冬の国の図書館
冬の国では今も昔も読書が流行っている。
しかしその反面、図書館の閑散ぶりは堂に入ったものである。休日の昼間だというのに、ある公立図書館内には二人の司書と、一人の来館者しか見当たらなかった。
冬の国は気軽に外出するには寒すぎる。だからこそ読書のような室内趣味が広く親しまれたわけだが、多くの国民はその読書のために図書館に行くことすらも億劫がる。そうした国民たちの習慣を反映した公立図書館の一人あたりの貸出上限数は二十冊で、陽射しの強い日に人々がこぞって図書館にやってきて大きな鞄に書籍をぱんぱんに詰めて家に帰っていく光景は、まるで冬眠の準備でもしているように見える。
今日は陽射しの強い日ではなく、それどころか雪の降る日だった。だからいつものように図書館の中には三人しかいない。唯一の来館者、カレヴァは少し背の高い薄茶色の髪の青年で、本棚の前に立っていた。分厚い本を抜き取って、ぺらり、ぺらり、とめくり、やがて支える腕が疲れたのか、本棚に立てかけるようにしてその中身を確かめるように目を通していく。
彼のすぐ傍の窓からは、雪の穏やかに降り積もっていく様子が見える。冬の国の建物は断熱性が高く、一度室内に入ってしまえばその寒さとはほとんど無縁でいられるが、雪が音を吸ってしまったような静寂だけは、しっかりと部屋に入り込んでくる。
カレヴァが聞くのは自分がめくるページのこすれる音。それほど遠くなく、二人の司書のうちの年少の方――年齢はまだ学生のカレヴァとほとんど同じくらいだ――がカウンターで同じように本をめくる音。それから年長の方の司書――年齢はカレヴァの倍より少し上――が奥の事務室のストーブの上に置いたやかんの、しゅんしゅんと急かすように沸きたつ音。そのたった三つが、響くでもなく耳に入ってくる。
カレヴァはぴたり、と手を止めた。それからじっとそのページを見つめて、それから本棚に並ぶ背表紙と突き合わせながらいくつか本を抜き出していく。
片腕いっぱいに本を抱えたカレヴァが、それをうっかり落としてしまわないように一度腰を曲げて持ち直そうとしたところで、不意に部屋の空気が抜けていくような感覚を覚えた。こんな雪の日に誰がここに、とカレヴァは不思議がって、本を抱えたまま図書館中央の閲覧机に向かった。
雪の妖精だろうか。
そんなメルヘンな想像がカレヴァの頭を巡ったのは、きっと彼が今読んでいた本がそうした妖精に関するフォークロアだったからだ。
玄関の前に立つのは、真っ白な髪の少女だった。冬の国では色素の薄い者は珍しくないが、ここまではっきりとしたのは珍しい。それから、彼女はとても薄着だった。室内着とまではいかないが、あの服装で防寒できるのは秋の国の夜が精々だろう、とカレヴァは彼女を見て思う。
しかしどうやら彼女は雪の妖精ではないらしい。それはおそらく外気にさらされて真っ赤になった耳たぶと、かたかたと震える肩でわかった。
「あらあら」
と奥の事務室から年長の司書、アンナが顔を覗かせた。
その声に反応した白い髪の少女にちょいちょい、と手招きをする。少女は一瞬首を傾げたものの、身体を温めるようにさすりながら、その誘いに従って進む。
カレヴァはそこで視線を外した。アンナに任せておけば自分がどうこう心配することもあるまい、と思ったのだ。カウンターに座る若い司書――リータ――も、同じようにまた本に視線を落とした。
また図書館には静寂が戻ってくる。
時計の秒針すらも静粛に振る舞う図書館で、カレヴァが次に顔を上げたのは、乾燥した喉がひとりでに咳き込んだときだった。
たった一息でどっと疲れが現れたような気がした。カレヴァは栞紐をページに挟み込むと柔らかく本を閉じる。
ううん、と背伸びをすると、肩がみしみしと鳴った。するとカレヴァは首も重たくなったような気がして、肩を回したり、背もたれに手をつきながら上体を捻ったりして、身体をほぐしにかかった。
そこでふと、本棚の前で背伸びをしている、先ほどの白い髪の少女が目に留まった。
コートを脱いだらしい彼女の服装はやはり比較的軽装だった。一日中家から出ない日ならともかく、冬の国の住人ならなかなかああいう恰好で外出しようとは思わない。
旅行者だろう。カレヴァはそう予想した。
このあたりでああいう容姿の少女を見たことはない。首都ならばともかく、よくもまあこんな何もない辺鄙なところに来るものだ。
カレヴァは立ち上がる。
それから、ぷるぷるとつま先立ちして指先を伸ばす彼女の後ろに立って、一冊の本を引き抜いた。
「あ――」
「取りたい本はこれか?」
「は、はい!」
突然の驚きからか、少し大きな声を出した少女。それにカレヴァが何も言わずに人差し指を顔の前に立てると、彼女は慌てたように口をつぐんだ。
図書館ではお静かに。
それほど守られているルールではない。冬の国の首都、または他の国の図書館ではともかく、カレヴァらがいるような図書館では、実質的に地域の集会所としての機能も存在していて、そもそもそんなルールがはじめからあるのかどうかすらも定かではない。
ゆえに晴れの日には図書館は街で一番賑やかなくらいで、司書のアンナですらおしゃべりを始めるくらいなのだが、それでもカレヴァは、一応は、と少女の大声を止めた。もう一人の司書、リータは騒音を好まない。
少女は小さく「ありがとうございます」と呟きながら頭を下げる。
カレヴァは構わない、と言うように片手を振ったが、改めてその本の表紙に目を落とした少女のアイスブルーの瞳が曇るのを見逃さなかった。
「違う本だったか?」
カレヴァの問いに、少女は遠慮がちにああ、とか、ええ、とか曖昧に応え、けれどやがておずおずと切り出した。
「わたし、秋の国から来て、その、後ろの?表紙だけじゃどの本かわからなくて……」
カレヴァはその言葉にああ、と頷いた。彼にもそういう状況に心当たりがあった。
以前に海外へと出向いたときのこと。折角他国の書籍を手軽に購入できる機会だ、と書店に入ったはいいものの、背表紙に書かれたタイトルの意味するところがわからなかった。
本文を読むときなら辞書と首っ引きで進めることができるが、まさか本棚に収まる膨大な書籍の背中を片っ端から翻訳していくわけにもいかない。母語とほとんど違いがないくらいに瞬間的な理解ができるならともかく、どこにどういう順で並んでいるのかすらわからない本棚から目当ての本を探すのはなかなか難しい。
「目当ての本があるのか?」
少女は頷く。
「なら手伝おう。小説なら著者の名前を、それ以外なら大まかなジャンルかタイトルを教えてくれ」
思わぬ申し出だったのか、少女は一度目を見開く。それからまた、少し俯き気味に口を開いた。
「ユーソラ」
一瞬、カレヴァの動きが止まった。
しかし少女はそれに気付かぬままに続ける。
「ユーソラの本が読みたいんです」
少女が顔を上げたときには、すでにカレヴァは先ほどと同じ表情に戻っている。彼は快く頷いた。
「こっちだ」
カレヴァはそう言って少女を二つ隣の棚へ導いていく。それから今度は少女でも手が届く高さの棚を指差して伝える。
「ここから、ここまでがユーソラの著作だ。辞書は閲覧机の横に置いてあるから、好きに使うといい」
とは言っても、少女の話す冬の国の言葉の発音は流暢だ。そんなものは必要ないかもしれないな、と思いながらもカレヴァは教える。
しかしそんな言葉を聞いていたのかいないのか、少女はすでに目を輝かせながらその本のうちのひとつを手に取っている。
「わたし、ユーソラの書くお話が本当に好きなんです」
誰に聞かれるでもなく少女は話し始めた。旅行者独特の口の軽さをカレヴァは感じた。
「でも秋の国にあるのは翻訳本ばかりで……。首都の国立図書館まで探しに行こうか迷ったんですけど、どうせなら冬の国にまでって思いきっちゃって」
そんな風に語る少女を、カレヴァは微笑ましさと、加えてもう一つの感情を混ぜ込んだ複雑な表情で見つめている。
「それにユーソラって現代小説家だから……、もしかしたら実際に会ったりもできるかもって」
「死んだよ」
少女はカレヴァに何を言われたのかわからず、小首を傾げて一度考え込んだ。
それから不意に彼女は目を瞠って、カレヴァを見る。
「ユーソラは二年前に死んだ」
彼女が見たのは、冬の国の青年の、寂寞を湛えた、複雑な微笑だった。
*
ユーソラという作家について知られていることは少ない。
冬の国では毎年多くの作家が生まれている。家ごもりの間に、ただ本を読むだけでは暇を潰せなくなってしまう人間がいくらでもいるからだ。
ユーソラもその多くの作家の内の一人だった。冬の国の小さな出版社から一冊の本を出した、どこにでもいる作家の内の一人。
ただひとつ、少しだけ特殊だったのは、その小さな出版社が、もっぱら海外輸出を行う会社だったことだ。
春の国、夏の国、秋の国。三国に輸出されたユーソラの最初の著作は、思わぬ高評価を与えられることになる。
ときには文学大国と呼ばれることすらある冬の国の出版物は、他国でも需要が大きい。その中で無名作家のユーソラの著作が特別評価されたのは、その情景描写によったと分析されている。
冬の国の原風景。
雪原と冬の太陽。
透き通るような空気と、絶えることのない室内の温かさ。
異国情緒溢れる描写は読者の心をつかみ、『冬の国の文学』として一種象徴的な地位すらも手に入れた。
そうした国外評価の下、ユーソラは二年の間にさらに七冊の本を書き上げ、しかしそれからぱったりと音沙汰がなくなる。
高い国外評価とは裏腹に国内評価はそれほど高くなかったユーソラは、最初の小会社以外の出版社とは関わりを持たなかった。そして国外から見ればユーソラは『異国の作家』であり、人物像自体へはさほど興味を持たれていなかった。
結果として、今はほとんどの者が知らない。
ユーソラがどうしているのか。今でも書いているのか、それとも筆を折ったのか。
あるいはもはや、ユーソラという作家がいたことなど、とうに忘れられてしまったかのようにも思えた。
「……ん?」
いつものように昼過ぎに図書館に訪れたカレヴァは、二重玄関の間で身体についた雪を払いながら首を傾げた。奇妙な活気が、もう一枚扉を隔てた館内に漂っているように思えた。
雪を払い終えたコートを、入口傍にある上着袋の中に詰める。それを片手に図書館に入るとすぐに話し声が聞こえてきた。
二日も続けて雪の日に珍しい、とカレヴァは思ったが、何のことはない。昨日の白い髪の少女――あの後名前をクロエと教えてもらった――が今日も図書館に訪れていたのだ。
今はアンナと二人、閲覧机で紅茶を飲みながら談笑している。カレヴァはやや呆れた気持ちになる。司書が率先して館内飲食などしてよいものだろうか。
受付カウンターではいつも通りリータが不機嫌そうな顔をして座っている。彼女は入館してきたカレヴァを一瞥することもなく本に視線を落とし続けていた。
「あれはいいのか?」
カレヴァが尋ねると、リータは無言のまま読んでいる本を持ち上げた。カレヴァが覗き込むと、そのページの端の方に、何か濃い色のついた液体を零したらしい跡がある。
今更、ということか。
カレヴァはそう理解してそれ以上の追及はやめた。どうせ図書館で読まれる書籍よりも、家で読まれる書籍の方が多い。そしてまさか家での飲食禁止なんて、司書に言い渡す権利があるはずもない。
すっかり読書に戻った――というよりも初めから離れてすらいなかった――リータに背を向けて、カレヴァはいつも通り閲覧机に向かう。本棚に行く前に、まずは上着袋を席に置かなくてはならない。
「あ、カレヴァさん!」
「あら、こんにちは」
やや声の大きい少女に、再びハンドサインを送ろうとしたカレヴァだったが、その隣に座るアンナが堂々とした様子で、一切クロエを注意する素振りも見せなかったので、何も言わずに礼を返した。
「こんにちは」
カレヴァは彼女たちより二つ離れた机に上着袋を置いた。これほど空いた図書館に、わざわざ狭苦しく隣に座ることもあるまい。
するとクロエがわざわざカレヴァの席まで近付いてきた。昨日の反省を活かしてか、今日は多少の厚着をしている。顔色もよく、外で吹雪かれてきたわけでもなさそうだ。
「昨日はありがとうございました」
「いや、構わない。それにしても随分早いな」
時刻は正午をほんの少し回ったころ。カレヴァは昼食を済ませてすぐに図書館に来たのに、彼女は随分早くからいたようなくつろぎ方をしている。
クロエはその問いに、はにかんで答える。
「朝一番に来たんです。待ちきれなくて」
それは寒そうだとカレヴァは思う。冬の国では昼も寒いが、朝と夜はもっと寒い。仕事に行くのでもなければその時間帯には住民は外に出ないし、下手をしてしまえば仕事に行くのすら怠けることもある。
見かけによらず、気合の入った少女らしい。
カレヴァは少々彼女への認識を改めた。
「寒かったろうに。昼食はどうしたんだ?」
「外で食べようと思ってたんですけど、アンナさんがシチューを……」
「あらあら、ダメよ」
「え?」
「カレヴァちゃんにそんなこと言うと、怒られちゃうから」
「怒りませんよ」
クロエは思いがけない言葉を聞いたように「え? え?」とうろたえる。
なるほど、とカレヴァはアンナが座る近くの机の上に置かれた、何枚かの空の皿に目をやった。大方アンナさんがパンとシチューでも持ってきて一緒に食べたんだろう、と予想した。
クロエが神妙な顔で頭を下げた。
「すみません、わたしダメだなんて知らなくて……」
「いや、気にするな。冬の国の図書館なら館内飲食は普通だ」
たとえ普通じゃなかったとしても、異国で現地の司書の誘いがあれば誰だってそういうものだと思ってしまうに違いない。
カレヴァが宥めるような言葉をかけると、クロエはほっと胸を撫で下ろす。
「そ、そうですか。よかった。でも冬の国って変わって……、あれ。わたしの国が変わってるのかな?」
「館内飲食文化は冬の国が変わっているんだ。他の三国じゃどこも禁止されてる」
クロエがそうなんですか?と尋ね返すと、代わりにアンナが答えた。
「カレヴァちゃんはね、昔色んなところに留学してたのよ。だからまあ、帰ってきたら色々細かくなっちゃって」
人聞きが悪い、と思ったが、それでもその言葉をカレヴァは否定できなかった。冬の国で生まれて冬の国で育った以上、ベースにあるのは冬の国の文化だが、それでもよその国の図書館規律を知ってしまえば、この国の住人にしては本の扱いにやや神経質になったと言える。
「りゅうがく……」
どこか片言めいた喋りに目線を下げれば、クロエの思わぬ尊敬の眼差しと目が合った。う、とカレヴァは我知らず一歩後ずさる。
「すごいですね、カレヴァさん。わたしなんて、ただ旅行するだけでもたくさん勇気がいったのに」
「そんなに大したものじゃない。留学となれば多少の配慮は受けられるし、それよりも君のように他言語を流暢に話せる方がよほど優秀だ」
言いながらカレヴァが思い出すのは、留学当時の記憶。読み書きはともかく話すのは中々クロエのようには上達せず、色々と苦労したものだ。
カレヴァの言葉を謙遜と受け取ったのか、クロエは、いえそんなことは、と話を続ける。
「でもだから冬の国と他の国の違いなんかがわかるんですね。わたしも、」
と、そこまで言ってクロエは言葉を切った。
続きを言わない理由が、カレヴァにはわかった。彼女の視線は自身の爪先に向いていたが、意識の向きはアンナの座る机の端に置かれた書籍群だ。
ユーソラの著作。
それを好むということは、多かれ少なかれ、冬の国の文化に興味があるのだろう。けれど、彼女は昨日のカレヴァの発言を思い出して、それを口にするのを止めた。
そこまで察したカレヴァは、また不器用な笑みを作る。
「交換祭を知っているか?」
「え?」
「冬の国では一年で一番暖かいとされる二週間の間に、大規模な図書館同士での書籍の交換が行われるんだ。
図書館はそれまでの間に、どの本が読みたいとかそういう住民の要望をまとめておく。大体は入り口にアンケート箱を設置するんだが、この作業が中々大変でな。何せ街ひとつ分の希望をとりまとめるんだから、作業量がとてつもなく多い。近所の暇な学生なんかがアルバイトで動員されて、俺も未だに毎年やらされてるよ。
それから完成した目録を持参して首都に向かって行って、どの本をどの図書館に回すか会議をする。これは司書だけじゃなくて街の首長なんかも一緒に向かうんだから、どれくらいこの行事が重要かわかるものだな。
特に人気のある本なんかは結局話し合いが上手くいかなくて最後はくじ引きになってしまうんだが、これも曲者なんだ。中には街を上げたくじ引き大会を事前に開催して、その年で一番運が良いやつを引き連れてくる、なんてところもある。一番人気だった本を獲得できたやつなんかがそのまま街の議員になったって話もあるくらいだ。
それで会議が終われば、今度は本の大移動。これもまた街を上げた大仕事になってな……」
カレヴァの見立ては間違っていなかった。
彼の始めた冬の国の文化的行事についての話に、クロエは強く興味を惹かれたようで、ぽーっとした目つきでカレヴァを見つめながら話に聞き入っている。
「もしよければ、こういうのをまとめた本をいくつか紹介しようか? まあ、目当ての本が読み終わったらの話になるだろうが」
「ぜひ、ぜひ!」
勢いづいたクロエにカレヴァは笑う。
カウンターからは相変わらずリータがページをめくる音が聞こえてきて、アンナが小さく「お仕事、取られちゃった」と呟いた。
*
「あれ?」
とクロエが声を上げたのは、彼女が図書館の四人目の住人になってから、十日が経つころだった。
折角の旅行なのに本を読むだけでいいのか、とアンナが一度尋ねたけれど「それが目的なんです」と言い切った彼女は、一日も休むことなく図書館に通い詰めていた。どうせこのあたりに観光名所なんてろくに存在しない、とカレヴァは心の中で思いながらその問答を聞いていた。
「どうかしたか?」
対面に座るカレヴァが声をかけた。彼女がここに来た五日目から、彼はその場所に座るようになった。クロエが何か困ったときに、近くに座っていた方が余分な手間が省ける、という判断だ。
カレヴァの問いにクロエはちょっと困った顔を見せる。それに対してカレヴァも首を傾げると、やがて彼女はおずおずと、今読んでいた本をカレヴァに見えるように机の上に置いた。
「ここの部分なんですけど」
クロエが白い指先でなぞったのは、ユーソラの著作の中の一文。カレヴァは彼女の指の動きに合わせてその文章を読むが、ただの風景描写にしか読み取れず、特別変なところは見受けられなかった。
「何かわからない単語があったか?」
「いえ、そうじゃなくて、あの……」
言いづらそうにするクロエに、カレヴァは再び首を傾げる。
確かに、読めないというわけじゃないだろう、と思う。会話能力と読解能力にどのくらいの差があるのかはわからないが、クロエの話す冬の国の言葉は、ほとんど母国語と同様の水準に達しているようにカレヴァには思えた。ならばこんな何気ない一文で躓くはずもない。
ならば何に引っかかったのだろう。
クロエは思い切って、という様子で口を開いた。
「これ、ここの近くの駅とそっくりじゃないですか?」
「んん?」
カレヴァはもう一度じっくりとその一文を眺める。それから「ああ」と納得したように頷いてしまった。
「やっぱりそうですよね!」
クロエはその肯定の仕草を見て、嬉しそうに笑った。
カレヴァは一瞬困ったような表情を見せた後、クロエの指を軽くどかすようにその本のページをめくり出した。
「ここもそうだ」
そう言って指し示したのはまた別のページ。「え?」と今度はクロエがその本を自分の方に寄せて、じっと見つめる。
「行ったことがないか。商店街の雑貨屋だ」
むむむ、とクロエはかじりつくように本を睨むが、図書館と宿を往復するだけの彼女が商店街になど出向いたはずもなく、行ったことのない場所の風景を知るはずもない。
「今度行ってみます」
「太陽の出てる時間しか開いてないからな。帰りに寄ろうとしても無駄だぞ」
「え」
クロエは悩まし気な表情に切り替わる。図書館の閉館まで粘って読書することと、作品に描かれた風景を求めて街を歩くことの二つを、頭の中の天秤にかけている顔だ。しかしその表情も長くは続かない。
「ってそうじゃなくて」
なぜこの話題を振ったか思い出したらしかったが、ころころと変わる表情が愉快で、カレヴァは思わず、ふ、と笑いを零してしまった。
「な、何かおかしいですか?」
「ああ、いや。何でもない。すまない」
そうですか?と首を傾げたクロエは、しかしまた話を切り出し難そうにする。だからカレヴァが話の先を促した。
「それで、なんだって?」
「あ、その……。どうしてこの街の景色をユーソラが書いてるのかなって」
その質問に、カレヴァは一瞬答えるべきかどうか迷った。
「ユーソラがこの街の出身だからだ」
けれど、シンプルに、事実だけを伝えた。
クロエは目を見開いて、その言葉を受け止めた。
「あの、もしかして……」
「まあ、そんなところだ」
だから『ユーソラが死んだ』ということを知っているのか。
言外の疑問を読み取って、カレヴァはそれを曖昧に肯定した。
沈黙が降りた。
雪の日の穏やかな静寂とは違う、重みのある無音だった。
きっと、クロエはもっと知りたがっているのだろう、とカレヴァは思った。わざわざ原書の読みたさに他国まで旅行をするくらいだ。知りたくないはずがない。けれどその好奇心が人の心を傷つけることを恐れて、決して口には出さない。
優しい子だ。
「ユーソラは自分が何を書いているのかわからなかったんだ」
沈黙を破った言葉は、カレヴァから紡がれた。
けれどクロエはそれが何を意味するのか分からず、ただカレヴァを見つめていた。
「だから、もしユーソラが生きていたとしても、もう小説を書くことはなかったんじゃないかと思う」
懺悔のように吐き出したその言葉に、カレヴァは最後に、それだけだ、と付け足した。
クロエは何か言葉を返そうとしたが、それを待たずにカレヴァは自分の本に視線を落として、会話を打ち切ってしまった。だから彼女も再び手元の、ユーソラの本の続きに戻る。
しかし彼女はどうも上の空らしく、読み終えたページが重ねられていくよりも、外に積もる雪の方がずっと早くに厚みを増していく。
彼女はじっと考え込んでいた。目に映るのは、ページに印字された言葉ではなく、自分の頭の中にある言葉だった。
「わたしは、」
誰に聞かせるでもなく、クロエはそれを口にした。
「自分の色が、苦手だったんです。冬の国では、ちょっと珍しい、ってくらいだけど、秋の国はみんな、髪の色も目の色も濃いから。だから、白い髪と、青い瞳が、好きじゃなかったんです。
だけど、たまたまユーソラの本を読んで……。最初は、『雪』ってものがどんなのか気になって手に取ったんですけど。ほら、わたしの髪と同じ色だから。でも、読んでいくうちに、すごく綺麗だって思って。
雪原の向こうに見える青い空は、どんなに綺麗なんだろうって思ったら、自分の色も、少しずつ好きになっていったんです。
だから、だから……」
それ以上は声にならずに、雪が溶かしてしまった。
気がつけば、カレヴァのページをめくる手も止まっていた。彼はクロエの言葉が途切れた後、しばらく瞼を閉じて、それからふと顔を上げた。
「雑貨屋に行くなら、」
その声に反応して、クロエもびく、と顔を上げた。
「もうそろそろ図書館を出た方がいい。意外と距離があるんだ」
クロエはその提案に一瞬だけ考え込んで、それからすぐに本を閉じて立ち上がった。
「いってきます」
「気をつけてな」
クロエは読みかけの本を棚に戻すと、上着袋を持って立ち去った。彼女の恰好も、十日の間に随分と冬の国慣れしたものになった。
カレヴァはしばらく本の続きに戻ろうとしていたが、上手くいかなかったのか、ひとつ溜息をついて、カウンターにその本を持って行った。
貸出券を机の上に置くと、受付のリータは本を読む手を止めて、貸出作業に入る。
普段はろくに立ち上がろうともしない彼女だけれど、こういうときの作業は素早いものだ。そうでなければ晴れの日の混雑した受付はこなせない。
本の中からカードを引き抜いて、デートスリップに日付を押印する。
「嘘つき」
不意に彼女が呟いた言葉が自分に向けられているとわかったのは、そういうことだった。
カレヴァはそれに対して、どこか痛みを堪えるように目を瞑り、
「ちょっと待っててくれ。もう一冊借りたい」
リータは何も答えなかったが、すでにカレヴァはカウンターに背を向けて歩き出していた。
目指したのは、最初にクロエを案内した本棚。
そして彼が手に取ったのは、ユーソラのデビュー作。
*
ユーソラという作家がいた。
その作家は、自分がどんな話を書いているのか、初めからよくわかっていなかった。
元々、家籠りの暇つぶしで書きはじめた小説だった。初作には特別な技巧も思想も込めなかった。ただ、頭の中に思い描いたものを、そのまま文章に起こしただけの文章だった。
それがどんな偶然か、売れてしまった。二作目を、と出版社から頼まれたユーソラは困り果てた。
何が面白かったのだ?
自分に問いかけても答えは出ず、次は自らが生み出したテキストに問いかけた。その次は読者へ、その次は名前も知らない広告会社の宣伝文句へ。それに合わせて何作か試し書いて、それもまた売れた。
自分が書いたものよりも面白い小説はいくらでもある。ユーソラは冬の国の生まれだ。そのくらいのことはわかっている。現に、自分の書いたものは冬の国では見向きもされていない。
ならばなぜ自分の小説が売れた?
なぜ、なぜ、なぜ、と。
答えを探すように書いた。書けば書くほど、夜が深まっていくように感じた。作品を出版社に持ち込むたびに、「マズいものを書いてしまった」と恥ずかしくなる気持ちが湧くようになった。
あからさまに憔悴していくユーソラを気遣って、友人が一枚の旅行券を贈った。いい気分転換になるだろう、と。
ユーソラもそれを素直に受け取った。行き先は春の国。一時期滞在したこともある国だった。
良い場所だ。きっと良い休養期間になる。
チケットを片手に彼は春の国へ向かった。観光地を巡った。久しぶりの薄着に心地よい戸惑いを覚えながら、街を満喫した。
そしていつもの習慣で書店に寄ってしまった。
最近書いた、七冊目の『マズい小説』が、店頭に並べられていた。
ユーソラは筆を折った。
たったそれだけの、どこにでもある作家の終わりだった。
*
晴れた。
だからいつもと違って、図書館は朝から賑わっていた。談笑は館内を包んでいて、アンナもリータも忙しなく動いていた。
カレヴァもいつもと違って朝早くから図書館に訪れていた。
けれどそれは、ただ今日が暖かい日だったからではない。
図書館の隅、知らない住民に話しかけられながら少し居心地悪そうにしている、白い髪の少女を見つけた。カレヴァはその少女に迷わず近づいて行く。
連れて行きたいところがある。
それがすんなり言えたことにも、彼女が素直に頷いたことにも、カレヴァは驚いた。
そして二人は図書館を抜け出して、列車に乗る。
がたん、ごとん、とやけに揺れる車内で、クロエはどこに行くの、とは聞かなかった。ただじっとカレヴァの横に座って、目的地に着くのを待っていた。
一緒の駅で列車に乗った人の顔が、一つもわからなくなるころ、二人は列車を降りて歩きだす。
雪の中を行くのは、なかなか体力がいる。額に汗かくクロエのペースに合わせて、二人は小さな丘を登る。
果たしてこれほどの労力に見合うものを彼女に与えられるだろうか、とカレヴァが不安になるくらいには長い道のりで、それならそれでいい、と開き直るのには短すぎる道のりだった。
心の準備ができないままに辿り着いてしまった場所で、
「わ――」
カレヴァはクロエのアイスブルーの瞳が輝くのを見て、安堵の気持ちを覚えた。
よかった。どうやら気に入ってくれたみたいだ。
「ここは――」
見渡す限りの雪原。そして晴れの日の青い空。
きっと、クロエが最初に憧れた場所。
「ユーソラの、一作目のモチーフになった場所だ。白い雪と、青い空。そしてそれが溶け合う、ぼやけた地平の果て」
「すごい――」
感極まった様子のクロエは、じっとその境界の向こうを見つめている。
だから、カレヴァの瞳に涙が溜まる様子にも、気づきはしなかった。
「俺が、ユーソラなんだ」
その言葉に、クロエは目を瞠ってカレヴァを見た。冗談の調子はない。混じりけなしの、真実だった。
筆を折ったあの日から、誰にも言うつもりはなかった。けれど、真っ直ぐにユーソラと向き合っていたクロエに嘘をつき続けることが、どうしてもカレヴァにはできなかった。
「子供のころ、父母に連れられてこの場所に来た。世界で一番綺麗な景色だと思った。だから、最初に小説を書くときも、ここの風景が頭に浮かんで、そのまま書き写した。
だけど、誰だってそんなものは書けるだろう? ただ綺麗なものを綺麗なまま記すだけだ。なら俺が書いたものは一体なんだったんだ? 風景の写しに、一体何の意味があったんだ?
何度も何度も考えた。何度も何度も何度も書いた。だけど俺がどこにも見つからないんだ。俺の小説はどこにもなかった」
堰を切ったように紡がれるカレヴァの言葉は、クロエに助けを求めているようにも、遠い空へ向けて虚しさを叫んでいるようにも、真っ白な雪に罪を告白しているようにも聞こえた。
「俺はなぜ生きている?」
虚空に放たれた言葉は、決してどこまでも響きはしない。
せいぜいが、隣に立つ誰かまで。
「わかりません」
雪色の髪と、空色の瞳を持つ少女は、静かにそう呟いて、カレヴァの頬を伝う涙をぬぐった。
「ユーソラが……、カレヴァさんが小説を書く意味も、どうしてそれを自分で感じられないのかも、わたしにはわかりません」
どこまでも真摯な言葉には、一つの虚飾もなかった。空と雪が嘘でないように。
「だけど、わたしはカレヴァさんの小説を読んで、感動しました。自分の色が好きになりました。それは他の誰のおかげでもなくて、カレヴァさんのおかげです」
「違う。それは君に感じ取る能力があったからだ。もしそれが作家によるものだとしても、俺が書かなかったとして、いつか他の誰かが書いたはずだ」
「それでも書いたのはカレヴァさんです。違いますか?」
返された問いに、カレヴァは答えない。
「カレヴァさんに書く意味があると、簡単に言うことはできません。私の目にそれが映ったとしても、カレヴァさんの目にも同じものが映るとは限らないから。だから、わたしにできるのは、その輪郭を教えることだけです」
「輪郭――?」
「そうです。それはきっと、カレヴァさんが色んな国を巡っていくうちに、冬の国の形を理解したみたいに」
その言葉は、思いもかけず、カレヴァの胸に落ちた。
ああ、そうか、と。
冬の国の原風景を書きだすことができたのは、他の国のことを知ることで、冬の国の輪郭をはっきりとつかむことができたからだったのか。
きっと、二年の苦悩の間に何度も思い至っただろう考えが、クロエの口から聞いた途端に、妙に素直に受け入れられた。
「あなたは生きてますよ、カレヴァさん。生きてるんです」
書く意味は、自分で見つけるしかない。
けれど、誰かと隣り合うことで、その形を、少しずつでも知ることはできるかもしれない。
人の魂の灯に照らして、初めて自分の魂がわかるのだ。
それは例えば、突然現れた異国の少女に、二年もの間凍っていた心を動かされてしまったように。
「わたし、明日には帰るんです」
その言葉にカレヴァがクロエを見ると、彼女はにっこりと笑った。
「学校、始まっちゃうから」
ああ、そんなものもあったな、とカレヴァは遠い記憶を掘り返すように思い出した。そういえば自分も、そろそろまた大学の講義期間に入る。
この場所と学校が、地続きの世界に存在している。
それは当たり前のことで、けれどどこか不思議なことに思えた。
「手紙を書きます」
彼女はきっぱりと、決意表明のようにそう言った。
「もしよければ、カレヴァさんもわたしに手紙をください。カレヴァさんとしてでも、ユーソラとしてでも、どっちとしてでもなくても、何でもいいですから。……本当に、よろしければ」
それでも最後は遠慮がちになってしまったクロエの申し出に、カレヴァは微笑んで答える。
今度の微笑みは、もっと単純だ。
「ああ、必ず書くよ」
二人の見つめる先には、白い雪と、青い空と、穏やかに輝く太陽がある。
*
冬の国の早朝はひどく冷える。
朝一番の郵便なんていうのは、大抵が昼頃ポストから抜かれるまでに硬くなるほど凍ってしまう運命にある。
今日は、その運命から逃れた、幸運な手紙がひとつ。
ポストに手紙が落ちた音を聞いて、即座に玄関から出てきたのは、薄茶色の髪の青年。
寒さから逃げるように、ほとんど走ってるのと変わらない足取りで庭先まで出てきて、ポストの中を確かめる。その中に薄青色の便箋を見つけた彼は、すぐにそれを手に取って、裏返して見る。
そこに記されているのは、もうすっかり見慣れた少女の名前。
きっと、ユーソラの八作目は、秋の国の話になる。