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第八章 乱戦 6

 聞き取りの前、ひかるは麻衣に挨拶しようと婚礼部の事務所に顔を出した。その時、目に入ったのは美濃だった。その美濃はというと、この事態には未だ我関せずで、ひかるに対し「やあ、今日は来たんだ?」と声を掛けてきた。ひかるは拳を握り、一歩、美濃へと近づいた。

「はい、いらっしゃい」

 間に割り込んできたのは、麻衣だった。

「今日来るって聞いてたから待ってたよ。これ、お客さまから届いた手紙。青山のこと、ものすごく褒めてくれてる。聞き取り前にでも読んでおくといいよ」

 そういって笑顔で手紙を渡し、ひかるをくるりと半回転させ、背中を押した。そして一歩二歩、と歩き始めたひかるの両肩に手を乗せたままについてくる。

「頑張ってらっしゃい」

「ありがとうございます」

 そういってひかるが振り返ると、果たして先ほどの笑顔をどこへやったのか、口を真一文字に結んだ麻衣が「うん」と力強く頷いていた。

 どういう意味だろう、一瞬悩んだ。そうだ、あれはいつも社員研修の時に見せる顔だ。「できるでしょ?」と頷く顔だったか。

「ありがとうございます」

 頭を下げて、ひかるは大森、高橋、そして顧問弁護士の白井が待つ会議室へと向かった。


 ドアの向こうにいたのは、若い男だった。

「高橋さんも大森さんも、もうすぐ来ますよ」

 顧問弁護士、白井健二。年齢はひかるとほぼ同世代。弁護士事務所の若手、といったポジションのようだ。

「今回のミスとそれに対する肥後さんたちのお怒りの件、ハルモニア側が肥後さんにどういうご提案をできるか、高橋さんたちと一緒に考えているところなんだ。青山さんにも、何かしらのアドバイスができれば、と思って」

「アドバイス、ですか」

「青山さんはどうしたい? 今後もハルモニアに籍を置くなら、ビジネスネーム、分かりやすく言うと偽名を使って働くことも、会社としては認めるそうです。仙台で働きにくいというのなら、別の支部・支店でも構わない。土日の受付担当限定で遠距離の通勤も認めようとハルモニアでは考えています」

 認める……? 偽名……?

「炎上っていうのが、僕もちょっとまだ勉強不足というところもあって、よく分からないんだよね……。プライバシーがネットに晒されたのなら、もう引っ越してさ、やり直すっていうのはどう? 引越し費用は……会社負担にできるのかな、また調べてみるけど」

 弁護士が来る、と聞いていたのに。一緒に闘ってくれるんじゃないのか。助けてくれるんじゃないのか。「よく分からない」では、高橋や大森などこの騒ぎを放っておいた人たちと何ら変わらないではないか。

「この会社を訴えることとかできないんですか。誰も、何もしてくれない」

 自分への嫌味が含まれていたことに、白井は気付いていない。

「そうだなあ、できるできないで言えば……できると思うよ。炎上で精神的にも現実的にも仕事ができない状況ということなら、雇用者への安全配慮義務違反だしねえ。しかし……ああ、高橋さん」

 高橋、箱を抱えた大森が入室してきたことで、答えを最後まで聞くことはできなかった。ただ、この耳慣れない「安全配慮義務違反」という言葉が、初めて今の自分の状況をカテゴライズしてくれた気がして、妙に心地良かった。そう、自分ではない誰かが「違反」しているのだ。少し救われた気がした。

 しかし気が緩んだのも一瞬のこと、すぐに総毛立つ思いに襲われた。大森に続いて西山、さらに美濃が入ってきたのだ。


 ひかるは、高橋に訴えた。

「美濃さんが打ち合わせを進めていたので、私は肥後さんの式については一部しか分からないんです」

「それは理解しているよ。美濃くんにも話は聞いている。今回は婚礼部だけじゃなく、サービス、衣装、レストラン、司会者さん、全部門が少しずつミスを重ねたということまでは分かっているんだ。それを肥後さんに説明しても、話が進まなくてね。ホテルの経営方針だの、SNSの力を借りて告発するだの、気持ちは分かるが、正直、会話にならなくて」

 高橋は苦々しい顔で現状を説明した。

「今日、僕は初めて直接話を聞くわけだけれど」

 西山が美濃に問いかける。詰問と言うには柔らかい。その目線は大森が抱えていた箱に注がれている。

「一年以上に及ぶ打ち合わせが三十数回。資料もあるだけ提出してもらいましたが、どうにも理解できない点がいくつか。細かい点は高橋さんと大森くんに任せるとして……打ち合わせ中の肥後さんとは、ずっと良好な関係だったんだね?」

「はい、普段通りのやり取りで、ずっと順調だったと思います」

「肥後さんご夫妻の話では、打ち合わせ段階で『旧姓NG』が決まっていたはずだね。これについては?」

「これは、僕が、司会の広田さんに披露宴進行を発注したんですが、彼女が最終版の書き上げの際にですね」

「いや、司会者さんのところで発生したのは『祝電を読み上げない件』が抜け落ちた、ということだろう」

「ああ。いえ、しかし、広田さんが少し手間取ったというか、披露宴進行の完成が少し押したのが原因ではあるんです」

 ひかるは美濃の話を聞きながら、大森が抱えてきた箱を漁っていた。ひかるが美濃に残した大量のメモ、打ち合わせの日程表、四谷フラワーから届いた花飾りのイメージスケッチ……今回の件の資料が全て詰まっている。これじゃない、あれじゃない。ボイスレコーダーも入っているが、向井が内容を聞いたというのはこの音声データだろうか。そして目当ての一枚を見つけ、手に取る。

「大森さん、見てください。肥後さんご夫妻の原簿、真っ白です。式の二週間前の騒ぎ、覚えてるでしょう? 美濃さん、結局この原簿は埋めなかったんですか?」

「時間がなかったから原簿じゃなく、披露宴進行の書類を直接埋めたんだよ。あれは青山さんが打ち合わせしてくれたんだよね」

「私と麻衣さんは、ご夫妻に披露宴の内容を確認して、それを美濃さんに伝えたんです! 本来は原簿を埋めた後に披露宴進行を書き込むのが手順でしょう!」

「青山、落ち着け」

 眉間にしわを寄せる大森のことは気にも留めず、美濃は記憶をたどるように続ける。

「広田さんに披露宴進行を送って清書を依頼して……そうだ、旧姓で開式宣言をしたのは、僕はお二人に『逆にお友達と楽しみましょう』『プラス思考でいきましょう』と提案した結果だったんです」

「はあ? プラス思考?」

 思わずひかるが言い返した。もはや先輩への言葉遣いではない。

「向こうが嫌がってるのに提案? プラス思考って何?」

「青山、落ち着けって」

「最終的に親族の方は呼ばず、ご招待はお友達だけでしたから。旧姓を伏せることなく、前向きに、という」

 白紙の原簿を手にしたまま、もはやひかるは何も言えなかった。堂々と揺らぐことなく語り続ける美濃が恐ろしい。一方、霞がかったような美濃の言い分を聞いた西山は、呆れと苛立ちの混ざった気分で問いかける。

「先方と良好な関係なら、食い違いは起こらんだろう? 原簿の中身が未定、未定、未定。原簿にあるべき『新郎の両親へのサプライズ』も未記入だ。これは確か、ご両親からのビデオレターだったね。結果として披露宴進行も抜けが多い。なのに、かなり早い段階から招待状の打ち合わせだけは進めている、と」

 招待客の確認、および招待状の打ち合わせは、三カ月前に行うのが普通だ。早過ぎるとその後に人間関係の変化があるかもしれないし、遅過ぎては互いに不都合が出てくる。しかし美濃は、半年前から夫婦と招待客のことについてずっと話し合っている。

 もちろん疑問はそれだけではない。拾いきれない、数えきれない細かい謎が目の前に広がっている。結果として西山に言えるのは、この一言だけだった。

「きみは一体、何をしとったんだね?」

 記録はあれど、そこに結びつく記憶は皆の中ですっかり薄れ、絡まってしまっている。ひかる自身も、大森の言いつけもあって深く介入していたわけではないので残念ながら全体像が見えない。こうした現実を前に、誰も言葉を発することができなかった。


 誰もが納得できる結末は、もはや見つかりそうもない。高橋が、ここらで切り上げよう、と言わんばかりに話し始めた。

「一応、社内で検討を重ね、今回の炎上については静観しよう、ということになった。仙台だけではなくハルモニアグループ全体の、それどころかワールドさんの看板も背負うことになるんだ。私などが会見できるはずもない。もちろんワールドさんにお願いするわけにもいかない。それに肥後夫妻は被害者でもあることだし、事を大きくするわけにもいかん。もちろん青山くんのことは気には掛けているよ」

「警察の人も記者会見などを開くべきだ、と言ってたじゃないですか」

「あれは玉村という刑事の個人的な考えではないかな。今はみんな忙しくてね、それに炎上というものに対して社がどうアクションを起こせばいいか、答えがないんだ。インターネットでの中傷のたぐいは時間が解決してくれる部分もあるだろうし、何とか自分で対処してもらえるかな。アドバイスなら白井先生から聞けると思う。ねえ、先生」

「自分で対処」「引っ越してやり直せばいい」「安全配慮義務違反」「ご夫婦とは良好でした」。それらの言葉が脳の中でぐるぐると回る。ああ、これだけ訴えたのにこの人たちにとってはどこまで行っても他人事なんだ……。この瞬間、自分でも驚くほど、あっさりと「腑に落ちて」しまった。吹っ切れてしまった。

 そんなひかるの表情を見た大森と高橋は、またも大きな過ちを犯す。「収拾」を予感したのだ。正確には、信じたのだ。

「解決まで、もうひと踏ん張り、頑張ろうな」

 聞き取りを締めた大森の言葉は、もはやひかるには何も響かなかった。

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