大いに関わっている。


【第一章:道を知れ】 Das erste Kapitel: Scivias (Wisse die Wege)  了

※1:ナチスの「秘密国家警察」 ,,die Geheime Staatspolizei'' の略。

※2:ラテン語では ,,Eugenius III. '' 。

※3:ラテン語では ,,Bernardus Claraevallensis'' (ベルナルドゥス クララエワルレンスィス) 、フランス語では ,,Bernard de Clairvaux'' (クレルヴォーのベルナール) 。

※4:後のブランデンブルク辺境伯領の一部。

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 註があって読み難くてスミマセン。

 

 ビールの話が出たので、オクトーバーフェストに行って、パウラーナー (Paulaner) のビールをマース (1リットル) でごくごく飲みに行くぞ~!

 Oans, zwoa, drei, g'suffa! Prost!

 パウラーナーはバイエルン・ミュンヘンでお馴染みのビールですね!



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【短編、その他】

【春夏秋冬の公式企画集】

【大海の騎兵隊(本編と外伝)】

【江戸怪奇譚集】
― 新着の感想 ―
私にとってヒルデガルトは、かねてから特に気になっている聖女で でも詳しいことはわからなくてどうしてやろうかしらんという存在で。 このような確かな見識に支えられた親切な伝記を見つけて感激しています。 …
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