6<生き残り>
僕の背中の傷はさほど深くはなく、内臓への被害も皆無だったが、子供の小さな体の面積に対して傷の範囲が広く、更にその後動いたことによる大量の出血が身体に与えたダメージを回復させるのに時間が掛かった。
それだけでなく、無理をして病室を抜け出し、弟を最後に見た部屋の状態を自分の目で確かめに行った僕は、その後探しに来た警官に保護された時には、事件の記憶と両親の死、そして守ったと思っていた弟の喪失という、重なった精神的ショックが原因で失語症に陥っていた。
それから、一人生き残った僕は親戚の家を転々とした。体は回復したが心に病を抱えた厄介な僕を温かく迎え入れてくれるような奇特な親戚は残念ながらいなかったらしく、何処に行ってもあからさまに迷惑そうな顔をされ、腫れ物に触るような扱いを受けた。それでも衣食住はしっかり与えられていたし、虐げられるような真似をされなかったのを幸運と思うべきだろうが、それにはまた優しさとは別の要因があったかもしれない。
新興住宅地の住人を一晩にして半数近くまで減らした惨劇を、親族は皆、僕がもたらしたのではないかと怯えていた。
あの惨状から生き残った僕を、マスコミは『悲劇の少年』とか『奇跡の子供』などと呼んで持て囃したが、その影で、そもそもの元凶は僕で、狙われていたのは本当は僕一人だったのではないかという噂も真しやかに流れていた。
僕には犯人に狙われる心当たりなど全くないけど、僕と弟の走ったルートと住人達が次々に襲われた現場が重なっていたのは確かな事実だ。噂は親戚の耳にも入っていたようだし、入院中には患者やその親族から何か訴えがあったのか、僕は何度も転院を余儀なくされた。
そんな僕を邪険に扱って恨みを買えば何をされるかわからない、けれど家に置いておいては、未だ捕まっていない犯人を呼び込まれるのではないか、と親戚達は皆、戦々恐々とし、僕は長くても3ヶ月程で追い出されてしまい、結果あちこちをたらい回し状態になった。
僕は身体の傷を治すための入院と結局1年程患った失語症の影響で事件後小学校に戻ることはなく、本来からは1年遅れで中学校に入学し、復学はそこからになった。
それを機に親戚達は話し合い、不公平にならないよう協定を結び、誰も僕を家に置かない代わりに生活費の負担等で少しずつ協力し合うことにしたらしい。そうして僕は、彼らが用意したマンションの一室で一人暮らしを始めることになった。
親戚からの金銭的援助は僕が成人するまで続けられ、そのお陰で僕は大学にまで進学することが出来たので、たとえ家には迎え入れられなくても彼らには心から感謝している。それに、僕がこうして一人の人間としてまともに生きていけるのは、その為に形だけでも保護者となってくれた、母の妹である叔母夫婦の存在が不可欠であり、彼女は死んだ僕の両親の生命保険等の遺産を、子供の僕に代わって僕が成人するまできっちり管理してくれていた。
…けれどその叔母も、保護者となったのは他の親戚から押し付けられただけで、結局のところ僕の存在を快く思ってはいない。表面では無関心を装いながら、隙あらばいつでも僕を厄介払いしようと監視の目を光らせているのを知っている。だからこそ僕は彼女の気に障るような真似をしないよう、常に品行方正で、目立たず無害な人間でなければならない。
そんな状況ではあるけれど、それでも僕は彼女に感謝して止まない。こんな忌むべき僕を名義上だけでも引き受けてくれている奇特な彼女を、煩わせてはいけないと強く思う。
だから僕は余計なことはせず、将来の為の勉学と生活費の為のアルバイトに励み、春村に誘われても遊びに行ったりしないで、地味に真面目に生きていく。
これ以上周りに迷惑を掛けてはいけない。それが、たくさんの人を犠牲にして生き残ってしまった僕に唯一出来る、罪滅ぼしだと思うから。