夢の中の夢―令嬢が見付けた「本当」―
とある城に住まうお嬢様は外出を許されない身の上。
そんな彼女の楽しみは「先生」が語る様々な物語に耳を傾けることだった。
ところが、ある日に語られたお話はお嬢様の世界を一変させてしまい……。
※ホラー要素がありますので、苦手な方はご注意ください。
メイドが開けたカーテンの合間から、白々とした朝日が溢れる。
門から玄関へと続く道の左右に広がる花壇に小鳥達が舞い降り、楽しげにさえずり合う声が耳に届いた。
ふかふかのベッドから起き出して、素足のままそっと窓を開けば、顔を出した途端に色とりどりに咲く花の香りが出迎えてくれる。
窓が開く音に、眼下にいた一人の青年が振り返った。彼は私と目が合うと土いじりで汚れたらしい両手を払い、親しげに話しかけてきた。
「おはよう」
目尻に皺を作りながら朗らかに笑うその人が、私の先生だった。
◇◇◇
春先の暖かい風を受けたレースのカーテンがさわさわと揺れる傍らで、ペンが紙を擦る音が響く。
食事を済ませ、自室で先生に勉強を見て貰っていた私は、きりの良いところで手を止め、濃い紅の自分の髪を指ですいた。
「だいぶ伸びたね」
先生がその仕草を見止めて感慨深げに言う。いつもの先生らしい、柔らかく低い声だった。
「えぇ」
私の髪は、長い間切っていなかったために腰を過ぎるところまで伸びてきている。職人が清流をイメージして作ったこのドレスには良く栄えるけれど、やや鬱陶しく感じ始めていたところだ。
そう思ったのが顔に出ていたのか、先生は「結って貰わないのかい?」と問いかけてきた。私はふるふると首を振る。難しい理由などなく、ただ面倒だったからだ。
何人もいる使用人に頼めばいくらでも可愛らしい髪形に結ってくれるのだろうが、畏まった場に参加するわけでもないのに人に髪を触られるのは億劫だ。
けれど、だからといって、お母様がいつも褒めて下さるこの髪を切ってしまう気持ちにもなれない。とすれば、結局は「我慢する」という結論に達する他ないのだった。
「今日も何かお話を聞かせて?」
私は鬱屈とした空気を変えたくて、先生に期待の眼差しを向けた。先生はとても物知りで、面白い話をしては外の世界の扉を易々と開き、心をときめかせてくれる。
そんな話にはあちらこちらを旅した経験談だけではなく、道中に見聞きした物語も含まれる。
この間は過酷な運命へと天使と共に立ち向かう少女の冒険譚だったし、その前は騎士になる夢を叶えようと奮闘する魔法使いの男の子のお話だった。
中にはちょっぴり恐ろしい内容の時もあるけれど、続きが気になってついつい最後まで聞いてしまうのだ。
「そうだね」
涼しげな目元の先生は、思案する顔つきで尖った顎を撫でる。
髭を剃り、髪を短く切り揃え、白いシャツに身を包んだ姿は儚げな風情さえあり、彼がまさか数年前まで放浪の旅人だったなどとは、誰も思わないだろう。
「じゃあ、今日は某国の姫君と隣国の王子との話をしてあげよう」
「まぁ、もしかして恋のお話?」
恋愛ものだなんて、先生にしては珍しい。ぱっと目が輝くのが自分でも分かった。私は早く外の世界に触れたくて、視線が先生の口元へと吸い寄せられる。
そんなあからさまな反応が面白いのか、薄い唇は微笑みの弧を描いた。
「ふむ、恋か。確かにそうだ。でも、普通とちょっと違う恋だな」
「違う? どの辺りが?」
軽妙に話す口調に、胸がわくわくする。これからどんなお話が始まるのだろう、どんな煌めく世界が広がるのだろうと考えただけで、幼い子供のように心を奪われてしまう。
だって、私の世界はこの家で完結していたから。
お父様とお母様と二つ下の弟、そしてたくさんの使用人達。白壁の城と花園、外周をぐるりと囲うまた白い壁。それが私の全てだった。
『お父様。私も外へ行きたいわ』
幼い頃、そう何度かねだったことがあった。
本で読んだ登場人物達のようにガラス越しにお店の品物を眺めながら歩いてみたいし、並木道をのんびり散歩したり、商店街の賑やかさを肌に感じたりしたい。
けれど、返事はいつも判で押したように同じだった。
『お前はここにいれば良い。欲しいものは何でも買ってやっているだろう?』
嘘ではなかった。「服が欲しい」といえば腕利きの職人が何人もやってきて希望通りに仕立ててくれたし、「いつもと違うものが食べたい」と言えば国一番の料理人だって呼び寄せてくれた。
数多ある望みの中で、叶わないのは門の外へ出ることだけだった。
「お姫様は馬に乗るのが大好きなお転婆娘で、親から押し付けられそうになった縁談に反発して、家出してしまうんだ」
「まぁ! 大胆なお姫様なのね」
「ところが追手から逃げる途中で、崖に落ちてしまってね……」
先生は優しい語り口で、そんな私をこことは違うところへ連れて行ってくれるのだ。
旅人をしていた先生と出会ったきっかけは数年前に遡る。それはお父様が大切な用事で隣町まで馬車を走らせていた時だった。
大量の蹄の音と、林の只中で急に止まった馬車に驚いたお父様が馬車の戸を開けて顔を出すと、手に鎌や抜き身の剣を携えた恐ろしい盗賊達に囲まれていて、御者も逃げたあとだった。
凶器は鈍い光を放っており、これまでに幾度も血と命を吸ってきたものに見えたという。
お父様はやむなく全てを差し出したおかげで命を取られずに済んだけれど、代わりに着る物以外の全てを失ってしまった。
蛇のように伸びる道の他には、背の高い木々が生えているばかりで、出発した町も行き先もはるか遠く。
目的地の方向に向かって歩き始めはしたものの、盗賊が出る街道を通りがかる人は望めず、食料もない。自らの命のために手持ちの財産を投げうったが、これでは死を先延ばしにしただけだ。
その上、お父様は急を要する用事を抱えていた。
『一体、どうすれば……』
『どうされました?』
途方にくれていたお父様に声をかけたのは、痩せた馬に乗った、薄墨色の外套を纏った青年だった。訪れかける夜に溶け込むその姿に、新たな危機か、はたまた幻かと思ったそうだ。
しかし、みすぼらしい身なりのその男性はお父様から事情を聞くと快く馬に同乗させてくれ、なんと目的地まで送り届けてくれた。――そう、その人こそが今の先生のこと。
『大変助かりました。あなたがいなかったら今頃どうなっていたか。どうか私の家へお越しください』
『い、いえ、困った時はお互い様ですから』
『そう仰らず、是非! 礼もせずに帰すなどとんでもない』
命が助かり、なんとか用事も済ませることが出来たお父様は、そう言って遠慮する先生を半ば強引にこの城に連れ込み、お礼として服や食事を振る舞った。
先生は身なりを整えてみると非常に見栄えの良い方だった。旅人とは思えないほどの細身で、立ち姿はまるで貴族の麗人のようなのだ。
加えて博識だったため、お父様は先生を心から気に入ってしまった。家に留まり、自分の話し相手になって欲しい、果ては娘の教育係になって欲しいと懇願した。
あまりの熱心さに先生も断りきれず、今に至るというわけだ。
私はといえば、最初は見ず知らずの男の人が突然、自分の世界に入ってきて戸惑った。
家族のように生まれた時からいた存在でも、使用人のように従う存在とも異なる立場の相手に、どう接して良いのか分からなかったのだ。
けれど、お母様の後ろに隠れて怯えていた私に、あの人は柔らかく微笑んでこう言った。
『お嬢さん、お姫様の話は好きかな?』
私はいつの間にか、先生が語る姫君や魔法使いの物語に夢中になっていた。お母様も使用人もお話は聞かせてくれたが、それらとは何かが違っていた。
まるで自分がお姫様になったような、不思議な気分だった。あれ以来、私は先生のお話の虜だ。こんな閉じられた空間でも、それさえあれば退屈ではなかった。
ある時、先生は奇妙なことを問いかけてきた。
「もし、今の自分が眠っている本当の自分の見ている夢だったらどうする?」
時刻はもうすぐ夕食の時間。使用人達によって窓もカーテンも閉じられ、部屋や廊下にはランプの明かりがいくつも灯されている。
「夢のはずないわ。だって、つねったら痛いし、お腹もすくもの」
先生は「もしもだよ」と笑う。いつもと同じ柔らかい笑みのはずなのに、火に照らされたその顔は、一瞬だけ違和感を抱かせた。
「夢にだって、痛みも空腹もあるかもしれないよ」
「夢だったら……」
もしも、今が全て夢だったら。厳しいお父様も、優しいお母様も、最近剣の扱いを習い始めた弟も、従順な使用人達も、このお城も、みんな本当は夢だとしたら――。
「先生、やめて」
夢はひと時のものに過ぎず、目が覚めれば泡のように消えてしまう。悪夢なら覚めた方がいいけれど、この世界はやや窮屈ではあっても悪夢ではないと思う。消えてしまうのは嫌だ。
真っ暗な洞穴を覗くような気分だった。目を背けたくなる、得体の知れない恐ろしさを感じたのだ。
「怖いわ」
私の悲壮な表情に先生は心配になったのか、肩にそっと触れて「ただの作り話だよ」と諭した。
「安心して。もし夢だったら私もただの登場人物ということになってしまうからね。それは悲しいな。……今日はつまらない話をしてしまった」
謝罪する先生の声は、何故か耳を上滑りする。私は初めて先生のお話を聞いて胸を躍らせた時のように、自分の中で何かが変わってしまったのを感じていた。
翌朝。目が覚めて、私は愕然とした。
あの話を聞いて以来、見るもの触るもの聞くもの食べるもの、とにかく全て灰色がかった、よそよそしいものになってしまったのだ。
「私、おかしくなってしまったのかしら……?」
暗闇の中、ベッドに入って枕を抱きしめる。ふかふかとした羽毛の感触も、石鹸やお日様の残り香も、どこか空々しい。
もうお父様に叱られても胸が苦しくならないし、お母様に髪を褒められても暖かい気持ちになれない。
大事にしていた櫛を喧嘩した弟に割られても怒りがわいてこなくて、眩暈がするほど困惑した。確かなのは、そんな自分が悲しくて零れる涙だけ。
他は皆、ヴェール1枚向こうの出来事のようだった。
もしかして、本当にここは夢の世界なのだろうか。いつしかそう考えるようになった。虚ろな感覚は、夢から覚めようとしている兆しなのかもしれないと。
未来に見る夢は希望だけれど、寝て見る夢は単なる嘘だ。もしも全部が嘘なら何をしても無意味ではないか。段々とそう思えてきて、余計に私は無気力になっていった。
かつては生き生きと輝いていた髪のつやも失い、今はもう澄んだ水面色のドレスも似合わない。
周りのみんなは心配してくれた。笑わなくなり、食欲を失い、部屋から出ることさえやめて痩せ細っていくお嬢様を。
両親は方々から医者を呼んで私を診せたが、異常は認められなかった。病気ではないと私が言っても、また新しい「名医」を連れてくる。
「お嬢様、良い天気ですよ」
「美味しいお菓子が焼けました。召し上がってください」
前の私なら飛びついていたものにも、生返事を返すのが精いっぱい。いくら麗しい花の香りを嗅いでも、宝石の煌めきを目にしても、胸の奥が枯れてしまったように何も感じない。
最初はそれが悲しかったはずなのに、最近はその「悲しみ」さえも良く思い出せず、ヴェールの向こう側に行ってしまった。
「先生、私、消えてしまうのかしら……」
床についたまま、見舞いに訪れてくれた先生に問いかける。先生は噴き出すように笑って「何を馬鹿なことを」と言ったけれど、少しわざとらしくも見えた。
「大丈夫。ちょっと疲れてしまっただけだよ。しばらく寝ていれば治るさ」
「……世界がこのお城だけだったらどうしようって思うの」
「私は外から来た人間だよ。お医者様だってあちこちから来ているじゃないか」
確かに窓からはお城の外の町並みだって見える。でも、あれが本物だってどうして証明できるだろう?
これまでは先生のお話が私を魅了していたから平気だっただけで、自分を騙していただけなのかもしれないと唐突に気付いた。
夜空を埋め尽くす銀河の如き幻想も、すでに色褪せたただのがらくた。使い古されて転がった玩具に過ぎない。
「ねぇ先生。ほんとうってなあに?」
「些細なものだよ。さぁ、リンゴを剥いてあげるから、召し上がると良い」
慣れた手付きで、しゃりしゃりと皮が細く長く剥けて垂れ下がっていく。旅人だった先生には、それくらいお手の物だ。
「……」
私はあるものから目が逸らせなくなっていた。それは皮でも、先生の筋張った指の動きでも、ましてや素肌を晒しつつある真っ赤なリンゴでもない。
どくどくと脈打つ音が耳の奥で大きく響き、久々に感じたことのないほどの現実味が全身を震わせる。
「おっと」
緊張からか手が滑ったらしく、薄く切ってしまった指先から細く血が溢れ出る。生々しい、赤。こんなに鮮やかな色は、これまで見たことがないと思った。
「……どうかしたかい?」
心臓の音は、今やはちきれんばかりだ。様子を訝しんだ先生の優しい問いは鼓動にかき消され、私はゆるゆると痩せ細った手を伸ばした。
「見つけたわ、『ほんとう』を」
鋭く研ぎ澄まされたそれは、己を蝕む想いを断ち切って余りある輝きを放つ。指先が固い柄に触れると、私は甘美な喜びに思わず笑んだ。
顔の筋肉を使うのは暫くぶりで、引きつれて痛かったが、そんなことはどうでも良かった。
ああ、これで確かめられる。私が私であるかどうかを。家族の存在を。世界が夢か現実かを。悦びが足の先から頭の天辺までを貫くようだった。
「あら、先生。どうかしたの?」
何故か恐ろしいものを見るような顔をして立ち尽くす先生に、私は小首を傾げる。
「お、お嬢さん?」
「ねぇ、一緒に喜んでくれるでしょう?」
ぼとん、とその手から剥きかけのリンゴが零れ落ちる。
すると、くすんで暖炉の中のようだった部屋がリンゴを中心にして一気に色を取り戻した。瞳がそれについていけず、鈍く痛むくらいの変化だ。
「『ほんとう』を確かめる方法が、ようやく分かったの」
ベッドから足先を滑らせると、長い間歩くことを忘れていた足がもつれた。寝間着の裾をたくし上げると、こちらも棒切れみたいに細くなってしまっている。これでは確かめるどころではない。
「誰か、誰か。食事を持ってきて頂戴」
私の元気そうな声に、お城は活気づいた。すぐに暖かい食事が届き、知らせを聞いたお父様達がやってくるだろう。
先生は蒼ざめたまま、私を見つめ続けている。その大きく開いた瞳には、果物ナイフを片手に握ったまま酔ったように微笑む女性が映っていた。
あれは誰かしら。それも確かめなくてはね……。
少し怖いラストになってしまいましたが、いかがだったでしょうか?
短編を書きたいなと思った時、すっと浮かんだお話がこれでした。
女の子・若い先生・夢が最初に出来たテーマで、話を考えるうちにラストもこの形に決まり、本当は怖いものが大嫌いなのですが、そのままにしました。
お読みくださり、ありがとうございました。