5<惨劇の記憶>
※残酷描写アリ
あの日の僕の記憶は、あの怪物にいつ何処で遭い、標的にされてしまったのか以外にも、曖昧な部分がとても多い。
あまりにもショッキングな出来事故に心が壊れてしまわないよう防衛本能が働いて、思い出そうとすると無意識に記憶の回路が遮断されるのではないか、と、これも事件後にカウンセラーに言われたことだが、本当のところはわからない。
家に駆け込む寸前に、僕はどうやらアレの鋭い爪で背中を抉られていた。でも僕は、極限状態でアドレナリンが大量分泌されていたのか痛みを全く感じず、傷を見て蒼白になった弟の言葉でようやくそれを知り、そのすぐ後に再会した両親の顔を見て、そんなことはどうでも良くなった。
逃げ切れたのだと、助かったのだと思った。これでもう大丈夫だと、・・・どうしてそう思えたのだろう。
バキリ、と何かが砕け散る音が背後から聞こえて、反射的に振り返った時には、ついさっきしっかり閉めて鍵まで掛けたたはずの扉はそこにはなくて、夜の風が直接僕の頬を撫でていく冷たさに目を見開いた。
・・・。
それからのことは、正直よくわからない。悲鳴と血と生臭さと、赤と、黒と。それから、それから・・・
誰かに「逃げろ!」と叫ばれて、僕はハッとして隣で呆然とする弟の手を引き、2階へと続く階段を駆け上った。
どうして外へ逃げなかったのか、それも今となってはわからない。ただ『弟だけは何としても守らなくてはいけない』という、その想いだけがその時の僕を突き動かしていた。
それはきっと大切な弟への愛情からであり、両親から託されていた最後の言い付けだったからでもあったろう。
僕は2階の自分の部屋に弟を押し込んで、封をするように扉に寄り掛かって体重を乗せた。中から「開けて」と叫んで扉を叩く音と衝撃が響いたけど無視をした。一緒に入らず扉の前に残ったのは自分が重しになって扉を開けさせまいとの考えたのもあったけれど、僕自身、意識が朦朧として、もうそれ以上動けなくなってもいたからだ。
後で知ったのには、それは背中の傷から流れ出た大量の出血のせいだった。
これでもし僕が死んでしまっても、僕がここから離れなければあの怪物がこの先へ進むのをきっと阻止出来る。そうなれば弟を守れる、そう思った。
絶対に、たとえ何をされてもここから離れたりしない。弟だけは、死んでも守り切ってみせる。・・・僕は両親の無惨な最期を思い出し、涙が溢れ、もうすぐ自身にも振りかかるだろう痛みと死の恐怖に圧し潰されそうになりながら、その誓いを呪文のように、何度も何度も心の中で繰り返した。
いつの間にか落ちていた意識を取り戻した時、真っ白で薬品の臭いがする部屋と、そこにあふれる温かな日差しの中で、僕は自分の命が長らえたことと、代わりにたくさんの大切な人の命が失われてしまったことを知った。
『まるで野犬に食い荒らされたかのような』とテレビのリポーターが形容したような死体が、僕の家だけでなく、その周辺、当時振興住宅地として新しく整備されたばかりのエリアで次々と見付かった。それは街路であったり室内であったり様々だったが、後に、僕ら兄弟がアレに追われて走った場所と一致した。
僕は、逃げているつもりで家と街に災厄を招き入れ、惨事をばら蒔いていたのだ。
身を挺して守っていたつもりの部屋には、誰も居なかった。駆け付けた救急隊員が気絶した僕の体を退かして、扉を開けて中に入った時にはそこに弟の姿はなくて、室内は荒らされ、床におびただしい量の血だまりが出来ていたと聞く。
その後の検査の結果、血液は全て弟のものと判明し、それにより弟の生命は既に失われたものと断定された。・・・僕は弟を守れなかった。自分を犠牲にして、決死の覚悟で怪物の前に立ちはだかったつもりで、その実何の役にも立てていなかった。
病室で警察から話を聞いたが信じられなくて、・・・信じたくなくて、体が動かせるようになってすぐ病院を抜け出して見に行った僕の部屋は、窓とその周辺の壁が無残に壊され、澄み切った空が隔てるものなく青々と広がっていた。
怪物は、僕がいた扉からでなく窓から中に入ったのだ。
・・・僕の行動はただの独りよがり、全くの無駄だったのだと、その光景を見て絶望と共に自覚した。