第九章 モメンタム 6
仙台といえど夏の日中は暑い。お盆を過ぎたこの日は、猛暑と言われた昨年ほどでもないが、十分暑かった。
十九日、月曜日の昼休みを待つように、野島弁護士に電話が入った。
「ああ、お昼休みか」
事務員は食事などで出払っているのだ。鳴り止まない電話の受話器は、祐子が取る羽目になった。めったにないことだった。
「もしもし、野島弁護士事務所です」
「もしもし……根岸理恵です。私、逮捕されるんでしょうか」
力ない第一声。逮捕? はて、根岸とは誰だったか? 祐子は一瞬思案を巡らせ、答えに行き当たった。そうだ、青山さんが言っていた炎上の火付け役だ。
「どういったお話でしょうか」
「私、お金もないし、逮捕されてしまうんでしょうか。青山さんの弁護士ですよね」
青山ひかるの弁護士であるかどうかは個人情報にも関わってくるため、祐子は直接的な答えを避けた。あくまで建前上だったが。
「その件については直接お答えできないんです。ただ、お話を伺うことはできますよ。どういうご用件ですか」
この後、祐子に浴びせられたのは、言い訳の洪水だった。友人夫婦に騙された、聞かされたことをツイートしていただけだ、そもそもハルモニアの対応がまずかった、青山という名前を直接は出していない……延々三十分、食事を取る時間だけが削られていく。
「青山という名前は出てましたね。確か『青山はもっとあざとい感じです』というツイートがあったような」
祐子は、受話器の向こうから繰り出される言い訳の波を止めることに成功した。
「お話は承りました。私からは何も申し上げられませんが、ご自身のしたことは、お忘れないように」
久々の長電話に、少し耳が痛くなった。
「少し冷たかったかしら。でもまあ、青山さんには報告しておきましょう。長くこの仕事を続けていると、妙な電話もあるものだわ」
同じころ、葉月のツイッターに返信が付いた。見たこともない新規の名前だが、プロフィールを見ると「肥後修平」であることが分かった。
他人からも見られることを意識してか、修平の言葉は丁寧かつ短いものだった。
「この度、なすびという人物の行為でご迷惑をおかけしています。一度、青山さんご本人とお話をしたいのですが、間を取り持っていただけないでしょうか」
「っていうメッセージが来たんだけど、どうする?」
葉月からの連絡に、ひかるは困惑した。会って話を聞きたい。それにハルモニアのプランナーとして、美濃の失敗を謝りたい。でも訴訟だ何だというこの時期、会ってもいいものだろうか。
「来週、ゆうちゃんとこに行くから相談してみる。個人的には話を聞いてみたいとは思う」
「弁護士さん」「先生」というのも堅苦しいということで、ひかると葉月は、二人の間で野島祐子を「ゆうちゃん」と呼んでいた。
「じゃあ、ゆうちゃんと相談して決めるってこと、伝えておくね」
「お願いします」
「というメッセージが来たらしいんですが、どうしましょう。私自身は謝罪したい部分もあるんですけど」
「実は、なすび? 根岸理恵さんから電話があったんだけどね」
「ええええ?」
「とにかくいろいろ話してたけど、開口一番『私、逮捕されるんでしょうか』には笑っちゃった。長いこと弁護士をしてるけど、こんなケースは初めて。それはともかく、謝罪っていうのは違うかな。お詫び、ね。罪に対して謝るわけじゃないから」
さすが弁護士、そういう細かいところまで配慮するんだなあ、と妙に感心した。
「話を聞く方向で考えてもいいもんですかね」
「もう少し考えましょ。向こうが会いたいって思う分には、向こうの自由だから」
「って、ゆうちゃんに言われて。会おうかどうしようか悩んでます」
夜になって、今度は向井に相談した。
「会いたいと言ってきたか。だったら会わなくてもいいんじゃない?」
やはり向井は意地悪だった。
「ちょっとぐらい断った方が、食いつきが良くなるさ。ハルモニアと闘うなら、駒は多い方がいいだろ」
「肥後夫妻が駒?」
「会いたいって言ってきたってことは、弱ってきたんだよ。自分が発信源となって散々叩いた相手に対し、弁護士登場のタイミングでアリスに『間を取り持ってほしい』と」
「会えば味方に付けられそうですね」
「うん、でも焦らせば味方じゃなく駒になる。ハルモニアとの和解内容も聞き出せるし、こっちに対していろいろ媚びてくるんじゃないかな」
「うへぇ」
思わず、うなってしまった。そうだった、この男はドSだった。向井が味方でよかった、と改めて思うひかるだった。
「というわけで、九月くらいに肥後夫妻に会おうと思うんです」
優柔不断。ひかるは少し自信なさげに祐子に伝えた。
「あと二週間くらいか。結論から言うと、やめた方がいいかな」
先日と答えが違う。「え?」という表情のひかるに、祐子はその理由を述べた。
「肥後夫妻の代理人から電話とメールがあってね。今回の炎上の件、夫妻の方から詫びるので許してもらえないか、って」
「そうなんですか?」
「青山さんもあちらに対して腹立たしい気持ちはあると思うけれど、私の考えとしては、今回の件は、あなたが無関係だったという情報が広く行き渡り、名誉が回復するのが一番の解決だと思っているの」
それはそのとおりだ。別に慰謝料が欲しいわけでも何でもない。とにかく平穏な日常に戻りたいだけだ。
「そこで、ことの発端であるイクシーズへの文章の再掲載を求めようかと思ってるの。自分たちの書き込みで無関係の人物に迷惑が掛かっていること、誤った認識で誤った情報をメディアで拡散してしまったこと、そのお詫びをしっかり書いてもらいたい、とね」
「向こうの弁護士は何と?」
「二人に飲ませます、と。ただ『肥後夫妻と話してると、内容がころころ変わってどうにもやりにくい。昨日言ってたことが、今日には内容が違ってるって』とも言ってた。それでね、これはもうあなたは直接会わない方がいいな、と。きっと時間の無駄だと思う。弁護士としての経験からくる、勘」
「というわけで」
今回、この出だしで始まる会話は何度目だろう。ひかるは葉月にメッセージを送った。
「裁判で忙しいしそういう気分でもないので今回はお会いできません、と伝えといて」
「そうだね、わざわざ会う必要ないよね」
こうして、肥後夫妻とひかるが直接会うことは、ついになかった。




