第3章 私の部屋で…
タクシーのドアが閉まると、冬の夜気がふたりを包んだ。マンションのエントランスの灯りが揺れて見えるほど、紗江の酔いは身体の隅々まで回っていた。
「紗江さん、大丈夫ですか?」
「だいじょうぶ…全然酔ってません。さ、行きましょう〜」
そう言いながらも足元は心許なく、田島は仕方ないという表情を浮かべ、そっと彼女の腰に手を添えた。
エレベーターの中、紗江は田島のコートの袖を離さなかった。上昇する箱の中に流れる静寂は、夜の緊張と甘い期待を混ぜ合わせ、ふたりの呼吸だけを響かせた。
部屋の前に辿り着くと、鍵を開けた紗江が振り返る。
「ここです…どうぞ」
玄関に入った瞬間、田島は小さく息を整え、「では、これで失礼しますね」と告げた。
その言葉を遮るように、紗江の手が彼の袖を強く掴む。
「帰らないで……お願い、側にいて」
その一言は酔いのせいではなく、どこか切実で、弱くて、まっすぐだった。
田島は数秒、視線を落として考えた。
覚悟でも諦めでもなく——これも何かの縁なのかもしれない。
「……わかりました。寝るまでですよ?」
部屋の明かりは柔らかく、アロマの香りがほのかに漂う。間接照明が壁に温かい影を作り、田島はふと“彼女の世界”に踏み込んでしまったような不思議な感覚に襲われた。
(俺……何してるんだろう)
心の奥でそんな声がした、その時。
紗江はキッチンからワイングラスとスパークリングを持って戻ってきた。
「せっかくだから…もう少しだけ」
ふたりはソファに腰掛け、紗江がワインを注ぐ。
「二人の夜に……乾杯」
田島は戸惑いながらグラスを軽く合わせた。「乾杯……」
紗江が流したのは Oasis。柔らかいリフが部屋の空気に溶けて、田島はふと笑う。
「紗江さん、ソウルよりも、こういうUKロックが好きなんですね」
「うん。夜って、こういう音が欲しくなるんです」
会話は音楽へ、昔好きだったアルバムへ、そしてふたりの少しだけ似ている孤独へと静かに流れていった。
ワインが半分ほど減った頃、紗江はふいに田島の肩にもたれ、そのまま眠りに落ちた。
田島はしばらく彼女の寝顔を見つめ、そっと毛布を掛ける。
「……仕方ないな」
苦笑しながら、メモ用紙に自分の番号を書いた。
“また話したくなったら、いつでも”
ボトルのそばに紙を置き、静かに部屋を後にした。
翌朝、紗江は重いまぶたをゆっくり開け、テーブルの上のワインボトルとグラスを見つめた。
——夢じゃない。
そう思いながらシャワーを浴び、昨夜の出来事をひとつひとつ辿っていく。
テーブルの片付けをしていると、ワインボトルの影から小さな紙切れが滑り落ちた。
それは、昨日の夜の唯一の証だった。




