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魔法のない世界に転生して18
女は女神エリカの言葉に、ここに来た目的の大半を喪失したと思った。それは言外の雰囲気で、エリカや眷属神のみんなにも伝わる。しかし女は人間の世界から帰ろうとしなかった。目的を喪失した女はエリカと特別話すこともなく、ここでの生活を楽しむようになった。トムたちの生活は、女が来ても、それ以前とあまり変わらない。
エリカの家族は美味しいものを食べることを好む。自分達で創作料理を考え、自分も人々にも食べてもらう。女もいつの間にか、エリカたちに感化され、食材や薬剤を集めてくるようになった。
夕食後は慣例の家庭音楽会を全員でおこなう。エリカの奏でるピアノとトムのバイオリン、自動人形のチェロ。本気の演奏である。音楽の圧倒的うねりが、小屋のホールに鳴り渡る。大曲を一歩も退かずに、ひきとおす。女も黙って集中して聴いている。スージーと灰色狼が目を見開いて聴いている。女は音楽に興味を持った。
音楽の感動は、色々な意見があるが、トムは少数で奏でる音楽が好きだ。オーケストラに感動することより、コンクールで感動することの方が多い。無伴奏の曲より、ピアノ伴奏がはいった方が嬉しい。空間に広がる彩りが違う。上位入賞者にたいする特典としての小ホールのコンサートは感動する。自分がこのコンクールで入賞したのだと言う達成感、誇り、全ての矜持をここにたたきだすという思い。聴衆が感動しないわけがない。空間が音の彩りでいっぱいになる。トムはピアノ、バイオリン、チェロの組み合わせが好きだ。トムはこの間までこの組み合わせしか自分を感動させるものがないと思い込んでいた。しかしピアノとクラリネットだけで聴衆を自在に楽しませる奏者をみて、自分が何も知らなかったと、不明を恥じた。
女は自動人形といる時間が多い。女が自動人形に語りかけ、その答えに満足する姿を何度も目撃した。トムは自動人形に問いかける。「女と何を話しているんだい。」自動人形は少し困った顔で「私の考える仕様を見ています。次の動作の選択する仕様をみています。動作の初めと終わりを、言葉で理解しようと観察しています。」トムは自動人形の言葉に戸惑った。「私はこのままでは、あの女の人に、精神も体も乗っ取られる可能性があります。」トムは質問する。「言葉だけで全てが乗っ取られる事があるのか?」「自動人形とはそのようなものです。あの方は言葉になる前の、私を構成する命令言語、記号を理解しかけています。エリカ様は乗っ取られないための二重、三重のロックをかけてくれましたが、あの方には児戯に等しい。」
恐れていたことがはじまった。トムはそう思った。しかし女はそれ以上自動人形に攻撃を仕掛けてこなかった。姉は大丈夫だといった。
女は楽器をいじり始めた。女はラの音階に興味をおぼえた。ラを440hzとして、1オクターブ高いラを880hz2倍の周波数にする。1オクターブの中が12分割されており、2の12乗根倍ずつ周波数が高くなっていく。女は音楽をトムとは異なる言語で理解しはじめている。
女は夕食後の音楽会で、ソロでピアノを奏でた。はじめて人間の音楽をきいて、その次の日には、自在にピアノを奏でる。ピアノの音には軽い精神波を乗せていた。悪意ある精神波ではないが、トムは内心あんたんたる思いに捕らわれる。
トムはスージーと食材を取りに行く。女もいつの間にか同行した。二人とも女とは普通につきあっている。感情が相手を疎外することを知っている。出来るだけ、そして無理のない範囲内で友好モードでつきあっている。トムは洞窟で見つけた新たな武器をスージーに見せた。魔獣の毛である。30cmぐらいの直毛である。精神波に敏感に反応する。一本を強度を高めてウサギに放つ。ウサギは攻撃されたことをさとって、逃げ出す。毛針は邪魔になる木立をさけて、迂回してウサギを捕らえる。「兄さん、凄い。」スージーが興奮する。毛針をスージーに渡す。スージーも精神波を乗せて獲物に投げる。
エリカがトムを連れて領主の館に辺境候を訪ねる。トム帰還の報告である。トムは騎士団の所属である。報告が必要である。
エリカとトムは領主の居間に案内された。「トム、ご苦労だった。」トムは「調査から帰還しました。」と挨拶した。「早速報告を頼む。」領主の言葉に、トムは調査の詳細な地図と、スケッチを領主に見せた。
領主は難しい顔をしている。「その女が当面の脅威になるのか?」トムが、「そうです、しかし今の人間は、女に勝てません。」領主はエリカを見る。「会いますか?」「いまあっても、後からあっても、脅威は同じか。」「勝負にすらなりません。」
翌日、領主はエリカの小屋に向かう。公式の服装ではない。供も最小限の人間である。
いまさら何が出来る。きけば女はまだ人間の習慣に馴染んでいないと言う。言葉も覚えたばかりだという。エリカは、とにかく、仲良くなってもらいたいという。ここに来たのはこの世界の神に会いに来たのだという。
一介の地方領主に何が出来る。国王でも同じだ。何の権限もない。地方領主に馬鹿にされている国王が、声をあげても誰も動かない。今回の避難がうまくいったのは、ひとえにエリカとトムの姉弟によるものだ。いま領地は収穫を行える2年目を迎えるために、領民が生き残ることしか考えていない。
「よくいらっしゃいました。」領主は僅かの供とエリカの小屋に来た。
エリカは女を連れてきた。領主は女に優しく声をかける。「二、三日泊まるので宜しくお願いしますね。」女も教えられた挨拶をする。領主はつねに女と行動をともにする。女のツケンドンな態度にも厭な顔ひとつしない。なんとか女の信頼を得たいのだ。
エリカは作業を女と領主とスージーとを組ませ、話をする機会を多くする。人との交流を持たせるには、共通の技術の習得をめざすのも良い手段である。いずれの場合でも仲間意識と達成感が重要である。
領主は十分に打ち解けてから、女がここに来た理由をきいた。「トムのあるじに会いに来た。」「あるじとはエリカの事ですか。」「そうです。エリカにあいました。」「どうでした、エリカと会って?」「この世界の神でなかった。」領主と女の話はなかなか意味のある話しに行き着かなかった。「エリカはこの世界の神ではなかったのですね。ではエリカは何でしたか?」「旅行者でした。」「はっはは!そうですか、旅行者でしたか。あなたは神でないエリカにがっかりしましたか。」「エリカは旅をする神です。」辺境候は素直にエリカは神かと思った。トムは神の従者、眷属神か。それならすべて話が合う。
「それでは、あなたは神ですか?」「私は私です。」「人間ですか?」「神でもなく、人間でもありません。私は私です。」「あなたはこれからどうするのですか?私に出来ることが有りますか。」辺境候は考える。女神であるエリカが、世界を滅ぼせる力があるという女。扱いを間違うと人類は滅ぶ。女が何をしたいのか、明確にしっておく必要がある。
女は自分が何者かと問われても、答えを知らない。だれでもお前は何者か、と問われて、適切な答えを言えるものは、少ない。普通に生きるのに、そのような事は考えない。女はエリカなら、おまえが何者かと、答えてくれるような気がする。エリカはこの世界に責任をとる立場にない。老人はこの世界の一翼を担う者。トムとスージーと自動人形と灰色狼はエリカの従者。自分だけが何もない。その時々に思う自分に忠実に生きていくしかない。
あのときはトムを敵と認識した。負けるとは思わなかった。裸にされ拘束されたときでさえ、勝てると思った。彼もそう思っていた。恐怖に縛られながらも、生意気に私を使役獣のように調伏しようとした。調伏できないと知ったとき、殺すか、釈放しようかと、彼は迷った。最後には私の判断に任せようとしたみたいだ。もっともシンプルな言語の種を私に教えた。あとは私が言語の法則を作った。その法則に従い言語を展開してトムと意思の確認をした。
わたしはトムのあるじに会いたいと思った。世界の神なら殺して、私の世界を作ろうと思った。しかしエリカはこの世界の神でないと言う。ひとつの目的を喪失したが、次の目的が出来た。
神の生活を知ろうと思った。エリカとその眷属たちには興味ある。トムについては半年洞窟での道中、一緒に行動をともにした。エリカは優しい。スージーは幼い。自動人形は面白かった。狼は使役獣というより眷属だ。
エリカは小屋のすぐ近くで、畑を作り出した。トムの採取した薬草や穀類、山菜、多くの植物を育てる畑、湿田を必要とした。エリカは作業用の土木・農業機械と、自動人形10体を宝物庫より取り出した。自動人形は身長3.5m、外見は人間と変わりなく、江戸・東京博物館の日本橋の下に展示されているスイジン天皇のころの相撲の神様、のみのすくね、たいまのけはやの人形が10体ここにいると思ってもらえばよい。動きは俊敏だ。休息を必要としない。食事も必要としない。
トムが平面図を起こした。湧水の豊富な深く広大な溜め池、水路をくまなく配置して、トムの採取した植物。スージーの遺伝子操作の植物。エリカの薬草園。日常消費の穀類、野菜、牧場が効率的につくられた。食料は自給自足を目指す。女神エリカが神威を顕現化して、すべての土地に祝福をあたえた。おうごんいろの祝福が大地をおおう。
10体の力士型作業人形は、夜間の警備も担当している。小型魔獣や、猪、などの警戒は灰色狼の子分達が担当する。
しばらくは、農作業で忙しかった。トムとスージーは時間が少しでもあると、習慣になっている鍛練に励む。走り込みのあと、トムはスージーに魔獣の神経組織から作ったロープを渡す。古流捕縛術を素材で作ったロープを使って、学習する。ロープを使った投げ、打ち、関節技、捕縛。そばで見ていた女も興味を持つ。ロープを使った技は殺人技が多い。稽古では合気道のような技が多いが、それは寸どめで止めているからだ。スージーとトムは実践練習では人型魔獣を相手にして、止めを刺した。寸どめで止めないのが、本当の練習である。寸どめで止める習慣をつければ、殺されるようなものだ。
女に武術の練習相手になってくれと頼まれた。姉には相手になってやって欲しいと頼まれた。もしこの女と敵になったらと思うと、僕たちの技を明示して良いのかと思う。しかし考えるそばから、自嘲の苦笑いが出てくる。僕らの技が通じる筈がない。児戯に等しいこのような技が。女と自分達には絶対的な差がある。女が姉を攻撃してきたとき、自分に何が出来る。悔し涙がでてくる。
農場・牧場の工事が一段落したので、夕食は力士型自動人形を交えて、キャンプファイヤを囲んで屋外の食事となった。力士も食事ができないわけではない。味覚も食欲もある。力士たちも楽器を奏でる事が出来る。酒もだされて、楽しい一日となった。
「だいぶ芽が出てきたね。」エリカが愛しそうにやっと出てきた双葉にそっと触れる。トムの農園がどのような結果を出すのか、エリカもスージーも興味を持つ。自分達の知らない未知の植物だ。トムはただやみくもに集めて来ただけではない。トムの直感は外れることがない。
スージーの遺伝子操作された食料も失敗を許されない。王国には、辺境候の避難民全員に回せる食料がない。スージーの研究が滞れば悲劇が待っている。
スージーはトムと灰色狼の間の狭い空間で寝る。2年近く会えなかった。からだをぴったりよせて、何度も存在を確かめてから安心して寝いる。
辺境候は頻繁にエリカの小屋に出入りする。主に女に会いに来る。そしてスージーに会いに来る。切迫した食料事情に、スージーの力が必要である。僅か3歳児のスージーは辺境候に会うときは、17歳の女性に体型を変えて会談する。神の眷属に年齢を問うは無意味。辺境候もそんなことはどうでもよくなっている。スージーと会うたびに、会談は実利的なものになっていく。焦りが老人をせかす。辺境候はその会談に女とエリカとトムの出席を求める。
トムに求めるのは、騎士団の幹部として、つねに自分と一緒に行動してもらいたいという気持ちだ。すでにトムは辺境候の右腕的存在になっている。
エリカに求めるのは心の安寧、エリカの存在を意識すると、恐怖も焦りも不思議に和らぐ。
そして女に求めるのは、自分と同じ、この世界の当事者だという思い。女は言う。エリカはこの世界の旅行者、神であってもこの世界に直接関与するものでないという。じゅうしゃであるトムやスージーも同じだ。
女、おまえは何者かは知らぬが、わしと同じこの世界の存在だ。関係ない神や従者をまきこむなら、おまえこそ当事者ではないのか?人類を滅ぼす、世界を滅ぼすのか、辺境候は女に言いたいことが山のようにある。
王国の会議の間では、国王と大臣が話し合っている。辺境候の領地の問題は深刻だ。王国はその存在を揺るがされている。いま手を引けば、辺境候は王国に敵対するだろう。おおくの餓死者を出すだろう。王国はその存在を消すだろう。
このまま、援助を続けることは出来ない。地方領主は王国を見限り出している。他の国は王国を援助する意思すらない。




