第6章 Dolce Mareの夜
残業を終え、紗江は夜の街を歩いていた。冬の冷たい風が頬をかすめ、肩をすくめながらDolce Mareの前を通りかかる。先日、部下とランチを楽しんだあの店だ。店先では、看板を片手に立つ青年と目が合った。
「先日いらしたお客様ですよね?」
「え、あ…はい」
ホールの佐野海はにこやかに微笑む。紗江も自然と微笑みを返した。
「この前はランチに来てくださって、ありがとうございます」
紗江は料理の感想を口にしたが、海は手を振る。「それはシェフに直接伝えてあげてください。僕から言うより、きっと喜びます」
紗江は頷き、店内のキッチンを見やる。鍋を片付ける音が微かに響き、背後の灯りが三上悠の姿をうかがわせる。海が奥へ入ると、程なくして三上が出てきた。
「シェフの三上悠です。先日はご来店ありがとうございました」
恥ずかしそうに微笑む彼の顔を前に、紗江は少し緊張しながらも言う。
「朝比奈紗江です。本当に美味しいお料理でした」
三上は小さく笑い、紗江の言葉に耳を傾ける。そこへ海が、ふと声をかけた。
「閉店準備中ですが、せっかくですし、軽くワインでもいかがですか?」
紗江は一瞬迷うが、三上がそっと「どうぞ」と促す。立ち話のつもりが、紗江は自然と店内に足を踏み入れた。昼とは違う、柔らかな間接照明に照らされた夜のDolce Mareは、落ち着いた大人の空気をまとっていた。
三上がワイングラスと白ワインを持って現れ、紗江は小さく笑う。
「閉店時にごめんなさい…ついワインに釣られてしまいました」
「大事なお客様ですから」三上の声には優しい響きがあった。
キッチンでは海が手際よく何かを仕上げている。紗江は三上と世間話をしながらワインを口に運ぶ。すると、海が小皿を差し出した。
「まだ見習いですが、僕の作ったおつまみです」
そこにはエビのガーリックオイル煮が並び、海の気持ちが伝わるような一皿だった。紗江は目を見開く。ワインを三杯ほど飲んだ頃、紗江は思わずグラスの下にそっとお札を置いた。二人の心遣いに、胸の奥がじんわり温かくなる。
「ご馳走様でした」
店を出ると、三上が声を張る。
「朝比奈さん、お代はいりませんよ!」
紗江は振り返らず、微笑みを浮かべて手を振る。夜風に髪を揺らしながら、静かにDolce Mareを後にした。




