2<コントラスト>
特にトラブルもなく、いつもと同じくらいの時間に大学に着いて、1限目の講義を受けるため教室に入る。ちなみに僕が在籍しているのは地方大学ではあるがレベルは中の上くらい。文学部で心理学を専攻している。
「よお、はよ椎羽、今日も予定調和だな」
声を掛けて来たのは同じ学部の春村。入学直後から僕を何かと気に掛けてくれている。
「おはよう。何だい、それ」
「だってお前って遅刻しないし休まないし、いつも図ったように同じ時間、同じ場所で見るからさ。もしかしたらその時刻になるとその場に自然発生するとか、そんなんだったりするんじゃないかって」
相変わらず面白い発想をする奴だと、僕は思わず感心してしまう。
「そんなことよりさ、椎羽、お前明後日提出のレポート、どこまで進んだよ」
「・・・ああ」
これから受ける講義ではなく他の、春村と受講が被っているものの一つの、レポート提出期限が明後日なのだ。
「僕はもう教授室のポストに入れて来たよ」
早目に出来上がった生徒は、学部棟内にある教授の部屋の扉に備え付けられたポストに、いつでも入れて良いことになっていたので、僕は課題が出た3日後には仕上げてそこに入れてきた。
「うおマジか、やっぱりか。うおお、俺まだだよ、つかまだ全然書けてねーよ」
「はは、まだ今日明日あるんだから、徹夜するつもりで頑張れよ」
君も予定調和だね、とは、思ったけれど言わないでおいた。
「よしわかった、今日は徹夜だ!」
隣の席に座った春村がそう言うのに、僕は素直にエールを送った。・・・が、
「だから、付き合え椎羽」
「え。・・・レポートは自分でやらないと」
「レポートじゃない、飲み会だ」
・・・どうしてそういうことになるのか、僕には皆目見当がつかない。
「レポートは?」
「それは明日やる。今日は飲む」
「・・・そう、頑張って」
笑顔でそう言って、鞄から小説を取り出し、教授が来るまでの僅かな時間を読書に使うことで会話を打ち切ろうとした僕に、
「おいおい、たまには付き合えって」
と、春村は尚も食い下がる。
「お前は知り合ってからこっち、酒の誘いにただの1度も乗ってくれたことがないよな、俺は何度も誘ってるのに」
「…そうだね」
「なあ、1度くらい良いだろ、俺はお前ともっと話がしたいんだよ」
「・・・」
春村の言わんとしていることは理解出来るし、正直有り難いとも思う。・・・それがなぜ、レポートの締め切り直前の今なのかは置いておいて。だが、
「ごめん、夜は早く帰らないといけないから」
「女子かよ!」
「はは、本当にごめん。ランチの誘いなら大歓迎だよ」
冗談めかしてそう言うと、春村はあまり納得出来ない顔をしていたが、
「・・・よし、じゃあ今日の昼は一緒に食おう」
と、それ以上は追及しないでくれて、僕は心の中でそっと彼に感謝した。
・
バシャバシャと、水を乱暴に撥ねる音、ハアハアと、荒く繰り返す息遣い。・・・なんて無様。それを追掛け奥へ進むたび、暗くて狭い穴の中に満ちた腐臭や汚物の臭いが体中に染み着いていくようで、苛々が募って爆発しそうだ。
「…なあ、もういい加減諦めろよ」
前方の、さして距離のない場所を必死で走る人影にそう声を掛けるが、ソイツはそれがまるで聞こえていないかのように無視して走り続けて、追跡者は思わず面倒になって、足を止めて深い溜息を吐く。
「ライ、何をサボっているの」
後方の闇から、気配もないのに声だけが穏やかに響いて、それから、長い黒髪を一つ結びで肩から前方へ流し、細めの肢体にピタリとしたチャイナ服を纏った男が音もなく現れる。血の気を感じさせない白い顔はまるで能面の様で、閉じられた赤い唇を横に伸ばして笑みを作っているのに、見る者をゾッとさせる底知れぬ冷たさを湛えていた。
「だって、余暉」
「言い訳しない」
「・・・ち」
子供のように怒られ、追跡者は小さく舌打ちして頭をガリガリと掻く。
「・・・行って来る」
「ああ、行ってらっしゃい」
「邪魔すんなよ」
そう言い残すと、追跡者は通路を薄く覆う水面に僅かな波紋を一つ作って、その場からまるで疾風のように消え去った。