第二章 組織 3
異様に数字を上げる女は、従業員食堂で愚痴っていた。
「やっぱり辞めようかな、と思って。案内からプランニングまで、全部やらせてもらいたいんですよね」
「全国三位だもんな。その実力があればどこでも行けると思うよ。ここにいたら腐ってしまう。転職すべきだよ」
腐ってしまう、という表現に、社に対する向井の思いがこもっている。ウェディングというものを知らない経営陣や、仕事に不誠実な一部社員に対し、向井は嫌悪感を隠さない。そのあたりが、社内での「向井さん、苦手」という評につながっているのだろう。
「受付担当としては率も数も頑張って上げて、プランナーとしてはお客さんたちから感謝のお手紙もいっぱい頂いて。なのにゲームソフト一本買うのも苦しいお給料ですよ」
ここの二百六十円の定食は、安くて美味しい。皆に「よっちゃん」と慕われ食堂を仕切っている「おばちゃん」の手腕だ。だがそれでもひかるの生活は決して楽ではない。
ハルモニアグループには、大阪に「西のエース」と呼ばれる若い女性プランナーがいる。彼女はここ数年、成約率・成約数ともに全国トップで、文字通り絶対的エースの座に君臨している。それになぞらえ、ひかるは、グループ内で久しく空位だった「東のエース」と呼ばれるようになっていた。ところが本人はというと、ひたすら自分の数字を追いかける派であり、エース云々の称号には興味がない。「妬みとか嫌味も入ってるでしょ、その呼び方」「二百六十円の定食で精いっぱいってどんなエースよ」と笑っている。
「本当に考えた方がいいと思うよ。俺も、そろそろ潮時かなと考えてるんだ」
向井の年齢は四十。日本の転職事情を考えれば安易に決断できるタイミングではない。しかしそれほどまでに気持ちが冷えているのだ。
どうやら会社人間には、二種類の「ハート」があるようだ。会社に対して「この組織を盛り上げたい、支えたい!」というものと、自身の仕事に対して「いいものを作りたい、顧客に喜んでもらいたい!」というものだ。前者と後者は別々に動いている。ひかるも向井も、前者が冷えていて、後者は燃えている、そんな状態が続いていた。
「今度おしゃれなカフェに連れてってくださいね」
そう言ってひかるは従業員食堂を後にした。