冬花の時季
数字と科学によって統制された街には、見渡す限り延々と、同じ構造のビルが立ち並ぶ。無機質な街並に沿って最小限の空間へ押し込まれた学校は、ときおりコンクリートの柩のように見えなくもないと、私は思う。
先進的で豊かな都市という名称とは裏腹に、私が生まれ育った街は言葉で形容するのに苦労する程度には単調で、特段に変わったことも起こりはしない。恐ろしいぐらい退屈極まりなくて、どうすれば退屈が紛れるかばかり思いながら、だけど私はこの場所しか知らない。
日々の授業、放課後にこなすべき課題、時折行われる小テスト。そうしたものを淡々と処理して、どうにか定期考査をやり過ごす。決して努力していないわけではなかったが、さりとて一定以上に努力するだけの動機は欠いていた。
そうした面では、特に目立つところもない平凡な存在。事実、私の評価はその通りで、ごく単調な日々には見るべきものもなかった。ただ、叶いそうにもない、現実への逃避じみた空想を除くなら。
空想といっても大それたことではなくて、ただ、天使でも私の前に落ちてくれば良いのに、そう考えるだけにすぎない。
お伽話だって、そんな空想よりはまだ現実的なものに違いないはずだった。少なくとも、冬を目前に控えた時季。鉛色をした空の街の、こともあろうに私の目の前へ、彼女は何の前触れもなく舞い降りてくるまでは。
「はじめまして。早峯璃桜、と言います」
はやみね、りお。教室に満ちた空気が、紹介を受けて答える玲瓏な声音に引き裂かれたことを、ひどく明晰に覚えている。
濡羽色の、腰椎に届くほど長い髪。澄み切って、深淵のように黒い瞳。ほっそりとした、だけど決して痩せぎすではない肢体。制服から覗く、雪のように白い肌。大袈裟かもしれないが、璃桜は私とは同じ人間だと思えないほど綺麗な人で、どこで何をしていても不思議なぐらい絵になった。
そして不思議なことに、彼女のいる空間には普段と違っていた。
日常という機械の一部だったはずの学校は、璃桜がいるというだけで違ってしまった。何故かはわからないけれど、とにかくそう見えたのだ。
崇敬、憧憬。どれもきっちりとは当てはまらないけれど、あえて表そうとするなら、そうした表現が最も近いだろうか。しかしそれ以上に、当てはまる言葉がひとつあった。
天使が、落ちてきた。どうしようもなく馬鹿らしい、私が閉じ込めていた空想が、そのまま形になってしまった。
それだけに、私は彼女に触れることはおろか、話しかけることでさえ躊躇ってしまってしまう。決して、触れたくないわけでも、話したくないわけでもなかったのに。何かの拍子で視線が交差してしまうだけでも、私はそれを正面に捉えることができなかった。ましてや言葉を交わすことなど、到底できそうになくて。
伸びやかで、歌うように澄んだ声を聞く。せいぜいがその程度で、何もできずにただ見ているばかりのうちに。
いつしか暖房がなくては芯から冷え切ってしまいそうな寒さと、空から羽の忘れ形見のように舞い落ちる雪が、本格的な冬を伝えて回っていた。その頃には年内の授業も指で数えられるほどになっていたが、何かしら変わったことは起こらない。
私も相も変わらず授業を受けた後は校内で自習していて、それらを終えた頃には短い日はすっかり暮れていた。
内陸部に特有の、床下から滲むような寒さは慣れていなくもないが、身に染みて冷えてしまうことも避けがたい。地面によって冷やされた、氷のような風が入り込む昇降口で、私は前屈みになって息を深く吐き出した。
毎年のこととはいえ、冷え切った空気には些か辟易する。そこで上履きを土足に履き替えていると、人気の少ない廊下から私の名前を呼ぶ声がした。
「こんばんは、白澄さん」
聞き間違えようのない、清冽な冬の空気よりも澄んだ、だけどとても優しく柔らかな声。はっとして意識がそちらに向けると同時に、私は思わず振り返っていた。
最も、それ以上は驚きと緊張のせいで何も言えなかった私とは対照に、彼女は何故か嬉しそうに微笑んでいた。
「何してたの?」
「……帰ろうとしてただけ。なんでもないよ、早峯さん」
「ふふっ。早峯さん、なんて。璃桜でいいのに」
よほど緊張しているのが可笑しかったのだろうか、彼女は意外なほど無邪気な笑い声を漏らした。予想しなかったほど友好的な態度に、私と言えばますます恐縮しきってしまう。
「え、でも」
「いいの。私も、冬花って呼ばせて」
「う、うん……」
さりとて璃桜がそう言うのなら私には逆らえなくて、押し切られる形で頷いた。すると何故だか安堵したような雰囲気と共に、今度こそ本当に思いもしなかったことを告げる。
「もう暗いけれど。冬花、少し散歩しよう?」
怯えるように、ぴくと肩が跳ねてしまったのが分かる。親しげに声を掛けられるだけですっかり怯えきってしまって、その場に立ち尽くしてしまう。
一方の璃桜はそれを咎めることもなく、ごく自然な挙措で靴を履き替えて、私が声を出すどころか身じろぎのひとつもままならないうちに、しっかりと私の手を取った。
「行こう、冬花」
璃桜の手から感じる、彼女の肌の滑らかさと、仄かながら確かに伝わる温もり。思わず手を引っ込めてしまいそうになったのだけど、そんな咄嗟の動きで振り払えるわけもなかった。彼女に誘われるまま、私達は人気の消えた校舎からさ迷い出た。
ただ手を握っているというだけで、意識はいっぱいになってしまって、学校を出てどこの街路を辿ったのかさえ覚えていない。けれど、いつになく静かな夜だったことは覚えている。
璃桜も私も白い吐息を漏らして、不思議と誰にも会うこともなく、手を握ったまま横並びになって。
過剰なぐらい璃桜を意識するばかりで、まともに表情も窺えない。彼女も何か話しかけようとはしなかったけれど、名称が違うだけで同じ造りの交差路をいくつか超えて、信号待ちか何かでふと立ち止まったときに、思いついたように声をかけられた。
「ねえ、冬花。冬花は、冬は好き?」
「ぇ、……」
今まで、そんなことを考えたことがあっただろうか。季節というものに対して好悪など、全くと言っていいほど、意識したことすらなかった。
季節などせいぜい、暑いか寒いか、あるいはこんな街にでも咲き誇る花の違いをもたらすぐらいに過ぎなかった。結局、彼女の言葉に相応しい解答はみつからなくて、私は微かに首を振った。
「そっか。私はね、冬が好きかもしれない」
「どうして……?」
それでも、好きになるのに寒い時期は向いていないようには感じる。それは単純に過ごしにくい気候だと思うからで、璃桜が好きだという理由に明確な答えを見出せない。それでも、例えばウィンタースポーツを好むなら、彼女が冬を好きだというのも理解できそうだった。
しかし自分の名前が、冬を好む理由になるというのは、想像さえできなくて。
「冬花の名前が、入っているせいかな」
「それ、だけ……?」
「うん、それだけ」
視界の端でかろうじて捉える璃桜は、照れくさそうに笑っていた。私には眩しすぎるぐらいの表情を、直視することなどできない。自分は今、どんな表情をしているのだろう。それを悟られたくなくて、ほとんど足元しか見えないぐらいに俯く。
貴女を見たくないわけではないのに。
貴女と触れていたくないわけではないのに。
貴女の声を聞きたくないわけでもないのに。
それでも、いやそれだからこそ、貴女を失いたくなくて。
貴女に会えなくなることが、何よりも恐ろしくて仕方ない。私は、そう、ほんの一瞬だけで構わない、貴女を見ていられるだけで良かった。
「冬花。もう、帰ろうか。今日は、ごめんね」
少し寂しそうな、だけど努めて穏やかな璃桜の声。予期しなかったそれに、思わず肩が竦んでしまう。璃桜と一緒にいられる時間が、永遠であるはずなどない。そう分かっていても、別れの言葉を告げられることはどうしようもない苦しみを伴った。
「……り、お」
「冬花……?」
だけど、それ以上に耐えがたかったのは。璃桜の口から、謝罪するような言葉が聞こえてしまったことだった。
身体が、おかしくなってしまったように熱い。
璃桜を離さないように、彼女が握っていてくれる手に力が籠る。自分でも説明のつかない焦燥感と恐怖は、言葉になどなるはずもなかった。ただ、そうすることしかできない。
「璃桜」
「冬花」
璃桜は応えるようにそっと、手を握り返してくれた。その何気ない行為のひとつだけでも、彼女の優しさが満ちている。
きっと、この人は、途方もなく優しいのだ。だけど、それにただ甘えるようなことはできないのに、どうしようもできなくて。私が言ったことは、幼子のような我儘だった。
「行かないで……」
璃桜に対する思いなど、言葉にするどころか整理さえされていない。しかし、彼女と共有できる時間を失いたくない、それだけは確かだった。
私の身体が、くるりと半回転する。目の前には、防寒の黒いコートを纏った璃桜の姿。彼女の双眸は、まるで子供を慈しむように穏やかで。
「行かないよ」
これ以上を望みえないと感じるほどの言葉、私の身体を抱いてくれる安心感。璃桜の背は私より少しだけ高いのだと、今更ながらに気づく。緊張か、それとも過度の幸福のせいか。思考は真っ白になって、何も考えられなどしない。
「冬花。一緒に、いるね」
彼女に応ずる言葉など、私は持ち合わせていなかった。
ただ、璃桜の胸の中で小さく頷いた。