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第八章 乱戦 7

 七月二十三日。今日も暑くなる、というテレビの天気予報に送り出されたひかるが向かったのは、仙台市青葉区にあるガラス張りのビルだ。壁面には「仙台弁護士会館」という文字が品よく並んでいる。


「ご相談内容を書類に書き込んで、こちらでお待ちください。順番が来ましたら、この扉からお入りくださいね」

 案内されたのは「三番」の部屋の前のソファーだった。待合室に通されたひかるは逃げ出したい思いをこらえ、番号札を握りしめて座っていた。が、思っていたよりも早く順番が来た。「一番のお部屋にどうぞ」と通された。

「はい、こんにちは。今日は暑いですね。さ、お座りください。本当は別の先生の順番だったんだけど、私の手が空いたもので。私でもいいかしら」

 部屋の中、デスクにいたのは年配の女性だった。

「あ、はい……ええと……」

 いいも悪いもない。初めて来た弁護士会館、初めて出会う人種・弁護士。ひかるは促されるまま椅子に座った。「どんな人かな」と想像していた人物像はいずれも堅苦しい男性だったので、少々意外だった。柔和でスマート。「おしゃれな女の人だな、お母さんより少し年上かな」と、名刺を受け取りながら、ひかるはぼんやりと考えていた。

「野島祐子といいます。ご相談内容は、これはいわゆるネットでの炎上、というものですね」

「私のプライバシーがネットでどんどん晒されて、まとめサイトって形であちこちに書き出されて。私が担当プランナーでもないのに。それで会社にも行けなくなって。このなすびっていう人を訴えるしかないのかな、と思って。それで今日、相談に来ました」

 ひかるの目を見て話を聞いた祐子は、再び書類に目を落とし、なるほど……と小さくつぶやいた。そして意外な答えを提示してきた。

「これ、会社が悪いよ」

「え?」

 いろいろありすぎて、先日の大森たちとのやり取りの時は忘れていたが、確かに肥後夫妻に「二人体制」などと説明したのは会社側だ。それに彼らは何もしてくれなかった。炎上ツイートやまとめサイトに対して何のアクションも起こしてくれず「よく分からないから自分で対応してくれないか」と言ってきたものだ。しかし、積極的な悪意をむき出しにして襲いかかってくるなすびたちを置いて「会社が悪い」というのは、やはり意外だった。

「会社が保持していた録音によると、マネージャーの大森さんと支配人の高橋さんが、話の流れであなたの名前を出してるのよね。『二人体制』というのは内容に偽りあり。これでは被雇用者を守っているとは言えず、不法行為に当たるわけ。二度三度と肥後夫妻と話し合いを持っているなら、青山さんに掛けてしまった誤解を解く機会は十分あったわけで、そう考えると、私は会社が悪いと思う」

 ひかるは言葉が出てこない。

「警察にも行って、そこで記者会見を勧められたわけでしょう。それでもあなたを守るための行動を何も起こしていない。訴えるなら、会社よ」

 野島祐子の答えは、力強く、そして明快だった。

「そうなんですか?」

 祐子は、部屋の奥にいるもう一人の弁護士……息子の哲を呼び、一つ二つ小声で指示を出し、こちらに向き直った。

「最近、ネット炎上の相談は多いのね。もちろん、いくつか実際に訴訟になったケースもあります」

 哲が奥から出てきて、書類を祐子に渡す。

「ツイッターの場合は、米国のツイッター社にユーザーのIP開示を依頼しないといけないんだけど、その費用が」

 哲が持ってきた書類にツイッターの個人を特定するには、という流れが簡単に書かれている。東京のエージェントに依頼し、ツイッター社にIP開示を請求、費用は三十万円、開示までの期間は約三カ月、という文章が目に留まる。

「個人対個人の訴訟でこういう金額がどんどん降り積もって、訴訟期間も長引いて、というのでは、依頼人であるあなたの生活にも大きな負担になるでしょう。そこで」

 祐子は言う。

「共同不法行為、雇用契約上の債務不履行ね。雇用者としての責任を果たさず、見たところ、少なくとも二つ以上の不法行為を犯しているハルモニア仙台を民事で訴える。どう?」

 答えに窮するひかるに対し、哲が口を開いた。

「このなすびという人物がどれほどの支払い能力があるかも分からない。今、奥でネットを見てみたけれど、なすびという人物のことを『生活保護受給者』と言っている人がいた。事実かどうかは分からないけど、もしそうなら法律上、この人を訴えても何も取れないんだ。だから」

「この炎上案件の本丸であるハルモニアを訴えるの。彼らなら訴訟にも賠償にも耐えうるでしょう」

「そんな、大ごとになるなんて、思ってなくて」

 机の上で指を組み、祐子はひかるの目を見て話し始めた。

「よく相談に来てくれました。あなたはとても大きな問題に巻き込まれているの。デジタルタトゥー、聞いたことある? 一生残る傷を、他人にどんどん付けられてる。しかも会社にはそれを回避する機会も義務もあった。それどころか、この事態を引き起こしたのが会社側だわね。これが最大の問題。ネットの書き込みを見るに、支えてくれる友達も少しはいたのかな、でも本当によく頑張りましたね。ここからは私に任せてくれませんか?」

 デジタルタトゥー。電子の入れ墨。ネット上で自分に付けられた、消えない痕。初めて聞いたけれど、確かにタトゥーだ。しかも自分の意志ではなく、強制的に刻まれた(しかも誤った)己のルーツ。大きな問題。そうだ、大きな問題なんだ。

「よろしくお願いします」

 ひかるは改めて、受け取った名刺を眺めた。元・仙台弁護士会副会長、野島祐子。

「副会長……」

 ひかるのつぶやきに、元よ、と祐子は笑った。

「事務員さんが名刺を作る時に『箔がつくから』と入れちゃって」

 その笑顔、このやり取りが、決め手だった。まだ何も始まっていないけれど、この人に任せよう。きっと助けてくれる。この人なら大丈夫だ。後日、野島法律事務所に正式に依頼に行く約束を取り付けたひかるは、弁護士会館を出た。そして夏の太陽を見上げた。すぐに葉月ちゃんと向井さんにすぐ報告しなきゃ。きっと喜んでくれるだろう。スマホを手に取るのがうれしいのは、いつ以来だろう。

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