4<十年前の過ち>
※残酷描写アリ
本当の始まりはいつ、何処でだったのか――――。当時この街では、人の体が鋭利な刃物で引き裂かれるという事件が連続して起きていた。
刃物・・・とは言っても包丁や、或いはサバイバルナイフとか、殺人事件でよく聞くようなそういった類のものではなく、それは大きな爪である、というのが世間でもっぱらの噂であったし、未確認の情報としてニュースなどではぼかされて伝えられていたが、実際にそう・・・というか、それに近い形状の傷だったらしい。
しかも遺体は食い荒らされて、特に内臓がほとんど残っておらず、それゆえ犯人は熊か大型の猛禽類か―――どちらにしても人間ではないだろう、というのが有力な説だった。
・・・ただ、そんな中で、人が人の体を引き裂き、血肉を啜る画を撮った"監視カメラの映像"というのがネットで出回っていたが、それは都市伝説、或いはよく出来た作り物として、人々を怖がらせはしたものの本気にする者は少なかった。
それでも、街中を何か得体の知れない、危険なものが徘徊していることには変わりない。余計な外出は控えて、外を歩く時はなるべく複数で。夜は暗くならないうちに帰宅、不可能な場合は明かりが多く賑やかな場所を選んで進むようにと連日テレビやラジオ、学校の先生や親からしつこい程に繰り返し聞かされていた。
それを多少煩わしく思いはしたものの、逆らおうなんて考えてやしなかった。すぐ近くでよくわからないことが起きていて、人が死んでいる。その事実は子供心にも怖かったし、犯人は人間ではなく化物なんじゃないか、という、面白半分の巷の噂も幼さゆえに信じていて、大人達のように有り得ない話だと笑い飛ばすことが出来なかったから尚更だ。
・・・それなのに、僕はあの日、決して取り返しのつかない過ちを犯した。
あの頃、僕達子供の間では対戦方式で遊ぶ、とあるカードゲームが流行っていた。友達同士での対戦に勝つために皆レアなカードを欲しがったけど、少ないお小遣いで買える枚数には限度があって、だからせめてレアじゃないにしても、友達がまだ持っていないような新しい効果があるカードを出来るだけ早く手に入れたくて、皆新しいカードパックの発売日には我先にとお店に走った。
それは当時小学5年生だった僕も同じで、あの日、僕は図書委員会の仕事で帰るのが遅くなったのにもかかわらず、発売されたばかりの新しいカード欲しさに、家への帰り途中にあるわけでなく、遠回りしなければ行けないカードショップへ向かってしまった。
・・・僕一人ではなく、同じ学校に通っていた3つ年下の弟、礼威を連れて。
世間を賑わせていた物騒な事件を不安視して、当時は子供たちの登下校に同行する親も少なくなかった。けれど僕らの両親は共働きで送り迎えをすることが難しく、代わりに学校の登下校や放課後の外出を兄弟揃ってするようにと僕らに強く言い聞かせた。とりわけ兄の僕には、何かあった時には弟を守るようにと何度も言い付けた。
とはいえ、勿論両親は、小学生の僕に脅威に立ち向かえなんて無茶なことを望んだわけではないだろう。年長者として、幼い弟の手を引いて逃げることで互いを守れ、という意味だったのだと思う。
だけど僕は、それすらも出来なかった。
それどころか、自らが、大切な弟を危険へと導いてしまった。
そしてそれが、あの、悪夢のような惨事を生んだ。
あの日、僕達は危険を冒してまで行った店で、目的の物を買えたのか。そもそも、ちゃんと店まで辿り着いていたのか。
当日の僕の記憶は、弟の手を引いて走っているところから始まっている。それ以前のことはすっぽりと抜け落ちていて、事件の後で警察から受けた事情聴取でも、まともに答えられなかった。
些細なこと、とも切り捨てられないのは、それが、アレと最初に遭遇した場所が、そもそも何処だったか、という問題に係るだからだ。僕が思い起こせる記憶の中では、既に僕らはアレに追われていた。
アレが結局何であったかは、僕にも未だわからない。ただ、人の形をしていても人では絶対に有り得ない『何か』だった、というのは確かだ。
子供心に染み着いた極限の恐怖の記憶が、実際には居もしない怪物を形作っている、なんて、事件後に受けたカウンセリングでは言われたけれど、アレは絶対にそんなシロモノじゃない。いくら言っても警察はまるで本気にしなかったが、人間が素手で人の体を引き裂き、心臓を抉り、あまつさえそれを平気で喰らったりするものだろうか…?
もしそんなことをするのが人間だというなら、僕はむしろ『人間』という生物を誤って認識しているとさえ思う。
アレは僕らが逃げても逃げても、すぐ後ろ、或いは前に現れた。子供の脚力では大人に敵わない、それはそうだ。でも、心臓が飛び出そうになるくらい、息がまともに出来なくなるくらいに無我夢中で走っても、アレはまるで空を飛んででもいるかのように、姿が見えなくなったかと思えば唐突に傍に、お前達など捕まえようと思えばすぐに捕まえられるんだと言わんばかりの、いやらしい薄ら笑いを浮かべてただ立っていた。
時には一人で、時には、先々で無残に殺した人間を、その血塗れの手に無造作にぶら下げて。
僕達は必死だった。逃げ切れるなんて希望を微塵も抱ける状況じゃなかった。絶望しかなかった。死が、すぐそこまで迫っているのを全身でひしひしと感じていた。
それでも、僕と弟は死に物狂いで走り続けた。
弟は泣きじゃくり、僕の手を爪が食い込む程に強く握った。確認する余裕などなかったけれど、多分皮膚に食い込んで血が出ていると思った。けど、その痛みを感じているうちは、まだ自分も弟も生きているのだと実感出来た。
そんな追い詰められた状況で逃げ込もうと考える場所なんて、恐らく大抵の人間が一緒だと思う。しかも、僕はあの時、まだ子供だった。
自分の中での一番の安全地帯。…それは、住み慣れた自分の家。庇護してくれる親の元。
でも、それがまた、間違いだった。少し考えればわかることだったけど、その余裕が、あの時はなかった。
家に逃げ込んで、鍵を掛けてしまえば或いは…と僕はつい、考えてしまった。未知の恐怖に怯えて、心細くて、ただ本能的に親を求めた、そういう一面もあったろう。
けれど、相手は人間を素手で縊り殺す怪物で、何とか辿り着いた家の扉を開けて中に飛び込み、慌てて掛けた鍵など、何の役にも立たなかった。
力任せに閉じた扉の音に驚いて、たまたま早く帰って来ていた両親が廊下に出て来たのを見て僕は安堵し、希望を見たけど、それも一瞬で、粉々に打ち砕かれた。