第十二章 火は、消えることなく 5
「ひどい会社ですよねえ」
三人が残った会議室、交渉の苦い余韻を打ち消すように、ひかるは明るく切り出した。
「芋坂さんは『お願いだから裁判はやめてくれ』って感じじゃなかったね。最初は様子見半分、最後は覚悟半分というか」
「でも上から目線って感じがねえ。やれることがあれば、やってやるから言ってごらん、て言ってたもの」
「白井さんは、交渉が思いどおりにいかないから怒ってた。主張が終始『自分たちが直接表現したわけではないから責任はない』だからね。でも、それでは調停にならないよ。こちらにばかり譲歩しろ、と言ってきてるんだから」
「『ハルモニア』と検索すると、名前が出てくるのはあたしばかりですよ。美濃だのMさんだの、ほんの少し出てくるけど、それはあたしがまとめサイトの管理者たちに『事実はこうです、実際の担当は M氏です』て送ったからで」
「それも会社に『自分でやれ』って言われたからだよね。結局、どこまで行っても『会社に義務はないけど多少は手伝うよ』というスタンスを崩さない」
「訴訟のこと、誰かネット掲示板か何かに流してるの?」
「分からないです。母もツイッターで『娘は無実だ、裁判で無実を晴らす!』て言ってるし」
そう、人の口に戸は立てられない。葉月やえりかに至っては、そもそも立てる気がない。今も盛んにネットで擁護の書き込みをしてくれている。
「芋坂さんは雇用のことを切り出してきたけど、こちらから辞めると言わせたいのよね。就労の権利を奪われたというのであればこちらの立場が強いんだけど、自分の意思で退職すると、そうも言えないというか。手っ取り早いのは解雇だけど、理由のない解雇はできない。だから懲戒の理由を探してるってところ。それには無断欠勤が手っ取り早いわけよ」
ねえ、と話を振られた哲は「でもね」と続ける。
「でも白井さんは『無断欠勤で解雇する』と言い切らなかったでしょう。あそこに実は矛盾があってね。無断欠勤で切ろうとすると『無断欠勤の背景は?』と、本件の事情が必ず出てくる。向こうは『なすびさんや肥後さんと青山さんの個人的な関係だ』と言ってるのに解雇に踏み切れないっていうのは、要するに会社に責任がある、と思っているわけさ。会社に責任はない、好意で面倒を見てやっていると主張だけはしているけどね」
「あたしは辞めたいです。あんな会社、もう縁を切りたい。ダメなんでしょうか」
祐子は哲を見た。
「退職すると雇用関係がなくなる。被害と損害額はどうなる?」
「契約当時の安全配慮義務違反と共同不法行為だから、問題ない」
「精神疾患で働けないという風評が立つ可能性は? 青山さんの訴訟後の労働はどうなる?」
「精神科医の診断書は不安障害で、その内容は『労働意欲はあるものの、ハルモニアでは働けない』と、環境を明確に限定しています。依頼人の社会的評価は最低限守られると思う」
あ、祐子先生が笑っていたあの診断書……ひかるが怖くて読まなかった診断書には「労働に支障はないが『ハルモニア』では働けない」と、はっきり社名が書かれていたのだ。
「その場合、次の職が見つかったとして、賃金的な損害はない、とも主張される」
「では逸失利益じゃなく慰謝料で行きます。デジタルタトゥーで将来的な信用信頼が損なわれる可能性がある。世間のバッシングは何をきっかけに再発するか分からない」
「再発するか分からない、では、金額的にはそんなに乗らないね」
「金額よりも名誉回復が優先。ホームページなどに謝罪記事、訂正記事を載せろ、記者会見をしろ、と求めるのは……?」
「それは主文に載らないでしょう」
「限定的だけど、求められるケースもありますから、探ってみます」
そうね、と祐子は応じ、最後に若い二人に問いかけた。
「あちらは『青山側が、社にとって不名誉なことを書いている』と言ってくることもあると思うけれど」
「内情について青山さんが自分で書いてるわけじゃない。それに『ネットでの対処は自分でやれ』と言われた。つまり会社の指示でやった。彼女自身の名誉回復のために行われた行為であって会社への損害の寄与になってない」
「不名誉なことを書いていると言われても、それが真実だ、と言えます」
「いいでしょう」
ついに祐子は発令した。
「哲、訴状をまとめて。青山さん、二、三度、確認とハンコが必要なのでまた連絡するわね。あと、金額としては苦労が報われたと感じられるものではないかもしれない。現状の裁判というのは、慰謝料などは非常に少ないの」
「大丈夫です!」
「社会的に名誉が毀損された状態がいつまで続くか見当もつかない、それをデジタルタトゥーとして問題提起していく。これは新しい試みなのね。今まで認められたことがないデジタルタトゥーを勘案した判決が出た、というところに意義がある。認められた額が高い・低いというところで評価されてしまうと、本質が見えなくなってしまう」
「今回、デマが流れてしまいました。会社を訴えることで『この人はどうして裁判するの? 濡れ衣なの?』と分かってもらえれば、それでいいんです」
「向こうが和解を提示してきたら、名誉回復措置などの条件次第で飲むけど、構わない?」
「構いません。今回のことは濡れ衣だったと会社が認めて、それが伝わればいいんです」
「分かりました」
これが、炎上の七月三日から数えて百九十一日後のことだった。




