万年筆
霧ヶ峰連峰は、平凡などこにでもいる高校生だ。
寛治は手に持った万年筆のキャップを閉め、静かに机の上に置いた。
部屋の照明は消されていて、デスクライトの光が机の原稿用紙と、珈琲の入ったマグカップを照らしている。
寛治は、1時間前に入れた珈琲を一口ふくんだ。珈琲は冷めて思いのほか苦く、顔をしかめながら飲みくだした。まばらに生えた口ひげに珈琲が少しかかった。左手の甲でぬぐいながら、マグカップを机に置く。珈琲はまだ半分以上残っていた。
寛治は、両手を頭の後ろに組み、そのまま椅子の背もたれに体重をかけ天井を見上げた。デスクライトが作り出した寛治の影が、天井に大きくうつっている。
本棚に並んだ大量の本にライトの光を受けてできた影が、背表紙の凹凸を際立たせていた。本棚に飾られた小さなフィギュアと目が合った。笑顔がどこか痛々しい。
寛治は、天井に向かってため息をつき、そして目を閉じた。
「霧ヶ峰連峰はないよな」
同じ態勢まま寛治は考える。ひとり言が口をついて出た。
静まりかえった深夜のこの時間は、何者にも邪魔されることなく考え事ができる唯一の時間だった。作業が進まないときは、さっとベッドに入ってしまうこともあるが、そんな時でも寛治は眠ることはなかった。何かを考えることが好きだった。
寛治は今日も考え続けていた。
そして今日は、何かを書き続けたい気分だった。
午前2時半。
しばらくしてから寛治は目を開けた。上体を起こし机に向きなおる。書きかけの原稿用紙を一枚、丸めてゴミ箱に捨てた。
寛治は万年筆をとって書きはじめた。
赤城武士は、平凡なごく普通の高校生だ。
——平凡で普通って
部屋の窓から朝日がさしこんできた。カーテン越しでも外が晴れているのがわかる。
午前7時。
ラジオのタイマーが働き、番組ナビゲーターの声が聞こえてきた。スピーカーが、早く起きろ、朝だ、と連呼している。
しかし、サムライは目を覚まさなかった。どんな大きな音でも寝たままだった。
——たとえ、は無し
ただ単純にサムライは、朝、起きるのが苦手だった。
——朝寝坊な
寝巻代わりのジャージを着たサムライは、腹の一部をさらしながら眠っている。掛け布団は床に落ちてしまっていた。起きる気配はみじんもない。ラジオがヘッドラインニュースを流しはじめた。
——ラジオでは起きない
サムライは昨日、宿題をやりながら遅くまでおきていた。宿題をやり残したまま、途中で寝てしまっていた。 机には宿題のノートが広がったまま置いてあった。
——ラジオつけたまま
宿題をやっている途中、聞いていたラジオの番組で、サムライがリクエストしたメールが読まれた。
——ラジオが好き
そして、同じ番組を聞いていた友達からサムライの携帯に電話がはいった。電話に出たサムライは、宿題を放り出し、ベッドの上でラジオの話で盛り上がっているうちに寝てしまったのだ。
——ラジオのせいで話がすすまねぇ
ラジオが午前8時を告げる。ナビゲーターは起きろと連呼する。
サムライはようやく目を覚まし、時計に目をやった。
——時計
午前8時。
——やばい
「やばい」
と、サムライは口にした。
跳ね起きて、慌てて制服に着替える。ネクタイは結ばずに首に引っかけた。宿題を鞄に入れ、制服の上着をハンガーからはずす。
リビングのテーブルには、出掛けます、帰りは9時ごろになります、という母親のメッセージと今夜の夕食のメニューが書かかれたメモ書きが置いてあった。
サムライの両親は共働きで、この時間は二人とも出勤したあとだった。同じ電車に乗って通勤している。二人とも仲がいい。
サムライの朝食も、いつものようにテーブルに置かれていた。
——パンだよね
ご飯と昨晩の残りの野菜炒め、そして冷めた味噌汁が並んでいた。
——ライスかよ
ゆっくり食べている時間はなかった。サムライは朝食を流し込んだ。
——またあわてる
お気に入りのスニーカーを履き玄関の鍵をかけ外に飛び出す。サムライは学校に向かって走り出した。いつもより体が軽く感じた。昨晩、よく寝たおかげですっかり疲れが抜けたせいだとサムライは思った。
——軽い
寛治は万年筆のキャップを閉め、ゆっくりと机に置いた。
「女の子は当然でてくるよね」
寛治はつぶやいた。
両手を頭の上で組んむ。いつもの考えるポーズをとった。寛治は女の子をどこで出すかを迷っていた。
「3時半か」
寛治はつぶやいた。眠くはない。まだまだやれそうだった。
考え事をする時ひとり言を言うのが癖になっている、と知ったのは妻と結婚して一緒に生活するようになったときだった。
新婚当初、妻が何かの話をしているときに、寛治はブツブツと、小さな声でつぶやいていたことがあった。ほかの事を考えていたのだろう、まったく妻の話を聞いていなかった。
話を聞いてくれない寛治に妻は腹をたて、そのあとその日一日、口をきいてくれなかった。二人しかいない家の中でお互いに口をきかない気まずさに疲れたころ、寛治は妻に、すまんと謝った。理由がよくわからなかったので、寛治は妻が怒ったわけを聞いた。
妻は驚いた顔で寛治のひとり言の事を伝えた。
当時、寛治は29歳。物心ついてから25年以上がたっていた。ひとり言は、生まれてはじめて知った自分の癖だった。
癖を知らされた当時、過去にもこんな風にいろいろな人を怒らせていたのだろうかと心配になった。十代のとき、このせいだというような事が少なからずあったことが思い出された。その後の人生を左右したのではないかと思うようなこともあった。
ひとり言の事さえ知っていれば何とかできたのかもしれないと、過去を思い出すたびに頭を抱えた。
寛治は、人前ではひとり言はつぶやくまい、ちゃんと人の話はきく、と決心した。その時からあまりひとり言は出なくなった。
しかし、夜中にこうやってPCに向かってタイプしているとき、その癖が出やすくなる。
「会話だよ会話」
登場人物を二人は出すと最初から決めていた。
女の子にするかどうか。そして生き生きとした会話を表現できるか。
——い、いや、女子でなくてもいんじゃね
「別に女の子じゃないと駄目というわけでもないし」
寛治のひとり言が静かな部屋では大きく聞こえる。
「その前に学校に到着しないとだな……」
最後の言葉はよく聞こえない。寛治は万年筆の持っていた。
サムライは学校へ向かって走る。遅刻寸前の登校時間。走るのをやめるのは遅刻をすることを意味している。しかし、サムライは今日、絶好調だった。最後までこのまま走って行って遅刻せずにすみそうだった。
——今日、ほんとに調子いいな
太陽が南の空を目指して上っていく。
サムライは学校へ向かって走って行く。
走って行けるほどの距離に住んでいる学生は幸せだとサムライは思った。クラスメイトの半分以上は電車通学だ。中には2時間近くかけて通ってくる友達もいる。
——ほんと、わざわざ遠くまで来ることなかろうに。
遠くから重たい荷物を抱えてやってくる友人の顔を走りながら想像した。
——ま、オレもこうやって汗かいて走っているわけなんだよな
角を曲がると少し広めの公園にさしかかる。サムライは走るスピード少し上げた。
寛治は、句点をうったところで万年筆を浮かせた。
「やっぱり女の子だそうぜ」
時計は午前四時をさしている。ペンの進みはいい。このまま行けるかどうか、しばらく片ひじをついて考えていた。
「ほんと行き当たりばったりだなオレは」
女の子をここで出そうと思い、再び、寛治は原稿用紙向かってペンを走らせる。
——女子は出てこないはずだろ
サムライは公園なかに入っても走り続けている。サムライの進む小道に、別の方向からクラスメイトのコウメが走って入ってきた。
——あいつ
コウメはサムライと同じように遅刻寸前のはずで、結構なスピードで走っている。
制服のスカートが走るリズムに合わせて揺れている。
コウメの家は、サムライの家からそれなりに離れたところにあって、中学の時は違う学校に通っていた。
コウメに会ったのは、高校の入学式の日この公園でのことだった。
その日、初めて見たコウメの新しい制服が、合格発表の時に見た在校生の女生徒の制服と同じだと気がついた。彼女は一人でこの公園を歩いていた。入学式に親が一緒に出席するような様子ではなかった。サムライも一人だった。何となく親近感を覚えて、サムライはコウメに話しかけた。そして悲鳴をあげられた。
——思いだしたくねえ 話したくねえ ここであいたくねえ
サムライはコウメの横に並びかけた。シャンプーの匂いがしたと思った、というのは気のせいで全く追いつくことなく、結構な速さで走っている自分が彼女に追いつけないはずはないと思いながら彼女の距離を確かめるかのように手をのばし肩に手が届きそうになる、がまるで届かない、などということはなく程なく彼女の息づかいが聞こえてくる距離まで迫ったように思った、のもつかの間彼女が公園のフェンスの向こう側へと走って行くのが見えた、のでサムライはさらに速力を上げコウメに追いつこうとした、んだけど陸上部の彼女に追いつくはずもなく、それでもサムライは、やっぱり無理だとあきらめの表情を浮かべ、歯を食いしばって力を、最後の力を振り絞ってももはや走ることもかなわなかった、彼女はもう遠くへ走り去ってしまった、そしてオレはもう走れない。
サムライは立ち止まった。
——あいつが苦手なんだ
寛治は万年筆のキャップを閉めてゆっくり机においた。
背筋を伸ばし原稿用紙に向かい直す。原稿用紙の端をそろえた。今書いた原稿を改めて見直した。
確かに自分で書いた文章のはずなのに、寛治にはその実感がわかない。何か変な感覚だった。寛治にはサムライの気持に左右されながら書いているように思えた。文章もおかしい。寛治はこの先どうなるのかを確かめたくなった。
「このままいっていいのか」
万年筆のキャップを外す。ブルーブラックのインクが少しはねた。
サムライは立ち止まりながら息を整える。最後に大きく深呼吸をした。
——ヨシ、なんて言わないからな
だまって走りだすサムライ。だいぶん時間がたってしまったので、もう遅刻だろうとサムライは思った。コウメは学校へ遅刻をせずに着いただろうか。
公園の木々が少しひらけた所から空を見上げると白い雲がぽっかりひとつ浮いているのが見えた。サムライは雲を見上げながら学校に向かって走る。こんな日にはこれ以上誰とも出会いたくないと思った。
もう遅刻は確定だとサムライは思った。全力で走っても同じなら、ゆっくり行ってもいいじゃないか。サムライは走るのをやめて歩きだした。
公園を抜け、学校へ向かう最後の川沿いの道に出た。
川の水で冷やされた風が、サムライの熱くなった体をほどよく冷やす。サムライが一番好きな道のりだ。
遠くに学校の校舎が見えている。学校の校門をコウメはもうくぐったのだろうか。河川敷沿いの道に制服姿の人間はひとりも見えなかった。
サムライは、この時間を楽しむようにゆっくり歩いた。河原の草が風に吹かれて揺れている。草野球場の前にきたときサムライは歩みを止めた。
平日の朝、河川敷に作られた草野球場に人は一人もいなかった。夕方、誰かがくるまで役立たずの状態でそこにあった。
オレの価値が陸上だけだなんて思いたくない。それ以外が役立たずだなんて。オレはこんなところじゃなくて、もっと他にやるべき事が、行くべき所があるんじゃないか。
「オレ語りになってんな」
寛治は書くのをいったんやめて一息ついた。
カーテンがうっすらと明るくなっている。まもなく夜明けだ。
「というか、こいつも陸上部……」
軽く背を伸ばし原稿用紙に向かいなおす。
寛治は、原稿用紙に書かれた、オレの価値が、という部分から数行を消そうとした。
万年筆のペン先を「オ」と書かれたマス目に置く。そして訂正線を引こうとして右手を動かそうとした。
しかし、万年筆はそこからひとマスも動こうとしなかった。原稿用紙から離すこともできなかった。
万年筆のペン先から、ブルーブラックのインクが原稿用紙にしみこんでいく。オレ、の文字が少し強調されるように傍点が打たれたように見えた。
しばらくすると、寛治の意思とは別に手が勝手に動き出した。ペン先が何も書かれていないマス目に移動する。
寛治は驚いた。万年筆が勝手に原稿用紙上に文字を書きとめはじめている。
——やめてくれ
と、寛治の手は書き込んでいた。
「これは……」
寛治は、どうしてこう書き込んだのわからなかった。寛治の手が勝手に動き、万年筆はどんどん文字を書き込んでいく。万年筆から手を離すことができなかった。
——このまま、だらだらと高校生活を続けたくない。陸上も限界なんだ
「こんなことあるか……」
寛治は、自動的に動き回る万年筆に右手を任せるしかなかった。万年筆は今までにないスピードで書き進んでいく。原稿用紙のマス目がどんどん埋まっていく。手が勝手に動く感覚を、今まで経験したことがなかった。
「どこに向かってるんだ」
寛治はつぶいた。
——できれば、そうだな、もっとやりがいのある所へいきたい
「いや、学校に向かっているんだろう。高校生だし、学校が舞台なんだから」
寛治は万年筆を原稿用紙から上げようとする。万年筆はそれを拒む。文字がどんどん書き続けられる。
妙な気分だった。寛治は手を動くままにし、少し息を吸い込みゆっくりとはき出す。
「学校へは行かず、今日はサボらせるのか」
万年筆は、サムライが学校へ向かわずに、来た道を引き返すくだりを記述している。
——そう!
「サボっていきなり遠くにいきたいのか、家出とか」
——それだ
原稿用紙にサムライの台詞が並んでいく。寛治の手は書き続ける。
寛治は、サムライが一旦家に戻って家出の準備をするのかと想像した。
——いやそうじゃないんだ、なんかこう全然違う、想像を絶するような
原稿用紙には、サムライが今の現状から脱したいという気持を情感たっぷりに書きしるしている。
「で、どうすんだ」
寛治はもはや手が勝手に動くままの状況を楽しみはじめていた。
左手で空になりかけたマグカップを持つ。右手は変わらず書き続けている。
「海外にでも行って、もしかしてどっかの」
——違うそんな当たり前のところじゃないんだ
と、原稿用紙に織り込まれていく。
「当たり前じゃないって、なんだよ、はやく書けよ」
万年筆は、サムライが河川敷の開けたところへさしかかったところを書いていた。寛治が今まで書いた事のない表現で情景が描かれている。
寛治は珈琲の残りを流し込んだ。カップのへりから片目で原稿用紙をのぞきこむような形になった。原稿用紙に書き出される文章から目が離せなかった。
——なんか恥ずかしい気もするけどいうぜ
万年筆は、サムライが河川敷の短く刈られた草むらのところに立っている様子を描写した。
「サムライは大空に向かって叫んだ」
——オレは世界をすくいたい!
「普通だって、そんなの」
寛治がそうつぶやいたとき、万年筆は手からはなれて原稿用紙の上に落ちた。
はねたインクが点々とシミをつくった。
寛治は万年筆を見つめた。そして、そっと取り上げてキャップを閉め、ゆっくりと机においた。
寛治は階下のリビング向かうため、空になったマグカップを持って机を離れた。
ドアを開け廊下にでる。部屋を出かけたところで、寛治は振り返った。
部屋は朝の太陽の光で明るくなっていた。寛治の机の上には重ねた原稿用紙が置いてある。万年筆がその上にきちんと置かれていた。陽の光がそこにそそがれようとしている。
寛治はいったん部屋の机の前に戻った。万年筆の下から文字が書かれた原稿用紙を抜き、ゴミ箱へ捨てた。机の上で万年筆が揺らいだように見えた。
「眠い」
目をこすりながら寛治は部屋を出た。リビングであたらしい珈琲を入れようと思った。今日もまた退屈でつまらない仕事がある。このまま寝ないで出勤しようと思った。
寛治はお湯を沸かしながら、右手の万年筆が原稿を書いていた間のことを考えていた。
万年筆が進むまま書き続けた感覚を思いだす。
寛治の考えとは違う展開があった。
今まで書いた事のない描写があった。
読んだことのない表現があった。
今までに無い新鮮な感覚だった。
「結局あいつどうなるんだろう」
寛治は珈琲フィルターに沸騰したままのお湯を注いだ。珈琲の匂いが眠くなった感覚を刺激する。珈琲を適量にいれたところでお湯の入ったポットをおいた。
「知るか」
寛治はひとり言を残してリビングを出た。
新しいアイディアが頭の中に浮かんでいた。
机の上に残された万年筆からインクが漏れ始める。
白紙の原稿用紙にブルーブラックのシミが広がって、やがて元の色よりももっと黒く原稿用紙全体を染め上げた。
万年筆は炭のような質感に変化し、そして砕けた。
破片は、やがて煙のように細かくなって空中に消えていった。
黒く染め上がった原稿用紙だけが机に残された。
『万年筆』終わり
お読みいただき、本当にありがとうございました。
作中にも書きましたが、ほんとに行き当たりばったりで
読むのが大変なのではなかろうかと心配しています。
感想、いただけたら幸です。
(麻生完備)