第十一章 一簣之功 4
一方、ハルモニアはというと、祐子曰く「何の動きもない、ここまで鈍い組織は珍しい」というありさまだった。何も動きを見せないまま、カレンダーは十二月になっている。野島弁護士事務所の人たちは皆忙しくしていて、打ち合わせの途中にもいくつも電話が入り、祐子も哲も「その日は午前中にADRで午後は訴訟で」などと言っている。
「お忙しいですね」
「このくらいは普通よ。複数の裁判やリサーチ、相談がいっぺんに重なることがあれば、多少は忙しいと感じるけど」
予定している広い部屋への引越しが、いよいよ始まるらしい。「これでもっと動きやすくなる」と話すバイタリティーあふれる祐子がまぶしい。
「先週、白井ちゃんからやっとメールがあってね。『こちらに対して訴訟なんて起こしませんよね?』って。『訴えるならなすびですよね、それなら彼女についての情報の面で協力します』って。ずいぶん変な方向に突っ走ってる。こっちの空気を嗅ぎ取ってないのね。あの子、大丈夫なのかしら」
どうやら本当に心配しているようで、ひかるはつい笑ってしまう。
「それで、一度話し合いをしたいと言ってきたのよ。青山さんに対しては仕事始めの日から出勤してほしい旨も、書かれてあった。さて、どうしようかしらね」
「そう言ってきたなら、聞かないわけには」
「いかないでしょう」
ひかると哲が同時に答えた。祐子は妙に楽しそうだ。
「だからね、知り合いの弁護士事務所にお願いして、会議室を貸してもらうことにしたの。ものすごくリッチできれいなところよ。高そうなつぼがおいてあってね」
「ハッタリに近いですが、こちらのペースで話せるように、とね」
なるほど、慰謝料の件といい互いの情報交換といい、いろいろな戦術があるものだ。証拠?の準備も自分でしなければいけなかったし「裁判っていうのは本当に知らないことだらけだ」と今更ながら思い知らされる。
「白井ちゃんには『根岸さんを訴えろとおっしゃっているように聞こえますが、あまり好ましい申し出ではありません。とりあえずお話だけは伺いますので、そちらが時系列通りに事実を出してくださることを望んでおります』と返しておいたわ」
哲が解説する。
「話し合いの場でハルモニアとして非を認めれば、白井さんが一個人に責任負わせようとしたってことは黙っておいてやる。もしゴネるならこのメールの内容も世間にバレることになりますよ、という祐子先生なりのアドバイス兼警告です」
「面白いね、祐子先生は」
報告も兼ねてのランチ、今日も向井は笑っている。
「ハルモニアとの話し合いはいつ頃だって?」
「本当にゆうちゃんも哲っちゃん忙しそうで。この分だと話し合いと内容証明は一月上旬っぽいです」
「その話し合い、録音しちゃまずいのかな。俺も聞きたい」
「どうなんでしょう。でも、一応スマホで録音するつもりです。向こうから『するな』と言われない限り」
有給消化に入った向井はしばらく会社に行かないらしく、ハルモニアの内情も詳しくは分からない。それでもいくつかの情報は持ってきてくれた。
「ハルモニア側からは四人、話し合いの場に行くらしい。まずワールドの総務。多分、契約とか給料のことだろうね。一応、青山さんはまだ社員として籍が残ってるから。あと、白井と白井の上司にあたる弁護士。それともう一人は高橋だろう」
「白井ちゃんの上司ってどんな弁護士なんですかね」
祐子が「白井ちゃん、白井ちゃん」と呼んでいるため、すっかりこの呼び方でなじんでしまった。白井が所属しているのはウェディング・ワールド社の顧問弁護士事務所であり、その所在地は東京だ。
「ホームページを見てみたけど、上司と呼べるのは、この太った……いもさか、と読むのかな、この芋坂って人か、逆に細身の御手洗って人か」
示されたスマホの画面に、二人の男が並んでいる。これが「敵側の弁護士」ということか。
「このどっちかと話し合うのか……祐子先生がいるから心強いけど、一人だったら逃げ出してしまいそう」
こちらは、争い事といえばゲーム程度が関の山、という人種である。無理からぬ感想だった。
「そういえば始末書はどうなりましたか?」
「書式のデータを家に持って帰ってメールで高橋に送りつけた。後はどうなったか知らん」
「向井さんも十分面白いですよ」
ハルモニア側との話し合いは、一月十日に設定された。その知らせを受け、ひかるは野島弁護士事務所を訪れた。
「芋坂さんと御手洗さん。ちょっと調べてみたんだけど、この芋坂ってのはけんかっ早いらしいねえ。ガンガン行くタイプって評判が聞こえてきたわ。逆に御手洗さんは穏やかで、まあ何事も穏便に、というタイプらしい」
「そういうバランスで成り立ってる事務所なのかな」
「白井ちゃんは『イソ弁』て言ってね、いわゆる居候弁護士。最初はボスのお手伝いみたいなもの。だから担当は芋坂さんか御手洗さんてことになるんだけど、どちらが来るかしらね」
できれば御手洗さんであってほしい、と、祐子と哲のやり取りを聞きながら考えるひかるだった。
「青山さんは何も言わなくていいよ。つらいです、悲しいです、という顔で座っていれば十分だから」
「向こうがどういう条件を持って来るのか、まあ今までのやり取りを考えたら何も持ってこないでしょうけど、あちらの話を聞くだけ聞いてみましょう。こちらからは多分、何も答えることはないと思う。六日から出勤しろ、ていう文言もあったけど、ま、そんなに身構えないで、年末年始はゆっくり過ごしてちょうだい」
「ああ、お正月前に済ませたかったな」
「そうだ、お正月前といえば。精神科医の先生のところにに行って、診断書をもらってきておいてちょうだい。できれば……」
一言二言、耳打ちされた。
しかし、いろいろと気分が乗らない年末年始になった。例年、クリスマスは社員が家族を伴ってホテルに集まり、パーティーをしていたものだ。去年のこの時期の浮かれた自分の写真は、今もスマホに残っている。確か婚礼部のみんなでコスプレをしたんだっけか。もう、そんな日は帰ってこない。
世間も当然、クリスマスから大晦日、お正月、と華やかなお祝いムードで沸いている。いつも買い物に行く地元のスーパーも、このときばかりは大賑わいだ。奥さんに駆り出されたのだろうか、年配の男性陣が、黙ってカートを押している。彼らは例外なく、棚で商品を選ぶ妻を待つ間、通路の真ん中に立っていた。これではなかなかすれ違えない。この動線の悪さが、普段の買い物を妻任せにしている証左だった。
この年末年始は、家族に心配させたくないし、何より裁判に集中したい(実のところ、家族からあれこれ聞かれるのも煩わしい)ということで「実家に帰らない」と決めたひかるは、息をひそめるように正月を過ごした。向井や葉月とのLINEでの雑談、こっそり再開した新しいアカウントでのツイッターだけが楽しみ、という何ともわびしい年末年始だった。
「何にもいいことがない。せめて御手洗で。芋はいやだ」
「私も御手洗が来るように、大阪で初詣おすすめランキングトップの住吉大社に行って祈りしといてあげたよ。でもおみくじは凶だったんだよね」
「最後のは聞きたくなかった」
さすがランキングトップだけあって、住吉大社のおみくじはよく当たる。一月十日、目の前に現れるのは「お芋さん」というほどかわいくはないが、丸い見た目の男なのだ。




